自己責任論者への説得方法を考える 湯浅誠『本当に困った人のための生活保護申請マニュアル』(4)

■「溜め」を用いても説得は難しい■
 しかし、努力というものは、その範囲が過剰に求められがちです。たとえ、「溜め」が恵まれない境遇でも、これを努力で乗り越えろ、という風な考えは残存します。これが、無責任な発言なら、無視してもよいのです。
 しかしこの発言が、恵まれない「溜め」からのし上がって、現在のポジションに至っている人の発言である場合、状況は複雑です。先天的に重い障害のAさんの場合でも、自分もそうだが【自己の努力】で這い上がった、というBさんがいう場合、説得は難しいです。親の収入が低いゆえに低所得・非高水準教育のCさんの場合もまた、同じかそれ以下の境遇だったがそれでも這い上がったというDさんの場合、説得はやはり難しいです。
 「貧困の背景・実態を多くの人達に知らせる必要がある。」という戦略は言うまでもなく正しいのですし、ぜひそうすべきです。しかし、恵まれない「溜め」、もっというなら、批判対象者よりもより恵まれない「溜め」しかもっていない人の場合、自己責任論の不備について分ってもらうことは、難しいのです。(注1)

■説得の試み■
 ではどのような方法で、彼らに分ってもらうことが可能でしょうか。検討してみましょう。
 例えば、「自己責任論について」(『池田一慶ブログ』様)の意見、「企業の経営責任などは問われることはなく、経営には全く無関係の派遣社員にしわ寄せが行きます。」というのはどうでしょうか。確かに、自己責任論というのは、弱い人間に対してばかり問われます。しかし、強者側の人間には問われない言葉です。
 これは、弱い立場の人たちの場合、集団(官公庁や企業など)のに安定して所属できないがゆえに、むき出しの個人としての立場で生きなければならないことが多いのに対し、強い立場の人たちの場合、すでに集団の、それも上層に安定した所属をしている場合が多いはずです。前者が自己責任論で批判される際、彼らはその私人としての生き方に、直に責任を負わされます。後者はそれに対し、批判されるのは、あくまで職務上の失敗や不手際という、公の職業上のことに基本的にとどまります。
 この、人生や生き方自体のバッシングこそ、自己責任論における最大の欠陥です。
 では、この意見で、BさんやDさんを説得できるかといえば、やはり難しいはずです。【無論、こうした不平等は批判されるべきだが、あなたたちの努力が足りないのも事実だ。自分ががんばるのが先だ。】という批判が帰ってくるのが落ちです。「自分にはできた」からです。
 別の原理を用いましょう。孫引きですが、「派遣村バッシングの背景にある根強い自己責任論」(『すくらむ』様)における雨宮処凛の「ホームレスやネットカフェ難民ワーキングプアといった問題を当事者の自己責任だという人たちは、そう思うことで自分は「許されている」、自分には責任はない、免責されているという面があるのではないでしょうか。」という意見はどうでしょうか。
 確かに、自分自身の免責のために、自己責任論を使って批判をするケースも多いように思います。何もしない自分を正当化するために。少なくとも、彼ら自身だけの問題にすることで、社会全体の雇用の問題や経済的な構造の問題から、目をそらさせてしまうのはそのとおりです。
 しかしそれでも、BさんやDさんは納得しないはずです。【確かに、社会全体の問題なのはそのとおりだ。しかし、それでも君が努力すればいいことだ。努力不足だ。そしてやつらを見返してやれ。】という風な反論がかえってくるだけでしょう。「自分にはできた」からです。

(続く)


(注1) 「犠牲の累進性」の場合よりも、今回のケースの方が難しいです。 「犠牲の累進性」とは、「『おまえの置かれた状況などは、ほかのもっと貧しい人や大変な人に比べたら何でもない。たとえば第三世界を見てみろ。日本は先進国で豊かだ』みたいないい方ですね。こういう物言いによって問題から目をそらせ、現在その人が置かれている困難を呑ませようとする、そういうやり口や雰囲気」 のことを言います(雨宮処凛「生きさせろ! 難民化する若者たち」より(「犠牲の累進性とは - はてなキーワード」)より孫引き)。
 この場合、そう主張する人間は、そのとき、その聞き手よりも比較的豊かな環境にある場合が多いです。要するに、自分の豊かさは棚に上げながら、「ほかのもっと貧しい人や大変な人」をだしに使って、この問題を無視しようとするのです。ご都合主義というべきでしょう (この点で、「曽野綾子氏への疑問 「犠牲の累進性」にどう答えるか?」(『フロイデ』様)は参照されるべきでしょう)。
 しかし、本論では、「恵まれない「溜め」からのし上がって、現在のポジションに至っている人」の場合を、例に挙げています。これは、主張する人と、「ほかのもっと貧しい人や大変な人」(正確には過去形ですが)が、同じケースです。自己自身を語るがゆえに、なおのこと、「説得」するのは難しいのです。