考えようによっては、ソメイヨシノという存在も伝統にのっとったもの、と言えなくもない ―佐藤俊樹『桜が創った「日本」』を読む―

 佐藤俊樹『桜が創った「日本」』を久々に読んだ。

 内容は紹介文通り、

一面を同じ色で彩っては、一斉に散っていくソメイヨシノ。近代の幕開けとともに日本の春を塗り替えていったこの人工的な桜は、どんな語りを生み出し、いかなる歴史を人々に読み込ませてきたのだろうか。現実の桜と語られた桜の間の往還関係を追いながら、そこからうかび上がってくる「日本」の姿、「自然」の形に迫る。

というもの。
 ルーマンが読めなくても、この本はちゃんと読めるので、ご安心を。
 それにしても、この本、ソメイヨシノを弁護する本、と読めなくもない。

 以下、特に面白かったところだけ。

地域ごとのサクラの種類

 近畿地方はやはりヤマザクラが多いが、長野県ではエドヒガシが目立つ (8頁)

 元々地域によって桜の種類は違っていた。
 東北地方だと、平泉の束稲山の桜はカスミザクラ、「たきの山」(現在の山形市)はオオヤマザクラが咲いていた。*1

人工的空間としての吉野山の桜

 江戸時代、吉野山はたしかに桜の名所だったが、幕末から明治初めにはすっかり衰微してた。 (44頁)

  著者は、山田孝雄『櫻史』などをもとに、そう述べている。

 吉野の桜は、人手をかけないと維持できない人工的空間であり*2、天然林には桜山と呼べるような桜の混生はまずない。*3

 あまり知りたくなかったエピソードではある。*4

靖国神社に不足していた「日本」性

 そこに一つ欠けているものがあるとすれば、意外に思うかもしれないが、<日本>である。 (87頁)

 靖国境内は江戸の盛り場と西欧の公園が混在する「公園」だった。*5
 和風、欧風、中国風の庭園に、梅桃桜牡丹などの花が咲く場所。*6
 そんなアイテムの一つが桜だった。
 西欧起源でもない、江戸起源でもない、日本のオリジナリティを求める視線は、少なくとも明治のある時期までは、そこには無かったのである。

明治の人は、散る桜に思い入れはなかった?

 散り方には一切言及がない (97頁)

 桜が散る所に注目されるのは、明治おいては余り見られない傾向である。
 けっこう見方は、当時様々だったようだ。
 例えば、海軍教育本部『海軍読本』(明治38年)の場合*7、軍人を桜に例えるのは、派手で泣く美しく咲いて人の目を喜ばせたり、材や樹皮も生活に役立つところで、散り方には一切言及はない。

 また、同書の「靖国神社」の章では、桜について一切触れられていない。*8

 遠くから見れば雲ようで、近くから見れば麗しく、人の目を喜ばせる、と言う風に、美しさには言及されるのであるが。
 桜、軍人、ナショナリティという連関こそあるが、現在想像されるものとはやけに違うのである。

「環境破壊」が生んたサクラの光景

 平城京(奈良)や飛鳥の周りで桜が目立っていたと考えるのは、的外れではない。 (169頁)

 桜は、森や林の空き地に生え、森が回復すると消える。
 だから、都市が出来て木が大量に伐採されると、サクラは増える。
 万葉人たちがたくさんの桜を鑑賞したのは、むしろそのころからすでに、天然林から薪や炭になる木を切っていたからである。*9
 「自然破壊」の結果なのである。

 著者は、谷本丈夫の「万葉人がみた桜」(林業科学技術振興所編『桜をたのしむ』)をもとに述べている。

サクラの「クローン」技術は伝統。

 クローンで殖やすというのは、吉野山の「千本」の景観と同じくらい旧い、伝統的なあり方なのである。 (198頁)

 桜を接ぐ事実は藤原定家の日記に出て来る。*10
 それは、吉野山の「千本桜」と同じくらい古い、というのだ。
 元々、桜は自家不和合性である。
 つまり、「雌雄同株の植物で、自家受粉では受精しない」わけである。
 そのため、特徴的なサクラをそのまま増やすためには、接ぎ木するしかないのである。*11
 考えようによって、ソメイヨシノという存在も、伝統にのっとったもの、と言えなくもないのである。

 

(未完)

*1:平泉町教育委員会「国指定名勝 「おくのほそ道の風景地 金鶏山・高館・さくら山」 保存活用計画(案) 令和2年3月」(https://www.town.hiraizumi.iwate.jp/index.cfm/25,6044,117,235,html )という計画書によると、

全く植樹していない箇所の植生は、カスミザクラとエドヒガンが混在しており、当時のさくら山の景色であったと思われる

という。「さくら山」とは、 同計画書によると、

駒形峰から南の束稲山へと連なる山域は、西行の古歌を通じて吉野山にも比肩する桜花の名所として著名となり、広く『さくら山』の名が普及した。

とのことである。

*2:茨城県桜川市ヤマザクラ課の「ヤマザクラ通信vol.12」には、次のようにある(https://mykoho.jp/article/%E8%8C%A8%E5%9F%8E%E7%9C%8C%E6%A1%9C%E5%B7%9D%E5%B8%82/%E5%BA%83%E5%A0%B1%E3%81%95%E3%81%8F%E3%82%89%E3%81%8C%E3%82%8F-no-341%EF%BC%882019%E5%B9%B412%E6%9C%881%E6%97%A5%E5%8F%B7%EF%BC%89/%E3%83%A4%E3%83%9E%E3%82%B6%E3%82%AF%E3%83%A9%E9%80%9A%E4%BF%A1vol-12/ )。

吉野山と桜の結びつきは、今から約千三百年前にさかのぼります。当時は、山々に神が宿るとされ、吉野は神仙の住む理想郷として、修験道の聖地になりました。/その尊像を刻んだのが山桜の木であったことから、これが「ご神木」となり、参詣する人たちにより「献木」として植え続けられ、厳重に保護されてきたことで、吉野山は花見の名所として知られるようになっていきました。/このように植えられた山桜は、今では三万本と言われており、気温の上昇とともに咲き上がる様子を「下千本」「中千本」「上千本」と表現するのも、吉野山ならではです。/こうして見てみると、吉野山は人の手によって植えられた人工の桜山であり、日本全国の桜の名所づくりの走りであったことがわかります。

 ただし、「献木」の件について、著者・佐藤は、伝説ではないか、と述べている(佐藤著44頁)。

*3:東口涼ほか「奈良県吉野山の土地利用の変遷と旅行雑誌から見た景観受容の変化」(https://ci.nii.ac.jp/naid/130004444027 )は、次のように書いている。

土地利用と景観の変遷を見ると,明治の頃は田畑の割合が比較的高く,現在のように斜面一面見渡す限りの桜という景観ではなかった可能性が示唆された。つまり明治のころは田畑が広がる山に桜の密植地が存在するという景観だったと考えられる。 (引用者中略) 時代を経るごとに田畑の山林化と桜樹林の拡大が並行して進み,上述のような景観から,現在のような斜面一面の桜樹林と人工林の景観へと変遷してきたのである。

*4:ところで、幕末で吉野山、となると、連想されるのは、天誅組の吉村虎太郎の辞世の句・「吉野山 風に乱るる もみじ葉は 我が打つ太刀の 血煙と見よ」である。吉野山は紅葉でも有名だが、幕末もおそらく紅葉していたのだろう。

 ところで、この歌、後世の創作ではないかと指摘されている(青山忠正『明治維新史という冒険』(思文閣出版、2008年)、128頁)。

*5:ちなみに、靖国神社の桜の三分の一はヤマザクラであるらしい(153頁)。上野公園でもソメイヨシノは半数に満たないという。となると、東京育ちの人間でも、身近でソメイヨシノ以外の桜を見ていることになりそうだ。

*6:著者は次のように論じている(「社(やしろ)の庭 招魂社-靖国神社をめぐる眼差しの政治」https://ci.nii.ac.jp/naid/110004999166 )。

明治三一年には競馬場が廃止され,三九年には陸海軍省が「諸商人出届並弁舌等ニテ衆人ヲ集ムルコトヲ許サズ」という禁止令を出す.欧風や中国風を交えた内苑の庭園様式も大改造される.

*7:該当する箇所は、海軍教育本部『海軍読本. 巻2』(明治38年)の「第九 桜」の項目である。

*8:該当する箇所は、海軍教育本部『海軍読本. 巻1』(明治38年)の「第二十九 靖国神社」の項目である。

*9:池谷祐幸は次のように述べている(「桜の観賞と栽培の歴史―野生種から栽培品種への道―」https://ci.nii.ac.jp/naid/110009823853 )。

この時代に桜の鑑賞が始まった理由として、古代都市の誕生により建築用材および薪炭材の需要が激増し、それまでは照葉樹林であった都市周辺の森林が伐採されて二次林化した結果、桜の木が目立つようになったためであるという説がある

 参照されているのは、Kuitert の "Japanese FloweringCherries"である。
 ただし、「二次林化で増えた花は他にも躑躅(つつじ)や藤などが考えられ、万葉集でも詠まれている。これらの花の中から特に桜が選ばれた理由は分からない」という。

*10:接木は、文献上では平安時代の『月詣和歌集』が初出とされる。そこには、平経盛が八重咲きという特別な形質を持つサクラの枝を、接木するために他家に所望したという記述がある。

この記述により,八重咲きという当時は稀な変異形質で,かつ種子が生じにくい株から穂木を得ることが目的であったことがわかる。

また、定家の日記・『明月記』には多くの接木をした記述が残され,特に八重桜の接木の記述が目立っているという。以上、参照・引用ともに、七海絵里香ほか「造園樹木における接木技術の歴史および技術継承に関する研究」(https://ci.nii.ac.jp/naid/130007013318 )に依拠した。

*11:今関英雅は次のように書いている(「サクラ属の交雑の割合について(植物Q&A)」https://jspp.org/hiroba/q_and_a/detail.html?id=2309 )。

サクラ属の自家不和合性はS遺伝子座にある花粉と雌しべの対立遺伝子が同じ型のときにおこり(不和合)、違った型のときはおこらない(和合)となるものです。同じ種であっても遺伝子の型は同じでなく、たくさんの違いがあります。DNA鑑定で人の個体判別が出来るのも、ヒトという種であってもその遺伝子の中身は違うのが普通だからです。それと同じでヤマザクラオオシマザクラなどという種の中にはS遺伝子座の中身は何種類かの型で区別できる違いがあります。そのため、野生の種であっても同じS対立遺伝子型同士では自家不和合性を示しますが、異なった遺伝子型では受粉が成立します。ソメイヨシノはすべてがクローンですのでそのような遺伝子型の違いがないために自家不和合性がはっきりと現れているだけです。