魚川祐司『仏教思想のゼロポイント:「悟り」とは何か』を再読。
内容は紹介文にある通り、「ブッダの直弟子たちは次々と『悟り』に到達したのに、どうして現代日本の仏教徒は真剣に修行しても『悟れない』のか。そもそも、ブッダの言う『解脱・涅槃』とは何か。なぜブッダは『悟った』後もこの世で生き続けたのか。仏教の始点にして最大の難問である『悟り』の謎を解明し、日本人の仏教観を書き換える決定的論考」という「仏教の悟り」論である。
とりあえず、気になった箇所だけ*1。
求めても求めても、足りない
「苦」という用語が単に苦痛のみを意味しているわけではなくて (51頁)
「苦」(dukkha)は、欲望の充足を求めても常に不満足に終わるしかない、という欲望が尽きない事態を示している。
あらゆる現象は因縁によって形成されており、そのすべては無常である。
ならば、その現象に依存する欲望を追及しても、無常である以上、満たされるはずはないのである*2。
無我と「身体」
無我についての話である。
例えば我々の身体は我々の意志に反して老いていく。
けっして思い通りにはならない。
もし色(身体)が我であるなら、病にかかるはずもない。
そういった、いわば色(身体)の他者性において、仏教は「無我」であると著者はいう*3。
気づきと禅定
気づき(sati)の実践 (127頁)
自分の行為に意識をいきわたらせ、貪欲があればそれに気づくこと。
それを日常化させることで、習慣化している行為(煩悩の流れ)を「せき止める」ことが気づきの実践(サティ)となる*4。
禅定は智慧の前提なのである (138頁)
しかし、欲望によって織り上げられた世界は、凡人には、いくら言い聞かせても現実として立ち現れるのであって、認知はなかなか変わらない。
理性で暴力を前にした時の身体の硬直をとめられないように。
この事態を打ち破るには、意識の変化させることが重要である。
そのためには、強力な集中力が必要であると著者はいう*5。
そうして、禅定(=心が動揺することがなくなった状態)を得るのである*6。
禅定を得て、意識が変化し、悟る道が開ける。
軽やかな、無償の「慈悲」
「意味」からも「無意味」からもともに離れること (175頁)
愛することも嫌うことも、共に執着であり、どちらからも離れることが解脱だという。
解脱を達成した者たちは、存在することを楽しもうとする。
利他の実践は、その境地から始まるとする。
「ニートになれ」、なのか
「異性とは目も合わせないニートになれ」と要求するもの (205頁)
『スッタニパータ』でのブッダの教説は、労働と生殖の放棄、現象を観察して執着から離れれば、涅槃に至れるというものである。
ただしその場合、弟子たちに、異性と関わらないニートになれと言っているようなものである、と著者はいう。
ところで、原義上「ニート」とは、就学も就労も職業訓練も行っていない者を指すわけであるが、仏門に入った者は「就学」したも同然ではないか、という素朴な疑問がある*9。
(未完)
*1:個人的には、「どうもゴータマ・ブッダらの食べ物を捨てることに対する忌避感は、さほど高くなかったようで」(25頁)というのが一番面白かった(面白い、といっていいのかどうかはわからないが)。ちゃんとパーリ経典に載っているようだ。釈尊が生きていた世界には、モッタイナイ運動はなかったようなのである。
*2:アルボムッレ・スマナサーラ氏は、以下のようにDukkhaを説明している。
苦(Dukkha)は、こうした人間の満足が得られない世界のことを言っているのです。決して苦しみだけを言っているのではありませんが、常に変わっていくものに対して人間が求めるものは、求めた段階でもうその対象たる物や事、人は変化してしまっているので、追い求めた人間はいつも不満で、満足が得られない状態に置かれてしまうのです。満足が得られないから、苦しくなっていくのです
(「四聖諦②」https://j-theravada.net/dhamma/kougi/kougi-002/ )
*3:著者は、常に実態として存在する「主宰」するような「実体我」の存在を否定する。その一方、生成消滅を繰り返すなかで一時的に立ち現れた情報(目や耳などの感覚器官から入ってきた情報)が認識されることによって、経験が成立する「場」を、そうした流動的な「場」(≒「経験我」)を、肯定している。そのため著者は、桂紹隆のいう「無記説」、すなわち我の有無についてどちらとも言えない(というか「言わない」)、という説を支持している。ここでいわれる「場」というのは、永井均的な<私>に近いものなのだろうか(同じではなさそうだが)。なお、永井には、他の者との共著で、『〈仏教3.0〉を哲学する』という本が存在する(既読)。
以上、一か所見せ消ちを2024/2/19に施した。
*4:林隆嗣は、「念と正知をもって身心を隅々まで見つめながら理解を深めていくことが、悲しみや怒りやこだわりから心を解き放ち、身体の苦痛までも緩和、鎮静させることができると一貫して考えられてきたことはパーリ文献によって確かめることができる」と述べている(「意識を向けていること、じゅうぶんに理解していること : パーリ仏教における念と正知」https://ci.nii.ac.jp/naid/120006622441 )。ここでいう「念」は、サティを指す。
*5:もちろん、強力な集中力を必要とするために、「瞑想ノイローゼ」になってしまう人もおり、著者はその後の著作で、その問題についても扱っている。
*6:藤本晃「色界第一禅定の入り方」https://ci.nii.ac.jp/naid/130003832129 は、禅定の入り方について簡潔に解説している。本文は英語だけど。
*7:著者によると解脱者たちの「遊戯三昧」は、
子供の「遊び」よりももっと混じりけがない。彼らの生きる時間はその全てが純粋な「遊び」であり、さらに己自身も含めたあらゆる現象が「公共物」であることを徹見している以上、彼らは利他の実践のために、場合によっては自分の命も捨て去ることを決して厭いはしない。彼らにそれができるのは、慈悲の行為が彼らにとって「遊びではない」からではなくて、むしろそれが「何かそれ以外の大切なもの」をどこかに確保しておくことの全くない純粋な「遊び」そのものであるからだ
ということになる(177頁)。何かのための手段とすることのない、軽やかな「無償性」こそ重要なのであろう。
*8:ところで、「遊戯三昧」というのは、四文字だと『無門関』等に出てくる禅語かと思うのだが、著者的には、特に問題ないのだろうか。少しだけ気になった。
以上、この註は2020/4/3に追記した。