三たび、佐藤亜紀『小説のストラテジー』を読む。
西欧において、回想録はどのような意味を持つか。
それは自分の事跡を後世の歴史に残すためであり、彼らは日記でさえも、それを目的に綴っている(179頁)。
回想録と言うのは、見て欲しい自分を描くためのものであり、そのために書く側は丹念に作りこもうとしているわけだ。
大半のあっちの回想録って、某新聞の「私の履歴書」まんまなのねw
日本の中間管理職が、「信長秀吉家康小説」(著者は「歴史小説」って言いたくないらしいよw)を読んで朝礼の説教に生かすかわりに、西欧では中間管理職は伝記を読むらしい。
だが、これは出版される伝記の多くがその程度の「おやじ本」にすぎないという。
(ツヴァイクなんかは、上澄みの上澄みなんだってさw)。
んで、日本における「ビジネスエリート」が小説なんかより戦記ものとか一般向け歴史書を読むのと同じようにして、欧州のエリートが読むのが回想録だそうな。
どこの国も、変わんねえなw
あるヨーロッパ史を扱う小説家は、十年以内に出版された研究書で十分だ、という(184頁)。
これに作者も感心している。
著者曰く、「小説の質は調査の量や質とは必ずしも比例しません」。
まあ、小説家だし、研究者に張り合っても意味ないよね。
ちなみに大岡昇平の場合、歴史小説を書くときはその道の専門家の意見を仰いだ、って『成城だより』に書いてあった気がする。
これが一番手っ取り早いw
エドマンド・ウィルソンは、両大戦に対する米国の参戦は不要だったと考えていたらしい(238頁)。
自力で自由を獲得することもできない者を助けてやる必要はない、というすごく酷い理由だったようだ。
あと、本書にも書かれいるけど、この人のカフカ評価は、やはりおかしい。
(昔の「内向の世代」批判を思い出した)
ウィルソンは、マルキストである以前に、「アメリカ人があまりにもアメリカ人であった時代のアメリカ人」だったのではないか、と著者はいう。
なるほど。
分かりやすくいうと、「楽天マッチョ」ってことかw
(なお、Wikipediaのこの人の項目を見ると、もちろん優れたこともやっている人なので、チェックしてみてね。)
『記憶よ、語れ』というナボコフの「自伝」における、ベルリン時代の"空白"について著者も言及している(242頁)。
1923年から37年まで、実に14年だが、ナボコフ自身の言及は乏しい。
ベルリン時代にも、大勢の親族はロシアに残っていた。
当地ベルリンにしても、GPUがうろうろし、共産党と突撃隊が抗争を繰り返していた。
当時のナボコフ作品を読む際には、こういった出来事を考慮しないわけにはいかない。
(実際ナボコフの初期短篇にはGPUがでてくるし、彼の作品の背後にある直視しがたい暗い翳も、こうした社会的背景とともに理解される必要はある。)
ただし、著者曰く
ナボコフに触れて、そう述べている。作家にとっての最大の恐怖は、作品が何らかの歴史的・政治的文脈の中に押し込まれ、それ以外の詠み方を封じられて、要するに、で語ればそれでお終いにされることであり、そうならないためには個人史などそもそも存在しないことにした方がずっといい、ということになります。 (245頁)
そりゃそうだろう。
自分の作品を、個人の生い立ちや、社会や政治の歴史的文脈に還元されちゃ、たまったもんじゃない。
こっちは、自分の生い立ちとかを分かってもらうためでも、当時の時代背景を理解してもらうためでもなく、作品そのものを読んでもらうために書いてんだからな、って話ですよ。
「それ以外の詠み方を封じられ」ないために、プルーストはサント・ブーヴに反論した
のだし。本書は、そういった軽挙を諌めるために、書かれているはずなのだから。