なぜ日本には、「シェルター」が少ないのか -宗教に関して- 湯浅誠『本当に困った人のための生活保護申請マニュアル』(2)

 いつ経済的な転落を経験するかも分らない身の上ですので、備忘録のように、本書の内容を書いていきました。しかし、本書の内容は、いかに生活保護の申請をするか、ということにとどまりません。この本の著者は、「自立生活サポートセンター・もやい」の事務局長をつとめている社会活動家であり、この本からは、マニュアル本という範囲ではくくり終えられない、著者が目指す社会像と、それを目指すための意思と方法が、書かれているのです。
 「貧困」が日本社会全体に蔓延しつつあり(200頁)、路上で人が過ごす数の多い国・野宿者大国は日本だけであって海外はシェルター(避難所)がある(114頁)という言葉も、『反貧困 「すべり台社会」からの脱出』の著者だからこそ、重みを持ちます。ちなみに、 「シェルター」というのは、ここでは貧困者やDVの被害者などが一時的に避難し宿泊できる施設のことです。
 「[海外] アメリカのホームレス事情──玉山ともよ」ピープルズニュース』によると、アメリカでは、「ホームレス専門の医院、そしてホームレスの子どものみが通うことのできる保育園までもある。 シェルターの多くはキリスト教系の慈善事業によって運営されており、女性専用やティーン専用もある。」という風に、多くがキリスト教系の事前組織によって運営されているようです。宗教を含む救済団体への寄付と、それによる【再分配】のシステムが他国に比較して確立していない、これも、日本においてシェルターが少ない原因の一つといえるでしょう
 そのような日本の社会で著者は、どのようなスタンスで申請を希望する人たちに接するのでしょうか。
 著者は、申請をする人へ付き添う際の注意についても、触れています。「あくまで脇役であり、本人より前に出るべきではない」(207頁)、と。今後自身が主役として、役所をはじめとして、社会の中でやっていくには、本人が自分の力でやり遂げた、という達成した自信が必要だからです。相談員との面談の場面でも、あくまで、同席して黙っているだけでも、十分なプレッシャーを与えられる、と著者は言います。
 主役はあくまでも本人である、というのは、「言うは易し行うは難し」です。たいていのひとは、ついつい口を出してしまうのが常だからです。しかし、それだけが、難しい理由ではありません。
 著者の脇役に徹する姿勢は、時に、申請者本人が、相談員の尋問のような質問攻めや非協力的な態度に怒りを覚えて、申請をあきらめる、という事態を作る原因にもなりかねないからです(著者のインタビューにおける「カイさん」のエピソードを御参照下さい。「時代を駆ける:湯浅誠/2 貧困は自己責任ではない」『毎日jp』より)。
 確かに、自分が積極的に申請を助ければ、申請は通るが、それでその先、申請した本人はやっていけるのか、というのが著者の考えなのです(もちろん著者は、あきらめた申請者への説得を欠かさないはずですし、決して親切心が欠けているのでもありません)。生活保護を申請する人は、それまでの人生において自信を失っている人が多い、だからこそ、このような姿勢をあえてとるのです。
 ここに著者の姿勢がうかがえます。ただ形だけ「自立」させるのではなく、「自信」をもたせて社会へ送り出すこと。これが何より重要なのです。
 著者の、目標とする社会を目指すための方法は、他にもあります。著者は、ほんとうは「相談員やワーカーたちは「ともに闘う同士」にならなければならない」(197頁)、とも述べています。この言葉は、この本が単なるマニュアル本としてあるのではなく、「社会活動家」としての著者の【思想書】であることを示すものです。単に、申請を勝ち取るという目標だけがこの本の目的ならば、こんなことを書く必要はないのです。「敵」のはずなのですから。
 彼には、もっと先に目指したい目標がある。だからこそ、このような記述もあるのです。相談員たちもまた、実は社会的に圧迫を受けている存在だということを、著者は承知し、相談員たちと申請者たちとが連帯する先に、目指す社会像を見ているのです。
 改めて言うと、本書は、単なるマニュアル本ではなく、そこには、著者が目指す社会像とそれを目指すための意思と方法が、書かれています。この本に期待できることは、生活保護の申請方法だけではないことを、改めて強調したいと思います。

(続く)