イタリアの主体的な活動が再来するのは、「西ローマ帝国が滅亡」して以降である -田中創『ローマ史再考』を読む-

 田中創『ローマ史再考 なぜ「首都」コンスタンティノープルが生まれたのか』を読んだ。

 内容は紹介文の通り、

期待の俊英が、ローマが2000年続いたのは東側に機能的な首都・コンスタンティノープルを作ったからだとし、勅令や教会史に現れる「儀礼を中心とした諸都市の連合体」としてのローマ帝国像を生き生きと描き出す。コンスタンティヌス帝やユスティニアヌス帝ら「専制君主」とされる皇帝たちは、本当は何に心を砕いていたのか? 最新研究を踏まえた驚きの古代史!

というもの。
 副題にもあるように、「コンスタンティノープルはいかにして、『首都』に成りあがったのか」というのが、本書の主題である。*1
 退屈してしまいそうな話だが、しかし、これが実に読ませる。

 以下、特に面白かったところだけ。

キリスト教と太陽神

 当時のキリストはしばしば太陽神的な図像で表現され (83頁)

 コンスタンティヌス帝は「改宗」以前、太陽神崇拝に傾倒していた。

 また、この時代のキリストは、バチカン地下から発掘された4世紀のモザイクでもわかるように、太陽神的な姿で描写された。*2
 当時のキリスト教は随分と「異教」的な要素も含んでいたのである。

プルケリアと聖母マリア「信仰」

 どうして。私は神を生んだのではなかったのか (144頁)

 プルケリア*3キリスト教崇敬には(*彼女だけではないが)、現代人から見るといささか特異なところがあった。
 そのことが、コンスタンティノープル司教ネストリウスと軋轢を起こすこととなる。
 聖体拝領の儀式のときに、女性が教会の内陣に立ち入ることができるか否かをめぐって、彼女とネストリウスとで口論となった。
 プルケリアは自分を聖母なマリアに重ね合わせていた。*4
 その際に、上記のように、ネストリウスに言い放ったという。
 もちろんこれは、逸話にすぎない。
 だが、史実性はともかくも、アウグスタが聖母と近しい存在として認識される土壌が社会にあったのは確かである。

西ローマ帝国が滅亡」してから活発化

 それどこか興味深いことに、オドアケルの統治期になるとローマの元老院議員たちの活発な活動が確認される。 (165頁)

 オドアケルの統治下、そしてのちの東ゴート王国のもとでは、ローマの元老院議員たちが積極的にコンスルに就任し、王たちを補佐している。
 『哲学の慰め』を書いたボエティウスらイタリア貴族も王の宮廷で活躍している。*5
 イタリアの主体的な活動が再来するのは、「西ローマ帝国が滅亡」して以降である。

ギリシア神話の「柔軟性」

 いわゆるギリシア神話が、一つの筋書きしかない固定された物語ではなく、語りの必要に応じて柔軟に改作される余地のある素材であった (178頁)

 エフェソスの人々*6は自分たちがアルテミス女神を崇拝していることの正統性を示すために、神話を我流に解釈した。
 通例ならデロス島とされる女神の出生地を、自分たちの町の近郊に移しているのである。
 こうしたことは当時、決して珍しいことではなかった。

 

(未完)

*1:本稿ではこの主題部分については扱わないが。

*2:竹部隆昌は、

キリスト教が太陽神崇拝の図像表現を採用したのは,キリスト教公認当時のローマ帝国で太陽盛んであったことによる。ローマ帝国において一神教の国教第一号となったのはアウレルシア起源のやはり太陽神であるミトラ一神教崇拝であった。

と述べている(「西欧中世文化におけるビザンツ図像の伝播と受容」https://ci.nii.ac.jp/naid/120005474923 )。

*3:ローマ皇帝ルキアヌスの妃にして、皇帝アルカディウスの娘でもある。

*4:中西恭子はプルケリアを次のように評している(https://twitter.com/mmktn/status/1235539996691427328 )。

プルケリアさまは5世紀にしてビザンツ宮廷女性最強キャラ。神学論争にもお強くて、弟の嫁さんエウドキアとさまざまに図ってマリア崇敬を広めたり、最晩年に将軍マルキアヌスと結婚して夫を皇位につけ、自身皇妃となっても純潔を貫くなどあっぱれポイントが数々、周りの男たちが全員霞む素晴らしさ

*5:カッシオドルスもその一人である。海津淳は次のように述べている(「人文主義と教育 : 西ローマ帝国終焉とヨーロッパへの自由学芸継承」https://ci.nii.ac.jp/naid/110009634588 )。

その名が示す通りボエティウス同様ローマ貴族の出身であった。父はオドアケルと東ゴート王テオドリックに仕え、カッシオドルス自身もテオドリック王とその後継者たちのもとで財務官、執政官など要職を務めた。/しかし彼において一層注目されるべきは、引退後故郷にウィウァリウム(Vivarium、養魚池の意)修道院を創設し、図書の収集、学問研究と教育に尽力した点にある。彼は精力的にローマなどに足を運んで社会的混乱の中で散逸の危機にあった貴重な書籍を収集し、ウィウァリウムに保管する。そしてここで彼は聖書研究・神学教育を第一義的目的としながらも、古典古代の自由学芸を上述の学問・教育に必要不可欠な領域と位置付け、これを継承し研究と教育を行ったのである。

*6:庄子大亮は、次のように述べている(「古代ギリシアにおける女神の象徴性 : アテナ,アルテミス,デメテルを例に」https://ci.nii.ac.jp/naid/40019160479 )。

アルテミスはまた,「生むことをせぬアルテミス女神が,生むことを司られた」(プラトン『テアイテトス』149B)といわれるように,出産の女神でもあった。こうした点に関連して,アルテミス崇拝が有名だったのが,小アジア沿岸のエフェソスである。豊穣多産の女神として知られるエフェソスのアルテミスは,乳房をあらわすともいわれる物体が数多く胸部に付いている独特な姿をしている。おそらく多くの生命を育むことを象徴した姿であろう。

ただし、庄子は、「エフェソスのアルテミスこそがアルテミスの原型=大母神と断ずることはできない」と注意を促している。