近代に発見された「作者」としての世阿弥 -田中貴子『中世幻妖』を読む-

 田中貴子『中世幻妖』を再読した。

中世幻妖―近代人が憧れた時代

中世幻妖―近代人が憧れた時代

 

  内容は、紹介文にある通り、「小林秀雄白洲正子吉本隆明らがつくった“中世”幻想はわたしたちのイメージを無言の拘束力をもって縛りつづける」とし、近代知識人たちの中世像と、研究で判明している中世の実像との落差を見ていく本。

 面白かった。

 以下、とくに面白かったところだけ。

とはずがたり』と金栗四三

 鎌倉時代の話なのに、ほとんどのレビュアーが平安時代の物語と勘違いしているのだ。宮廷で、女房と皇族・貴族の恋愛が絵が描かれればすべて平安時代のものと思っているらしい (50頁)

 『後宮』という『とはずがたり』をベースにした漫画のアマゾンレビューを見ての、著者・田中の感想である。
 ところで、『とはずがたり』は、山岸が「昭和十三年の冬頃」に「図書寮の図書目録」の「日本文学中の日記・紀行の部に、「とはずがたり」が収載」されていたのを発見したものである*1が、
この山岸は金栗四三の後輩である。*2 *3

「さび」と俊成

 「さび」とは平安末期の歌人藤原俊成によって使われはじめた言葉であり、(略)これだけ長い時間の経過があるわけだから当然その内実や意味するところは変化しているだろう。 (54頁)

 たしかに、当然のことではある。
 「わび」や「さび」という語の変遷については、岩井茂樹「「日本的」美的概念の成立 (2) 茶道はいつから「わび」「さび」になったのか?」等が参照されるべきであろう*4

東山文化と太平洋戦争

 東山文化についての代表的な研究書が(略)昭和十七年(一九四二)から昭和二十年にかけて刊行されているのは偶然ではない。 (78頁)

  応仁の乱という大規模な内戦が太平洋戦争のアナロジーとされ。モデルケースとしての東山文化を称揚する必要があったのである。
 今のように戦争で苦しい時期でも、東山文化みたいな立派な文化を我々の祖先は築いたのだ、という意気であろうか。
 該当する研究書は、森末義彰『東山時代とその文化』(1942年)、笹川種郎『東山時代の文化』(1943年)、芳賀幸四郎『東山文化の研究』などである*5

西行の旅の期間

 高野山には約三十年間も暮らしているのである。 (略) 西行が旅に出ていた期間を総計しても三年未満だということになる。 (96頁)

 これは、川田順の研究に基づいている*6 *7

 思ったほど、旅をしているわけでもないのである。
 なお、平安末期の奥羽への旅も、西行以前に、藤原実方や能因などの歌人がすでに東国に行っており、べつだん先駆的存在だというわけでは必ずしもない。

詞書は大切

 詞書と歌はセットなのである。だが、近代知識人はしばしば詞書を捨てて、歌の中に「真なるもの」があるかのごとく錯覚してしまう。 (177頁)

 こういうのは、西欧経由の近代詩の影響なのだろうと思われる。
 德植俊之も、詞書を省いて古典教育をおこなうことを、批判している*8

源実朝の実像

 「武」の最たるものとしての戦争や闘争から知識人が距離を置くための思想的基盤として、実朝の再評価が要請されたのである。実朝は沈黙し、無常を観ずる。何もしないことが、何かを饒舌に語ることになるわけだ。 (184、5頁)

 小林秀雄らへの批判である。
 戦わない、どちらにも立場をとらない、そんな自身を正当化するものとして、実朝が利用されることとなった*9

 今まで「いかにも実朝、いかにも万葉調」と賞賛されてきた和歌はすべて晩年に詠まれたと考えられてきたが (略) 、実朝がもっとも「実朝らしい」和歌の才能を発揮したのは二十一、二歳までだというのである。 (212頁)

 実朝の万葉調の歌は、きほん二十一、二歳頃の歌である*10
 「吹く風の涼しくもあるかおのづから山の蝉鳴きて秋は来にけり」、「大海の磯もとどろに寄する波われて砕けて裂けて散るかも」、「ものいはぬ四方のけだものすらだにもあはれなるかなや親の子をおもふ」、「時により過ぐれば民の嘆きなり八大竜王雨やめたまへ」、「山はさけ海はあせなむ世なりとも君にふた心わがあらめやも」、など「実朝らしい」和歌は、晩年の作品ではなかった。
 むしろ、「実朝が好んだ結句は、新古今的な結句であり、新古今集の特徴といわれるものを、実朝もまた有している」という指摘も存在する*11

近代に「発見」された『風姿花伝

 世阿弥の伝書は、実際の能楽師が読んだわけでもなかった。幼少期から口伝と稽古で芸を身につける能楽師にとって、世阿弥の直筆テキストを読む必要すらなかったのだろう。 (238頁)

 江戸以後の能の世界では、誰も『風姿花伝』などを読んだことが無かったようだ。
 じっさい、観世寿夫が1974年にそのような証言をしている。
 世阿弥の口伝書(『風姿花伝』を含む)は、吉田東伍によって発見され、1909年に刊行された。
 『風姿花伝』の場合、世に広く知られるようになるのは、1927年に岩波文庫から『花伝書』として刊行されてからである*12

 古典の文句を切り貼りした「綴れの錦」などと酷評され、文化的にも程度の低いものとして扱われてきた能は、伝書発見によって、 (略) 高い評価を受けることになった。 (238258頁)

 能は実は伝書発見以前は、相対的に、程度の低いものとして扱われていた*13

近代における「作者」

 明治から昭和初期にいたる中等教育の国語教科書では『平安物語』や『太平記』に、根拠の乏しい作者説によってむりやり作者名を添えている (258、9頁)

 先も述べたように、世阿弥は近代に発見されることになった。
 当時の文学史では、作者の不明なテクストや「偽書」はほとんど、無価値に等しく、作者不在はすなわち作品の存在意義を失わせた。
 だから、世阿弥の「発見」は、能を由緒正しい「ニッポンの文学」に格上げさせたのである。*14

世阿弥ギリシャ悲劇

 世阿弥を時代的にさかのぼるギリシャ悲劇と比較することが多いが、これは能と世阿弥の研究に「国文学」研究者よりも海外文学や演劇の研究者によって先鞭がつけられたことによると考えられる。 (262頁)

 著者は、「難解で入手しがたいテクストを外国語の翻訳で読むことで、世阿弥や能を「発見」しやすかったのが理由である」とも指摘している(262頁)。*15
 実に興味深い。

 

(未完)

*1:横井孝「 山岸徳平博士の現写本考 : 実践女子大学図書館山岸文庫蔵本識語編年資料から」https://ci.nii.ac.jp/naid/120006250390 より。

*2: ブログ・「ばーばむらさきの『I Love 源氏物語』」のコメント欄http://murasakigenji.blog.fc2.com/?no=683によると、「『源氏』の最後の冊を開いたら、まず目に飛び込んできたのが『金栗四三』の文字。1度も開かれなかったと思しき、まっさらの月報の最初に校注者・山岸徳平氏(東京高師の後輩)の思い出を綴っていたのでした」とのことである。該当するのは、おそらく、山崎校註の「日本古典文学大系 源氏物語」の最終巻の月報ではないかと思われる。(https://www.kosho.or.jp/products/detail.php?product_id=235720632https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000000953958-00 

*3:文部大臣官房体育課『本邦ニ於ケル体育運動団体ニ関スル調査』の「全国的学生体育運動団体一覧」を見ると、「全国学生マラソン連盟」の代表者に金栗四三の名前があり、「山岸徳平気附」という文字も見える(当該書196頁)。

 以上、2020/5/9にこの註の追記・添削を行った。

*4:https://ci.nii.ac.jp/naid/120004966540  

 「さび」を名詞として用いたのは、蕉風俳論においてのことである。「さび」が名詞的にその美を現すのは、江戸中期に入るところだった(以上、岩井論文、31頁)。

 また、本書(田中著)でも、鈴木貞美岩井茂樹編『わび・さび・幽玄』が参照されていることを念のため述べ添えておく。

 この項目に対する註について、修正・添削を、2020/5/28に行った。

*5:川嶋將生「東山文化--その言説の成立」https://ci.nii.ac.jp/naid/110006388153 は、次のように述べている。

このように概観してくると、義政時代への注目は、その時代が応仁・文明の乱を挟んで、いわゆる下克上の時代へと突入した、混乱する時代であったこと、そして森末・芳賀両氏とも、そうした時代と、太平洋戦争に突入した昭和17年頃とが、混乱ということでは共通した時代と認識されたこと、しかしそうした時代であったからこそ、「国史の本質を露呈」した時代であったと捉えたことが、その背景にあったことが知られる。

 なお、本書でも、川嶋論文が参照されていることを、念のため書いておく。以上、2020/5/28に追記を行った。

*6:参考までに、2005年4月15日発行の「西行の京師」http://sanka11.sakura.ne.jp/sankasyu4/201.html によると、西行の最初の東北の旅は、「川田順氏説」で、「康治二年出発(1143年=西行26歳)」、「天養元年帰洛(1144年=西行27歳)」である。

*7:西行の長旅を通算しても3年程度、また、日本国中に佐藤の同族の縁者がいるのだから、西行が乞食坊主のはずがない、という川田順西行』(1939年)の意見に対して、風巻景次郎『西行と兼好』(角川書店、1969年)などは肯定的である(36頁)。

 なお、川田の主張については、大内摩耶子の論文・「『とはずがたり』の旅」(https://ci.nii.ac.jp/naid/40000306457 )が、該当する箇所を引用している。

 以上、2020/5/28に追記した。

*8:「中学古典和歌教材の再検討 : 古典和歌教材に詞書は不要か」https://ci.nii.ac.jp/naid/120006599365

*9:五味渕典嗣は、「小林秀雄が口にし書いてしまったことの責任を免罪することでは少しもない」としつつ、小林の「実朝」の結末の一文は、「書き手小林にとっても、十全たる確信を持って提示できるようなものではなかった、ということでもある。つまり、読者の同意を得るためには、ある程の強制とともに語らねばならない、と小林自身、どこかで感じていたのではないか」と解釈している(「死ぬことの意味 : 小林秀雄「実朝」を読む」https://ci.nii.ac.jp/naid/110000376057 )。小林の性格を考えれば、その可能性はある。その罪は消えないだろうが。

*10:「昭和四年、佐々木信綱が発見した定家所伝本の奥書によって、この歌集は実朝が二十二歳までの習作を集めたものと判明した。これによって、歌の解釈が微妙に変更された」のである(駒澤大学総合教育研究部日本文化部門 「情報言語学研究室」のホームページ、 https://www.komazawa-u.ac.jp/~hagi/kokugo_kinkaiwakashu22.htmより引用。 )。

*11:三木麻子「実朝詠歌,一つの方法--結句を中心として」(1979年)、26頁。https://ci.nii.ac.jp/naid/120002276567 

*12:大正期にはほとんど世阿弥受容が進展してはおらず、「大正期を通じて和辻哲郎安倍能成、野上豊一郎、桑木厳翼らいわゆる教養主義の担い手たちに読まれるようになり、 (引用者省略) 昭和初期の世阿弥受容につながっていく」。また、「世阿弥発見に先立って、能楽に関する学問的研究がまず開始され、それが契機となって、同書(引用者注:吉田東伍が校注した『世阿弥十六部集』)が刊行された」
ことにも注意が必要である。以上の引用(及び参照)は、横山太郎「世阿弥発見:近代能楽史における吉田東伍『世阿弥十六部集』の意義について」https://www.academia.edu/836090/%E4%B8%96%E9%98%BF%E5%BC%A5%E7%99%BA%E8%A6%8B_%E8%BF%91%E4%BB%A3%E8%83%BD%E6%A5%BD%E5%8F%B2%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E5%90%89%E7%94%B0%E6%9D%B1%E4%BC%8D_%E4%B8%96%E9%98%BF%E5%BC%A5%E5%8D%81%E5%85%AD%E9%83%A8%E9%9B%86_%E3%81%AE%E6%84%8F%E7%BE%A9%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6_Zeami_Discovered_Significance_of_Yoshida_Togo_s_Sixteen_Treatises_of_Zeami_for_the_History_of_Modern_Noh_Theater による。

 なお、本書(田中著)でも、この横山論文が参照されている。

 以上、2020/5/28に追記を行った。

*13:前掲横山論文も指摘するように、

坪内は、実際には「綴れの錦」という言葉を使っていないのだが、皮肉なことに、謡曲を擁護しようとした久米のこの文章のなかに見えた蔑称としての「綴れの錦」が、その後の謡曲を文学的に評価する際の、決まり文句となったのであった。

ここでいう「坪内」は坪内逍遥、「久米」は久米邦武を指す。久米、かわいそうである。

*14:前掲横山論文が指摘するように、

世阿弥が作者であった」という事実は、単に世阿弥という人物の経歴に修正を加えるのみならず、〈世阿弥非作者説〉に立脚したすべての文学史認識と謡曲価値認識を、根底から覆し、能を一級の国民「文学」の地位へと引き上げた。さらに、「文学史」テキストの中で謡曲がその時代にあって最も優れた文学であるとされた、室町時代の文学そのものの再評価のきっかけになったとも言えるだろう。

「作者」という存在は、近代においてそれほどに大きいものだったのである。

*15:ここでいう海外文学者の代表例としては、英文学の松浦一、同じく英文学者の野上豊一郎らがいる。野上は、バーナード・ショーなど英語演劇の研究者である。ここに、西洋史学者の野々村戒三も加えるべきであろう。

 ただし、野上は「役者、合唱部、仮面の比較を通して、ギリシア悲劇と能とは相似の関係にはなく、正当の対比ではないと指摘しておられる」と、荻美津夫は書いている(「能とギリシア悲劇との対比について:野上豊一郎「能の主役一人主義」の場合」https://ci.nii.ac.jp/naid/130003849498 )。