下の「身内」を「殺害」して、上の者はおめおめ生きのびた。 -保阪正康『「特攻」と日本人』、大貫健一郎, 渡辺考『特攻隊振武寮』-

 保阪正康『「特攻」と日本人』と、大貫健一郎, 渡辺考『特攻隊振武寮』を読んだ。

 気になった所だけ。



 まずは『「特攻」と日本人』。
 著者の見解について、幾つか気になる点はあるのだが、それでも賛同できる部分は多かった。 



 昭和十九年の十月、台湾沖航空戦でのこと。
 第二十六航空司令官の有馬正文は、艦隊に特攻して戦死する。
 著者曰く、「日本で初めての特攻作戦を行ったのは、実は四十九歳の有馬だったのである。」(171、2頁)

 しかし、有馬の体当たり攻撃は、一般に広まることはなかった。
 有馬は軍事指導層であり、もしこの考え方が一般的だったら、軍事指導者たちが率先して体当たり攻撃をしなければならなかったからである、と著者は書いている。

 指導者たちは、特攻しない。



 陸軍航空本部は、昭和20年5月末に知覧基地で「特攻隊員の心理調査」を密かに実施している(56頁)。
 戦争の最終段階になっても「ますます決心をなすに甚大の努力を要する」隊員は「約三分の一あり」と記載されていたという(引用元原文はカタカナ漢字交じり)。
 これは生田淳『陸軍航空特別攻撃隊史』からの情報。

 その生田は、戦隊長以下全員が特攻となるなら喜んで行くが、特定人員だけというのは納得できないという心情もあったようだ、という風に書いているという。

 一方、著者(保阪)曰く、「この調査結果は当時の建て前の中での調査にすぎないが、それでも三分の一は不本意に思っているとするなら、実は大多数の特攻隊員が納得していなかったと思える。」と書いている。



 昭和20年1月6日の陸軍特攻について。
 侍従武官だった吉橋戒三の日記(未発表)には次のようにある。
 (以下の引用元原文は、カタカナ漢字交じり)
 「体当り機のことを申上たる所 御上は思はす 最敬礼を遊はされ 電気に打たれたる如き感激を覚ゆ 尚戦果を申上けたるに『よくやつたなあ』と御嘉賞遊さる」(52頁)
 
 この場合の「感激を覚ゆ」の主体はこの場合は吉橋である。

 特攻は天皇も容認した作戦であった。
 ブラック軍隊にふさわしい大元帥である、という感想しかない。



 陸軍特攻の万朶隊を見送った、当時整備兵だった人物の手記がある。
 昭和19年11月22日の午前に、その特攻は行なわれた。
 万朶隊の九九式双発急降下爆撃機 三機は、機種に五メートルの起爆管を伸ばし、五百キロの爆弾を抱いて時速四百キロで体当たり攻撃をすることになっていた。

 陸軍の場合、特攻用に爆撃機を改造していた。

 手記によると、
 「二番機担当となった我々は前日から、まずできるだけ機体を軽くするために操縦装置と無線装置を残して爆撃装置、射撃装置はむろん小さなものまで撤去することで、後方機関銃のボルトを外しながら、敵機と応戦もできない姿に怒りがこみあげて力が入らない。」(68、69頁)

 飛べない豚はただの豚だというなら、戦えない戦闘機や爆撃機は、一体なんだろうか。



 ボートに爆薬を積んで体当たりをする「震洋」は、当初は脱出装置も考えられていた。
 だが、体当たり攻撃を容認する空気の中で、特攻兵器に変わった(170頁)。
 
 こちらのブログによると、「海軍中央部は、「回天」 と同様、「震洋」 においても最後の段階 (敵艦船への突入寸前) で乗員の脱出を強く望んでいた」。「だが、海軍中央部は脱出については特別の準備をすることもなく 「震洋」 の建造を進めた。」



 次に、『特攻隊振武寮』について。

 特攻生還者の大貫氏の証言パートと、NHKの渡辺氏による特攻を解説したパートに分かれている。



 慎重論を唱えていた幹部がいた中で、特攻にこだわったのは、東条英機と、彼のイエスマン後宮淳であった。
 ちなみに、東條らは、ある時期まで、特攻を艦船相手でなく、B29等の爆撃機に対する作戦と考えていた(49頁)。

 A級戦犯が祀られている靖国神社は、やはり更地に(最低限、分祀)すべきと思う。



 大貫氏によると、報道部員が押し掛けてきて「ただ今の心境は」と聞いてきたことがあったらしい(143頁)。
 『「特攻」と日本人』によると、自分たちをダシにして記事を書く報道に対し、特攻隊員は、それが不愉快だったことを書き残している。

 今でも特攻隊を賛美して、金を儲ける小説家とかがいるが、同類ではないか。



 高木俊朗『陸軍特別攻撃隊』によると、当初、万朶隊は特攻隊であっても、必ずしも死を前提としていなかった(70頁)。
 実際、フィリピンにあるすべての飛行場の場所が記された地図を隊員たちに配り、爆弾を命中させて帰ってこい、と当時の責任者、岩本益臣大尉は命令している。

 だが、同じく『陸軍特別攻撃隊』によると、岩本大尉の部下・佐々木友次伍長は、戦艦を体当たりで沈めてほしいと、参謀から命令されている(71頁)。
 別に必中攻撃でなくていいだろうと反論する佐々木に、別の参謀長は、「佐々木の考えはわかるが軍の考えということがある。今度は必ず死んでもらう、いいな」と述べた。
 特攻機は爆弾を切り離し、何度も攻撃できるように、改良されていたにもかかわらず、である。

 なにこのブラック軍隊。

 ちなみに、佐々木伍長は、8度の出撃にもかかわらず、ことごとく生還している。



 片山啓二氏(学徒出身の特別操縦見習士官だった人物であり、「振武寮」に入った一人。)によると、彼ら学徒兵には、特攻参加の意思表示の用紙が配られている。
 だが、「俺は希望せずだったのに指名されてしまったという同級生が何人もいました。」(75頁)

 大日本帝国における「志願」は、実際はこんなものである。



 大貫氏によると、戦闘機の操縦士は1000時間操縦してやっと一人前という(91頁)。
 だが、大貫氏自身は、400時間以下だった。

 特攻作戦が泥沼化すると、200時間程度の操縦経験者でも突っ込まされた。

 最後の方になると、100時間くらいの操縦経験でも突っ込まされた。
 100時間だと離陸して飛ぶのがやっと、という有り様である。

 特攻とは、身内に対する「殺人」だが、未熟な兵士にやらせるのはその最たるものである。



 大貫氏によると、特攻は実は難しい(93頁)。
 ハイレベルな技術を求められた。

 特攻は通常300m程の上空から米艦隊めがけて急降下するのがよいとされていた。
 理想の角度は45度とされていたが、それでも時速550kmほど出て、舵が利きづらい。
 この作戦では難易度が高すぎた。

 そこで、海上をすれすれで飛び、米艦隊のどでっぱらにぶつかる作戦に切り替えたが、それでも高度な技術が必要だった。
 当時の大貫氏の上官・藤山隊長(職業軍人)ですら、上手くいかなかった。

 この事実が明らかになる前後から、特攻への拒絶意識が広がって行く。
 藤山隊長でさえ、おれはこんなことのために戦闘機乗りになったわけじゃない、と言ったという。



 倉澤清忠について。

 彼は、特攻作戦から生還した大貫氏らに対して、寮にて出会いがしらに、
 「なんで貴様ら、帰ってきたんだ。貴様らは人間のクズだ」
 「そんなに命が惜しいのか。」
 と罵った人物である(206頁)。

 寮での朝食時、倉澤が前日の深酒で酒臭い息を吹きかけながら、
 「おまえら、軍人のクズがよく飯食えるな。」
 「そんなに死ぬのが嫌か」
 それが毎朝、続いたという。

 朝から酒を飲んでいることもあり、片手には必ず竹刀を持っていた。
 大貫氏たちが食欲もわかず、箸をつけずにいると、今度は、
 「なんで飯を食わない? 食事も天皇陛下から賜ったものだぞ」(209頁)

 パワハラである。



 実は大貫氏らは、帰還したにもかかわらず、沖縄作戦で飛び立った日付で、戦死公報が出されていた(211頁)。
 軍籍からも抹消されていた。

 特攻で死んだ(殺した)はずの者たちが存命していた。しかも少なくない人数。
 特攻を命じる者たちの為す矛盾が凝縮された場所、それが「振武寮」だった。



 戦後一度だけ、仲間たちと一緒に倉澤を殴りに行こうという話になった(282頁)。
 大貫氏曰く、「慰霊祭ではいつもでかい顔をしていたからね」。

 慰霊祭のときに仲間と一緒に、倉澤をしょっ引いて、自分が大貫だと明かした。

 すると、「あのときは悪かったと詫びるんだ。あの鬼のようなやつがとても小さく見えて、殴る気がすっかりうせてしまった」



 大貫氏は戦後、陸軍の上層部には恩給が復活していた事実を知る(255頁)。

 司令官や参謀、そういった連中が軍人恩給を貰って戦後を暮らしていたのである。

 軍人恩給は、将校なら12年以上、下士官・兵士は10年以上、軍にいればもらえる。
 だが、下の者たちは勤続年数が短く、そもそも、殆どが死んでしまった。

 これが大日本帝国の軍隊であり、その戦後における姿である。
 



 最後に、大貫氏の言葉。

 「喜び勇んで笑顔で出撃したなんて真っ赤な嘘。」
 「陸海軍あわせて四〇〇〇人の特攻パイロットが死んでいますが、私に言わせれば無駄死にです。特攻は外道の作戦なのです。」(292頁)

(未完)