色川大吉『日本人の再発見―民衆史と民俗学の接点から』を読んだ。
内容は、紹介文の通り、
近代史家の著者が“自分史”運動を実践しながら、民衆の生活の場に視点をすえて展開する日本文化論、草の根からの日本人論。著者は民衆の一人として、歴史を作り支える役割を語りかける。
というもの。
まさに色川史学といった感じの内容である。
以下、特に面白かったところだけ。*1
水俣と日本窒素
日本窒素の創業者野口遵が大口の近くに曽木発電所を開業して、安い電力エネルギーを金山に供給するようになった (194頁)
政府は日露戦争後に塩の専売を施行して、製塩業を潰した。
そのために、製塩業に依存して生活していた人々の仕事と収入は奪われた。*2 *3
日本窒素肥料株式会社は、そうして路頭に迷った人々の労働力と、利用法を失った塩田跡を、安く買い占めて近代的な大工場を起こした。
このようにして、日本窒素肥料は、水俣を支配することとなったのである。
水俣の中にあった地域差別
地の者の流れに対する差別意識が患者多発部落への価値観をともなった地域差別と結びついたとき、水俣病問題の解決はいちばん困難な壁にぶつかった (209頁)
チッソと水俣との利害関係だけでなく、こうした地域差別と結びついたことが、水俣病問題の根を深くさせることとなった。*4
事実は、漁民は新鮮な魚を多食していた。その新鮮な上等な魚にも猛毒の有機水銀が浸入していて、罹病の原因となった。これは貧富の問題ではない。ところが行政や企業が地元住民の差別的な意識や偏見を逆手に利用して、こうした誤った情報や考え方を永い期間にわたって定着させてきた (242頁)
水俣病がこじれた要因の一つである。
人生
いま水俣病患者として認定されている生存者のなかで、最も高い水銀の汚染値を記録された人に安田さんがいる。 (285頁)
彼女の毛髪水銀値は640ppmだった。
安田さんは天草の貧しい家に生まれ、若い時から大阪に出て、工場や病院で働いた。
大陸へ行けば高収入が得られると聞いて、朝鮮から大連へゆく。
そこで体を売る仕事もしたという。
戦争がはじまり、朝鮮で結婚する。
その後日本軍に頼まれ、朝鮮人女性を慰安婦として組織し、中国各地の戦線を渡り歩く。
かなりの金を貯め、故郷の島に戻ったが、敗戦によってその価値を失う。
島では食堂を経営し、好物の魚や貝類を多食した結果、体内に水銀を蓄積していく。
夫は妻を見捨てず看病をするが、やがて死去する。
彼女は、ひとり天草で、大陸で自分が犯した罪を悔いながら合唱と念仏の日々を送った。
弱者から「強者」の協力者となり、やがて高度成長期の犠牲となったのである。*5
(未完)
*2:水俣病研究会編『水俣病事件資料集 1926-1968 上巻』には、
『水俣市史』によると、日本窒素肥料株式会社(以下「日本窒」という)が進出する直前である一九〇〇年ごろ、水俣の産業で特筆すべきものは製塩業であり、近在の農家の数少ない現金収入源であった。 (引用者略)製塩業は、塩専売法施行(一九〇九年)とともに廃止された。
とある(以下を参照http://archives.kumamoto-u.ac.jp/minamata.html )。
*3:塩の専売について、『アジ歴グロッサリー』の「塩務局」の項目は次のように書かれている(https://www.jacar.go.jp/glossary/term3/0010-0030-0020-0020-0170.html )。
日露戦争のための財政収入と製塩業保護のため、1904年12月31日塩専売法が制定され、1905年6月1日から実施されることになった。そこで、同年1月大蔵省主税局に専売事業課、専売技術課が置かれ、塩専売の事務を統括した。 (引用者中略) 専売を統一するために、1907年9月25日専売局官制が公布されたことにより、9月30日で塩務局は廃止され、その業務は専売局に引き継がれた
*4:小松原織香「「公害問題」から「環境問題」へ」(https://ci.nii.ac.jp/naid/120006773758 )には、
鶴見 (引用者注:鶴見和子) は第一部で、統計調査と聞き取り調査のデータを駆使して、水俣地域の人々が「定住者」と「漂泊者」の二つの層に別れていることを明らかにする。両者は「じごろ」と「ながれ」と呼ばれ、地域社会の人間関係の鍵となる概念である。
とある。
*5:ところで、水俣とチッソ、そして朝鮮とは、因縁がある。花田昌宣「新日本窒素における労働組合運動の生成と工職身分制撤廃要求--組合旧蔵資料の公開に寄せて」(https://ci.nii.ac.jp/naid/40018784930 *PDFあり)より引用する。
この時期,水俣工場には戦前から水俣工場にいた労働者と敗戦によって失われた朝鮮興南工場からの引き上げ労働者が混在しており,その関係がしっくりいっていなかったという。それは工場幹部内においてもそうであったが,また組合内でもそのような傾向が見られた。
また、
朝鮮興南工場において植民地の朝鮮人を牛馬のごとく使った手法を水俣においても同様に用い,水俣地元採用の労働者を牛馬のごとく扱っているとの告発であった。その矛先は経営者,なかんずく朝鮮帰りの幹部社員に向けられることとなったと考えられる。
といった文章も見られる。