自己利益を厳密に計算する思考なしに真の信頼は築きえない -木庭顕『法学再入門 秘密の扉―民事法篇』を読む-

 木庭顕『法学再入門 秘密の扉―民事法篇』を読んだ。

法学再入門 秘密の扉―民事法篇

法学再入門 秘密の扉―民事法篇

 

 内容は、「法律学の学習になじめない学生のために著者が実際に行った講義を、紙上で余すところなく再現。『二ボレ』Profと学生たちによる、面白くて鋭い、白熱した議論が展開される」といった内容。
 AMAZONレビューにもあったが、正直、特に後半は難易度が高い。
 
 以下、面白かったところだけ取り上げる。

「皆」から見捨てられた「最後の一人」

 もし「皆(みんな)」で見捨てたならばどうか。 (19頁)

 まえに取り上げた木庭の本と同様、占有の話である。
 「みんな(多数派)」があてにならないときどうするか。
 彼らに見捨てられた「最後の一人」に、法は焦点を当てる。
 たとえどちらが「正義」側であろうとも、法的手続きを破るのは厳禁である、ということである。
 以上、前回の復習である。

 公的空間は「誰のものでもない」 

 公的空間ではそもそも占有と果実が成り立たない (33頁)

 公的空間は、何かを利用して何か利益を生む、という構造ではない。
 そして、「皆」(≒多数派)のもの、という性質のものでもない。
 少数者が排除されてしまうからである。
 むしろ、誰のものでもない、と著者はいう*1。 

 そしてそうした空間は、本当に開かれていることが求められ、そのためには厳密な言語で構成される必要がある。
 権力や権威や利益が幅を利かせないような圏域、それが、裁判等の「政治システム」なのである。

 公共空間へのアクセスと占有

 公共空間へのアクセスなしには占有が壊死してしまう (24頁)

 相隣関係の問題*2である。
 当たり前であるが、ライフラインへのアクセスが出来ないと占有が死んでしまう。
 たとえ暴力を使わなくても道路等を封鎖して公共空間へアクセスできなくすれば、相手に無理強いできてしまうのである*3
 地上げではおなじみの手口である。
 法はそうした横暴を許すことはしない。

「直接性」の回復

 書いたものは、発話者を物の背後に隠すからです (48頁)

 裁判があくまでも口頭弁論によらねばならない理由はこれだと著者はいう。
 水平的で非権威的な言語交換のためには、直接性が不可欠である。*4 *5
 透明性が欠かせないからである。
 「政治システム」たる裁判は、開かれていること、厳密な言語で構成される必要があり、各主体の背後に権力や権威などが隠れてはいけない。
 そして、議論の主体が論拠を把握しあうことが重要である。
 そうした「回り道」が質の高い「決定」を生む。*6

 信頼とは詮索しないこと

 言うならば、「約束を守れ」ではなく、「約束を守らなくともよいのに」 (169頁)

 『走れメロス』の元の原型となった古代ギリシャのお話である*7 *8
 これは横断的連帯の話なのだ、と著者はいう。
 「何故戻ってきた俺が代わりに死ぬと言っているのに」、「いや俺が死ぬ、そのために帰ってきた」というクライマックス、これこそがまさに友情なのだという。
 この発想は、信頼に対する考えにも通じる。

 真の信頼は詮索を拒否します(172頁)

 ツルの恩返しでいうなら、信頼していれば、障子は開けることはしない。
 相手のことを詮索しない、相手の自由を尊重することが重要である、唯一、信頼できるかどうかだけを見る。
 それが木庭における「信頼 (bona fides・善意・信義則)」の要である。*9
 もちろん、ひたすら信じるという甘え切った考えではなく、むしろ、厳密な利益計算が求められる。*10

 故意と責任

 取引世界からレッド・カードにより追放される (175頁)

 信頼を裏切った場合のローマ法での事例である。
 不透明なことをした場合、つまり、bona fidesの原理に反することをした場合、dolus malusという*11
 占有侵害となり、懲罰的な賠償責任を負い、ブラックリストにも登録されて信用剥奪となる。
 著者は、契約法の基本は故意責任だという。*12

「ありがとう」と労働

 お金を払うと同時に「ありがとう」とも言う。これはどうしてだろう? (271頁)

 医者と患者、家庭教師と生徒の母の話である。
 医者は患者の占有(身体)に治療を「入れる」(与える)、家庭教師は子供に知識・知恵を「入れる」(与える)。
 対して、普通の労働者はそうではない。
 使用者の保護・敷地に入って、働かせてもらう(与えられる)形になる。
 これだと、請負に近くなる*13

ローマ法が嫌った「法人」

 法人は気が遠くなるほど分厚い要件をクリアしなければ生まれなかった概念 (342頁)

 政治的システムと同じくらいに怪しい徒党が背後にいるのではないということが完全に保証されていることが、キリスト教の教会を基礎づける全概念構成によって保障される仕組みになっていた*14
 要は、透明性が教会の存続条件だったのである。
 それが出来ない学校法人や宗教法人などはローマ法では否定された。
 そもそも、ローマ法では、団体や集団には根底的に懐疑的である。
 こうした集団が透明性を失いがちであるからである。
 こうしたローマ法の傾向が法や政治システムの土台となっている。
 実際、ギリシャやローマでは法人は存在せず、結社団体は強く禁止されていたのである。

 

(未完)

*1:「ともの読書日記」は、

憲法とは「皆のもの」(占有して皆で取り分けることが出来るもの)ではなく、「誰のものでもない」(誰も占有しえない)と木庭先生がいうとき、私は、res publica共和国という言葉の原義はそう訳すべきであったのかもしれないと考え、改正限界の基礎理論は「誰のものでもない」という公共概念を前提とすべきなんだろうなと気づくことになります

と、「公共」は「誰のものでもない」ことを強調している。http://tomonodokusho.cocolog-nifty.com/blog/2015/08/post-fecc.html 

*2:「隣接する不動産の所有者の間で、隣地の通行・排水・境界などについて相互の不動産の利用を調整し合う関係」のことである。

*3:山野目章夫は、木庭顕著『現代日本法へのカタバシス』への書評 https://ci.nii.ac.jp/naid/130006627559 において、次のように書いている。

Q・Rの相続紛議に巻き込まれてAの保護が達せられなくなることの喜劇は、その直観により一瞬にして悟られたものであろう。そしてまた、その実務家の方々に、ながく乙土地のQ所有を立証しない限り相隣関係上の権利を主張することができない、と信じ込ませてきた者は、誰か。それは、『法定のものから『地役権』の語を剥奪し……基本的には『相隣関係』として括られる』(本書一五九頁)いう思考により、事態を所有者Aと、ひとしく所有者である(!)Qの関係として把握させる方向(そのことから②・③の連続性が看過される)を誤導した人たちではないか。

*4:直接性、書いたもの(エクリチュール)といった言葉から、例えばジャック・デリダの存在を想起する者もあるかもしれない。デリダの場合、西洋形而上学における「直接性」の根源的な脆弱さを脱構築差延などの概念を以て指摘することで、「パロールエクリチュール」等の階層性・序列制を揺るがせることが狙いだったと思われるが、木庭の場合は、そうした「直接性」の根源的な脆弱さを想定しつつも、「政治」の公開性・透明性を向上させることで、主体同士の水平性を回復させることが狙いだったように思われる。そういった点においては両者は異なる存在であるようにも思われる。ただし、会計学からは(後期)デリダにおける「責任の無限性」の概念を会計に応用した國部克彦などの研究者も登場している。國部の著書への書評において田崎智宏は、「先のSDGsでは『誰一人取り残さない(No one is left behind)』という理念が提示された。SDGsの策定プロセスでも多くの人々の闘技的な議論があった。企業経営においても闘技的議論とそのための能動的・多元的会計が実践されることを期待したい」と、木庭の「最後の一人」を思わせるような理念にも触れている(「書評 『アカウンタビリティから経営倫理へ――経済を超えるために』」http://www.yuhikaku.co.jp/static/shosai_mado/html/1805/05.html 。なお、國部著については、藤井良広 による書評https://ci.nii.ac.jp/naid/130007501351も参照すべきであろう。)。こういった点をも考えると、デリダと木庭顕はそこまで遠い場所にいるわけではないのかもしれない。

*5:木庭自身はデリダ等ではなく、例えばホッブズスピノザなどによく言及する。本書の場合には、「記号を使わない精神的活動は存在せず」(83頁)といった、スピノザ的考えも登場する。記号は常にシニフィアンを要求し、それは物的な存在なのである。つまり、物的な存在を伴わないシニフィエ(精神や思考)などはあり得ない。木庭におけるその法学的意義は、「政治システムによって自由を概念することの重要な帰結は心身二元論」で、「政治は実力及び利益交換に満ちる領域から離脱する空間を構築することを意味します。しかし同時に、その領域の実力及び利益交換を制圧する任務を帯びます。だから二元論です。後者を放っておくわけではない」といった非乖離的な<二元論>に認められる(「Motoharuの日記」よりhttp://d.hatena.ne.jp/Motoharu0616/20170926/p1 )。なお、スピノザについては、「木庭教授自身が、『デモクラシーの古典的基礎』において『Spinozaの理論構成の中にわれわれは実はデモクラシーに関する潜在的に最も正統的な形而上学的基礎づけの可能性を見出すことができる』(23頁)と高く評価していた」という(「ともの読書日記」http://tomonodokusho.cocolog-nifty.com/blog/2011/10/post-779a.html )。 )

*6:木庭は以下のように述べている。

決定の実施が取引・迂回・サボタージュ等々にあわずにストレートに進むことがどこで保障されるのか、という批判であるように読みました。しかし、私見によれば、「カール・シュミットの真空」は却って彼が無視するデイアレクテイカの過程を通じてしか得られない、さきに(どうでもよい形で)決定しておいていざenforceしようと様々な手立てを講じてみても、むしろ混乱を招くだけであり、戒厳権力でさえ迂回されざるをえない、意外であるかもしれないが、議論の特定の構造が真の「主権」を生む、というのが私の考えです。多くの人には私が転倒しているように見えるでしょうが、私にはカール・シュミットの転倒は明らかであるように見えます

(「川出良枝『自由な討議と権力の不在』(本誌9号)に付して」http://www.jcspt.jp/publications/nl/010_200004.pdf )。自由な討議と最終的な集団的意思決定との摩擦的関係について、その決定の強制性をどうするのか、というのが、川出による『政治の成立』の書評での問い(http://www.jcspt.jp/publications/nl/009_199912.pdf )であった。これに対して、著者は、形式的ともいえる「議論の特定の構造」こそが真の「主権」を生む、と逆説的な返答しており、その「回り道」の効能を説いている。

*7:実際、「メロス」の話は、「南イタリアギリシャ植民都市圏、ピタゴラス教団周辺から出た伝承で、ヘレニズム期、ローマ時代に書き継がれ、近代になって翻案されました。これを太宰治が新たに翻案した」。そして、「契約は守らなくともよいのです。だけれども守る。だからこそ守る。自然とそうする。約束したからしようがない、守るか、ではありません。もっと実質レベルの信頼関係のために自発的にそうする」のである(以上、「picolightのblog」より。http://picopico.blog.jp/archives/1033966607.html )。契約における根源的な自発性の意義が説かれている。

*8:奥村淳は、太宰治走れメロス」で知られる「西洋古来の伝承の総称」を<ダモン話>と呼称し、

<ダモン話>は明治4年に日本で紹介されて以来、太宰治走れメロス」に至るまでその数は多い。教科書を始めとして児童読み物になり、歌舞伎や学校劇の題材となり、宴会の余興の題目となり、軍隊の訓話にもなった。<ダモン話>と構造が類似したものを含めるとその数は多い。

として、様々なバージョンを紹介している(「太宰治走れメロス」について : 日本における<ダモン話>の軌跡」https://ci.nii.ac.jp/naid/120005983065 今回、註番号等を削除して引用したことを予め断っておく。)。
 中でも面白いのは、「大正10年6月:三浦喜雄、児玉安積「高等小学読本教授書:教材精説実際教法.第一学年前期用」東京・宝文館」の「真の知己」で、

「要旨」に「二人も堅固な宗教的信念の上に立つてゐたので斯の如き所行が可能であつた事も或は知らせてもよからう。」とある。「宗教的信念」とはピタゴラス学派のことであり、「解説」の「ピチユースとダモン。」がその内容を説明している。 (引用者中略) 「罪」について問う児童に対しては「或る学説を信じてゐるが故に、ディオニシユースに反抗してゐるやうに取られたのは無理もない事である。」と教えるとよいとある。児童は「学説」いうならば思想が死刑の対象となることを知ることにる。広島高等師範学校訓導の著者が大正9年の森戸事件を意識していたことは間違いない。「死生の境」を超越する信念が向けられるべき対象は自明のことだったのだ。

と、奥村は内容をまとめている。
 大正十年時点で、既にピタゴラス学派のことが言及され、しかも、森戸事件の影もあるというのは興味深いところではある。(ただ、前年の大正九年に、鈴木三重吉の「デイモンとピシアス」は、ピタゴラス学派について言及しているのではあるが。)
 ただ、当該論文の本旨は別にあり、それもなかなか面白いので、是非ご一読あれ。
 以上、2020/2/20に、追記した。

*9:木庭は、bona fidesについて、「政治的結合体、自治団体の如きもの」が「個別的に二当事者間で信用を供与しあう。そういう自由な信用の関係を称して、bona fides の関係、つまりgood faithの関係」、としている(「信用の比較史的諸形態と法・研究成果報告書」https://kaken.nii.ac.jp/ja/grant/KAKENHI-PROJECT-20243001/ )。そして、

この関係の特徴は、具体的にというよりヴァーチャルに政治システムに属する当事者が、合意をし、丁度政治的決定に対するようにこれに絶対の信頼を寄せる。まるで対価を期待しないが如くに先に商品を引き渡したり、代金を支払う。もちろん、やがてそれは報われるが、その関係は、無償で給付することが将来〈世代〉に返って来る、という政治的関係に似る。このタイムラグが、信用に該当する。それは、実体の取引が極めて頻繁であって(個々のデフォールトにもかかわらず)全体としては信頼できる、ということによって補強されている。

*10:木庭は、「法学再入門 : 秘密の扉 番外篇」(『法学教室』 (419), 2015-08)において、「むしろ皆が同じように考える、或いは考えるはずだという前提がとことん無いのでなければならない」(69頁)と、社会が深い亀裂によって裂かれていることが、徒党の排除に不可欠だとマキャベリは『マンドラゴラ』などで看破した事を書いているし、「無自覚のまま惰性で動いているのではない、成熟した、ということ」(73頁)と、社会内部の亀裂と外からのインパクトによって、社会は主体的に動く、というふうに書いている。こうした「不信」の思想と先の「信頼」がどのように結びつくのか。これは、「番外篇」で強調する「不信」を土台にしてはじめて、「信頼(bona fides)」が成立する、と理解される。「不信」こそ木庭における「政治」の、不透明な徒党の解体の前提条件であり、不透明な徒党の解体こそ、bona fidesの前提条件であるからである。後述するように、bona fidesを裏切ったときの措置はそれを裏付けるものである。また、「自らの利益を厳密に計算する思考が無いところに本当の信頼は築きえないということがこの事案からもわかる。ペーネロペイアはオデュッセウス帰還に感激する前に徹底的にアイデンティティーを吟味した」という、「東京地判平成25 年4月25 日(LEX/DB25512381)について,遥かPlautus の劇中より」www.sllr.j.u-tokyo.ac.jp/10/papers/v10part08(koba).pdf の註にある言葉も、思い出すべきでああろう。

*11:「「債権法改正の基本方針」に対するロマニスト・リヴュー,速報版」www.sllr.j.u-tokyo.ac.jp/05/papers/v05part10(koba).pdf では、

引き受けた以上は絶対に履行結果を達成しなければならない,さもなくば賠償だ,というのである。前代未聞の厳格責任主義であり,契約法の基本に反する。bona fides に反しない限りごりごりと履行を迫ったりしない,まして賠償請求などしない(不当利得返還にとどめる),のが契約の精神である。ごりごりと杓子定規に履行を迫るのはbona fides に反する

という言葉で、bona fides(と、dolus malus)が説明されている。

*12:単純な占有においては、「過失責任原則は登場せず、故意責任原則の方に忠実」であるが、ただし、「過失責任原則を欲する事態が新たに登場します。占有が二重に概念され、二重構造で思考しなければならない。そういう状況になると自ら責任帰属が複雑になる、ということは自明ですね。そう、所有権概念が基軸たる役割を担う段階で、テクニカルな意味での過失概念が登場した」と、木庭は説明している(「Motoharuの日記」よりhttp://d.hatena.ne.jp/Motoharu0616/20170926/p1 )。

*13:もっとも、請負の場合は材料や道具は自分持ちで、作業の場所も自分が仕切る。無論、これは近代における請負の話である。「近代の請負の場合は, (引用者略) Q は対価を得て成果をPに引き渡す。これは問題を惹き起こしやすい形態であるが,しかしこの場合でも対価は予め定まっている」。一方、ローマ法における「元来のlocatio conductio であれば,conductor たるQ が定まった対価を払って仕事をし,自ら販売して元を取る」こととなる(「東京地判平成25 年4 月25 日(LEX/DB25512381)について,遥かPlautus の劇中より」www.sllr.j.u-tokyo.ac.jp/10/papers/v10part08(koba).pdf )。農園主にお金を払って、農園で果実を収穫させてもらい、その果実を持ち帰って自分で販売する、というようなイメージである。

*14:法人の起源は、「中世教会法における『キリストの身体』(Corpus Christi:コルプス クリスティ)である(個別)教会」であり、

国家に法人理論を応用したのはホッブズということですが、そこではやはり教会法の神学理論が適用されていました(木庭顕「笑うケースメソッドⅡ 現代日本公法の基礎を問う」p37)。どんな末端の機関も頭と対等であり、しかも、頭といえども神の代理人ではなく、「キリストの身体」の一部分に過ぎないとされています。対して、キリストの精神(Animus:アニムス)は天上の父のもとに帰っています(前掲・p312)。つまり、「法人」は、神学理論によって、精神(アニムス)の抜け殻である身体(コルプス)として位置付けられた 

と、木庭の文章を引用しつつ、「恵比寿ガーデン法律事務所」は述べているhttp://ebisugarden-law.jp/2017/05/08/%E5%80%8B%E4%BA%BA%E3%81%A8%E7%B5%84%E7%B9%94%E3%83%BB%E6%B3%95%E4%BA%BA%EF%BC%88%EF%BC%97%EF%BC%89/