「あたしたちと違って志願じゃないらしく、チョゴリを着て、『アイゴー、アイゴー』と泣く姿がなんとも悲しかった。」 ―広田和子『証言記録 従軍慰安婦・看護婦』を読む―

 広田和子『証言記録 従軍慰安婦・看護婦』を読んだ(再読)。((読んだのは、ハードカバー版の1975年のもの。))

 内容は、紹介文の通り、

1970年代初頭、生存していた従軍慰安婦や看護婦たちに長時間インタビューを試み正確に活字化。体験者が語った貴重な戦場の実態。

というもの。*1 *2
 以下、特に面白かったところだけ。

芸者の延長だろうと思っていた

 あの当時で四千円近い借金があったの(ハガキが二銭のころ)。芸者というのはお金がかかるのよ。着物一枚買うのにも借金だし、踊りや三味線も習わなきゃならないでしょ。 (引用者中略) 結うたびに一円近くかかってしまう。だから借金は増えるばっかりだったわ (19頁)

 芸者をやるにはカネがかかった。*3
 南洋の島で頑張れば、そんな生活から抜け出せる。
 そのように思って日本人慰安婦になった女性である。
 実際のところ、慰安婦というのがどんなものかはよくわかっておらず、どうせ芸者の延長だろうと想像していたという。

「拉致」被害者としての朝鮮人慰安婦

 釜山では朝鮮の女性がかなり乗船したわよ。彼女たちはあたしたちと違って志願じゃないらしく、チョゴリを着て、『アイゴー、アイゴー』と泣く姿がなんとも悲しかった。わたしもつられて泣いてしまったわ…… (19頁)

 自発的ではない、朝鮮人慰安婦の存在も、語られている。*4

 民族的優越感を日本人にもちらつかせられながら半ば強制的に、あるいは騙されて、慰安婦となった者が多かった。そうした中には良家の子女も少なくなく、お金でわりきった日本人慰安婦とは趣を異にしていた。 (21頁)

日本軍内部での体罰

 トラック島になぐられに行ったようなものでした。船酔いで胃の中の物をもどすと『貴様、菊の御紋のついた空母を汚すとはなにごとだ』と怒られる。トラック島についてやっと船酔いから解放され、美しい空、海の底まで透きとおって見える海に見とれていると、『キョロキョロして、その目は大和魂の抜けた、兵士のぬけがらだ』とどなられ、さっそくビンタです。 (54頁)

 トラック島での初年兵の扱いは、酷かった。
 そうした観点だけからものを見るなら、日本人慰安婦、特に、将校相手の者は恵まれていた方だったことになる。

 配給もピンハネされ、初年兵まで回ってこなかった。*5

 さらにひどいエピソードも、本書に書いてあるが、それは実際にお読みいただいて確認願いたい。

「なにが陛下のためよ」

 国家は、兵士には軍人恩給等で償いをしたが、同じように「お国に身を捧げた」慰安婦に対してはなにも報いようとしなかった。彼女らには、肉体を売ったという"屈辱感"だけが残った (74頁)

 さらに、戦後の驚異的インフレは、彼女ら日本人慰安婦の稼いだ金の価値を失わせた。*6

 「二重の仕打ち」(74頁)である。

 横井庄一が発見された時、日本人慰安婦だった菊丸は、当時の熱狂に怒った。
 あたしだって戦争の犠牲者なのに、横井さんだけに厚生大臣が金一封おくったり洋服作ってやったりすることないでしょう、と。*7

ソ連側による性暴力とそれに対する対応

 看護婦が慰安婦としてソ連軍に提供されたり、あるいはつれ去られた事件は、たくさんあった。が、そんな場合、日本の兵隊が看護婦をかばったという話はあまり聞かない。激烈な戦いの中を生き残った同士であるにもかかわらず、である。 (178頁)

 弱い立場の者から捨てられた。*8
 軍(兵隊)は彼らを守ることもなかったのである。

 こんな"悲劇"も、正規の訓練を受けた兵隊がやってきてからは、ごく少なくなった。日本人捕虜の所持品を強奪する兵がいれば、みんなの前で処罰が行われ、悪質な者は銃殺に処せられるようになった。 (引用者略) 直接つきあってみれば、ソ連の看護婦たちも親切だった。 (196頁)

 ここでいう「悲劇」とは何だったのかについては、本書を参照願いたい。

解放軍による性暴力

 八路軍の彼女らに対する姿勢は、ソ連軍とはすべてに違っていた。食料は、パン、栗、トウモロコシが主食だったから、ソ連軍時代より良くなったとはいえなかったが、八路軍の違うところは、こうした食料の面でも自分たちと捕虜とを差別しないことであった。 (204頁)

 八路軍は、新しい国造りの戦力として捕虜を大事にした、という。*9

日本人看護婦と解放軍

 日本人看護婦は、急造の八路軍看護婦より経験豊富で、結果、八路軍看護婦の生活指導から手を取って教えねばならなかった(206頁)。

 また、思想教育が日本人同士の関係に「亀裂」を残した事も書いているが、これらについては本書を直接読まれたい。

 解放軍の場合は、森藤さんをはじめとする日本人看護婦の証言によれば、患者をあくまで生ある人間として大切に扱っていた。 (213頁)

 「兵士は消耗品」という日本軍の論理との違いを、彼女たちは重く受け止めたのである。*10
 「森藤さん」は森藤相子氏を指す。*11

 

(未完)

*1:本稿は、 ハードカバー版の1975年のものから、引用をしていることを、ことわっておく。念のため。

*2:「話をするほどにそのころの状況を思い出し、自分自身をやましく思うのか、私に親切にすることによって、そのうめあわせをしているようにも見えた」(234頁)という言葉がとても印象に残る。証言者たちは著者に、食事を勧めたり、自家用車で駅まで送ってくれたりしたのだという。

*3:松田有紀子は次のように書いている(「芸妓という労働の再定位 -労働者の権利を守る諸法をめぐって」https://ci.nii.ac.jp/naid/120004140698 )。

「丸抱え」や「仕込み」以外の契約の場合は、生活必需品や日常の衣類、芸能の師匠への月謝などを自己負担しなければならない。前借金は、収入からこれらを差し引いた残額から月賦で償却することになる (引用者中略) 当然ながら芸妓によって稼高に差もあったため、一概にはいえないが、前借金の返済を達成することは、芸妓にとって困難であったと考えられるだろう。そのため、前借金を償却できずに負債を負い、芸妓から娼妓へ転業するものも少なくなかった

*4:ウェブサイト・『FIGHT FOR JUSTICE』は、次のように書いている(「朝鮮では強制連行はなかったの?」http://fightforjustice.info/?page_id=2650 )。

日本軍は、朝鮮・台湾で女性たちを集める時には、業者を選定し、その業者に集めさせました(軍に依頼された総督府が業者を選定する場合もあります)。この業者は、人身売買や誘拐(騙したり、甘言を用いて連行すること)を日常的に行なっていると呼ばれる人たちだったので、彼らは日本軍「慰安婦」を集める場合もしばしば同様の方法を用いました。 (引用者中略) これは刑法第二二六条に違反する犯罪で。また、強制とは本人の意思に反してあることを行なわせることですから、誘拐は強制連行になります。人身売買も被害者にとっては経済的強制ですから、強制連行と言うべきでしょう。誘拐や人身売買で連行された女性たちが軍の施設である慰安所に入れられて、軍人の性の相手をさせられたら、強制使役になります。軍の責任は極めて重大です。

その犯罪の性格は、

北朝鮮による拉致の場合、暴力で連れて行っても、甘言や詐欺で連れて行っても、日本政府は同じ拉致として認定しています。暴力を使っても甘言や詐欺で連れて行っても、ある地点からその自由が拘束されれば、同じ犯罪です。ですから北朝鮮による拉致が犯罪であると同様に、日本軍「慰安婦」にしたことは、暴力を使おうと、甘言や詐欺で連れて行こうと犯罪なのです。

という言葉の通りであろう(「北朝鮮による拉致とどう違うの?」http://fightforjustice.info/?page_id=2411)。

*5:日本軍におけるこうした体罰(暴力)がどれほど頻発していたかについては、既に、多くの指摘がある。とりあえず、『ekesete1のブログ』の記事等http://blog.livedoor.jp/ekesete1/archives/48774293.html を参照。

*6:本件とインフレ問題については、例えばこれは文玉珠氏の例であるが、ウェブサイト・『FIGHT FOR JUSTICE』の「文玉珠(ムン・オクチュ)さんはビルマで大金持ちになった?」(https://fightforjustice.info/?page_id=2391 )等をも参照。 以上、この註は2023/12/3に書き加えた。

*7:木下直子は本書の中から、該当する箇所をそのまま引用している(「聴きとられなかった言葉をめぐって : 日本人「慰安婦」に関するフェミニズムの議論の批判的検討」https://ci.nii.ac.jp/naid/40020264005 *今回は註番号なども省略せずにそのまま引用を行った。)。

なにも横井さん13)だけに厚生大臣が金一封贈ったり、洋服作ってやったりすることないでしょう。陛下のためだなんていってるけど、なにが陛下のためよ。あたしらもそういわれて行ったんじゃないか、チクショーと思ってね。あたしは結局そのことが出てくるから、お嫁に行けないでこうしているんだって、厚生省に行っていってやりたいわ。(中略)ジャングルで暮らすより、もっとみじめな生活をしている者がいるのよっていってやるわ。[広田 1975:74-5]

*8:猪股祐介は、ソ連参戦後の戦時性暴力が長い間研究対象にされてこなかった理由について、次のように述べている(「満州移民研究におけるジェンダー視点の欠落」http://www.kuasu.cpier.kyoto-u.ac.jp/program-enterprise/reports/researcher_report_2016/ )。

第二に、満洲引揚時の戦時性暴力について、ソ連兵や八路軍による強姦があったことは体験記等に多数記されているが、その詳細について資料が残っていないからである。 (引用者中略) これら先行研究から分かることは、開拓団資料や慰霊碑など公的記録に戦時性暴力が記されることは稀であり、これら公的資料に拠る限り、戦時性暴力は研究対象にならないことであにならないことである。 (引用者中略) 第三に、満洲移民の引揚げを「引揚げの悲劇」と一括りにし、戦時性暴力を副次的に扱ってきたからである。

*9:東北共産党(東北民主聯軍)の場合、1946年に、日本人要員に対する政策を具体的に定めている。内容は、「日本人医師とその家族の食事面の待遇は中国人医師と同等にする」、「日本人への報酬を月ごとに、可能であれば半月ごとに払う。未払いの報酬は速やかに補う」、「日本人同士の結婚は、仕事に支障がでない限り原則として許可する(筆者注:当時の解放軍の規律では中国人兵士の結婚は禁止されていた)」、「可能な限り日本料理を提供する」、「中国人の風習を妨害しない限り、日本人が自らの民族的習慣を保つことを容認する」、「日本人の技術を重視し、それを高めること」、などである。そういった政策を出すに至った経緯などもふくめ、鹿錫俊「東北解放軍医療隊で活躍した日本人--ある軍医院の軌跡から」(https://ci.nii.ac.jp/naid/110006454452 )を参照。

*10:上記引用部について、「八路軍」は、1947年、新四軍とともに「人民解放軍」に編入されている。念のため。

*11:川島みどり「苦労をバネに後輩を育てた森藤相子さん」の概要には、次のように書かれている(https://webview.isho.jp/journal/detail/abs/10.11477/mf.1663100531 )。

日本赤十字社静岡県支部の看護婦養成所を卒業してまもなく,召集令状1枚で目的地も知らされぬまま,中ソ国境の最前線である虎林陸軍病院に20名の同僚とともに着任した(1944年、敗戦の前年であった)。その地名は,私が調べた地図には載っていないが,軍事的に重要な場所であったらしい。敗戦直前にソ連軍がやってきて,敗戦とともにその監視下におかれたが,中国内戦中の八路軍(中国人民解放軍)に引き継がれて,1958年,最後の引き揚げ船で帰国するまで,解放軍の看護婦として戦火をくぐり抜けながら,中国各地を転々とされたのだった。