世俗によって煽られる「宗教」 中村圭志『信じない人のための〈宗教〉講義』(1)

・中村圭志『信じない人のための〈宗教〉講義』みすず書房 (2007/5)

■アジアの東部の人口は意外に多い■

 アメリカとかアフリカというのが意外と小さい一方、インドと中国がやたらとデカイですね。ヨーロッパ、中近東、アフリカが細々と分かれているのに対して、東アジアや東南アジアは大きな国が多くて、ぐゎしっぐゎしっと大づかみにできています。 (20頁)

 人口比で描いた地図で見た場合、こんな風に世界が見えるらしいです。「図録世界人口規模の推移(地図表現)」(『社会実情データ図録』様)を見ていただくと分るように、意外にアメリカやアフリカが小さい分、インドと中国がでかいです。世界的に見て、アジアの東方地域の人口は多い、と改めてわかります。
 一方、カナダは小さく、ロシアも意外に小さい。そのロシアに比べると、ウクライナは大きいように思えます。アフリカが意外に小さい中、ナイジェリアが、やはり目立ちます。ヨーロッパの中では思いのほか、ドイツがでかい。別格の中国とインドを別として、インドネシアと日本が、人口比という事情をわかっていても、でかい。
 以上、本書の主題ではありませんが、面白い記述なので引用しました。
 本書では、ユダヤ教キリスト教イスラム教の一神教と、それ以外の儒仏道の混成した東アジアの宗教体制、そして、インドにおけるヒンドゥーの宗教体制を、軸として解説を行っています。大雑把を覚悟の上で、押えるところを押えていて、宗教入門として最適の一冊です。そこらへんのお手軽宗教入門とは違って、「宗教」という概念それ自体にも批判的吟味を加えています(この点については、中村圭志『一Q禅師のへそまがり“宗教”論』への書評(1)(4)をご参照ください)。

■信仰の内容以前に、視点自体が違う■

 物事を人間社会の側から組み立てて眺めるのではなく、神様の側から見ていく、というのが宗教的発想なのかもしれません。 (34頁)

 最初にまず、神の存在があるという発想です。人間に神が先立っているという発想は、現代の世俗の人間の発想とは、大きく異なっています。信仰などの内容以前に、基準とする視点自体が異なっているのですから、相互の誤解や擦違いがでるのは、むしろ当然といえるのかもしれません。(注1)

キリスト教とは、答えを出してくれる<宗教>ではない。■

 解釈をいろいろと考えることじたいがキリスト教の営みです。何を意味しているかを最終的に確定できた人はいません。とはいえ、こうしたイエスの言葉に、人びとが強く心惹かれてきたのも事実です。 (63頁)

 著者は、「神のものは神に、カエサルのものはカエサルに」という話を例に出して、以上のような説明をしています。
 著者は、キリスト教が、<答え>を出してくれるものだ、という考えはとりません。そうではなく、キリスト教とは、<問い>であり、その<問い>について考え解釈をする営みだ、といっているのです。この問いに対する答えに、最終的にたどり着くことは、できません。ただ、その答え(真理)に惹かれ、求め、考え続けていくのです。
 著者は、「神のものは神に、カエサルのものはカエサルに」というイエスの言葉が、実は多義的なものであることを述べています。詳しくは本書をご参照いただきたいのですが、確かにこのイエスの名言は、解釈が難しいです(たとえば、この言葉が、果たして政教分離の根拠に使いうるのかどうかという点など)。

■世俗によって煽られる「宗教」■

 麻原彰晃をハイパーな存在に格付けしようとしてきたのは、取り巻きの人間ばかりではありません。マスコミや世間の人間もまた、こっち側からあっち側を見やる期待あるいは恐れの眼差しのなかで、教祖の特異な地位を確定するのに一役買ってきたのです。 (207頁)

 傍点は省略しました。
 宗教の存在を過剰に煽り立てる、数多の外部の人間の責任が、問われています。外部の人間の方が、特異な存在として宗教のイメージを膨らませる嫌いがあります。その典型的な例が、オウム真理教だといえるでしょう。この点、「パナウェーブ研究所」のときの騒動も、それに近い現象といえると思います。あるいは、欧米のキリスト教たちの、ムスリムへのバイアスも、このような点を考慮すべきでしょう。
 オウム真理教に対する外部の人間の【煽りたて】に関しては、その賛否を含めて、島田裕巳中沢新一批判、あるいは宗教的テロリズムについて』が、参照されるはずです。

(続く)


(注1) 「宗教的発想」については、「宗教・キリスト教」(『Adonai あどないの道』様)が、その例として参照されるべきでしょう。曰く、

 わたしを含めてキリスト信徒といま上に挙げた人たちとの一番の違いは、「人間は、自分は、創られた存在である」ことを認めているか、否かであろう。自分は作られたものであり、すべてを創造した《創り主》の存在を認めるか、否か。すべてのはじまりがこれにかかっている、とわたしは思う。

 自分より、神が先立つ、という感覚。少なくともキリスト教(及び一神教)の場合、この点に、信仰者と非信仰者の違いがある、といえるかも知れません。