タンゴもハワイアンもジャズも、ひとくくりに「ジャズ」だった時代。戦前日本のジャズについて -瀬川昌久、大谷能生『日本ジャズの誕生』- 

 瀬川昌久大谷能生『日本ジャズの誕生』を読んだ。

日本ジャズの誕生

日本ジャズの誕生

 

 内容は紹介文の通り、

東京大学アルバート・アイラー』でジャズ論を一大転換させた批評家=ミユージシャンが、古典ジャズ史の第一人者から、日本にジャズが生まれ、独自のダンス文化、ショウ文化を生み、日米開戦とともにピークに達するさまを詳細に聞き起こす。現在のダンス・ミュージックのルーツを探り、「ポップ」の誕生の謎に迫る、音楽革命の指南書。

というもの。
 実は戦前の日本のジャズはかなりすごかった、というのがよくわかる。
 (ただし、今回はその点についてはあまり触れない。)

 以下、特に面白かったところだけ。

アーヴィング・バーリン

 このような作者による、人種も国共も超えたファンタジーこそが、アメリカ市民に求められていた歌だった (87頁)

 アーヴィング・バーリンの話である。
 彼は、ピアノも弾けず、譜面も読めなかった。
 アシスタントに自分のメロディを繰り返し伝えて、ピアノで弾かせ、自分のイメージ通りのものになるまで修正させたという。
 ロシア育ちで、母語でない英語で歌詞を書き、最初に作ったのが、イタリア民謡調である。
 しかも、最初のヒット曲が、「アレクサンダース・ラグタイム・バンド」。
 結果的に、自分が逃げてきたロシアの皇帝の名前を使用している。*1
 しかも「ホワイト・クリスマス」も、彼はユダヤ人の家なので、クリスマスを幼年時代に祝う習慣はなかったはずなのである。*2

タンゴもハワイアンも「ジャズ」

 戦前のジャズは現在のような専門的な分野じゃなくて、ポップスをぜんぶふくんだものがジャズで、お互いに区別されないで、同じような楽しまれ方をした。 (189頁)

 タンゴもハワイアンもジャズも、ひとくくりに、広い意味での「ジャズ」として、楽しまれていた。*3

1940年、ダンスホールの閉鎖

 正式に認可されてから十年と少ししか続けられなかった、日本におけるダンスホールとその文化が、しかし大衆にしっかりと愛されていた (198頁)

 昭和十五年、ダンスホール閉鎖を利用者たちは大いに惜しんだ。*4

 昭和十年代までは、ダンス音楽は流行歌といっしょに歩んでいた(233頁)。

 だが、戦後は、それぞれ別れていった、という。

 もちろん、ドドンパなどの存在にも言及されてはいるが、基本的にはその認識で間違ってはいないと思われる。

堀内敬三の「裏切り」

 けしからんのは堀内敬三ですよ。 (208頁)

 堀内は、戦争中に音楽の大政翼賛会的なものを作り、その長として禁止令を出した。*5

 昭和19年初めの出来事である。

 彼はどうすればジャズの音楽になるかを分かっていた。
 というのも、彼は昭和三年にジャズソングをはじめてラジオで放送し、レコードを出したパイオニアである。
 手口は十分わかっていた。
 例えば、堀内はサックスのアンサンブルを禁じている。

 これが、特にスウィング・ジャズにとってどれほど致命的だったか。

ジャズは戦後にも

 日本では敗戦の昭和二十年八月十五日を経てから (引用者中略) 昭和四十年(一九六五年)頃までの二十年間が、日本の遅れてきたスイング・ダンス・エイジで (243頁)

 敗戦後も、ジャズは日本で愛された。*6
 皮肉なことに、日本は太平洋戦争に負けることで、再びジャズを楽しみ踊ることが出来るようになったのである。
 はたして、日本が勝っていたらどうなっていただろうか。

 

(未完)

*1:別にそれを狙って付けられた名前ではないだろうが。

*2:中田崇は次のように述べている(「ユダヤ系移民とティン・パン・アレーhttps://ci.nii.ac.jp/naid/120005854508 )。

そんな彼も実際には音楽教育を受けておらず、ピアノもすべてのキーに合わせられるように細工された特別の楽器を使っていた。アフリカ系音楽やヨーロッパのクラシック音楽の知識を持っていたとは考えられない

 「すべてのキーに合わせられるように細工された特別の楽器」とは何か。『Los Angels Times』の記事「Irving Berlin piano spotlighted at National Museum of American Jewish History」には、次のようにある(https://latimesblogs.latimes.com/culturemonster/2010/10/irving-berlin-piano-spotlighted-at-national-museum-of-american-jewish-history.html )。

It's a well-known fact that Berlin, despite his enormous talent, couldn't read or write music. The self-taught musician used a special instrument called a transposing piano that allowed him to play in multiple keys without learning the requisite musical technique. (“The key of C,” Berlin once said, “is for people who study music.”) 

transposing pianoについては、ネット動画サイトなどで、バーリンが演奏している映像を見ることができる。

*3:もちろん、狭義には区別はあり、ジャズを「純軽音楽」と呼んだり、また、「純ジャズ」という語をタンゴと比較して用いたりする例が見られる(日本放送協会編『昭和十六年 ラヂオ年鑑』(日本放送出版協会、1941年)。163頁)。

*4:野島正也は次のように書いている(「社交ダンスの社会史ノート(1) : 戦前の日本における社交ダンスの展開」https://ci.nii.ac.jp/naid/120006418601 )。

1940年(昭和15)になると,ダンスホールの入口にしばしば警官が立って,入場しようとする客の身分をあらためた。そして1940年10月31日を期して,都内の全部のダンスホールに閉鎖令が出され,おってこの規制は全国におよんだ。外地の満州や上海でも日本人経営のダンスホールはまもなく内地と同様の規制を受けることになった

なお、この論文の当該箇所で参照されているのは、瀬川昌久『舶来音楽芸能史・ジャズで踊って』である。

*5:山中恒は、堀内が1942年の「大東亜戦争に処する音楽文化の針路」において、米英の音楽を締め出せと書いたことに、これがあの堀内敬三の文章かと驚いている(『ボクラ少国民と戦争応援歌』(音楽之友社、1985年)、119~121頁。)。

 そして、堀内作詞作曲の『敵塁陥落』を紹介し、やはり本気だったのではないか、と結んでいる。

*6:日本ボールルームダンス連盟「我が国におけるダンス文化の現在」には、次のようにある(https://jbdf.or.jp/profile/guideline.html )。

1946年、終戦の翌年には早くもダンスホールが復活し、抑圧から解放されたボールルームダス愛好者が集い、楽しむようになった。そして、民主化とともに生まれた新たな男女関係のあり方を背景に、ボールルームダンスは学生層の間で急速に広まり、1950~60年代に大ブームとなったのである。しかもこのブームは、非営利の自主的なダンスパーティーの開催を伴うもので、ボールルームダンスをホール中心の営みから、公開の場の営みに移すという大きな意義があった。その結果、ダンスホールは一時的に衰退するが、ボールルームダンスは健全な営みとみなされるようになり、市民社会に根ざした生活文化となる重要な契機を手にしたのである。ボールルームダンスの健全化には、その競技化も大きな意味をもっていた。

 ここでいう「一時的に衰退」とは、次のようなことであろう。以下、にっちもサッチモ「JAZZ CITY KOBE」より引用する(http://jazztownkobe.jp/history/jazz-city-kobe/ )。

第 2 次大戦後のジャズは、進駐軍放送の「センチメンタル・ジャーニー」に始まる。米軍が進駐してきて、神戸をはじめ、甲子園、伊丹、姫路にキャンプが張られた。日本のジャズバンドもかり出されたが、一般人が生の演奏を聴くには三宮をはじめ各地で復活したダンスホールやキャバレーへ行くしかなかった。全国でもダンスホールが再開・開業し、ダンス全盛時代を迎えたのである。しかし、昭和 20 年代後半になると、ダンスブームも急速に退潮し、踊るジャズから聴くジャズへと変わっていった(「兵庫県大百科事典」1983)。