音楽ジャンル同士の分断と絡み合いを史的にたどる。ブルースとカントリー、カントリーとフォーク・・・ ―大和田俊之『アメリカ音楽史』を読む・前編―

 大和田俊之『アメリ音楽史』を再読。

 内容は紹介文の通り、

ロック、ジャズ、ブルース、ファンク、ヒップホップ…音楽シーンの中心であり続けたそれらのサウンドは、十九世紀以来の、他者を擬装するという欲望のもとに奏でられ、語られてきた。アメリカ近現代における政治・社会・文化のダイナミズムのもとその“歴史”をとらえなおし、白人/黒人という枠組みをも乗り越えようとする、真摯にして挑戦的な論考。

という内容。
 実に面白い。アメリカ音楽を愛する者は必読である(というか、みな既に読んでいるはず)。

 とりあえず、「偽装」をテーマにした「イギリス音楽・小史」も、誰かに書いてみてほしい。*1

 以下、特に面白かったところだけ。

フォスターが描いた「黒人」像

 フォスターは黒人女性を「レディー」と呼び、それまでほとんど歌われることがなかった黒人奴隷の内面性を描写した。 (15頁)

 フォスターはミンストレル・ショウのような「低級な」部隊の作曲家であることに悩み続け、オペラなどへの憧れを隠そうとはしなかった。
 そして、洗練された人々の趣味にも合うよう作曲したのである。
 結果、彼の描く「黒人」はより人間的な性格を帯びるようになった。
 それが、フォスターの曲が後に多くのアフリカ系アメリカ人作曲家によって取り上げられる理由である。*2

ミンストレル・ショウとミソジニー

 ミンストレル・ショウを特徴づけるこうしたミソジニー(女性嫌悪)は、十九世紀アメリカにおけるフェミニズム台頭と深くかかわりがある。 (21頁)

 1843年にマーガレット・フラーが女性の権利に関するエッセイを執筆した時代の話である。
 女性の社会進出は少しずつ進んでいった。
 伝統的な家族像が崩れ、男性の威厳が疑問視される、そんな時代に、ミンストレル・ショウの過剰な男性性とミソジニックな表現は、そうした社会情勢への反動と女性への恐怖を映していたという。
 「ミス・ルーシー・ロング」という曲が例として挙げられている。*3 *4

ミンストレル・ショウとアイルランド

 初期ミンストレル・ショウのステージに多くのアイルランド系移民が出演していた (22頁)

 そして、20世紀になるとユダヤ系が出演するようになる。
 なお、彼らの演じたミンストレル・ショウの「黒人音楽」は、実際にはアイルランドのメロディに黒人英語の歌詞を載せたものである。*5 *6

ブルースのイメージとその転換

 一九一〇年ごろまでに南部のほとんどの黒人コミュニティにヴォードヴィル劇場が存在し、そうしたステージでブルースは頻繁に歌われた (40頁)

 ブルースは、初期から商業主義にじゅうぶん漬かっていた音楽だった。
 レコード各社がレイスレコード部門を立ち上げる前は、ブルースも、他のポピュラー音楽と同じくリリースされた。
 分類されてから、サッチモやD・エリントンなどを除いて白人たちには届かなくなったのである。
 レイス・レコードという分類自体が、そうした事態を生じさせたのだという。
 それまでブルースとともにヒルビリーを歌っていたアフリカ系アメリカ人ミュージシャンは、一九二〇~一九四〇年代にかけて殆ど後者をレコーディングすることはなかったという。

 ファッショナブルな女性シンガーがバンドを従えて流行の音楽をヴォードヴィルのステージで披露する ―― 当時の一般的な「ブルース」のイメージはこのようなものである。 (41頁)

 こうしたイメージ *7 が徐々に変わっていった。
 今我々が想像するようなタイプのブルースのイメージへと。

マーケティングと人種文壇

 レイス・ミュージックは、結果的に<人種>による音楽ジャンルの分断を促進した。 (56頁)

 レコード会社によるマーケット戦略によって音楽が分類され、南部音楽の歴史的な人種混交性が隠された。*8 *9
 こうして、ブルースの「黒人性」、カントリーの「白人性」が強調されるようになったのである。
 それは、アメリカ社会に浸透していた「ジム・クロウ法」(黒人の一般施設利用を制限した一連の法律)によって、法的にも人種的にも分断されたアメリカ社会の反映だった(57頁)。

ブルー・ヨーデラー

 カントリー・ミュージック史上、最初のスターといえるロジャースは「ブルー・ヨーデラー」として知られており、数多くの「ブルース」録音も残している。 (56頁)

 ジミー・ロジャースの話である。
 ブルースとカントリーの垣根は実はあいまいだったのである。*10 *11

『白鯨』再評価と第一次大戦後の米国

 生前はほとんど評価されなかった『白鯨』(一八五一)が突然「アメリカ文学史上の大傑作」として持ち上げられ (60頁)

 第一次大戦後、アメリカは世界における政治的地位が上がった。
 そして、アメリカは大国として、ヨーロッパとは異なる独自文化を探求していくようになる。*12
 その結果、『白鯨』が発見されたのである。
 ブルースやヒルビリーアーカイブ化されたのも、そうした文脈においてである。
 著者は他に、一九三五年の共産党の人民戦線路線への転換によって、土着的民衆音楽やフォークソングが左翼にとって重要な文化と認識され、ラディカルな白人知識人にも支持されるようになった事を挙げている。

フォークとカントリーが別れたとき

 ジョセフ・マッカーシー上院議員は「フォーク」という用語を共産主義と結びつけて攻撃した (62頁)

 マッカーシズムでおなじみのマッカーシーである。
 そうした結果メディアは一斉に「フォーク」という語を避け、「カントリー」を使うようになって、定着した。*13
 こうして、もとは同じカテゴリーを指していた「フォーク」と「カントリー」が政治的に離反した。

ミュージカルとティンパン・アレー

 クラシック音楽声楽家は通常二オクターヴ程度の音域をコントロールするが、そうではない歌手の声域は比較的限られている。そのため、メロディはより狭く、より低い音域で組み立てられるようになる。 (78頁)

 世紀末転換期、それまでクラシック音楽の訓練を受けた歌手に代わって、別の歌唱法を用いるシンガーが現れる。
 子音をはっきり発音し、歌詞の聞き取りやすさの方を重視する「バラッドシンガー」である。(アル・ジョルソンなど)
 オペラ調の舞台だと起伏の激しいドラマチックなメロディが好まれたが、ミュージカルだと聞き取りやすさが優先されて簡潔な楽曲が好まれる。
 ティンパン・アレーの楽曲構造は、ミュージカルの変容によっても説明が可能である。*14

ウクレレとハワイアン音楽

 ウクレレとスティール・ギターという二つの楽器を本土にもたらした (83頁)

 ハワイアン音楽の功績である。
 ハワイアンは、1910年代に流行した。
 ハワイアンブームの結果、ミンストレルショウで、黒人役がウクレレをもってフラダンスを踊ることもあったという。
 ウクレレは元々、マデイラ諸島由来で、1870年代に移民とともにハワイに持ちこまれたという。*15

アコギのイメージが求められ

 ライトニング・ホプキンスとジョン・リー・フッカーは一九五〇年代のフォーク・リヴァイヴァルによって「再発見」されるが、その時点で彼らはすでにエレクトリック・ギターを中心に演奏していた (44頁)

 ところが、それが聴衆は、フォークミュージックのファンはブルースに商業化されていない素朴な音楽を求めていた。
 結果、二人はアコギに持ち替えたという。*16

 

(未完)

*1:本書はアメリ音楽史に特化しているために(当たり前だが)、アメリカとイギリスの音楽の絡み合いを描き切れていないところに、弱いところがあるので、ぜひ補強できる本も読んでみたい。ただし、著者・大和田と長谷川町蔵『文化系のためのヒップホップ入門 2』の86頁などを見るかぎり、大和田はあまりイギリス音楽にさほどよい印象を抱いていない(米国的いなたさが英国に入ると漂白殺菌されてしまう傾向がある、と。)ようなので、他の人に書いてもらいたいところ。

 また、「偽装」や後半に頻出の「空間性」をテーマに歴史を読解するあまり、議論にやや性急なところがみられることも否めない。もちろん、そういうところを考慮してもなお、本書はすごい良書なのだが。

*2:

多人種と多分野の研究者及び演奏家とのインタビューには,フォスターが人種や身分によってアメリカを分断したのではなく,むしろ統一しようと努力したことが具現化されている。フォスターは,奴隷制をめぐる論議真只中でアフリカ系アメリカ人の苦悩を微妙な歌詞で描いたのである。「ネリィはレディ」や「オールド・ブラック・ジョー」などの歌は大衆のアメリカ黒人像に威厳を添えた。アフリカ系アメリカ人指導者フレデリック・ダグラスは,フォスターの「ケンタッキーの我が家」が奴隷制度への同情を喚起し,反奴隷主義を拡張したと指摘している

以上は、ドキュメンタリー・「スティーブン・フォスター」の紹介文からのもの。宮下和子「スティーブン・フォスター再発見」(https://ci.nii.ac.jp/naid/120006023568 )からの二次的な引用による。
 なお、実際のところフォスターは、

フォスターはというと,1856 年の大統領選ではモリソンに協力し,ブキャナン・グリークラブ音楽監督としてキャンペーン・ソングを書く一方,南北戦争中には,「父なるアブラハム,我々も続きます」(We Are Coming, Father Abraam)(1862)など,共和党支持の歌を書いた

という感じだったようだ(宮下前掲「スティーブン・フォスター再発見」)。兄のために奴隷制を擁護する側に協力をする一方で、こうした唄もまた作っていたのである。

*3:ブログ・”Digital Humanities”の "MISS LUCY LONG" 1842 の項目(https://motoole.omeka.net/exhibits/show/u-s--mexico-war-songs-and-musi/-miss-lucy-long--1842 )には、

This song not only narrates white male-black female slave sexual fantasies, but celebrates the blatant misogyny and perverted sexual dominance found in minstrel versions of “Lucy Long/Neal

とある。

*4:楠原(斎藤) 偕子は次のように述べている(「19世紀アメリカのポピュラー・シアター--生成期のミンストレル・ショウ--演劇的仕掛けとアイデンティティ形成」https://ci.nii.ac.jp/naid/110006676005 )。

ミンストレル・ショウにおいては、演者も当初の観客もほとんど男性によって占められ(男優が女性役も演じた)、性について触れられることもあり、ジェンダーの観点から問題視もされてきた

*5:楠原(斎藤) 偕子は次のように述べている(前掲「19世紀アメリカのポピュラー・シアター」)。

黒人自身の歌にアイルランドスコットランドなどの民謡の旋律が入っていたとも指摘されている。 (引用者中略) ある点では、ミンストレル・ショウがアフリカ系の文化のみでなく、さまざまの人種背景の文化がミックスされた上に形成されているということを如実に示していた

*6:「黒塗り」の話もしたのだから、「白塗り」の話もしておくべきだろう。以下、Marvin McAllister の”Whiting Up : Whiteface Minstrels & Stage Europeans in African American Performance”という書物に対する書評である(外岡尚美筆。https://ci.nii.ac.jp/naid/130005457799 )。

あえて逆ミンストレルとでも呼ぶべき白塗りと白人ぶりの行為「ホワイティング・アップ」を伝統として抽出し、そこに「アクティング・ホワイト」批判に集約されるような〈猿真似〉ではない、主流文化との同一化と抵抗というアイデンティティの複雑な交渉戦略を歴史的に読み取った

*7:濱田廣也は次のように書いている(「【特集:伝えておきたいブルースのこと】⑦溝の中のスミスさん」https://bsrmag.com/special/talking_about_the_blues_07/ )。

たまたまスミス姓が揃ったのだが、ブルースのレコーディング史の最初期を彩った忘れられないシンガーたちだ。彼女たちの音楽スタイルは「クラシック・ブルース」あるいは「ヴォードヴィル・ブルース」と呼ばれてきた。 (引用者中略) 雨後の筍のごとく、各レコード会社がメイミーと同じようにミンストレル・ショーやヴォードヴィル(歌や踊りなど多彩な演芸を見せた一座の見せ物)で活躍していた女性シンガーを録音し始める。その中で最大のスターとなったのが、「ブルースの女帝」ことベッシー・スミス(1894年生)だ。

*8:ウェブサイト・udiscovermusic.jpの記事「「誰が最初にブルース・ソングを書いたのか?」:ブルースと誕生とレコード会社の変遷」https://www.udiscovermusic.jp/features/history-of-recorded-blues )には、レイス。ミュージック(レコード)という名称に関して、次のようにある。

1941年2月、Billboard誌は初のブラック・ミュージック専門チャートを導入し、‘ハーレム・ヒット・パレード’と名づけた。その後、同チャートは‘ジューク・ボックス・レース・レコード・チャート’に改名され、1949年には‘リズム&ブルース・チャート’となった。

最初は‘ハーレム・ヒット・パレード’という名前だったのである。それが「レイス」という名前になってしまっていた。

*9:Guthrie P. Ramsey, Jr. の”Race Music”の中の記述によると、

But the word at one time represented a kind of positive self-identification among African Americans. The black press routinely used "the Race," for example, as a generic term for African Americans during the first half of the twentieth century. Furthermore, calling oneself or being referred to as a race man or race woman became a way to display pride in being an African American and in having efficacy in the affairs of one's immediate community. I use the word race in these senses, not to embrace a naive position of racial essentialism, but as an attempt to convey the worldviews of cultural actors from a specific historical moment.

とのことである(https://web.archive.org/web/20061110061839/http://www.ucpress.edu/books/pages/9758/9758.ch01.html )。
 「レイス」を、肯定的にアフリカ系アメリカ人たち自身が日常あるいはメディア上で使用していた時代があったようである。

*10:ブログ・「ブルブル ブルース (Blues)」は、 次のように書いている(http://blog.livedoor.jp/ogitetsu/archives/51265349.html )。

実は彼の歌は、同じミシシッピ州出身のブルースマン達(ハウリング・ウルフ、マディ・ウォーターズ、ビック・ビル・ブルンジー)等にも、好まれて聞かれたようです。ある雑誌の取材でウルフが「黒人の音楽しか聞かないのか?」と聞かれて、こう答えています。/<白人の中でも何人かのミュージシャンは好きだよ。例えば、ジミー・ロジャースの歌はラジオでかかると良く耳を傾けたものさ。白人の旦那の中にも、ブルースが歌える人がいるってことじゃないか>

*11:ハウリン・ウルフは、ジミー・ロジャーズとの思い出について次のように語っている(「HOWLIN’ WOLF INTERVIEW」『The Arhoolie Foundation』https://arhoolie.org/howlin-wolf-interview-2/)。

I didn’t play no shows. He just come down through the prairies, you know. He had different friends down through there, you know? On some of those plantations, you know, he had some friend. While he’d been down there, he just taken up with me. It seemed like I had good sound sense. I was a good boy. So when I’d sit down, he’d be out there on the porch playing to the white people. When he get through playing to the white people, he said, “You seem like you’re innocent.” “Yes,” I’d say. “I am.” So he’d sit down and yodel to me. (引用者中略) Yeah. He’d sit down and yodel to me and then I’d get out in the field and I’d yodel. I wouldn’t yodel just like him. I brought mine down more different. You know.

*12:ただし、西谷拓哉は次のように述べている(「1920年代のメルヴィルリバイバル再考 」https://researchmap.jp/read0014907/published_papers )。

メルヴィルリバイバルの中心はイギリスであった。 (引用者中略) 『白鯨』に用いられている手法には、伝統的な首尾一貫した語りの破壊、断片的で非直線的な語り、口語と文語の混在、内的意識の表現、多様な語り手の混在による複数の視点の導入など、モダニズムと相通じるものが多く見られる。そのような小説手法の現代性が、モダニズム期にメルヴィルが再評価された理由の一つであろう。

まずはイギリスで「再発見」されるというのは、ブルースマンとか、そんな感じに似てなくはない。

*13:著者は別の記事で次のように書いている(「音楽メディアとランキング・システム」http://www.webchikuma.jp/articles/-/1021 )。

カントリー・ミュージックのチャートについて特筆すべきことは、そのジャンル名の変遷である。しばらく「フォーク・レコード」という名称で掲載されたランキングは1949年6月25日号から「フォーク(カントリー&ウェスタン)」と括弧が添えられるようになり、52年11月15日号には「カントリー&ウェスタン」へと移行する。 (引用者中略) カントリー・ミュージックというジャンル名そのものが第二次世界大戦後に成立したものだが、それはフォークという左翼的な響きを持つ言葉からの離反が大きな理由のひとつであった。戦後の保守的な雰囲気に後押しされるように非米活動委員会が活発化し、赤狩りの恐怖がアメリカ社会を覆うなか、「フォーク」はあまりにも政治的にラディカルなニュアンスを持ち過ぎてしまったのだ。

 なお、ウェブサイト・『洋楽データベース』の記事・「ビルボード・カントリー・チャート=12-10 ディスク・ジョッキー開始」には次のようにある(https://yougaku-data.com/res/today-what-res.php?SY=1949&M=12&D=10&TWID=TW000807 )。

3番目のカントリーチャートとして、ラジオ音楽番組での放送回数を集計する「Most Played By Folk Disk Jockeys」がスタート。カントリー部門は1944年にジュークボックスの演奏回数を集計する「Most Played Juke Boxes Folk Records」、1948年にレコードの売上を集計する「Best Selling Folk Retail Records」がスタート。同チャートを加えて3チャート時代に移行します。

やはりカントリーは、「フォーク」と呼ばれていたのである。

*14:勝鬨美樹は次のように書いている(「ジャンゴ・ラインハルト#05/大量生産の嵐」https://note.com/mikebear555jp/n/nf7f2213016bf )。

アメリカ製音楽には、特筆すべき特徴があった。/それは「分業化」「量産化」されていることである。「製造」は殆どマンハッタンの20丁目ブロードウェイ沿い「ティンパンアレー通り」でされた。多くの音楽出版会社がこの地域に集まっていたのだ。彼らは「音楽製造」を、作曲家/作詞家/編曲者に分業した。時には作曲家さへ主旋律を書く者と形式を整える者を分業化した。/そのために原則的なデファクト・スタンダードがあり、その類型が守られた。すなわち楽曲は原則的にAABA形式であること。主旋律は長くとも8小節であること。テンポは一定で、踊れる速さであること。3拍子か4拍子を最後まで守り、変拍子を含まないこと。メロディはコードネームを背景に紡がれること。コード進行は原則的にⅡ-Ⅴ-Ⅰであること・・である。こうした形式は以降のポピュラー音楽の方向性を完全に決めた。

聞きとりやすい歌と聞きやすい曲構造の組み合わせである。

*15:よしみ Nui だいすけ「ウクレレの歴史1」によると、ウクレレの歴史は以下のとおりである(https://www.aloha-program.com/curriculum/lecture/detail/203 )。

1879年8月の暑い土曜日、イギリスのリバプールからやってきた船がホノルル・ハーバーに着きます。乗っていたのは、東大西洋のポルトガルマデイラ諸島からの移民の一行、427人。/4ヶ月の航海を経てたどり着いたホノルル港の船のデッキで、喜びの歌を歌い始めた男がいました。ポルトガルの小型楽器Machete(マシェティ。カヴァキーニョ、ブラガ、ブラギーニョという説もあるが、すべて同類の小型弦楽器)をかき鳴らしながら歌ったのは25歳の青年ジョアン・フェルナンデス。この時ハワイの人々が目にしたのが、後にハワイの代名詞のような楽器となるウクレレの原型だという説です。

*16:ライトニンの方は、有名な1959年のアルバム・『ライトニン・ホプキンス』のことだろう。以下、P-VINEの紹介文(http://p-vine.jp/music/pcd-93669 )から。

1959年、ヒューストンを訪れたブルース研究家/プロデューサーのサム・チャーターズがライトニンを“再発見”し、56年以来録音から離れていた彼にアコースティック・ギターを持たせて録音した記念碑的スミソニアン・フォークウェイズ盤だ