西欧における仏教ブームと「アーリア人」の関係 中村圭志『信じない人のための〈宗教〉講義』(2)

■神学の論理性:科学との親和性と、異端の排除■

 神学論争が重んじられるのは、思考が観念的だからです。よく言えば理論的で明晰なものですが、悪く言えば、すべてを0か1かで割り切るデジタル思考だということです。(中略)注意してほしいのは、科学を生み出すような合理主義と、異端審問を生み出すような神学的な観念論とは、正反対のものというよりは、むしろ近似性が高いということです。 (68−9頁)

 神学では、論理を重視します。それは、正統と異端をきっぱりと分け、前者を肯定し、後者を否定して排除する論理として、マイナスに働くことがあります。一方で、その論理性が、プラス方向に転じて、科学的な合理性へと繋がる場合もあります。
 特にキリスト教では、異端とされた側が盛んに排除された歴史を持つ(渡辺昌美『異端審問』などを参照)、その一方で、その論理性が結果的に科学的な合理性の探求に寄与してしまう(J.H. ブルック『科学と宗教 合理的自然観のパラドクス』などを参照)ことにもなります。

■西欧における仏教ブームと「アーリアン学説」の関係■

 西洋人が理念的に考えているブッディズムには、あやしげな民族意識(ヨーロッパ民族至上主義)の影がチラつきます。しかも、彼らの抱く仏教イメージには、あくまでも理性的な、高度に哲学的な ―― つまり知識人好みの―― 教説だという、妙な買いかぶりがあるのです。 (100頁)

 西洋人の考える「仏教」には、バイアスがかかっています。それは、民族意識です。著者によると、我々と同じインド=ヨーロッパ語族が作ったのが仏教だ、という意識が彼らにあるというのです。仏教の諸原典は、サンスクリット語で書かれかれています。これは、インド・ヨーロッパ語族のインド語派に属する言語です。
 そもそも、インド・ヨーロッパ語族とはなにか。
 18世紀後半、ウィリアム・ジョーンズサンスクリット語と、ギリシア語ラテン語との類似を指摘し、インドとヨーロッパの諸語が、同じ言語から派生しているという説を立てます。この仮説に、トーマス・ヤングという考古学者が、インド・ヨーロッパ語族と名付けました。あくまでも言語的な類似を指摘したこの仮説を、人種・民族と結びつけたのが、ドイツのマックス・ミュラーでした。
 ミュラーは、インドからヨーロッパまでの広範囲を征服し、その言語を普及させた民族がいた、という説を唱えます。これは、「アーリア人」と名づけられました。この説が、「アーリアン学説」です。
 この学説は、イギリスの場合、インドの植民地支配に利用されます。ヒンドゥー教徒のエリート階級はアーリア人であり、イギリス人もアーリア人だから、同じ起源の民族だ、としてイギリスの支配を正当化したのです。ドイツでも、かのワーグナーなどが、ドイツ人は純粋なアーリア人の血統であるとして、自民族の優位を正当化し、これをナチスも後世において利用しました。しかし現在では、上記のようなアーリアン学説は、学術的に否定されています。
 著者の、「西洋人が理念的に考えているブッディズムには、あやしげな民族意識(ヨーロッパ民族至上主義)の影がチラつきます」という発言も、これに由来します。要するに、西洋人たちの仏教ブームには、その背景に「アーリアン学説」がある、というわけです。
 当時の知識人たちの仏教ブームの背後に、「アーリアン学説」の影があったことを考えつつ、「カントやショーペンハウアー、そしてベートーヴェンヴァーグナーもまた、深遠なるインド哲学に傾倒していったのである。もちろん、彼らが憧れていたのはインドにかつて存在していたはずの「理想郷」であり、実際に存在しているインドではなかった。」という、福田宏氏のカール・スネソン『ヴァーグナーとインドの精神世界』に対する書評(『マルチヌーのハーフタイム』様)は、読まれる必要があると思われます(この場合、「インド哲学」には仏教も含みます)。(注1)

■「語りがたさ」が生んだ、「皇国」の勘違い■

 日本のように、自分たちの土地の文化が外来の言語文化とは違うものだという感情がある場合には、こうした地域固有の事情(日本文化は語りがたい)と、いま述べた人間一般の事情(宇宙の本質は語りがたい)とが、どうかした拍子に混線してしまいます。 (156頁)

 日本に現在ある文化の源流をたどると、そのほぼすべてが、外来のものであることがわかります。何をもって内発のものとするか、という根本的な問題もありますが、これは置いておきましょう。
 このような外来の文化(漢字もそうです)を出自とする日本の文化に対して、なんとしてもオリジナリティを見出したい人たちがいました。それが例えば、本居宣長であり、後世の西田幾多郎でした。彼らは各々の方法で、外来を出自とする日本の文化のオリジナルで純粋な姿を、発見しようと試みました。そしてそれは、外来を出自とするがゆえに、どうしても語りがたい面を持ちます。
 しかし、そのような試みは、ナショナリスティックな方向に傾きます。なぜか。
 たいていのどの社会にも、物事の本質は語りがたい、神や宇宙の本質は語りがたい、という特性があります。キリスト教にも、「否定神学」というのがあるように、たいていの文化・宗教には、このような特性があります。どの文化にもあるこの語りがたさが、外来を出自とするがゆえの語りがたさと混同されてしまうのです。まさに、「地域固有の事情(日本文化は語りがたい)と、いま述べた人間一般の事情(宇宙の本質は語りがたい)」の混同です。
 大雑把な定式にすると、【語りがたい日本文化は宇宙の本質そのものである】という主張になってしまうのです。語りうる皮相な「漢」と、語りがたい本質としての「皇国」という対比を試みたはずの本居宣長が、その典型的な例になっているのではないでしょうか。

■「宗教」とは、「こんにちは」という挨拶とおなじ存在■

 宮古島の人に「地元では<こんにちは>ってどう言ってる?」と聞いたら「何も言わずに家にずかずか上がる」とのことでした。<宗教>だってじつは<こんにちは>のようなものかもしれません。つまり、生活の現場ではそんな言葉は生きていないのかもしれない。 (177頁)

 傍点を括弧に変更しました。
 宮古島の人は、「こんにちは」という語を使わない。使うという習慣がないのです。同じことが「宗教」という語にも言えるかもしれません。「宗教」という語を使わなくても、別に「宗教」と呼ばれるような現象は存在するのです。まさに、「こんにちは」と同じなわけです。もちろん、これはどんなものに対してもいえることなのでしょうが(例えば、「国家」、「社会」など)。
 極端な話、我々が今後「宗教」という語を使わなくても、かまわないのです。一応現状では、この語を使うと便利だから使っているだけであって、多少無理をすれば、使わないこともできます。「宗教」という概念の位置づけを考えるには、拙稿『一Q禅師のへそまがり“宗教”論』に対する書評(3)(4)をご参照ください。

(了)


(注1) 仏教と「アーリアン学説」が特に結びつくのは、ワーグナーヴァーグナー)です。彼は、反ユダヤ主義であり、キリスト教ユダヤ教の影響から離反させるために、キリスト教は仏教を起源とする、と考えたようです(「ワーグナー編その8−2 「パルジファル」」(『クナを聞く』様)を参照))。反ユダヤ主義ユダヤ人蔑視)と「アーリアン学説」(自民族の優越)とのつながりは、説明は要らないでしょう。