「思想を述べないというのも一つの思想的態度」、「政治に係わらない態度が、まさに一つの政治的立場」 -笹沼俊暁『「国文学」の戦後空間』を読む-

 笹沼俊暁『「国文学」の戦後空間』を読んだ。*1

 内容は、紹介文の通り、

「国文学」という学問は、第二次世界大戦の前から後へ、いかにして継続し、変貌を遂げたのか。大東亜共栄圏という戦時期日本の「世界観」が崩壊した後、冷戦下の世界情勢を背景として、「日本文学」はいかにして自らの自画像を描き、民族的アイデンティティーとその歴史を探ろうとしたのか。そこには、日本そして東アジアの戦前から戦後への政治・社会構造そのものが介在していた――。台湾・中国を主とした東アジアのスケールから、国民国家の学としての「国文学」の継続と変容を描き出す。

というもの。
 国文学に関心のある人は、ぜひぜひ読んでおくべき書である。

 以下、特に面白かったところだけ。

戦争による「近代性の成熟」

 戦争を通じて文学の発展と「近代性の成熟」を目指そうとする、さきに見た片岡の主張 (45頁)

 持ち場ごとに個人の技能に応じて、戦争という大目的に貢献するという社会的人間の姿を、日本文学研究者である片岡良一は、上田広の小説・「建設戦記」に見た。*2

 片岡は戦争を通じて、日本の「近代性の成熟」を志向したのである。*3

 その「成熟」は、「近代の超克」のような危うさに通じるものがある。

島田謹二と「台湾」

 島田謹二は、(略)昭和戦前・戦中期の植民地台湾で活発な執筆活動を展開し、台湾で書かれる日本語作品を考察する植民地文学論を数多く論文として発表していた (96頁)

 しかし、第二次大戦後、比較文学界をリードするようになってからは、ほぼ論じなくなっていく。*4
 代わりに、欧米文学との交流や明治期日本軍人の研究に専念するようになる。
 日本の国文学と比較文学は、およそ、かつての植民地や占領地への加害責任を忘れさって、欧米や中国文学と日本の文学との比較を行う研究を重ねた、と著者は述べる。*5
 「日本」の領域は、自明の前提として、「文学」の枠組みは強化されたのである。

西郷信綱の「転向」

 一九六一年に『日本古代文学史』を新規に書き直した「改稿版」を敢行し、「前著は放棄」することになる。 (97頁)

 このとき、西郷信綱は、文学ジャンル論は維持しつつ、「プロレタリアートの英雄」といった語彙や、「偉大な民族精神」といったマルクス主義民族主義を訴える記述は削除した。*6
 そして西郷は、折口民俗学の視点を取り入れて、古代文学における「詩の発生」の問題を考察するようになった。
 彼にとっての「左翼」性は関心の中心で無くなっていったのである。*7

「純粋」の政治性

 戦後の小西の文芸史は、こうした岡崎文芸学を、日本民族性論の大枠において継承した (129頁)

 岡崎義恵の「日本文芸学」は、文芸の領域を極端に純粋化し、政治から離れたところでの日本文芸の民族的様式性の解明を目標にした。*8 *9

 小西甚一もまた、それに連なるものだった。

 連歌に思想性がないんじゃなくて、大有りなんですね  (引用者中略) 思想を述べないというのも一つの思想的態度なわけなんです。政治に係わらない態度が、まさに一つの政治的立場 (147頁)

 加藤周一の発言である。
 これは小西甚一に反論したものである。*10 *11

植民地時代の忘却

 犬養はただただ、「万葉の心」「人間の心」「古代人の魂」と抽象的な言葉を贈るのみである。 (234頁)

 犬養孝は、かつて台湾で万葉集を教えていた。
 教え子たちは戦後『台湾万葉集』を作り、その台湾版に犬養は序文を寄せた。
 彼はその植民地支配の政治性に自分が加担したことに遂に無自覚であった。*12
 実は、『台湾万葉集』には、日本による皇民化政策や戦後の国民党支配など、激しい変化にもまれた台湾近代史の具体的な政治・社会背景が書き込まれていた、にもかかわらずである。*13

 

(未完)

*1:これを執筆した時点で、この本の密林での取り扱いがなかったため、やむなく、前著の方を掲げることとした。

*2:そういえば、水木しげる荒俣宏『戦争と読書 水木しげる出征前手記』のなかで、特攻兵士が宮沢賢治を愛読したという話がでてくる。賢治の目指した、滅私奉公を実現する社会が出来て、各自の才能に応じて最善の努力を尽くすものが、それだけ報いられる世界である(以上、当該書106頁)。

 だがしかし、それは、全体主義そのものではないだろうか。

*3:「近代性の成熟」というテーゼが戦後にも連続するものであることは、著者も言い及ぶところである。
 もちろん、この時の片岡の視界には、「個の自立」といったものは入っていなかった、あるいは希薄になっていたのではないか。

*4:松永正義は、次のように述べている(「日本における台湾文学の研究について」https://ci.nii.ac.jp/naid/110007622831)。

島田謹二をはじめほとんどの関係者は,戦後台湾文学についてほとんど発言していない。戦前の台湾文学界を知るものの発言として,私の知る限りでは,池田敏雄,中村哲,坂口補子らの数編の文章(文献目録参照)があるだけだ。しかも池田,中村は,文学を専門とする人たちではない。

*5:島田謹二の戦前戦中期の仕事について、橋本恭子は次のような指摘を行っている(「島田謹二『華麗島文学志』におけるエグゾティスムの役割」http://jats.gr.jp/journal/journal_008.html )。

結局、島田の言う「外地景観描写の文学」という「エグゾティスム」は、「芸術的な香芬」という美しいパッケージとは裏腹に、台湾の既得権を主張し、植民統治の正当化を主張する、極めて政治的な機能を発揮することになったのである。

橋本の仕事は島田謹二研究において欠かせない存在なので、ぜひご一読を。

*6: むろん、「転向」(といっていいのか)より前の彼の言葉に、現在でも傾聴すべき点はある。
 例えば、

一九三〇年代の自称プロレタリア交学の失敗した原因の一つは、 労働階級の言葉の単調な転写であった。それはあたかも労働階黻の生活が一様に重苦しく、退屈で、 灰色であるかのよろに中流階級に見えたのと同様に、機械的で平板に聞こえたのである。 (引用者中略) 温かい連帯性、 何にもめげない哄笑、闘争への熱中等はみんな省かれていた

とする、プロレタリア文学への批評である。

 これは「転向」ののちも、西郷が目指した文学像に他ならない。

 以上、論文「リンゼイ・社會主義リアリズムと民族伝統」(https://ci.nii.ac.jp/naid/110010007449、35頁)より引用を行った。

*7:もともと、戦前の西郷信綱の論はどのようなものだったか。

戦時期の西郷信綱の国文学論は、たとえそれが厳しい時局のなかで自らの主張をギリギリのところで主張するための方便であったとしても、日本を中心とした大東亜共栄圏の構築という、当時のある種の世界思想・普遍思想を前提としたものだった

彼の戦時の国文学論は、「大東亜共栄圏の構築」という「世界思想」を与件とするものだった。
 敗戦後、彼は、マルクス主義的な民族主義の方向へ進む。その時期には、古代文学の「原始の無階級社会」・「人間の真実の姿」といった言葉が著書・論文に見られる。しかしその後また方向転換し、民族主義的な言葉や記述は削除され、政治性は隠蔽されることとなる。

 以上、本書に収録されたものの元論文「国文学者の戦後と冷戦―西郷信綱の「国民文学」と「世界文学」言説―」(http://140.128.103.12/handle/310901/20840 )より参照・引用を行った。

*8:著者(笹沼)は前著でも、岡崎について言及していた。それはどのようなものだったか。

岡崎の「日本文芸学」の問題性について考察している。それは「鑑賞」という概念に端的に表現されているが、岡崎の論理は、ドイツ観念論的美学を根拠にしたものであり、作品を書く主体の「芸術性」に重点を置く限り、膨大な例外が捨象されていることを明らかにしている。また、岡崎は教学刷新運動に乗じて、自らが作り上げた学問に依拠し、「日本文学」の非論理性・叙情性を称揚するようになる。本書は以上のことを踏まえて、岡崎を「日本文化論」の理論的先駆者として位置付けている。

以上、ブログ・「はぐれ思想史学徒純情派」の書評(http://n-shikata.hatenablog.com/entry/20110324/p1 )より引用を行った。

*9:岩井茂樹は次のように書いている(「「日本的」美的概念の成立 : 能はいつから「幽玄」になったのか?」https://ci.nii.ac.jp/naid/120005681570 )。

大正末期から、昭和初期にかけて国文学界は実証主義の全盛時代であり、例えば「……本」と呼ばれる本の、サイズや装丁などのデータだけで、研究と称していたこともあったという。岡崎による「日本文芸学」の提唱は、国文学が人々の生活感情と何の交流をもたないような文献学に堕してしまっていることに対する警告であり、それを打破する方法の提示であった。

以上が、岡崎義恵が「日本文芸学」を立ち上げた背景である。
 書誌学的研究が悪いというのではないが、岡崎の初心がここら辺にあることは指摘しておかなければならない。

*10:著者は別論文にて、小西甚一は、アメリカ側からのオリエンタリズム的な視線から作られたドナルド・キーンのものと対応し相補し合う形で、政治的に無害な日本文学史を作った、と評している(「小西甚一と〈日本文学史〉の戦後空間--ドナルド・キーンとの対比から」http://thuir.thu.edu.tw/handle/310901/14943?locale=en-US 235頁)。
 また、キーンについて、

キーンの日本文学論には、アメリカ側にとって都合の悪い反米的な政治性や軍国主義の思想を除去したところで、日本文学の民族的な自己同一性を肖定的に描き出し、その芸術性に 「理解」 「共感」する側面があるといえよう。

とも(「ドナルド・キーンと戦後日本 : 日本文学研究とアメリカの影」https://ci.nii.ac.jp/naid/120000834540 )。

*11: 

例えば、連歌というのがございます。私は連歌をおおいに論じたいのですが、そのなかに、思想性というのは何もなし、。あっては困るんで、むしろ、連歌は、言葉やイメージで描きましたオーケストラのようなものです。オーケストラは何もそこに人生観とか世界観とかを求めるわけじゃなくて、要するに非常にきれいな音の世界を形成するだけで、思想性なんか何にもないと思うんですけれどもこれと同じ性質の連歌も素晴らしいもののーっとしてぜひ取り入れたい。

という、そんなら音楽の方が連歌よりよほど上等になるではないか、とツッコミを入れたくなる小西甚一の発言に対して、加藤周一は、

ある作品が、つくられ、受け入れられるということが、その時代の思想のあらわれであるかないか、ということです。その意味で、連歌に思想性がないんじゃなくて、大有りなんですね。たとえば、あれは集団制作でしょう。集団制作というのは、実に日本の文化の特徴でしょう。 (引用者中略) 集団主義こそある意味で日本の文化を貫く大原則であって、思想上の大問題ですし、社会的な背景としてもとらえられると思うんです。それから、中国の杜甫の詩みたいに人生とはこういうもんだというようなことは言ってなくて、その場できれいなことだけ言っているっていうこと、まさに、哲学をその中で述べないということ自身が、集団帰属意識の強い社会の思想的態度です。思想っていうのは、思想を述べないというのも一つの思想的態度なわけなんです。

と述べている。
 小西は、

もともと連歌は、庶民系統のが本流になったのでして、藤原定家あたりが作っていたのとはちょっと系統が違うんです。その連中が、花のもとなんかに集まって催した連歌には、上流の人達が持っていた思想なんであるわけがない。

と応えているのだが、加藤の述べたことには応答していない。
 小西の言い分は、音楽でいえば、ハウス・ミュージックを「無思想」だと言い張るようなものだが、もちろんそう言い切れるはずもない。
 以上、加藤周一,Keene Donald,小西甚一,芳賀徹「シンポジウム 「日本文学史について」」https://ci.nii.ac.jp/naid/120006727450 より引用した。

*12:著者はこの章のもとになった論文(*同題)で、次のように書いている(「外地の国文学と「風土」―犬養孝の万葉風土論と台湾―」http://thuir.thu.edu.tw/handle/310901/20822?locale=en-US )。

犬養は、植民地台湾のエリートたちに対し『万葉集』を講ずるという、皇民化政策を直接推進する立場にあったが、島田謹二らのように、その結果どのような現象がおこるか、またそれを大日本帝国のなかの「外地文学」としてどのように発展させていくべきかまで踏み込んで考察することはなかった。まして、国文学の皇民化がどれほど政治的な暴力性をもつ行為なのかについてはまったく無頓着だった。

*13:『台湾万葉集』を刊行した孤蓬万里こと呉建堂は、

皇民化運動として改姓名許されたるは昭和十六年」と「高校の卒業証書は日本名大田建太郎学者の如し」という歌からすれば、彼は「皇民」政策支持者だったと見て取れる。 (引用中) 日本の軍籍を授けられた以上、「皇楯」だったともいえる。しかし、呉建堂『孤蓬万里半世紀』の「人権を重んずる見地から、植民地は将来再びあってはならぬものであり、今更日本の植民政策を云々しても仕様がない」という主張に従えば、戦後の呉は皇民化運動を含む植民地支配を非難するようになった

という人物である。また、「その呉主宰の考え方と同調するように、皇民を批判する短歌が現われ」るようになった。
 以上、LAI Yenhung の「台湾における皇民化運動 : 政策の形成と短歌の広がり」(https://ci.nii.ac.jp/naid/40022173492/(PDFあり) )より、註番号を削除して引用を行った。