■「溜め」による自己責任論批判■
本来、昨日分で書評の範囲は終わっているのですが、一応重要なことですので、自己責任論における「努力」の問題、及びその他について少しだけ書きたいと思います。
自己責任論に対する著者の考えは、wikipediaに概要があります。曰く、自己責任論からは、「自他の持つ社会資本の格差(親の所得格差、人脈の有無など本人の努力以外の部分で社会における有利不利を決定づけるもの)」が無視され、しかも、この自己責任論は、「「負け組」の人々においても内面化」されている、と。この社会資本を、著者は「溜め」と呼んでいます。
「湯浅誠『反貧困』」にて、『紙屋研究所』様が、適切に指摘するように、「少なくともこの概念を経ることで、「自分は抜け出したのだから」「私は陥らなかったから」という議論はもはやできなくなる」わけです。「貧困の背景・実態を多くの人達に知らせる必要がある。」というのも、そのとおりです。
■【残り物】としての「努力」■
しかし、今回書きたいのは、自己責任論における「努力」の問題です。この論の場合、「自己」というものは、自己の努力という言葉に言い換えられます。自己の努力が足りないゆえに、その責任は自己が被る、となります。
著者はそれに対し、各々の人の金銭や家族・親族・友人等の人間関係などを考慮して論じろ、という。これによって、自己の努力の絶対性は、相対化されるのです。
これを敷衍して分るのは、自己の努力というのは、金銭や家族・親族・友人等の人間関係などの「外部要因」を、取り除いた結果残る、残り物ではないか、ということです。ある人に起こった事柄の「責任」というのは、どれかに帰せねばなりません。でもいきなり、自己の努力に帰そうとする人はいません。自己責任論によって、人の努力に責任を帰する人間も、まず先に「外部要因」の方に、原因を探すはずです。そしてそれが見当たらないので、努力に責任を帰するはずです。
もう「外部要因」が見当たらなければ、じゃあ、人の努力に責任を帰する、という風になるわけです。私たちは、確固として、自己というのがあり、自己の努力があると考えがちです。しかし、自己の努力というのは、「責任」をめぐる議論で見たとおり、「外部要因」に原因を帰結させられない場合に、これに帰属させる、というような消極的な存在です(これについて理解するには、哲学における意志論の問題を、応用していただければと思います)。
先天的に重い障害のある方の場合、【自己の努力】へ、すぐには責任は着せられにくいです。親の収入が低いゆえに低所得となっている人の場合、また、それによって十分な教育を受けられなかった場合、その程度にもよりますが、【自己の努力】の責任は部分的に緩和されます。【自己の努力】というのは、「外部要因」を探していって、それを差し引いて残った、「残り物」なのです。
(続く)
(追記) 「自己の努力」というのが、つまるところ、外部要因を取り除いた「残り物」ではないか、と説いてきました。
ここであるブログについて、言及することにしましょう。「貧固・犯罪の自己責任論は正しい。」(『社会学玄論』様)という「釣り」でかかれたはずの記事です。ユーモアに溢れており、突っ込みどころ満載なので、ニコニコ動画あたりに投稿すると、よいのではないでしょうか。
内容は、「貧固・犯罪の自己責任論は正しい」と主張するもの。
が必要だと書かれてあります。アルコール依存症、ギャンブル、女遊び、薬物依存、浪費癖、放浪癖、職業選択の選り好み、協調性の欠如などの自己問題要因を併せ持つ、ホームレスや犯罪者になった人間が、ホームレスや犯罪者の中でどれだけいるかを調査し、それが主たる生活に窮する要因になっているかどうかを調査すること
これに対しては、?例えばどのような基準を使って、「女遊び」好きだとか、「協調性の欠如」があるのなどを、調べるつもりなのか、?ある程度の経済的余裕のある人たちは、上の幾つかの特性を持っているはずだが、彼らはホームレスになりずらいのではないかという点を考慮していない、などの考えればすぐ出てくる反論が出てきてしまう、まさに、「釣り」の主張です。
?について記事では、「年間何千件とケースを処理する福祉ケースワーカーの調査や矯正保護の専門職員たちの分析調査があるはずである。」と書かれている以上、その証拠を探し出す努力があるはずなのですが、そんな声は聞かれないので、やはり「釣り」です。
しかも、その後で「失業しても病気になっても、つまり生活に窮しても、ホームレスになったり犯罪をしない人たちもいるわけであるが、そういう人たちはこれらの自己問題要因を抱えていないということである。」などと書かれてしまう始末。犯罪を犯さなければ、特に「原因」が探されることはないが、犯罪を犯したとたん、「女ずき」やら「協調性の欠如」やらを、原因としてあら捜しされる。このような構図を想定していない。やはり、「釣り」です。
?についても、「アルコール依存症、ギャンブル、女遊び、薬物依存、浪費癖、放浪癖、職業選択の選り好み、協調性の欠如などの自己問題要因が貧困・失業・孤立をつくりだすそもそもの原因となっている」というなら、あらゆる所得層の人間から、上記の特性を持つ人間を割り出し(しかしどういう判断基準で?)、その要因によってどの程度の人間が階層的転落をしていったのか「調査」が必要だと思うのですが、する気はなさそうです。「やる気が無い」というツッコミが入る、やはり「釣り」の議論です。
というのは、傾聴に値するかもしれません。しかしその解決方法が、「規範意識が強ければ自己予防や自己抑制できる」という【自己の努力】でなんとかしろ、と。貧困・失業・孤立を防ぐために、生活保護・就労・コミュニティへの包摂を図ったところで、アルコール依存症、ギャンブル、女遊び、薬物依存、浪費癖、放浪癖、職業選択の選り好み、協調性の欠如という個人にまつわる問題性を解消しないと、再度、生活破綻を来たし、貧困・失業・孤立の状態に自己を追い込み、ホームレス化あるいは犯罪化するのである。
アルコール依存症から立ち直るための互助コミュニティとか、そういった互助的組織や制度などの解決策を省いて、どこまでも「自己責任」でカタをつけようとする強引さ。まさに、「釣り」の議論。「社会学を社会学する自己言及」をすると、ルーマンもびっくりのへんてこ理論になるという実例を、身をもって演じておられるわけです。
本書評(4)にて、「自己責任論」の濫用を論じることになりますが、ここまで徹底した自己責任論(笑)はなかなかありません。そんなわけで、突っ込んでみました。
(もっと追記)
「貧固・犯罪の自己責任論は正しい。」(『社会学玄論』様)という「釣り」記事に、「補足説明」が出現しました。実にサービス精神旺盛な書きっぷりに、思わず爆笑してしまいます。仔細に検討してみましょう。
・「「溜め」による自己責任論批判を行うが、「溜め」という社会資本は上記の自己問題要因によって目減りするわけであり、何ら自己責任を免れる免罪符にはならない。」 と書いてあるのですが、こちらの議論は、別に免罪符云々など書いた覚えはなくて、単に、「溜め」を考慮しないで、自己責任云々言っていてもしょうがないんじゃないの?という程度のお話。言ってもないことを、言ったかのように書くのも、「釣り」の議論ですよね。ご教授ありがとうございます。
目減りしてもなお、貧困の主因として挙げられるゆえに、湯浅誠さんはこの概念を提唱されたはずなのですが。「溜め」と、「女ずき」「アルコール依存」などと、どちらがより貧困の主因になっているのか、実際のところ追求が難しい(検証できても時間とコストがかかる)がゆえに、ベーシックインカムなどの諸議論もあるわけです。(この点については、拙稿「「漏給」問題への対策と、Jカーブ効果批判」を参照。) ベーシックインカムなどの議論の有用性が身にしみる、「釣り」の議論です。
せめて、湯浅『反貧困』で挙げられた事例に反証するだけの事例・データは提供できないといけませんよね。
・「多くの人は、会社が倒産して失業してもすぐに仕事を見つけ、ホームレスにならないのである。」などと書かれてあって、さらに爆笑。今の景気だと、就職できても、これまでの生活水準をかなり落とさざるを得ないところに就職することになるでしょうし(派遣労働を含む)、そのこと自体を英国などでは問題視している模様ですね。「日本では「自立支援」と称して、シングルマザーだけでなく高齢者の生活保護受給者も、不安定で低賃金の劣化した雇用に追いやっている。雇用が貧困を解決するどころか、逆に貧困の要因となり、ますます雇用の劣化と貧困を広げるという悪循環を生むワーキングプア促進策となっているのが現実だ。」と「ハリー・ポッターは日本では生まれない」(『すくらむ』様)という記事が伝えています。
・「例えば、職業を選り好みしたり、貯金を家賃にあてず飲酒やギャンブルにまわす人たちがホームレスになりやすいでのある。」というのは、マクロの視点からすれば、失業がどうやっても起こってしまう点を無視しています。「社会学」の人は、ケインズとかの名前は、最近は大学でも学ばれないのかもしれません。そんなことまで考えさせる素敵な「釣り」の議論です。(「マクロから見る貧困」というテーマについては、拙稿「【自己責任論=精神論】と「濫給」問題」をご参照ください。
「自己問題要因を抱えているから、普通の人なら克服できる外部要因=困難も克服できないのである。」まで来て、また爆笑。その「普通の人」がどの程度「溜め」を持っているのかどうか、そのところ、調査結果が出たら教えて欲しいです。楽しみに待っています。
また、「ホームレスや犯罪という社会生活上の大きな生活障害が起こることは病理的なものとして見なされることになる。」というのは、貧困ゆえに犯罪を起こし、ホームレスに身を落とした人たちが聞いたら、抗議が来ることでしょう。「釣り」の議論とは、「社会」の介在を無視する、まさかの社会学のようです。デュルケームもびっくりです。(社会病理学のなかにも、社会自体の「病み」を問題視する傾向はあるようですが、気のせいでしょうか。)
社会制度的に、一度経済的に転落したら這い上がれない構造になっており、這い上がるためには「溜め」なり「援助」が必要なはずなのですが、この点も自己責任で解決なのでしょうか。随分とチャレンジングな社会を想定されています。社会はチャレンジングなのに、他人の貧困は自己責任論で逃げようとする、このギャップがたまりません。素敵な「釣り」です。
・「アルコール依存症」などの測定が「社会調査法の解説書をみれば、上記の項目を質問することはまだたやすい」というのが仮に事実だとしても、もし、上記条件が全て当てはまらないのに、それでも貧困の人の場合は、どうやって「自己責任」に落とし込むつもりなのでしょう。今度は、どんな要因を持ち出して、自己責任に仕立て上げるつもりなのでしょうか。今度は「貧困になりたがり病」とか言う新しい病気をおつくりになるのかもしれません。「社会学」というのは想像性豊かな議論のようです。
・「アルコール依存症、ギャンブル、女遊び、薬物依存、浪費癖、放浪癖、職業選択の選り好み、協調性の欠如は、基本的には自己コントロールすることで解決される。規範意識に基づき、自らの問題を自覚させ、立ち直りたいという動機付けのもとに、各種心理療法を受けたり、自助グループにはいるなどして治療することで解決される。」とおっしゃっているのですが、これを国か自治体が支援なりすればよい、というアイデアは全く出てこないようです。
(2010:2/7追記: 別の記事では、異なる論調のようです(「貧困・犯罪の自己責任論と社会責任論は同根である。」『社会学玄論』様)。「貧困や犯罪が自己責任に帰着する現象であったとしても、ホームレスや犯罪者が貧困や再犯に陥らないように支援することは十分に正当化される。」という論調らしく、これには同意します。
しかし、「自己責任論神話からホームレスや犯罪者を守るために、社会責任説をとり、ホームレスや犯罪者を社会的弱者・社会的犠牲者として捉え、道徳的正当性を担保しようとする者もいる。それが、湯浅氏や浜井氏である。」などと、引用もせず決め付けてしまう残念な「釣り」の議論をしています。
読む限りこの記事においては、「自己責任か社会責任か」という二項対立が前提となっているようです。【自己責任も社会責任も、両方原因として存在するのであって(つまり複合的な原因)、事例によって二つの原因の比率が異なるだけではないか】という推論もあると思うのですが、このような視点は無いようです。「湯浅氏や浜井氏」は、「自己責任」と呼びうる要素を勘案してもなお、「社会責任」が原因として重大であると考えるからこそ、自己責任論を論駁しようとしたのではないでしょうか。
「逆説的であるが、社会学的には、貧困と犯罪の自己責任論と社会責任論は、社会的弱者保護の道徳観という同一の源をもつのである。」と書いてありますが、逆説以前に、誤読されているのです。「社会学」では、「誤読」は必須の技術なのでしょうか。随分楽な学問のようです。 以上、追記終了)
・「どうも現場での質的調査の体験がなく、非常に現実から遊離された議論をしている」というこの上なく爆笑を誘うご発言。現場での質的調査(笑)。「研究のためにホームレスに何度も面接調査をしたことが」あっても、仮説自体がふわふわしているようであれば調査も台無しである、ということが学ばれる点で、やはり教育的な「釣り」の議論です。
以上、楽しい「釣り」を見させていただきました。アナクロなポンコツな議論が実に香ばしいです。他の方も、曲学阿世な「釣り」記事を鑑賞されて、楽しんでおられる模様です。
例えば、「ノマド的に「社会」に参入離脱せよ!」(『社会学的作法Blog』様)が挙げられます。ほかに、「「ニセ科学批判への違和感の本質」への違和感」という記事のコメント欄では、「論宅氏の云う「社会学」と云うのはオレ社会学ですので、ここで論宅氏の云う意味合いでの「社会学者」、と云うのが実在するのかどうかは不明ですが。」とそのオリジナリティが礼賛され、「論宅氏の標榜する「社会学」は、どうやら相対主義的な観点からの批判をまぬがれる特権的な存在のようです。」と格の違いを指摘されています。他のブログでも愛される存在のようです (詳細は、はてブでの賞賛の声を見ていただければわかるかと思います。)
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今度はもっと楽しい「釣り」が見たいです。どうも、ありがとうございました。
(遺文) 『女教師ブログ』様の「「努力」は「結果」から推計される」と言う記事も、「極端な環境決定論」か「極端な環境非決定論」の不毛な二項対立を諌めています。