悪臭都市だった平安京から、汲みとり式便所と京野菜の話まで(あと、その他諸々の話題) -高橋昌明『京都〈千年の都〉の歴史』を読む-

 高橋昌明『京都〈千年の都〉の歴史』を読んだ。

京都〈千年の都〉の歴史 (岩波新書)

京都〈千年の都〉の歴史 (岩波新書)

  • 作者:高橋 昌明
  • 発売日: 2014/09/20
  • メディア: 新書
 

 内容は、紹介文の通り、

平安の都、日本の〈千年の都〉として、今も愛される京都。しかし今の京都には、実は平安当時の建物は一つも残っていない。この都はいかにして生まれ、どのような変遷をたどり、そして「古都」として定着するに至ったのか? 平安京誕生から江戸期の終わりまでその歴史をたどり、「花の都」の実像を明らかにする。

というもの。
 結果的に、「臭い」話ばかり取り上げるが、もちろん、それ以外の話題も、読みどころありである。

 以下、特に面白かったところだけ。

悪臭都市・平安京

 平安京も相当な悪臭都市だった (54頁)

 平安京の溝渠には、人間の排泄物も流されていた。
 ただでさえドブ化しやすいのに、そのうえ、溝沿いの家からは、汚水が垂れ流しとなっていた。
 これが初期平安京の姿であった。*1

糞便と死体だらけ

 餌としての糞便や死体が豊富だったからである (56頁)

 京の都にはなぜ、野犬が多かったのかといえば、そうした野犬の餌が豊富だったからである。
 人口密集地でのこうした環境は、疫病をはやらせる原因となった。
 京都は神泉苑ですら、「不浄の汚穢」が行けの中に充満していたようだ。*2
 また、『玉葉』にも京都の不浄の様子が、記録されている。*3
 もちろん、一九世紀半ば過ぎまで、パリでもロンドンでも、世界の都市は人畜の糞尿、汚水まみれではあったが。

汲みとり式便所が生んだもの

 京都に汲みとり式便所が普及し、並行して街頭排便の習慣が過去のものとなってゆく (194頁)

 やがて、近郊型農業への対応として、汲みとり式便所が本格的に成立するようになる。*4
 フロイスも、日本では人糞が肥溜で腐熟されて、畑に投入されることを、記している。
 公衆便所で排泄された屎尿は、近郊農民に売却されて、町の運営経費に充てられた、と考えられる。 京野菜、たとえば、九条ネギ、堀川ゴボウ、鹿ケ谷カボチャなどの前史には、こうした汲み取り式便所の普及があったのである。

YOUは何故に上皇に?

 上皇ならそれから解放され、自由にふるまうことができたからである。 (72頁)

 なぜ、上皇法皇になって、政治を行ったのか、その理由である。*5
 上皇になるは、御堂流(摂関家)に埋没していた天皇一家を、「王家」という自立した存在として立ち上げることを意味していた。
 天皇だと政治や祭祀や儀礼の面で、行動を制約されることが多かった。*6

大徳寺が五山を離れた理由

 大徳寺室町時代中期の永享三年(一四三一)、五山から離れ、在野の立場に立つ禅寺(林下)の道を選ぶ。 (152頁)

 なぜ、五山から離れたのか。
 幕府によって五山第一の寺格を大幅に下げられたことなどが原因である。
 在野となって、権力に密着して世俗化し、漢詩文や学問の世界に向かった五山の禅を厳しく批判した。*7
 坐禅に徹して、独自の立場に立った。
 その大覚寺を代表するのが、一休宗純である。*8
 反骨の大徳寺禅を、堺の豪商に広め、彼らの援助で、灰燼に帰した方丈や仏殿兼法堂の再建をなした。

 

(未完)

*1:稲場紀久雄は、日本古代の歴代の首都について、次のように述べている(「三大環境危機と下水道 」http://www.jca.apc.org/jade/demae20index.html )。

悪臭は、皇居にも遠慮なく侵入した。歴史学者は、「穢れた悪臭とは死人の臭いか」と書いている。「死者の臭い」が絶対なかったと断言しないが、当時の都市は大量の糞便から立ち上る悪臭でむせ返るようだった。 (引用者中略) 藤原京平城京平安京も、道路という道路には水路が設けられていた。この水路系統は、水が都市全域をなるべく均一に流れ下るように体系的に整備されていた。これを下水道と称すれば、わが国の当時の首都は世界でも屈指の下水道完備都市だった。ところが、用排兼用の水路だった。人々は悪疫でばたばた倒れ、恐怖に慄いて、首都は放棄された。

*2:小右記』によると、

長和五年六月条/十二日甲申、巳の剋ばかり、束帯して摂政殿に参じ、則ち以て謁し奉る。(中略)余申して云く、『神泉苑竜王の住所なり。(中略)先日蜜々件の苑を見るところ、四面の垣悉く破壊し、不浄の汚穢池中に盈ち満つ。 (引用者中略) 』と。

とある(ウェブサイト「忠臣蔵」より。http://chushingura.biz/p_nihonsi/siryo/0151_0200/0170.htm )。本書でも、『小右記』の当該箇所が引用されている。

*3:荒木敏夫によると、

玉葉』建久二年(一一九一)年五月十三日条が記す以下のような状況が生まれてくるのは、充分に考えられることであろう。/又神泉苑、死骸充満、糞尿汚穢、不可勝計云々、仍慥明日明後日之内、可洒掃之由、仰別当能保卿。/ひとつの行き着いたところ、それはかつての禁苑であった神泉苑の地は、「死骸充満、糞尿汚穢」に満ちた場に化している。もはやそれは、王権の独占的利用の場であり、王権の遊宴の地でもあった過去の姿を思い起こすのが難しくなっている姿である。 

とある(「神泉苑と御霊会 : 禁苑の変質とその契機」https://ci.nii.ac.jp/naid/120006793521 )。

*4:山崎達雄は、次のように講演で述べている(「京都の屎尿事情」http://sinyoken.sakura.ne.jp/sinyou/si020.htm )。

肥料として屎尿を活用するには、運ぶ道具、つまり桶が必要です。小泉和子さんらの「桶と樽の研究会」によれば、桶は12世紀から13世紀頃に大陸、中国から伝わり、15、6世紀には関東に伝わりました。京都では14世紀頃です。桶が広く使用され始めたのは南北朝、鎌倉期あたりで、この頃になると、屎尿は桶で運ばれ、肥料として使われたと推測しています。 (引用者中略) 近世になると、屎尿は広く肥料として使われたことは確かであります。

ただし、やはり屎尿を運ぶのは大変であったようで、

近世は、今以上に不便ですので、京都に屎尿を汲み取りに行くのは大変であったことは容易に想像できます。このため、農村に屎尿を手配するため、京都に屎問屋が生まれいます。この屎問屋は、交通の要所、当時は、船運が盛んでありましたので、高瀬川沿いや伏見に生まれています。

*5:厳密にいえば、上皇法皇のなかでも、天皇家(「王家」)の家長たる「治天の君」が政治をするのだが。

*6:ある書評によると、岡野友彦は、次のようなことを書いているという(以下、ブログ・『雑記帳』の岡野友彦『院政とは何だったか』に対する書評から引用している。https://sicambre.at.webry.info/201402/article_7.html )。

建前上、ともかく前近代において律令制度は有効でしたから、国土・国民はすべて天皇のものとされている以上、その一部を改めて天皇の私有地とすることはあり得ませんでした。/そこで、天皇家が建立した寺院や内親王荘園領主としたり(女院領・御願寺領)、天皇譲位後の財産としての「後院領」という形式をとったりせざるを得ず、天皇家の家長がそうした荘園を確実に領有するためには、早く譲位し、上皇という自由な立場に就く必要がありました。

実に明快な説だと思われるが、岡野説がどの程度、他の研究者に支持されるのかは、正直分からない。
 また、岡野自身によれば、この説自体の原型は、石母田正『古代末期政治史序説』までさかのぼるという(岡野著・28頁)。

*7:ただし、斎藤夏来は室町期の大徳寺の実情について、次のように述べている(「五山十刹制度末期の大徳寺 : 紫衣事件の歴史的前提」https://ci.nii.ac.jp/naid/110002362353 、以下、註番号等を省いて引用を行っている。)。

大徳寺は、室町幕府の管理下にある五山叢林(官寺)とは一線を画するいわゆる林下(在野)の禅院になったともいわれ、 あるいは天皇・ 朝廷に住持職が帰属する「公家の寺」になったともいわれる。 しかし注意しなければならないのは、同寺に拠る大灯派門徒南禅寺という五山最高の禅院の権威をいかに自らのものとするかという問題にあくまでも腐心し、 その目的のためには朝廷を利用することも、その権威を蹂躙することも顧みず、一方室町幕府は、同寺をあくまでも十刹格の禅院として扱おうとしていたという事実である。 (引用者中略) 大徳寺は住持補任という点で幕府から自由であったが、南禅寺をいわば国家最高の禅院とみる観念からは自由ではなく、 したがって南禅寺を管理・ 掌握する幕府からも完全に自由ではありえなかった。

そう簡単に室町幕府の権力から自由には、なれなかったのである。

*8:上田純一によると、一休らの大徳寺による堺布教は、横岳派の当時の動向に即応したものであるという。

 横岳派は、大宰府崇福寺を拠点とし、そのネットワークは博多、兵庫、京都、堺などに広がっていた臨済宗の一派である。当時、横岳派と大徳寺派は、交流があった。

 堺商人は、大徳寺の反五山派や庶民的禅風を慕っただけでなく、博多を拠点とする横岳派のネットワークに参入して、対外(大陸)貿易のつてを得るという経済的利益を目論んだ可能性があるという。

 以上、上田『九州中世禅宗史の研究』(文献出版、2000年)、103~106頁に依った。