では、「党」なき政治は可能か、という問い。 -佐々木中『戦争と一人の作家』を読む-

 佐々木中『戦争と一人の作家: 坂口安吾論』を読んだ。

戦争と一人の作家: 坂口安吾論

戦争と一人の作家: 坂口安吾論

 

 内容は、紹介文の通り、「安吾を徹底的に読み直すことでその限界をあきらかにしながら、あらゆる安吾論を葬りさり、文学と思想の本質にせまる決定的な論考」という内容。
 安吾の礼賛で終わらないところが実によい。
 異論がなくはないが、大変刺激的で、読まれるべき内容。
 以下、特に面白かったところだけ。*1

「加害/被害」関係の希釈化

 安吾は「誰が」「誰を」突き放すのかいつも曖昧だ。 (引用者中略) 殺されるほうがいいんだ、しかし殺されるのは誰で、殺すことを強いたのは誰で、殺されることを強いたのは誰で、殺すの本当には誰なのか。ヒステリイと言うが、ヒステリイに陥っているのは誰で、ヒステリイを強いたのは誰で、ヒステリイの犠牲者になったのは本当には誰なのか。 (137頁)

 坂口安吾に一貫しているのは、被害と加害、主体と客体の、あいまいさである。*2
 安吾に対して、違和感を覚えるのは、このあいまいさである*3

安吾マッカーサー

 しかし、坂口安吾は一度も戦後の「アメリカ合衆国」の「指導」を指弾したことがない (144頁)

 安吾は、1951年の『読売新聞』にて、マッカーサーを称賛している。*4
 ほかの外国からの指導は、「キリシタン」や「共産主義」といったものを批判したにもかかわらず、である。
 ちなみに、同じ紙面には、佐々木信綱のマッカーサー礼賛の短歌も載っている。*5

美学的反共主義の閉域

 だが、彼が真に政治に反抗する文学を書いたことがあるか。 (162頁)

 安吾は「続堕落論」の最後で、「堕落は制度の母体」と書きつつ、その「独創」から「政治」を引きはがして、「文学」やら「愛情」やらの「真実の生活」を提唱している。*6

 それは美学的反共主義の閉域のなかにのみ生存を許される制度的創造性でしかなくなる。 (163頁)

 政治から逃走し、「美に感謝」する安吾
 結果として、文学は制度に囲われた「創造性」でしかなくなるのである。
 著者は、安吾は敗戦を消去するために美学的閉域に立てこもったのだとする。

「党」なき政治は可能か

 政治を論ずるかに見えて最終的には「政治」を消去するこの作家 (174頁)

 安吾の発想の根本には「党」への懐疑がある。
 徒党が嫌いなのである。
 だから、革命もストライキも嫌い、というのは不自然ではない。
 ならば、当然、「党」なき政治が可能なのか、と問うべきではなかったか、と著者は喝破する。
 よくぞ言ってくれた。*7 *8

凡庸な手口

 むしろ近代文学では凡庸な手口にすぎない (186頁)

 いろんな矛盾(非合理)をすべて「女」に投影して拝跪する所作は、近代文学ではありきたりである。*9
 いってしまえば、これは漱石から大谷崎にまで、言えることではあるが。

押し付けられたものをこそ、武器に変える

 まさに「無理強い」されたと言われる「新憲法」によって「外国の指導」を退けうる時こそ、模倣が発見となる瞬間に他ならない (216頁)

 日本国憲法(の第九条)の話である。
 押し付けられたものをこそ、武器に変える。
 安吾の論理を突き詰めていくと、こうした"回答"となる。*10 *11

(未完)

*1:以下、安吾を批判する内容が多めだが、「天皇陛下にさゝぐる言葉」( https://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/42818_26242.html )の安吾の言葉は現在でも読まれるべきだろう。

たゞ単に時代自身の過失が生んだ人気であって、日本は負けた、日本はなくなった、自分もなくなった、今までのものを失った、その口惜しさのヤケクソの反動みたいなもので、オレは失っていないぞと云って、天皇をカンバンにして、虚勢をはり、あるいは敗北の天皇に、同情したつもりになってヒイキにしている、その程度のものだ。 (引用者略)  天皇が人間ならば、もっと、つゝましさがなければならぬ。天皇が我々と同じ混雑の電車で出勤する、それをふと国民が気がついて、サアサア、天皇、どうぞおかけ下さい、と席をすゝめる。これだけの自然の尊敬が持続すればそれでよい。天皇が国民から受ける尊敬の在り方が、そのようなものとなるとき、日本は真に民主国となり、礼節正しく、人情あつい国となっている筈だ。

*2:本書は、ウェブのある書評( https://bookmeter.com/reviews/60823158 参照 )が書いているように、「自らをも含め世界を笑うことによって世界を肯定する『ファルス(戯作)』をマニフェストに掲げた安吾によって観客として戦争を眺め賛美した安吾を「それってアンタの文学的立場と矛盾してないか?」と内在的に批判し尽くしていく」ものである。本書の良い点は、こうした点にある。

*3:たとえば、安吾「特攻隊に捧ぐ」https://www.aozora.gr.jp/cards/001095/card45201.html での

強要せられたる結果とは云え、凡人も亦またかかる崇高な偉業を成就しうるということは、大きな希望ではないか。大いなる光ではないか。平和なる時代に於て、かかる人の子の至高の苦悩と情熱が花咲きうるという希望は日本を世界を明るくする。ことさらに無益なケチをつけ、悪い方へと解釈したがることは有害だ。美しいものの真実の発芽は必死にまもり育てねばならぬ。

といった、「崇高」による被害と加害の非対称的な関係の「希釈」である。そしてこの引用箇所は、別の問題点をも含有する。すなわち、戦死者を、おめおめ生き延びた者(たち)が都合よく利用している点である。一ノ瀬俊也『戦艦大和講義』等を読めば、こうした「欺瞞」は明らかであろう。

*4:既にほかの書評(ブログ「「癒しの島」から「冷やしの島」へ」https://earthcooler.ti-da.net/e9244618.html )でも取り上げられているように、本書199頁には次のように書かれている。

ファルスにおいていつも安吾は誰が誰を突き放しているのか曖昧であり、ゆえにそれがその失敗の原因ではないかと述べてきたが、米軍こそが戦争において安吾を「突き放し」「ヤッツケ放題」にしているということを遂に彼は語らない。

*5:坂口安吾全集 第12巻』(筑摩書房、1999年)の解説によると、

大いなる功績、黄金の文字をもてわが新日本の歴史に永久に 心の花束をしもうけませとこそ 国新たに栄えむ春を秋を又来ませと待つらむ花も紅葉も (551頁)

という感じらしい(ふりがなは面倒なので省略)。 

*6:「続堕落論」の文章の弱さは、例えば次のようなところに現れている(https://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/42619_21409.html )。

あの生活に妙な落着おちつきと訣別けつべつしがたい愛情を感じだしていた人間も少くなかった筈で、雨にはぬれ、爆撃にはビクビクしながら、その毎日を結構たのしみはじめていたオプチミストが少くなかった。私の近所のオカミサンは爆撃のない日は退屈ねと井戸端会議でふともらして皆に笑われてごまかしたが、笑った方も案外本音はそうなのだと私は思った。闇の女は社会制度の欠陥だと言うが、本人達の多くは徴用されて機械にからみついていた時よりも面白いと思っているかも知れず

 「筈」、「案外本音はそうなのだと私は思った」、「と思っているかも知れず」、このくだりのフィクショナルな弱さについて、安吾は自身を糾弾すべきであろう。

*7:ところで、安吾サルトルについて、わずかな期間で評価を変えている。1946年11月には、

私は今までサルトルは知らなかつたが、別個に、私自身、肉体自体の思考、精神の思考を離れて肉体自体が何を語るか、その言葉で小説を書かねばならぬ。人間を見直すことが必要だと考へてゐた。それは僕だけではないやうだ。

と書いていた( https://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/42906_23101.html )。肉体自身の思考、として肯定していたのである。それが、1947年7月には、

サルトルの生に対する消極的態度からは、私は一流の文学は生れる筈はないと信ずるもので、さういふ意味では、文学はともかく生存の讃歌、生存自体を全的に肯定し、慾念を積極的に有用善意の実用品にしようとする人生加工の態度なしに、文学の偉大なる意味は有り得ない。

と書くに至る( https://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/42872_31181.html )。この変化が何によるものかはここで問題としない。それよりも、安吾サルトルほどには「党(徒党)」の問題に向き合ってこなかったことのほうに、注目すべきであろう。安吾が1955年には亡くなってしまう、という点を考慮してもなお、そうである。

*8:安吾と党派、そして「公共圏」の問題については、また機会を設けて、論じたいと考えている。

*9:先の註で言及したような、「私の近所のオカミサン」や闇の女」も、それにあたるであろう。

*10:こうした論運びに納得できない方は、ぜひ佐々木著を読んでみてほしい。批判的にせよ、読まれるべき本なのだから。

*11:言及されているのは、安吾の「もう軍備はいらない」https://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/45748_24336.htmlだが、その中にこうある。「軍備や戦争をすてたって、にわかに一等国にも、二等国にも、三等国にも立身する筈はないけれども、軍備や戦争をすてない国は永久に一等国にも二等国にもなる筈ないさ。」