「そして、謎は残った」・・・日本の雇用に潜む二重構造 (あとは職業教育について) -濱口桂一郎『日本の雇用と労働法』を読んで-

 濱口桂一郎『日本の雇用と労働法』を読む。
 内容は、前に書かれた新書である『新しい労働社会』と重複する箇所が多いが、前著が欧州との比較を意識しつつ、日本の目指すべき「新しい労働社会」への構想が書かれていたのに対して、本書は、日本の戦前〜現在までの日本の労働における、法と判例を紹介し、その二つのギャップを埋めることを目的に書かれている(はず)。

 気になった箇所だけ。



 労務については、ローマ法的な債権契約な性格という考えと、ゲルマン的な身分契約な性格、という大まかな二つの見方が、歴史的にある。
 で、労働者保護の問題意識から、雇用関係の身分的性格を強調したのが、末弘厳太郎
 この労働法の元祖の影響もあって、日本では、雇用を債務契約として捕らえることはあまり積極的ではなかった。

 これが戦後メンバーシップ型の判例法理が発達した原因の一つかもしれない、と著者は書いている(37頁)。

 この何気ない箇所が実は重大である旨を、金子良事先生は、本書の書評で書いている。
 (その後続く、著者と金子先生とのやり取りも要チェック)
 ここら辺、誰かに詳しく書いて欲しい所であり、実際、「末弘厳太郎の話も出ていましたが、初期の労働法学者が契約原理を曲げてまで就業規則の普及をめざした事情についても、もうちょっと書いてほしかったような気もしました」とコメントされておられる方もいた。

 ちなみに、「末弘厳太郎が日本の労働法の元祖であるとともに法社会学の開祖でもあるという位置にいる」にもかかわらず、「日本の法社会学というそれなりに確立した学問分野において、労働の世界はほとんどその対象として取り上げられておらず、事実上欠落」している(この記事)。
 また、「多くの労働法学者の関心が集団的労使関係の、それも労働基本権に集中し、団結権とかスト権とかばかり論じられているところでは、そういう労働組合もあまりないような中小企業の個別労働関係に着目した研究というのはほとんど見当たりません」とも(この記事)。
 ここら辺の「どうしてこうなった orz」に対する解説が、今もなお待たれている(結局、大企業と中小企業との二重構造を背景とする「報道バイアス」ならぬ「研究バイアス」に帰着してしまうのかも)。
 
 この記事を読むと、何だか、「一億総中流」論の成立とかにも関わっているようにおもうのだけど。



 急進的な労働運動を抑制するため、1949年に労働組合法が改正され、労働協約が自動延長できなくなり、経営者の一方的な破棄によって無協約状態が広がっていく。
 その結果、日本では、労働協約ではなく、就業規則が強い影響力を持つことになる
(45頁)。

 是非、労働協約の自動延長をデフォルトにするようお願いしたいところだが、この就業規則の強さというのは、水町勇一郎『労働法入門』のいうように、労働者整理解雇しにくくした「代償」(等価交換w)的な意味ももっているので、話は簡単ではない。



 1950〜1960年代に大規模な配置転換が装置型産業で起こる。
 この労働需要を殆ど、旧工場の労働力を配置転換して満たすやり方を取った(81頁)。

 労働者は、子飼いで長期雇用システムの中で昇進・昇給していたので、その道から外れるのは、低賃金の中小の労働者や臨時工のなかに放り込まれることを意味しており、選択肢はなかった。
 しかし一方、労働側は、配置転換を受け入れつつも、労働条件の維持を要求し、実現した。

 日本のメンバーシップ型の雇用の背景の一つにあったのは、こうした「大企業と中小企業という対立軸」なのだろう、と、こういうのを読んで思う(またも「二重構造」か)。

 他国の「雇用と労働法」の歴史との比較というのが、今後必須になってくるのかもしれないが、EU内部でさえその歴史は多様なのだから、難航を極めるだろう。



 戦後、新制高校が設けられ、戦前の実業学校は職業高校に移行した。
 しかし教育界では、「普通教育が偏重され、職業教育を不純物と見下す発想が強く、職業高校は沈滞」
 こうして"みんな普通科に行けるようにしよう"という考え方が広まり、職業高校は、普通科にいけない「落ちこぼれ」の集団と見なされるようになった(100、101頁)。

 『新しい労働社会』と重複する箇所であり、ここら辺の教育界側の思惑については、苅谷剛彦『教育と平等』も参照されるべきところか。

 この件については、著者が以前紹介した田中萬年先生の論文も必読だろう(ここで紹介している)。
 曰く、「戦後にアメリカの学校制度をモデルにしたが(略)アメリカではわが国のように職業(専門)高校と普通高校を明確に分離しない、いわゆる総合制高校である。そこではわが国のすべての高校の内容が修得可能なのである」。
 実に重要な指摘である。

 実は、田中先生はその当該の論文の最後で、「職業教育には財源が膨大にかかる。江戸幕府より困窮していた明治政府は、職業教育を施策できなかった。」とも書いておられる。
 日本における職業教育の弱体化は、上記の「上部構造」的な歴史的経緯のみならず、財政という「下部構造」的な側面も与っていた可能性がある。

 戦後すぐに「財政が膨大にかかる」職業教育はできず、その他「上部構造」的な経緯もあって、職業教育は盛り上がらなかった・・・みたいな仮説を、誰か検証してくださいw



(追記。2013/11/5)
 上の、戦後日本において職業訓練が盛り上がらなかった原因については、ブコメでgruza03氏が書かれているように、「旧帝と四年工・大学(二部)。職業高校出身と労働組合内の序列。階級差別を生んだ労働運動の現実とその脱却としての普通教育偏重への傾斜と職業訓練蔑視」という、階級の壁も、背景にあると思われる。
 ここらへんは、苅谷剛彦先生案件だろう。
 で、末弘厳太郎ら「初期の労働法学者が契約原理を曲げてまで就業規則の普及をめざした事情」については、こちらのブログさんの記事で、次のように解説されている。
 「就業規則は工場という部分社会の慣習法であるとした末弘厳太郎」が「法規説を採った理由は、当時、使用者の恣意的な労働条件決定や変更が横行する工場内において、経営上の必要性と職工の(大体の)承認を条件に就業規則自体の法律的効力を肯定し、もって使用者の横暴を律するところにあった」。
 「形式的な契約説は無力であり、実態に即した法規説による労働者保護こそが必要であると末弘は考えたのであろう。しかし(以下略)」と話は続くが、続きは引用元ブログの記事を御参照あれ。