具体的なものに触れること。それは、かつて「魂の唯物論的な擁護」を説いた著者にとって、当然の振る舞いといえるでしょう。映画を観ることに対しても具体的であることを常に説き続けた著者ですが、本作でも、その批評眼に衰えはありません。
例えば、亡くなったエリック・ロメールに捧げられた第14章は、彼の訃報を知る場面に始まり、まだ「エリック・ロメール」になる以前の「失敗」続きのその経歴を辿っていきます。
人生の出世街道から外れ、小説家としても成功できなかったモーリス氏は、地方の教師生活を余儀なくされます。これと同じ時期に、彼はシネマテークで映画と出会います。グリフィスにフリッツ・ラング、ムルナウにエイゼンシュタイン、チャップリンにバスター・キートンと、こうした監督たちの無声映画が彼の心を騒がせました。このとき、モーリス氏は25歳。知り合っていた映画仲間のゴダールやトリュフォー、シャブロルたちはまだ、中高生程度の年齢でした。遅い映画への目覚め。
モーリス氏は、先の小説家時代と同じように、今回も映画関係の文章を書く際の偽名を考えます。これが「エリック・ロメール」でした。
『モード家の一夜』、『クレールの膝』などの代表作を生み出したこの映画監督は、このときすでに50代後半。まさに、遅咲きの作家です。
著者は「ことによると、彼は、映画という視覚的な表彰形態が、二十一世紀の高齢化社会にふさわしい「老齢者」のメディアとなる宿命を、身をもって予言していたのかも」と述べています(231頁)。そういえば著者は、『グレースと公爵』について論じたときも、今の映画界は老齢者ばかりが元気であるという旨で、ロメールを評していましたが。
そして、話はイーストウッド監督に続きます。彼は、史上最年長でアカデミー監督賞を受賞してから、『インビクタス』までに、実に5本もの映画を発表しています。イーストウッドもまた、映画が「二十一世紀の高齢化社会にふさわしい「老齢者」のメディア」であることを実践しているかのようです。ちなみに、イーストウッドが『恐怖のメロディ』を撮ったのは41歳のときです。
そしてこの二人の老齢監督たちの共通項に触れます。それは「荒唐無稽さ」です。そんなのありかよ、冗談じゃない、という展開で共通しているのです。ご都合主義と言い換えられるのかもしれません。彼らの映画は、ある種の人々を苛立たせるのです。『我が至上の愛』の絵に描いたようなハッピーエンドと、『インビクタス』の過度の「透明さ」(「物分りのよさ」と言い換えてもよいでしょうね)。
人は、つまらない映画になら思いのほか寛容です。しかし、分際もわきまえずにつつしみを忘れて、あられもなくなれなれしく振る舞い、見るものの知的優位を揺るがせることは、許すことは出来ない。そう著者は言います。社会的な分際を踏み越えてしまう類の映画は、許すことは出来ないのです。
映画に感動することなら誰にでも出来ますが、映画に弄ばれてなおも楽しむことができる観客は多くはないのです。弄ばれるのは「老齢者」の特権じゃないはずなのに。
弄ばれにに、映画館に行く。映画は、いかがわしいのです。
(続く)