小川隆『禅思想史講義』を読んだ。
内容は紹介文にある通り、「禅者は、なにを、どう考えてきたか。禅の興起から二十世紀の鈴木大拙まで、新たな知見を踏まえて、“禅”を語る画期的論考」というもの。
たしかに、禅の入門書として推薦できる内容。
仏教1.0とか2.0とかは、むかしから禅において存在していたのだ、ということを再確認できる。
特に面白かったところだけ。*1
看話禅のメリットとデメリット
「看話」の完成によって、開悟の可能性が多くの人に開放されることとなりました。 (159頁)
唐代と宋代とでは禅問答のやり方は大きく変わってしまった。
一見ナンセンスに見えるが、実は有意味であったはずの唐代の禅問答*2。
それに対して、宋代の禅問答では、没意味的な「活句」として扱われるようになる。
つまり、意味的にではなく、没意味的な問いに対して全身全霊で限界まで考え続け、最終的に、意識を大爆発させて超越的な悟りの体験に至る、という修行法である。
宋代禅の代表的な公案集である『碧巌録』では、「活句」の参究することは「大悟」をもたらす重要な契機と位置づけられるようになった。
その説がシステム化され、大慧宗杲の看話禅が生まれたのである。
この「看話」完成以前は、優れた機根(仏教を理解する器量)と偶然の機縁によっていた参禅が、誰でも追体験可能な方式によって規格化された。
しかしその反面、「悟り」は無機質で平均的な理念となり、禅の生命力は衰退していったのである。
禅の「民主化」のメリットとデメリットである。*3 *4
白隠による看話禅体系化
初めから「公案」として作られているところが独特です。 (190頁)
公案の多くは、過去の禅僧の問答を「活句」に読み替えて、「公案」に転用している。
それに対して、白隠の「隻手の音声」は、最初から公案としてつくられている。
最初から「活句」としてつくられているもののほうが、「疑団」(悟りにつながるような疑いの気持ち)を起こす効率が格段に良かったのだろう。
白隠によって、看話禅はさらに体系的に組織化された。
階梯的・系統的に配列された多くの公案を、順次参究するカリキュラムが組まれたのである。*5
ずっと修行しつづけろ
そこには、修行していない時「本証」がどこにあるかを説明できないという致命的な欠陥があるように思われます。 (176頁)
道元について。
宋代においては、「本来仏であるが、現実には迷っているので、修行をして悟りを開く」という矛盾があった。
人は本来仏だからありのままでよいとすることと、人は本来仏だけど修行して悟りを開かねばならないとすることとで、対立が存在したのである。
そこで道元は、不断の修業によって一瞬一瞬に止揚し続けようとした。
本覚、始覚、本証妙修、という弁証法(正反合)である。
この弁証法は実践を通してしか成立しない。
もし、理論としての完成を考えるなら、引用部の通りとなる。
ただし、もし道元に尋ねたら、修行していないときがなければ、そんなことは考えない、そんなことを疑問に思うのは修行していない証拠だと一蹴されるだろう、と著者はいう。
つまり、一瞬のすきもなく修行をし続ける世界を構築し続けねばならなかった。
永平寺開設以後は、道元の著作が、定例の上堂の継続や僧堂の運営に関する各種規則の成文化に集中しているのはそのためだろう、と著者はいう。*6
寝ている間も修行ってことになるだろうか。*7
(未完)
*1:なお著者は、「中国語の教師なのに禅の語録の研究をしているとご紹介頂いたんですけど、実は逆で禅の語録を勉強するために中国語の勉強を始めて、そして職業は中国語教師になってしまったと、そういう順番でございました」ということらしい(「禅の語録を読む」http://h-kishi.sakura.ne.jp/kokoro-718.htm )。こういう人生もあるのである。
*2:ここら辺については本書か、もしくは註で引用したウェブページなどを参照願いたい。
*3:著者によると、「坐禅から問答になって、最終的に公案へ。でも、それによって悟りが均質的なものになってしまった」という考えは鈴木大拙が何度も述べていることであり、「宋代になると公案という教材を使って、一種のカリキュラムに沿ってやるようになる。技術者養成の専門学校みたいな感じですね。手順通りにやっていけばある程度の確率で悟れるようになり、修了した人はみんなある水準までは行ける。その代わり天才が出なくなってしまった」、と功罪について言及している(小川隆「禅は「自己」をどう見てきたか【前編】」https://www.toibito.com/interview/humanities/science-of-religion/1144/3 )。
*4:張超は次のように述べている(小川隆・訳「宋代禅門と士大夫の外護」https://ci.nii.ac.jp/naid/120006771452)。
唐代禅で考えられていた日常の営為が「運水与搬柴」 (引用者中略) といった、ふつうの庶民や僧侶の日々の素朴な暮らしを念頭に置くものであったのに対し、大慧のいう「日用」は、士大夫──公的には文人官僚、私的には儒教的家父長──としての営為を、きわめて現実的・具象的に想定したものであったことが注目される。
宋代における禅の「民主化」の主役は、士大夫であった。
宋代の禅宗は、参禅者・法嗣としては禅宗内部の人、官僚・文人としては有力な在俗の外護者という、この新たな形象と地位を提供し得たことによって、多くの士大夫たちを魅きつけていったのである。
以上、2020/10/9に追記を行った。
*5:小川自身は、次のように述べている。
これは端(はな)っから脱意味的、非論理的なものとしても、公案として、問答であったものを公案に読み換えるんではなくて、端(はな)から公案として作られているので、その公案の仕様にもの凄く適っているわけですね。そういう本来の趣旨に、公案としての使用法にとても適ったものなので、非常に広まったし、効果を上げたということだろうと思います。
これは、
岩井貴生も同様の意見である(「公案体系とその構造」https://ci.nii.ac.jp/naid/120006618433 )。
公案体系化によって悟境に到るまでの過程が一般化され、その過程をカリキュラム化できたこともメリットの一つと言えよう。過程が一般化されることで、誰もが平等に悟りの境地を深める機会を得ることが可能となり、個性の強い錚々たるカリスマ的禅僧による独り完結の悟りに法脈継承を委ねることを避けることができる。実際に、沢庵、盤珪、一休などの禅、そして日本臨済宗の開祖である栄西の禅ですらもはや現在継承されておらず、今は白隠禅の法脈のみが継承されている
*6:徳野崇行は、精進料理が「近代以降は「日本料理の源流」の一つとされることでナショナリズムの文脈を帯びてゆくこと」を論じており、
戦後の経済発展の代償とされる食生活の乱れや肉食偏向といった現代日本人の食をめぐる問題は「精進料理」を「菜食」という文脈によって新たに価値付けている。近年盛んに刊行される「本山監修」を謳った「精進料理」の名を冠する書籍が数多く出版されていることは、仏教側が「精進料理」の語を「自己表象」として活用しつつ、布教教化の中に取り込んでいこうとするしたたかさを象徴的に示しているのではないだろうか。
と、曹洞宗側もその流れに乗っていることを指摘している(「曹洞宗における「食」と修行:??僧堂飯台、浄人、臘八小参、「精進料理」をめぐって?? 」https://ci.nii.ac.jp/naid/130006079230 )。曹洞宗に関する論文として興味深かったので、ここに紹介する次第である。
*7: sokotsu氏は、本書に対する評において、「道元の論理は、なかなか奇妙です」と述べている(「シンプル?それとも難解?「禅」を「読む」ための5冊。」https://higan.net/sokotsu/2018/04/zen5/ )。そりゃそうだよね。