かつては中国趣味と結び付いていた盆栽が、次第に日本趣味へと転向していった話 -依田徹『盆栽の誕生』を読む-

 依田徹『盆栽の誕生』を読んだ。

盆栽の誕生

盆栽の誕生

  • 作者:依田徹
  • 発売日: 2014/04/28
  • メディア: 単行本
 

 内容は紹介文の通り、

世界の“BONSAI”その歴史を探る。盆栽はいつから日本の伝統文化になったのか。歴史をひもとき、織田信長徳川将軍家明治天皇大隈重信らの愛好ぶりを紹介。

という内容。

 盆栽が前近代期と近代期とで、非連続性がある、というのがわかる本である(乱暴な要約)。

 盆栽好きの方も、そうでない方も、ぜひどうぞ。

 以下、特に面白かったところだけ。

「盆栽」に組み込まれた「盆石」

 義政はよく優柔不断だったといわれているが、五山の僧侶には強気だったようだ。 (13頁)

 室町期、禅僧が「盆山」を趣味にしていた。
 「盆山」とは、簡単に言うと、石に樹木を根付かせたものである。*1
 将軍はこれらをことごとく集めようとした。
 渋る寺には、奉行が押し入り、隠していた場合は有罪にしたという。*2

 盆山は後世、「石付き盆栽」と呼び変えられることになる。

 近代における「盆栽」という枠組みにのなかに、吸収された格好である(156頁)。

トリッキーさから自然さへ

 江戸時代の鉢木の主流は「蛸作り」であり、曲がった枝を見せようというものであった。 (61頁)

 江戸の植木屋は樹木を曲げて、人の意思に従わせる技術に長じていた。*3
 その美意識は、現在の盆栽が目指す「自然の美」とは方向性が違ったのである。*4

 タチバナのような園芸植物にくらべて随分と安かった江戸時代の「蛸作り」と異なり、マツ類など常緑樹が主役となる世界観が作られた (88頁)

 それは、明治期の「自然主義」の流行が背景にある。*5
 この時代、盆栽も「自然」重視となり、トリッキーな「蛸作り」などは、主流でなくなっていく。
 そして、植物も、マツが主役になる。
 マツは、過酷な環境に耐え、年数を重ねた木が多かった。
 そんなマツを、盆栽に仕立てて、政財界の人間たちが高額で買うようになる。

中国(文人)趣味から、近代的な日本趣味へ

 そんな「茶道」のような細かな規範にしばられないこと、そして売茶翁のような自由の境涯をもとめるのが煎茶の心である。 (69頁)

 江戸期、煎茶が町人、特に大阪の町人たちに流行する。
 その背景にあったものはなんだったのか。
 当時の「茶道」は、武家を担い手として、規範化と権威主義の傾向を強めていた。
 それに対して、細かい規範に縛られない自由を求めて、煎茶が流行したのである。
 このような中国趣味(文人趣味)に溢れた煎茶会において、盆栽は飾られたのである。*6
 なお、文人盆栽においてメインとなったのは、木の方ではなく、それが入る中国製植木鉢のほうだったようだ。

 かつては中国趣味と結び付いていた盆栽が、次第に日本趣味へと転向していった (148頁)

 しかし、明治の後半に、大きな変化が起こる。
 盆栽は。茶の湯や生け花を参考にしながら用語*7を取り入れ、日本の伝統文化としての体裁を整えようとしたのである。
 いわば、宗旨替えである。

 茶の湯や生け花の権威が高まっていく流行現象にのったのである(156頁)。

 盆栽は茶の湯のような封建制度を引きずらない、近代的な趣味だったとさえいえる (127頁)

 明治維新後、武家社会は崩壊した。

 儀礼としての茶の湯の権威は失墜し、いったんその価値観はリセットされた。

 実際、茶の湯にゆかりのあった家の出身である旧藩主(旧高松藩主の松平頼寿、旧姫路藩主・酒井忠正ら)や豪商(鴻池幸方)らは、茶の湯ではなく、盆栽・盆景の趣味に走った。

 そのご明治中期以降に、茶の湯は、千家などの家元や武家によってではなく、益田鈍翁ら新時代の富裕な数寄者らを中心に復興された。*8

 明治期は、競馬やゴルフなど新しい趣味も育って行く時代だったが、盆栽もまた、そうした近代的な趣味の一つとして、存続していくこととなったのである。

 盆栽は近代において、伝統文化としての体裁を整えた、新しい趣味だったのである。

手軽だからこそ世界へ

 誰でも手を出せるという手軽さが、大衆化を可能とした (159頁)

 「蛸作り」などの場合、型があって自由度がない。
 専門の職人の世界だった。
 あくまで技術重視である。
 対して、近代の「盆栽」の場合、自由度は高い。
 「鉢木」から高度な培養の技術を引き継ぎつつ、「自然」を規範とする美意識を強めるようになった。 樹木それぞれの個性を伸ばせばいい。
 誰でも手軽に樹木の生命力と自然を規範とした美の世界に接することができる。
 だからこそ盆栽は、日本のみならず、世界に広がったのである。*9

番外編・日本茶について

 元文三年(一七三八)になり、宇治茶師の永谷宗円が蒸気を加えて揉む「蒸し茶」、すなわち現在の日本茶の製法を開発する。 (66頁)

 盆栽ではなく、お茶の話である。
 ある時期までの日本茶は、製茶技術が未熟だった。*10 *11

 そのため、茶葉も黒味を帯びた荒い作りだったという。

 

(未完)

*1:猪俣佳瑞美は、「盆山」の起源について、次のように述べている(「鉢植えの文化論 : 日本古代から中世まで」https://ci.nii.ac.jp/naid/120005671317 )。

706 年に建造された章懐太子李賢墓の壁画に描かれた植物も「盆山」であるように見えるため、このような手法は中国からもたらされた、と考えて間違いない。

「盆山」は中国からもたらされたのだろう、と推定している。

*2:『蔭凉軒日録』の1463年5月25日には、将軍・義政の命令にも関わらず自分の寺院にある盆山を差し出そうとしない寺院に対して、必ず差し出すよう厳命したという内容が書かれている(林まゆみ「中世民衆社会における造園職能民の研究」https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3179177/5?tocOpened=1、54頁)。

 『蔭凉軒日録』の1463年5月25日のくだりは、本書(依田著)でも参照されている。

*3:その美意識の最たるものとして、広重の浮世絵にも描かれた、清水観音堂の「月の松」などを想起すべきであろう。もちろん、実際にこの浮世絵どおりのものだったのかは、考慮すべきところではあるが。

*4:本書には、水野忠暁『草木錦葉集』の「古風作松之図」の図が載っている。S字を描きながら屈曲し、各所の小枝の枝先にのみ扇形の葉が茂っている様子がうかがえる。デジコレで観れるhttps://twitter.com/sk8babji/status/868623843522265088 。

*5:ただし著者は、「蛸作り」が近代に姿を消したのは、煎茶趣味が大きな原因と述べてもいる。煎茶と盆栽の関係については、後述する。

*6:小川後楽『煎茶席の花』(保育社、1986年)には、近世の煎茶書の盆栽飾りの図なども載っている(当該書130頁)。

*7:たとえば、もともと茶の湯の用語だった「右勝手」「左勝手」などが、それに該当する。

*8:なお、益田も盆栽をやっていたとの記述が、本書(依田著)の116頁にある。

*9:菅靖子は、戦前の盆栽の西洋(イギリス)での受容について次のように述べている。

盆栽に関しては,イギリスでは「ピグミーツリー」,「ドウォーフツリー」,「ミニチュアツリー」などの呼び名で,19世紀初期より中国のものが知られており,日本に関しても1850年代頃から時折言及されてきた。 (引用者中略) 盆栽は万国博覧会の展示を通して,独立した芸術的表現として生け花よりも早く世界に紹介されている

ただし、菅は、「日本家屋に見られるような空間デザインが演出されるようになり,その一要素として生け花,盆栽を意識したかたちで植物が配置されるようになるのは,むしろ両大戦間期,すなわちモダニズム隆盛期」だとしている。
 盆栽の世界への広がりは戦前からあったことを強調すべく、引用・参照した次第である。

*10:早川史子と日比喜子は次のように書いている(「蒸し茶および釜炒り茶の嗜好性」https://www.jstage.jst.go.jp/article/jisdh1994/6/2/6_2_51/_article/-char/ja/ )。

1600年代後半すでに庶民は茶を常用し,従って日常品となった茶をどこの家でも,誰でも,手間をかけずにできる湯びく,釜で炒るなど簡便な方法で茶を造り,飲んでいたことになる./一方,今日のように熱湯を注ぐだけで煎汁がでる蒸し茶は1738年に宇治の永谷宗円によって従来の蒸し茶に改良が加えられたものである.

*11:若原英弌は、『万金産業袋』の記述に依拠して、永谷宗円以前から彼発案のはずの新製法は既に行われていたとする。そして宗円は、その製法を公開伝授した点で有名になったのではないか、という。(以上、若原「茶業の発展」『茶道聚錦 5 茶の湯の展開』(小学館、1985年)272頁)。

 かような若原の説に対して、西村俊範は、画像資料や発掘資料を見る限り、若原が述べるような変化は、「万金産業袋」にすら先行しているとし、

煎じ茶の変化は実は二段構えになっており,元禄を過ぎたあたりでまず茶筅を使用しないお茶へという最初の変遷が生じたと見るべきであろう

とする(「桃山~江戸中期,庶民のお茶」https://ci.nii.ac.jp/naid/120006382138 )。そして西村は、「類似の製法自体は宮崎安貞がさらに先行して述べている」と、17世紀末まで遡るとしている。