日本の戸籍に見る「機会主義 (あるいはご都合主義)」について -遠藤正敬『戸籍と国籍の近現代史』を読む-

 遠藤正敬『戸籍と国籍の近現代史 -- 民族・血統・日本人』を読んだ。 

戸籍と国籍の近現代史――民族・血統・日本人

戸籍と国籍の近現代史――民族・血統・日本人

 

 内容は紹介文にもある通り、「日本国家は歴史的に『国籍』のみならず『民族』『血統』といった概念を、戸籍という装置を用いて操作してきた。戸籍*1は近代日本においていかにして誕生し、国籍と結びついて『日本人』を支配してきたのか」をまとめたものである。

 「入籍」と言葉は養子縁組をも含む*2、ということや、旅券が国籍の証明として国際的に共通の制度となるのは第一次大戦後の出来事、など基礎(豆)知識として読むべきところも多い。
 戦後の朝鮮籍の話*3 や戦後の国籍選択の話題*4 、ドイツにおける血統主義の変化*5等も取り上げたいが、今回は大きく取り上げることをしない。

 以下、特に面白かったところだけ。*6

苗字と徴兵

 人別帳や寄進帳などには庄屋から水呑百姓に至るまで苗字の使用例が確認されており、苗字の使用は庶民の間でも幅広く定着していたことがうかがえる。また、庶民が苗字を公称出来ない代わりに、職業上の必要から屋号や芸名を個人の呼称として用いることもあった。

 著者によると、私的な使用であれば、江戸期にも苗字は使用されていたという。
 公称以外はできたようだ。
 また、苗字は、明治になって権利から義務となった。
 なぜか。
 著者によると、徴税・徴兵の為であったようだ*7

旧姓を維持せよ、と命じていた明治政府

 1876年3月17日、太政官指令 (略) 妻は夫の家に入ってからも旧姓を維持すべきものとされていた。

 じつは、家系を示すため、別氏を容認せざるを得ないという政府側の事情があったため、別姓を維持せざるを得なかった事情があった。
 じっさい、井上毅も1878年に、内務省への意見書案において、戸籍法によって戸内の氏姓を統一しようとするのは、慣習に適合しない、と理解していた。
 1890年の旧民法人事編も、他の家から来た人がその家の氏を称すべきという慣習は、「古代と大に異なる所」と、正直に認めているさえいるのである。
 しかし、「近代的な民法典の制定は、1870(明治3)年から始められ」、最終的に「1898(明治 31 年)年、民法親族編・相続編が成立した」際には、「氏は家の名称となり、『戸主及ヒ家族・其家ノ氏ヲ称ス』(746 条)と規定され、婚姻によって夫の家に入る妻は、夫の家の氏を称し、その結果として、夫家の氏による夫婦同氏となった」*8
 そして、「明治民法は、個人の識別機能を有する氏が家に属するかどうかによって決定されるシステムを採用したのである。 (略) 夫婦同氏の積極的な根拠は何ら示されていない。家の論理が全てであり、根拠を示す必要もなかったのである」*9

戸籍における歴史的な「差別」

 戸籍簿には「族称」の記載事項が設けられており、「元穢多」とか「新平民」なる記載が戸籍上に維持された。 (123頁)

 戸籍簿とはこの場合「壬申戸籍」を指す。御一新なるものの実態がこれである。
 著者はネット上の記事において、

1872年に全国統一戸籍として「壬申戸籍」が編製されたが、これは動乱後の秩序を回復する目的もあって警察的な観点が強く、身許調査も兼ね備えていた。「士族」「平民」といった族称、前科、氏神神社などの記載がそうである。とりわけ被差別部落出身者について「新平民」「元穢多(えた)」、アイヌについて「旧土人」などと記載するなど、差別の意図が明らかな記録もあった

と書いている*10
 上記のような明らかな差別的記載は例外的であったにせよ*11、族称の記入はその後も続くこととなる。
 新たに大正3年に制定された戸籍法においても、族称欄は維持され、「華族」・「士族」等は記入される状況が続いた。
 昭和13年になっても、「『族称』という文字が印刷されていない空欄に、大正三年戸籍法第一八条第三号どうり、華族士族の場合はその旨を記載し、平民は記載しない。その点では、大正三年戸籍法の原則が変わったわけではなかった」のであり、 昭和22年の「『民法の応急的措置に伴う戸籍の取扱に関する件』(民事甲第三一七)の第二『戸籍法中適用のなくなる条文』」まで、族称は事実上続いたのである*12

戸籍における「機会主義」

 戦前の日本は、日中二重国籍を駆使する台湾籍民を、「日本人」としての愛国心など望めないことも計算ずくで、日本の国策に利用しうる人的資源として便宜的に「日本人」としての地位を保障した歴史がある。 (286頁)

 詳細については、著者による論文「台湾籍民をめぐる日本政府の国籍政策の出立 二重国籍問題と清国国籍法への対応を中心として」*13が参照されるべきだろう。
 そして、

 国策として開拓民を異郷の地に送り込んだときには戸籍に縛りつけて「日本人」として扱い、戦後に帰国事業を打ち切って未帰還の「日本人」の戸籍を奪ったのが日本政府である。国家との政治的・精神的紐帯とされる国籍であるが、それは戸籍を介して機会主義的に操作される (261頁)

 本書の肝となる箇所である。
 戸籍における「機会主義」こそ、本書のキーワードである。

植民地支配における戸籍の使い方

 「同族」であるか否かの標識となる「姓」と「本貫」を戸籍簿上に記録しておくことは朝鮮人と内地人を識別する上で必要であったわけである。 (225頁)

 朝鮮を植民地化した際の話である。
 ここでいう本貫とは朝鮮半島におけるものであり、宗族やその発祥の地を指す。
 支配権力にとって、こうした処置は好ましかったのである。
 つまり、彼らが朝鮮人であると分かる「スティグマ」となったのである*14

  同化主義を徹底するならばすべての「日本人」の戸籍を一元化すべきであるが、これは内地人という支配民族の純血性と優位性を顕示する上で阻害要因になるという認識が日本政府の底流にあったのである。 (230頁)

 大日本帝国は同化主義を徹底せずに、こうした二級市民的な扱いを継続することとしたのである。

満洲国は独立国家?

 日本人、朝鮮人はいずれも満洲国にあっても戸籍に緊縛されることで「日本臣民」であり続けた。「日本臣民」の証しとなる戸籍は、満洲国でも不可侵の扱いとされた (224頁)

 満洲国での事例である。
 「日本臣民」も、満洲国の「民籍」への登録によって日本国籍を失うことは、なかったのである。
 結局満洲国は、「日本臣民」の処遇にかまけて、国民も国籍も創出できなかったということになる。
 満洲国の人間になっても、日本人と朝鮮人それぞれ戸籍で縛られていたというのだから。
 この辺の詳細については、著者による論文「満洲国における身分証明と「日本臣民」:戸籍法、民籍法、寄留法の連繋体制」が参照されるべきだろう*15

無国籍の防止を優先したほかの先進国

 日本が採択した国籍選択制度は、1977年のヨーロッパ理事会閣僚評議会における重国籍防止の決議に倣ったものとされているが、ヨーロッパでこの決議に従って国籍選択制度を採用したのはイタリアのみであり、そのイタリアも1992年にこれを廃止している。

 イタリアにおいても、1997年のヨーロッパ国籍条約(2000年発効)により、出生を原因として異なる国籍を取得した子供には、権利として当然に、重国籍を許容するものとなった*16
 とにかく、無国籍の発生防止が優先された結果である。
 日本の現状は遅れている。

韓国での実例

 2005年2月に憲法裁判所は戸籍制度について、個人の尊厳と男女平等の憲法精神に合致しないものと決定し、これを受けて同年3月民法が改正されて戸主制度が廃止された。(略)戸籍に替わる個人別編製方式の家族登録簿の起草に着手し、2007年5月に家族関係登録法が制定 (291頁)

 韓国のケースである。
 著者はある講演にて

韓国は独立解放後も、日本統治時代の戸籍を引き継いで、これを基盤とした戸籍制度がしばらくありましたが、2008年に廃止されています。現在は『家族関係登録』という、個人ごとに婚姻や養子縁組などいくつかのことを登録するという形になっています

としている*17
 「戸籍制度の持つ様々な矛盾は、韓国や台湾では1980年代後半以降の民主化の流れの中で問題視され、両国では事実上廃止された」のである *18
 戸籍廃止については日本が大いに遅れている。

 

(未完)

*1:著者も本書にて述べているように、日本の戸籍制度と他の国の制度との違いは主に、1.身分登録を個人ではなく家族単位で行っていること、2.出生や婚姻などの出来事ごとに登録するのではなく、出生から死亡まで統一的に記録していること、3.出生や婚姻、離婚、死亡などの範囲だけでなく、親族関係まで登録させること、などである。

*2:ちなみに著者によると、「養子縁組による当然の国籍変更を認める立法は、日本以外では中華民国 (略) 以外にその例を見ないものであり、入夫婚姻に至っては、制度自体が諸外国にはない日本唯一のものであった」という。まさに「イエ社会」である。

*3:吉田茂在日朝鮮人の者たちを「不良分子」呼ばわりしたことがあったが、著者は「その大半は戦前から日本に滞在していた者であり、祖国に引き揚げたものの、やはり日本で築いた生活基盤によるべを求めて再び渡日してきたケースが多かった」としている。この引用部は1955年に出版された森田芳夫『在日朝鮮人処遇の推移と現状』に依っている。この『在日朝鮮人処遇の推移と現状』について、外村大は、「日華事変以後の戦時体制下にあって、政府は、朝鮮人を集団的に日本内地に強制移住せしめる策をとった」、「労務管理の不当であったこと、また契約期間の延長で安定しないこと」等の記述があることに言及しつつ、当該書が「朝鮮人労務動員が本人たちの意思に反し暴力的なものであったことを、少なくとも否定したものではないことは確かである」としている(「朝鮮人強制連行―研究の意義と記憶の意味―」http://www.sumquick.com/tonomura/note/2011_01.html)。

*4:著者は、大沼保昭の著作を参照して、「ヨーロッパにおける戦後の領土変更における国籍問題への対応をみると、領土住民に国籍選択の自由を与えて解決を図っている」と述べる。そして、インド、パキスタンビルマオーストリアなどをそのケースとして挙げている。日本はそうした国籍選択の自由を与える措置をとらなかった。鄭栄桓「植民地の独立と人権 : 在日朝鮮人の「国籍選択権」をめぐって」https://ci.nii.ac.jp/naid/120005298916 は以下のように書いている。

松本邦彦によれば、日本政府・外務省は1946年1月ごろから対日講和条約の具体的検討を始めるが、当初、在日朝鮮人の国籍の問題は送還とセットで考えられていた。このため、在日朝鮮人国籍選択権を与え、朝鮮国籍を選択した者については日本政府が「退去を命ずる権利」を有するとする案であった。しかし、1950年7-9月頃に、在日朝鮮人共産主義者日本国籍を取得することを忌避した吉田茂のイニシアチブもあり、国籍選択権を認めず日本国籍の取得は国籍法による『帰化』のみとする方針へと転換し、国籍喪失措置が採られることになった。

反共主義者は度し難い。

*5:著者によると、「ドイツは1999年に国籍法を改正し、子の出生の時点で親の一方が8年以上合法的にドイツに定住しており、すでに永住資格をもっているか、または3年以上の無期限滞在許可をもっていれば、子がドイツ国籍を取得するものとした」という。血統主義だったドイツもこのように変化している。なお、渡辺富久子「【ドイツ】 国籍法の改正」http://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_8802176_po_02610205.pdf?contentNo=1 によると、その後、「国籍法が改正され、外国人の子で、ドイツで出生したことによりドイツ国籍を有するものが一定の要件を満たす場合には、成人後も二重国籍を保持することができるようになった」。

*6:なお、本稿では、「氏」や「姓」、「苗字」などの厳密な区別はあえてつけないこととする。

*7:二宮周平が、2011年12月5日付の「意見書」http://www.asahi-net.or.jp/~dv3m-ymsk/ninomiya.pdfにて述べているように、

明治政府は、国内統一及び不平等条約の改正などの事情から、強力な中央集権国家を建設する必要に迫られていた。治安維持、徴税(年貢から金納)、徴兵(国民皆兵)、義務教育などのために、国民の現況を把握する必要があり、その方法として、国民すべてを「戸」を単位に掌握しようとした(井戸田・前掲書 10 頁)。それが、1871(明治4)年制定の戸籍法である。

ここでいう「井戸田・前掲書」とは「増本登志子・久武綾子・井戸田博史『氏と家族』(大蔵省印刷局、1999)」を指す。そしてその根拠として、

1875(明治8)年、陸軍省は、『僻遠ノ小民ニ至リ候テハ現今尚苗字無之者モ有之兵籍上取調方ニ於テ甚差支候』(地方の庶民にはまだ苗字をもっていない者があるが、兵籍の取り調べに非常に差し支える)と問題を指摘し、『右等ノモノ無之様御達相成度……比段相伺候也』として、苗字を名乗ることの徹底を求めていた(1 月 14 日 陸軍省伺)。

と、当時の陸軍省の見解を引いている。徴兵は芳しく進んだわけでもないようだが、ともかくも、政府側の狙いは明快だったのである。

*8:同・二宮周平「意見書 2011年12月5日」http://www.asahi-net.or.jp/~dv3m-ymsk/ninomiya.pdf

*9:同上

*10:遠藤正敬「『真正なる日本人』という擬制――蓮舫議員の二重国籍と戸籍公開をめぐって」https://synodos.jp/society/20253/

*11:ただし、著者はある講演にて、

例えば「平民」という族称は、1938年の司法省民事局長の回答で、戸籍謄抄本には載せないようにとされましたが、通達とかは全国津々浦々に浸透するわけではないので、この民事局長回答が出た後もしばらくは、部落出身がわかるような族称を書いてしまって交付される事件も見られたようですね

と言及しているhttp://www.bango-iranai.net/news/newsView.php?n=214-2

*12:井戸田博史「戸籍用紙『族称欄』族称文字の削除」より。https://ci.nii.ac.jp/naid/110000479325

*13:https://ci.nii.ac.jp/naid/120002315175

 また、本論文に対する評価として、岡本真希子「2010年日本における台湾史研究の回顧と展望」(http://kgpublic.tsuda.ac.jp/view?l=ja&u=100000260&a2=0000001&sm=affiliation&sl=ja&sp=2&c=ronbn&dm=0 )も参照のこと。以上、2020/7/31に追記した。

*14:ただし、吉川美華「旧慣温存の臨界 : 植民地朝鮮における旧慣温存政策と皇民化政策における総督府の『ジレンマ』」は、

日本との違いを助長するために採用された旧慣温存政策は,1939 年までの約 30 年もの間,その基本方針を変更することなく維持することで,統治側と被統治側を慣習によって明確に分かつ役割を果たしてきた。同時にこの政策は朝鮮の慣習,つまりは宗族の組織的なネットワークの強化に強く作用した。そのため,総督府の急激な政策方針の転換によって皇民化政策が進められても,小手先の制度改正とプロパガンダでは数値上は政策成績は上がっても,その本質には作用せず,むしろ定着した宗族ネットワークの再編に利用されたに過ぎなかった

と、日本側のその後の「誤算」に言及しているhttps://ci.nii.ac.jp/naid/120005690473

*15:髙希麗は次のように述べている(「日本における「国籍」概念に関する一考察 : 在外日本人の側面から (東アジアにおける法学研究・教育のための国際集会」https://ci.nii.ac.jp/naid/120006366540 *一部註番号を削除して引用を行った。)。

満州国は、1932 年に独立国家として建国され、多くの開拓民である内地人が満州国に移住・滞在した。満州国では、別途国籍法・戸籍法の整備が計られたが、身分登録としての民籍法がおかれていた。満州国において日本人は、台湾の民籍への登録を推奨されていたが、これは満州国国籍ではなく、民籍への登録は日本国籍の喪失に影響するものではなかった。こうして、満州国においても日本人は「日本臣民」とされたのである

上の引用について、著者・遠藤「満洲国草創期における国籍創設問題  複合民族国家における『国民』の選定と帰化制度 」が参照されている。

 以上、2020/8/3に追記を行った。

*16:大山尚「重国籍と国籍唯一の原則 」は、「欧州評議会の加盟国の間では、1997年の「国籍に関するヨーロッパ条約」において、出生や婚姻により重国籍となった場合には、これを容認しなければならない旨の規定が設けられて」いるとしているhttp://www.sangiin.go.jp/japanese/annai/chousa/rippou_chousa/backnumber/2009pdf/20090801103.pdf

*17:http://www.bango-iranai.net/news/newsView.php?n=214参照。また、「韓国も家族関係登録法が施行されてからかれこれ10年近くなるのですが、そんなに大きな混乱が起こったという話も聞きません」とし、

おもに女性から草の根の「戸主制度廃止運動」みたいなものが起きるのですね。韓国が1987年に民主化して以降、大統領選挙のときも民法・戸籍制度の廃止というのも争点になるくらいで、いわば下からの運動で盛り上がっていきます。そして2005年に韓国の憲法裁判所が、戸主制度は憲法違反であるという判決を出して、それで立法が動いて2008年に戸籍法が廃止になった――という経緯だったと記憶しています

と背景を整理しているhttp://www.bango-iranai.net/news/newsView.php?n=213

*18:清原悠「『区別』という名の『差別』――遠藤正敬著『戸籍と国籍の近現代史――民族・血統・日本人』(明石書店、2013年)に見る、『戸籍制度』の持つ矛盾」http://toshoshimbun.jp/books_newspaper/week_description.php?shinbunno=3196&syosekino=8079