多分、詩の発生は、対象へのほめ言葉。そして、ほめ言葉は、いつも常識的表現をよろこばない。 -吉野弘『現代詩入門』を読む-

 吉野弘『現代詩入門』を読んだ。

現代詩入門

現代詩入門

  • 作者:吉野 弘
  • 発売日: 2007/06/01
  • メディア: 単行本
 

 内容は紹介文の通り、

どう読むか、どう書くか、詩とは何か…。単なる作詩法・技術論を超えて、詩的感動の原点は何かを語ろうとする、現代詩入門。さまざまな詩の魅力や、自作詩の舞台裏を紹介する。

というもの。*1
 現代詩がわからない人も、せめてこの本だけは読んでおきたいところである。

 以下、特に面白かったところだけ。

ほめたいと思うことから詩がはじまる

 ほめたいと思うもの、愛するに足るものがあるという状況は、新しい表現を生み出す、格好の状況だというふうに一般化することもできるだろう。 (引用者中略) 多分、詩の発生は、対象へのほめ言葉だろうと思われる。/そして、ほめ言葉は、いつも常識的表現をよろこばない。そのことが、ポエジーが常識からずれてしまうことの原因をなす。 (75頁)

 相手(対象)に対する感情の過剰が、表現の過剰として表れる。
 歌や詩は、平静でいられないことを示す言葉である。*2

自分に敬語を使用する(?)歌人

 食す(おす)は、貴人などが食べることの敬語であり、茂吉の使い方は非難されたらしいが、自分に敬語を使って悪いことはないと言って改めなかった (149頁)

 金田一京助斎藤茂吉とで、「食す(おす)」をめぐって論争があった。
 その時の話である。*3

外国語から母語を学びなおす 

 外国語にふれることによって、母国語を見直すばかりでなく、言語そのものの活力にふれることが出来ます。 (247頁)

 吉野の作品「I was born」の話である。*4
 作者も、これについて、拘って考え、それを投げ出して、半年後に詩は浮かんだという。*5

 詩想を寝かせる大切さが語られている。 

意志と必然

 人間が何事かをなそうとするとき、そうはさせまいとする力の働くのを感じます。それを打ち破ろうとするとき、そこに露呈されてくる矛盾、その矛盾の一方の加担者となったときに、いやおうなく感得される矛盾、そういうものをさしています。 (253頁)

 著者は黒田三郎の詩を解説しながら、そのように述べる。

 自分にとって、詩は「矛盾」が本質をなしている事柄なのだという。*6

 ここでいわれる「矛盾」とは、死を含む自然的必然に対して、なおも生きようとする人間的意志が立ち向かうとき、そこに露呈されるものを指す。*7

 そして、その「矛盾」とは均衡という静的状態ではなく、破られようとする動的な状態である。

 

(未完)

*1:紹介文は、旧版の方を採用した。

*2:詩とは何かについて、著者はあるインタビューでこう答えている(工藤信彦「私にとって詩とは何か : 吉野弘氏に聞く」https://ci.nii.ac.jp/naid/110009985074 )。

固定観念がずれるという風に言った方が、単純にわかるんじゃないかという気がしました。それは、シェークスピアの詩に、自分の恋人をほめるために「あなたは太陽と月と、その次くらいに美しい」と、だから、私のあなたに対するほめ歌というか、思いを察してくれないかというおもしろい詩があるんです。恋歌の一つなんですが、普通は自分の恋人をほめる場合には、「あなたは私の太陽だ」というのが通り相場なんですね。ところがシェークスピアはそうは言わないで、そういう大げさなことは自分は言わない。太陽、ちょっとそれはまだ適わない、月、それもちょっと適わない、しかしその次ぐらいにあなたは美しいと。そういう風に、つまり滑稽で、太陽だという以上に大げさで馬鹿馬鹿しいんだけれども、もしそれを言われた恋人の立場になってみると、非常に滑稽なんだけれども、そういう固定観念みたいなものをずらして自分をほめてくれる、そういう真心みたいなものを珍重するに違いない。それが詩の原型じゃないかという感じがするわけです。

著者の言う「ほめる」というのは、ありきたりではない表現であることが肝心である。著者(吉野)が例に挙げたシェイクスピアの場合、より馬鹿に正確な表現に拘泥することで、ありきたりな表現を脱している。なお、このシェイクスピアの例は、本書でも述べられている。

 で、「太陽、ちょっとそれはまだ適わない~」というシェイクスピアの言葉だが、著者は本書においてはソネットの21番を挙げている。ただ、より適切な例は、ソネットの130番ではないか。以下、URL参照。http://www.shakespeare-online.com/sonnets/130.html そして、

Sonnet 130 is clearly a parody of the conventional love sonnet, made popular by Petrarch and, in particular, made popular in England by Sidney's use of the Petrarchan form in his epic poem Astrophel and Stella.

と、パロディであることも、「Paraphrase and Analysis of Sonnet 130」の解説ページに掲載されている。

*3:嶋稔は、斎藤茂吉金田一京助との論争に関して、このように書いていた(「『食ス』考」https://ci.nii.ac.jp/naid/120001123268 )。

斎藤氏の御意見でほ、かりにもし「サス」の敬語説が成立しても、一方で良寛や御自身が用いられたような敬語でない「ヲス」が存在してかまわないという、歌人としての見識を示されているようであるから、これほ余人のとかくいうべき筋ではない

 実際、茂吉は、「食す(ヲス)」は音調でいうのであって、必ずしも敬語ととらえなくてもよい、云々とのべている(佐藤佐太郎『斎藤茂吉言行』(角川書店、1989年)、76頁)。なので、吉野の語るところは事実と異なるところがある。

*4:当たり前だが、中国語であれば「我出生了」になり、受動的な意味はなくなる。言語次第である。

*5:なお、著者・吉野がこの詩を作成する際に参考にした、大町文衛『日本昆虫記』によると、カゲロウが短命と言っても種類はあって、成虫として二十日くらい生きるものもあるし、幼虫の時期も合算すると長いものは3か年生きる、つまり、他の昆虫よりも長く生きるものもある(『日本昆虫記』改版。KADOKAWA、2019年。65頁)。念のため書いておく。

*6:あくまでもそれは自分の詩の中軸であって、もちろんヴァリエーションはあると著者は述べてもいるが。

*7:『運命論者ジャック』に関連して、イタロ・カルヴィーノは『なぜ古典を読むのか』(みすず書房、1997年)で次のように述べている。すなわち、意志や自由な選択は、必然という硬い岩石に通路をあけることができるときだけ効果的であり得る、そのようにディドロは考えていたのではないか、と(当該書125頁)。意志と必然との関係について、これは、著者(吉野)がいうところの「矛盾」の問題に似たところがあるように思う。