ウィーンのカフェを生んだ、酷い住宅事情

■ウィーンのカフェを生んだ、酷い住宅事情■

 ウィーン郊外のいたるところに貧民窟がひしめいてた。ある記録によると、一八九八年から一九〇二年までの五年間に約四十万の人口増加があったにもかかわらず、十一万四千の住居がふえたにすぎず、しかもその大半は水道も便所もないものだった。通常、二部屋か三部屋に二家族六人から十人が住んでいた。
 […] ウィーンの名物カフェにしても、むごたらしい住宅事情が生み出した副産物ともいえるだろう。人々は一杯の珈琲で一日中、カフェにいた。そこにいるかぎり凍えずにすんだのである。 (某書より引用)

■『ファッケル(炬火)』について■

 カール・クラウスその人の孤立ではなかった。友人や同士というべき多くの書き手をもっていた。そうでなくては砂糖の買占めを実証したり、相場操作のからくりを暴いたり、銀行の粉飾決算を突きとめたり、鉄材の闇カルテルを告発するなどできなかったはずだろう。 (某書より引用)

ホフマンスタールの戦争協力■

 ホフマンスタールが「守りの陣地」ではなく、ウィーンはマリアヒルファー通りの「戦争援護局」にいたことを (某書より引用)

■当時のウィーンを象徴する人物■

 自由にもましてはるかに多く混乱があった。それは一九二〇年代オーストリアの代表的な政治家イグナーツ・ザイペルといった人物の経歴にもみてとれる。もともとウィーン大学の神学教授だった。その男がハプスブルク政体最後の内閣の大臣をつとめたのち、一九二九年までの十年間、ときには社会民主党と、ときには超保守派の大ドイツ主義者と連合して五度の内閣を組織した。そして一九三〇年、ウィーンの国会で早々と、ドイツにおけるナチ党賞賛の演説をした。 (某書より引用)

■「超人」なんぞ、所詮猿にとっての人間と同然よ■

 猿が人間にとって何であるか、人間は超人にとってどういう存在であるべきかとなれば、それは<お笑い種か、あるいは悲痛な汚辱>(『ツァラトーストラ』)なのであり、こんにち、例の超人(ヒトラー)が人間にとってどういう存在であるかも、まさしくこの言葉どおりなのである (某書より引用)

■口実を作る。■

 巧みな戦術というものではなかろうか。ドルフス支持の看板のもとに、彼の反ヒトラーの姿勢を解説するという形で百五十頁以上にわたって堂々と、ヒトラー批判を公にすることができたではないか! (某書より引用)