「貧しい人を助けようとすると聖人扱いされ、彼らがなぜ貧しいのかを説明しようとすると (中略) 」。あと、「毎日残業するのはいけません」 -レノレ『出る杭はうたれる』再読-

 アンドレ・レノレ『出る杭はうたれる』を読んだ(これで三読くらいか)。

 内容は紹介文の通り、

ひとりのカトリック司祭が1970年の夏、日本に赴任、川崎の建設現場ではたらきはじめた、以来20年、労働者たちは“フランス語のうまい”ガイジンに次第に親しんでいく。そして労災、組合結成…。零細下請け企業で12年間はたらいた経験をもとに日本の労働現場と社会をみつめた最初の日本人論。

である。
 仏国のカトリックの労働司祭から見ると、日本はこう見えるのだな、というのがわかる本。

 以下、特に面白かったところだけ。

「外」を見ろ

 有給休暇はきちんととり、自由時間は自分でつかって、教養を高め、旅行をし、世界に目をひらき、情報を交換しあうことが大切です。 (xiii頁)

 既にこの時から言われていたのである(この本が最初に出たのは1994年)。
 そして余暇を使って、物を読んだり書いたり、教養を深めたり、社会活動にとりくんだりすることを、著者は推奨していた(242頁)。*1 

 毎日残業するのはいけません。 (75頁)

 彼はその理由を以下のように述べる。
 子供の教育が母親一人の責任になってしまう。*2
 世界で何が起こっているのか関心も持てなくなる。
 残業は他の人から労働を奪う。
 残業をあてにしていると、悪循環になり、八時間の労働に対する正当な賃金が要求できなくなったりするだけ。
 ぐうの音も出ないくらいの正論である。

なぜ貧しいのかを説明しようとすると、共産主義者扱いされる

 日本でも、世間一般の考えによれば、司祭は社会の不正に無関心のままでいなければならない。それにかかわりをもつようでは、司祭は万人に奉仕するという立場を失うというのである。 (5頁)

 著者はその見解を批判する。
 それにかかわりを持たないようでは、誰にも奉仕しないことになる。
 権力者や金持ちに反省を迫ることもできなくなる。
 ヘルデル・カーマラ(エルデル・カマラ)曰く、貧しい人を助けようとすると聖人扱いされ、彼らがなぜ貧しいのかを説明しようとすると、共産主義者扱いされる。*3

 この「司祭」を、「ミュージシャン(やアーティスト等)」に換言したりすることも、可能と思われる。

なぜ給料を秘密にしあうのか

 こんなふうに、自分の給料を秘密にしあう習慣こそが労働者の連帯にとって最大の障害になっていることはまちがいない。 (87頁)

 従業員を家族だと述べる企業、そしてそこで働く従業員は、なぜ給与額を秘密にしているのだろうか。*4
 もし家族だというのなら、当然給与額はお互い知っているべきではないのか。

キリスト教は生き方

 キリスト教というのはイエス・キリストを信じ、それを土台にして生きていく、その生き方にほかならない。 (104頁)

 病気がよくなるなど約束するのは、インチキである。
 キリスト教徒の共同体が一人一人の良い生き方の支えになり、それぞれはできる範囲で共同体のために何かする。
 決して寄付を強制することはしない、と。
 この点は、やはりマルクス主義に似ているような気がする(本書でも言及されているが)。*5

テレビはかれらの姿を映しだそうともしない

 素手で戦車をとりかこみ、塹壕にこもったラモスやエンリレをまもったのはフィリピンの民衆です。なのに、テレビはかれらの姿を映しだそうともしない。 (105頁)

 ニュースでは、金持ち(大統領夫人等)の贅沢ばかりが、当時、取り上げられていたのである。
 引用部は、当時のエンリレ国防相やラモス参謀長といった軍高官が、籠城した件を述べている。*6

ストをやらない組合と社会

 中小企業で働いている共産党員のほとんどは、自分が党員だとばれるのをとてもおそれている。 (152頁)

 著者は、日本の大企業/中小(零細含む)企業の二重構造にも当然目がいっている。
 中小に対して、大企業で働く共産党員の場合はがっちりとしたグループをつくっている。

 もし不当な配転や移動にあえば、裁判に訴えて勝利する。

 一応有能な弁護士もついている。

 しかし、民間企業の労働者の間では必ずしも評判は良くないという。

 共産党員は政治闘争にばかり熱心で、組合闘争をなおざりにしがちだからで、国政選挙の時は特にその傾向が強い、と著者は述べている。

 著者の不満は、組合闘争、とくにストをやらないことに向けられている。
 これが著者のみた、日本の1980年代*7の労働現場である。*8 *9

 ただし著者はそのあとに、日本ではストライキが忌避されており、共産党の活動家も戦う姿勢がどうしても弱くなり、その結果、御用組合の内部で役員の一角に食い込むのが精いっぱいなのだ、とも書いている。

銀行を突け

 組合活動家の考えによれば、日本の社会ではお金がすべてということになっており、したがって問題企業とされる銀行のまえでひとさわぎするのは一段と効果的なのだそうだ。 (176頁)

 実際それは圧力をかけるうえで有効な手段である。
 銀行は信頼性と正確な業務というイメージを大事にしており、まずいからだ。*10

自制心を養う

 かれが選んだのは自分が生まれたパリ第十八区で非行少年とともにいきることだった。 (255頁)

 解説より。
 彼が司祭になってしたことは、数人でチームを組んで地域に入りスポーツ活動を始めることだった。 サッカーなどではなく、パラシュートや崖上り等の自制心を必要とするもの。
 生半可なスポーツでは、青少年のうっ屈とした心情とエネルギーに打ち勝てないと判断したためであるようだ。*11

 また、週末には若者を連れて地方へ出かけてそうしたスポーツをしたり、夏には家が貧しい若者たちを連れてバス旅行(行先は海外だったりもした)に出かけたりもしたという。

 なお、パリ18区は、モンマルトルの丘のある区である。


(未完)

*1:百木漠は、マルクス『経済学批判要綱』の自由時間論について、次のように分かりやすく要約している(「アーレントマルクス「誤読」をめぐる一考察 : 労働・政治・余暇」https://ci.nii.ac.jp/naid/120005465888 )。

「資本の偉大な文明化作用」によって労働生産性が向上し、必要労働時間が短縮され、自由時間が増大する。そうして生み出された自由時間において、諸個人が能力と個性を全面開花させる「高度な活動」に取り組むことができるようになる

*2:もちろんこの事例では、フルタイムで働く男性労働者と専業主婦の核家族であることが、前提となっていることに、注意が必要であるが。

*3:日本では、エルデル・カマラの名で知られる人物である。
 当該の言葉は、英語では "When I give food to the poor, they call me a saint. When I ask why they are poor, they call me a communist." となるので、厳密には、少し内容は異なる。意味は大体一緒だが。
 原文(ポルトガル語)では、 "Quando dou comida aos pobres, me chamam de santo. Quando pergunto porque eles sao pobres, chamam-me de comunista." とされている。1999年に出た、 Zildo Rocha の Helder, o dom: uma vida que marcou os rumos da Igreja no Brasil という本に、その言葉は載っているようである。ただ、その本にも、いつ彼がこの発言をおこなったのかまでは、記載がなさそうである。

 英語訳のほうは、1980年代に既に、書籍等に載っているようなのだが。例えば、日本でも、David Piachaud の Poverty and The Role of Social and Economic Policy という論文にその言葉は見られる(この論文が掲載されたのは、「北海道大學教育學部紀要」である。https://ci.nii.ac.jp/naid/120000971402 )。

*4:米国の場合、次のように考えられるという(「同僚と給与の話をするのは禁止? 注意が必要な「企業通告」のいろいろ」https://www.lifehacker.jp/2014/08/140806office_falsehoods.html より)。

企業はしばしば従業員に対し、お互いに給与について話すのは禁止だと通告します。でもこれは、米国労働関係法に完全に違反する行為です。同法には、雇用主は従業員どうしが賃金について話すことを禁止してはならない、という条項があるのです。

もちろん、日本でも、給与についての会話を従業員に禁じることは難しいであろう(給与明細が通常、企業秘密情報に当たらない点については、社労士からも肯定されている。「社員が給与明細を紛失したときの対応について:専門家の回答は?」https://www.manegy.com/news/detail/1931 を参照。)。

*5:マルクスの主張において該当するのは、以下の文である。

共産主義社会のより高度の段階で,すなわち諸個人が分業に奴隷的に従属することがなくなり,それとともに精神労働と肉体労働との対立がなくなったのち,労働がたんに生活のための手段であるだけでなく,労働そのものが第一の生命欲求となったのち,諸個人の全面的な発展に伴って,また彼らの生産力も増大し,共同的富のあらゆる泉がいっそう豊かに湧きでるようになったのち――そのときはじめてブルジョア的権利の狭い視界を完全に踏みこえることができ,社会はその旗の上にこう書くことができる――各人はその能力に応じて,各人にはその必要に応じて!

『ゴータ綱領批判』の一文である。これは、「共産主義社会における高度な活動としての労働」、という高次段階の社会における労働である。細かい点は違うのだが、やはり、似てはいる。
 ただし、松井暁は、

今日の科学技術の到達と自然環境問題の現状を考慮するならば,生産量の増大は資本主義社会が終焉する時点で既に共産主義社会を実現するのに十分な次元に達しており,しかも自然環境問題を悪化させるに及んでいる。よってさらなる生産量の増大は不要かつ不適切であると考えてよかろう。とすれば,共産主義社会では必然性に規定された労働 L5  (引用者注:「共産主義社会における高度な活動としての労働」のこと) は無くすべきであることになる

という考えを披露している。今は環境問題も、考慮に入れなければならない時代である。

 以上すべて、松井「人間本質としての労働と『資本論』における『労働日の短縮』」(http://marxinthe21stcentury.jspe.gr.jp/wp-content/uploads/2017/08/matsui_j.pdf )より引用・参照を行った。)。

*6: エンリケとラモスが決起するまでの反マルコス運動の様相については、片山裕「1986年2月16日のコーリー」(https://ci.nii.ac.jp/naid/110000200397 )を参照。当時の現地の様子がよくわかるので、ぜひ。

*7:著者の言及した日本共産党議席数(「二十七」議席と言及されている)からすると、これは1980年代のものである。

*8: ここらへんの背景には、1970年代以降の日本共産党の躍進等をも、考慮する必要があるだろう。1972年の衆院選での野党第二党への躍進、1975年の大阪府知事選挙での黒田府知事再選等を例として挙げることができる。今では信じにくいことだが、けっこう共産党がイケイケだった時代もあるのである。

 1980年の村岡到『スターリン主義批判の現段階』は

六〇年安保闘争から数えてもすでに二〇年が経っている。この間委、日本共産党は四万人から四〇万人に党員を十倍増させ

と述べている(小泉義之「資料「1968 年以後の共産党――革命と改良の間で」 」https://www.r-gscefs.jp/wp-content/uploads/2018/05/%EF%BC%92%E4%BA%BA%E6%96%87%E7%A0%94%E9%85%8D%E5%B8%83%E8%B3%87%E6%96%991968%E5%B9%B4%E4%BB%A5%E5%BE%8C%E3%81%AE%E5%85%B1%E7%94%A3%E5%85%9A.pdf から孫引きを行ったことをお断りしておく。)。村岡のような新左翼に属する人物も、当時の共産党の勢いを認めていたのである。あとに続く、「労働運動の戦線には宮本・不破路線にはすぐには従わない〝自立的傾向〟が存在する」という話も興味深いのだが、今回はおいておく。

 著者・レノレは、27議席しかない、という日本共産党の立場の弱さに着目しているが、むしろ、日本共産党の路線変更、すなわち、宮本顕治の「自主独立」路線の影響をこそ、考慮すべきであろうと思う。その路線から言えば、ストを控えざるを得なかったのだろう、と。(宮本顕治の「自主独立」路線については、紙屋研究所の手になる記事・「宮本顕治君のこと」http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/miyamotokenji.htmlを参照。) 

*9:いちおう、70、80年代の活動についての日共側の主張も、紹介しておく。「日本社会党・総評時代の日本共産党労働組合運動の政策と活動について : 1970~80年代の総評との関係を中心に : 梁田政方氏に聞く : 証言 戦後社会党・総評史」https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/11190844/1 

*10:

あとは、退職金の組合分をどこからどうしているとかなるわけです。残されている金目のもの全てが抵当で銀行に抑えられているわけですから、要は銀行にどれだけ損してもらうかしかないんですね。・・・/それを取るために何をしたか。みんなに10円持ってきてくれと言っておきました。メインバンクは某銀行でした。みんなを並ばせたんですよ。70名くらい組合員がいました。10円で通帳を作りに並ばせて、その本店に他のお客さんの相手をすることが一切できない状態にしました。

銀行相手には、これくらいしないといけない。ただし、これは、社長がトンズラした会社において、残された従業員たちが起こした行動なのだが。
 上に掲げたのは、『二宮誠オーラルヒストリー』からの引用である(ブログ・「hamachanブログ(EU労働法政策雑記帳)」の記事http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2012/11/h-7bb6.html からの孫引きとなる事をお断りしておく)。そのあとに出た、二宮誠の著作にも、このエピソードは出てくるはずである。

*11:あるウェブニュースによると、

スポーツスカイダイビング中の事故になると、数年に一度、起こるか起こらないかのレベルだ。事故率は低く、15万回に1回の死者のため、他のスポーツに比べたら少ないと言える。だが、事故が起こったらほぼ確実に死亡するため、リスクは高いスポーツとなる。

とのことである(「スカイダイビングやバンジーはリスクありすぎるのか。事故死は15万人に1回」https://news.livedoor.com/article/detail/10967593/ )。
 「Your Chances of Dying & Other Health Risks」というサイトを見る限りでは、アメフトよりもスカイダイビングの方が安全そうではある(https://www.besthealthdegrees.com/health-risks/ )。とりあえず、リスクが低い割に、事故が起きた場合の死亡率は、高いスポーツとは言えるだろう。