外国人に、素朴な丸太小屋風の藁で覆われた小屋みたいに言われていた伊勢神宮。 -井上章一『伊勢神宮』を読む-

 井上章一伊勢神宮』を読んだ。

伊勢神宮 魅惑の日本建築

伊勢神宮 魅惑の日本建築

  • 作者:井上 章一
  • 発売日: 2009/05/15
  • メディア: 単行本
 

 内容は、紹介文の通り、

神宮はいかにして日本美の象徴となったのか 明治初年、「茅葺きの納屋」とされた伊勢は、20世紀に入り「日本のパルテノン」として世界的評価を受ける。民族意識モダニズム、建築進化論の交錯を読解する

というもの。
 伊勢神宮の言説史を追う上では、読まれるべき内容。*1

 以下、特に面白かったところだけ。

外国人にがっかりされていた神宮

 これについてはたいていの外国人が、おとしめてきた。 (151頁)

 戦前において、タウトは外国人の中で比較的珍しく神宮を褒めた人物である。
 というのも、当時、たいていの外国人に、素朴な丸太小屋風の藁で覆われた小屋みたいに言われていたのだから。

 アーネスト・サトウも、がっかりしたという。 (154頁)

 明治初年に日本へ来た欧米人は神宮の粗末な作りにあきれていた。
 サトウは、その様はあまりにも簡素で弱々しい、と書いている。*2

美化された神宮

 日本のモダンデザインじたいに、せまい民族主義があったというしかない (201頁)

 伊勢神宮の好奇な意匠をモダンデザインと重ね合わせた、太田博太郎の話である。
 彼の議論は「狭い」民族主義的議論に陥ったが、当人に自覚はなかっただろう、と著者はいう。*3
 彼自身はむしろ進歩的なことを書いている、と思っていただろう、と。
 なお、そんな太田でさえも、きれいな茅を選別して一本一本並べている様を、工芸品のようだと批判し、こうした上等の材料を用いたのは明治以降にすぎず、これは「明治全体主義政権の一つの具体的表現」(368頁)だと述べている。

 今日の神宮は、たいへん高級な檜材をつかっている。 (206頁)

 節目の無い四方柾の檜である。
 しかも建て替えには当代一流の名匠が関わる。
 現代の神宮は手の込んだ工芸品のようになっている。
 だが、江戸期にはそこまでの仕事はされていなかった。
 使われる木材も節目のあるもの。
 ずっと安上がりに、しあげられていたはずだという。

「モダン」な感じに「修正」。

 そこではモダンデザインへよりそった加工が、ほどこされた。 (366頁)

 20世紀の話である。
 角南隆は、神宮の創建当初は金具などなかったが、それが天武天皇以降多くなった、と主張した。*4
 そこで、金具を、福山敏男らに同意を得て、二、三割減らしたのである。
 こうして、「シナ」風の装飾や東照宮に向こうを張ったという装飾は、削られた。
 神宮の荘厳さを増すためにである。
 その処置を谷口吉郎堀口捨己らは喜んでいる。
 前のものをそのまま作り直すと伊勢神宮についてよくいわれるが、実際は、かならずしもそうはなっていない。
 それを示す一例である。*5

神宮に法隆寺の影

 福山敏男は、神宮に法隆寺の影を読みとっている。 (307頁)

 神宮の妻飾りに、法隆寺金堂のそれがとりいれられていることを、福山は突き止めた。
 神宮には、大陸的な仏教建築の感化が、及んでいたのだという。*6

そんなにきれいな訳もない

 伊藤延男がためらいをしめしている。 (367頁)

 今の神宮は鉋できれいに仕上げている。
 しかし、古くは槍鉋を用いていたから、表面はもっと凸凹していたはずである。*7
 伊藤は、伊勢神宮のきれいな仕上げを、無条件に古代と結び付ければ誤る、というのである。

時代遅れのものをあえて選んだ?

 棟持柱のある高床という形式は、その古さが買われて、えらばれた。 (441頁)

 古臭いからこそ、当時の日本の国に気に入られたのではないかと著者はいう。*8
 7世紀末あたりかどうかは不明だが、9世紀にはこの時代遅れの形式で神宮が建てられたのだろう、と。
 あえて、古いものを選択的に選んだとして、当時の日本側の意志を見るのである。

 

(未完)

*1:ところで、近年の中で、読んで面白かった伊勢神宮関連の論文は、数元彬東大寺僧徒が見た中世の伊勢神宮」(https://ci.nii.ac.jp/naid/120005972268 )かと思う。本論とは直接関連はしないが、ぜひご一読を。

*2:鈴木英明は、アーネスト・サトウ神道観について、次のように述べている(「日本の国際化を考える : 江戸から東京へ」https://ci.nii.ac.jp/naid/120006304542 )。

1874(明治7)年2 月、日本アジア協会(72 年7 月設立、英米系の日本研究団体)で外交官サトウが「伊勢神宮」と題して発表した。 (引用者中略) サトウは、「神道には道徳律がないというヘップバーン(ヘボン)氏の意見に同感である。……」。 (引用者中略) 彼ら欧米人の神道理解は、チェンバレンの解説と変わりはなく、神道は宗教でないというものであった。

当時の神道の扱われ方が、そもそもこのような感じである。

*3:太田博太郎は、『法隆寺建築』(1949年)で、法隆寺の中にもモダニズム風の簡素美を読み取っている。そしてそれらは「日本的意匠」であり、「日本人の感覚」であって、「支那」的でも、ギリシアやインドからの伝播という仮説に対しても消極的である。(以上、著者井上の「法隆寺の「発見」」https://ci.nii.ac.jp/naid/120000901638(179頁)を参照・引用した。)

*4:もちろん、根拠は薄弱である。

*5:稲賀繁美は、次のように述べている(「古寂びを帯びる《束の間》フランスから見る伊勢神宮(その2):『日本の美学:時の働き――痕跡と断片』ミュリエル・ラディックの著書をめぐる公開円卓会議より」https://inagashigemi.jpn.org/achivements/serials/aida/ )。

近世に至るまで、造替にはきちんとした図面などなく、禰宜と宮大工との口頭の協議で、細部の意匠、装飾品の選択、建造物の配置が変更されることもあった様子である。

参照されているのは、福山敏男『神社建築の研究』である。
 これは、あくまでも近世以前の話であり、井上著でも言及されている事柄である。「改変」は近代だけでなかったことを示すため、一応引用しておく次第である。

*6:伊藤行は、「神宮正殿の妻の形式が,法隆寺金堂の当初のそれに大体に於いて一致することは注意すべきである」と述べている(「伊勢神宮の研究1」https://ci.nii.ac.jp/naid/120002835396 )。参照されているのは、福山の論文「神宮正殿の成立の問題」である。こうした福山の見解に対しては、後の時代においても比較的肯定的に受け止められている(例えば田村圓澄『伊勢神宮の成立』(吉川弘文館、2009年)213頁)。

*7:槍鉋を使用した場合の削り跡は、こちらのページhttps://www.konarahouse.jp/blog/archives/2689 を参照。

*8:著者井上自身も次のように述べている(鼎談(井上章一安藤礼二青井哲人)「伊勢神宮を語ること、その可能性と不可能性──式年遷宮を機に」http://10plus1.jp/monthly/2014/03/issue01.php )。

こんなに古いものをなぜ伊勢神宮は引きずって再編したのかということが問われるべきですね。8世紀は中国からの文物が届き、中国風の建物が並び出している頃ですが、わざわざ伊勢の奥の方にこういった古めかしいものをこしらえたということです。