「イタリアの男はマザコン」という神話について ファビオ・ランベッリ『イタリア的考え方』(3)

■「マザコン」幻想と、偏見の問題■

 多くの西欧人にとって日本の男性はマザコンが多いというが、これもまたオリエンタリスティックな態度を表すと思う。 (145頁)

 著者は、【イタリア人男性=マザコン】という、日本人のもつイメージに対して、次のように応答しています。多くの日本人にとって、イタリア人男性は子どものようなイメージなのかもしれない。しかし、異文化を「子供」のイメージで捉えるのは、実際のところ、オリエンタリズムそのものではないか。「優れた自己:劣った他者」=「大人:子供」という構図だ。
 著者は、そう論じたうえで、日本人男性について以上のように述べているわけです。イタリア人男性だろうと、日本人男性だろうと、自分たちとは異なる文化の人々を、子供のイメージで捉えるのはオリエンタリスティック、オリエンタリズムそのものなのです。さらに著者は、イタリアの若者の実情についても次のように言います。

 若い人たちが早く独立したくてもなかなかできないのは、アルバイトや仕事があまりない、そして家賃が高いなど、多くの理由が挙げられる。つまり、多くの場合、両親との同居は若い人の自由な選択ではないのである。 (略) イタリアの女性も結婚するまで家族と同居しているが、(略)「ファザコン」であるという説はまだ聞いたことはない(146頁)

 イタリア人男性がマザコンであると思われる理由のひとつに、母親を含む家族との同居の多さがあります。母親離れできない男性、というレッテルです。しかし実際のところ、若い独身男性が独立できないのは、経済的な要因による場合が多いのです。そもそも、イタリアの女性たちの場合、父親を含む家族と同居するケースが多いのに、彼女たちが「ファザコン」という説は、聞こえてきていません。この違いは何なのでしょうか。
 次のように考えられないでしょうか。Wikipediaの「オリエンタリズム」の項目にあるように、「オリエンタリズムの一種としては、「東洋」、あるいは自らよりも劣っていると認識される国や文化を、性的に搾取可能な女性として描く、といった傾向も指摘されている具体例としては、イメージの一人歩きしているハレムや、ゲイシャ、そして、最近の作品では『ミス・サイゴン』や、ディズニー映画の『ポカホンタス』などにもオリエンタリスティックな視点が見られる。」
 だとすれば、イタリア人や日本人のうち、女性であればそのまま「ハレムや、ゲイシャ」に代表される「性的に搾取可能な女性」のイメージとして配置してしまうことができます (日本においてのイタリア人女性へのイメージにかかる相応のバイアスについては、説明は不要でしょう)。しかし、男性の場合、「女性」イメージには回収できないため、「子供」という劣位の存在として位置づけられるのではないでしょうか。すなわち、「子供」のイメージ、母から自立できない「子供」のイメージとしてです。まさに、「マザコン」です。
 あくまで仮説に過ぎませんが、相応に考慮すべきことだと思います。<イタリアの男はマザコン>という神話の裏には、こうした優劣意識に基づくオリエンタリスティックな思考が存在していると思われます。(注1)

■バクシーシと幕末日本■

 イタリアの「闇」の側面が強調されたのは、「明治の初期に出版された『米欧回覧実記』という見聞録のなかに出てくる、一口でいえばイタリアは駄目な国という認識が、世上に流布したこと」によると指摘する人もいる (32頁)

 傍点は省略しました。元ネタは、著者によると、長手喜典『生活大国イタリア』という本です。
 『米欧回覧実記』では、「以太利ニ貧民多シ、羅馬ハ仏羅稜(フイレンツエ)ヨリ甚タシク、此府ハ又羅馬ヨリ甚タシ、此行欧米十二国ノ各都府ヲ略歴観シタルニ、此府ノ如く清潔ニ乏シク、民懶ニシテ貧児ノ多キ所ハナシ」と記しており、確かに、これでは悪印象となるのは否めません。山内昌之イスラームと国際政治』という本では、ナポリでもバクシーシがある、という記述があったと記憶しております。
バクシーシというのは、一言で言えば「施し」のことです。チップのようにして払う場合が多いのですが、その請求がしつこいとして、日本人には嫌われているようです。これが実は、ナポリにもあった、というのです。
 ちなみに、エジプトを訪れた幕末の訪欧使節団の武士たちも、バクシーシを求める人々のしつこさを非難しています。しかし一方で、彼らがしきりにバクシーシを行う理由についても考察しており、その原因が当時のエジプトの執政の悪さによるものであることを見抜いています。幕末の武士たちは、ある具体的な出来事の裏に、政治的・社会的背景があることを見抜く目を持っていたわけです。

■おまけ:インタビュー時の注意点■

 イタリアのいわゆる一般の人たちが日本の新聞記者と話すとき、彼らの言っていることは、その人の日本人についての知識、または日本人が聞きたいことについての推定によってだいぶ影響される (191頁)

 インタビューには、相互作用が働くということが、よくわかる一文です。あちらのほうが、こっちの意を汲んで発言してしまう、と。これと同じ例については、すでに、拙稿「紙のリサイクルは熱帯林を救わない?」において書いております。

(了)


 (注1) 河崎環「恋愛の国イタリアが超・低出生率のワケ」(『All About』様)は、イタリアの晩婚化について、

 この原因は、福祉政策の貧弱さにあると言われています。失業補償や所得保障が手薄なため、若者が経済的に自立しにくく、親に長く財政的に依存せざるを得ません。またイタリアの都市部では歴史的景観を維持するためもあって賃貸料が非常に高く、物件数も少ないという特徴があります。住宅事情が悪いので、賃貸よりも分譲という形で住宅を取得しなければ親と別居することができず、家を買う取得費用が捻出できない限りは、親元から出られないという構図になってしまうのです。

とのこと。福祉政策が貧弱で、親に依存せざるをえず、自立しようにもできない。その上、住宅もイタリアというお国柄ゆえに、賃料が高くて、やはり自立できない。それで結婚のチャンスは、「「親が納得する相手との結婚」ということになりがちだといいます。いきおい、晩婚になるというわけです」。若者が、財政的な事情などによって、自立できないというのは事実のようです。
 若者の、親との同居の多さの理由を、財政的な事情から説明しました。それでもなお、イタリアの男性には、マザコンと見なされるような行為がある、という人もいるでしょう。これに対しては、質問板での「イタリア人の男性はなぜ・・・」という問いに対するmartinbuhoという方の解答が、あります。
 曰く、マザコンと見なされるような男性の振る舞いは、「イタリア人に限らずカトリック国の男性に共通して見られます」とのこと。カトリック圏でのマリア信仰が、「女性、特に母親を尊敬する気持ち」を大きくするのだとか。イタリア男性の、母親に対する「過度」な関係や振る舞いは、マリア信仰を背景とした「母親を尊敬する気持ち」を原因とする、というのが、martinbuhoさんの意見です。スペインなど他のカトリック国との比較が必要でしょうが、ひとつの有効な説明ではあります。
 「イタリア男のマザコン度」(『Brigata Golosa』様)は、イタリア男性たちの「マザコン」ぶりの内実をこう書いています。「イタリアの場合、息子にとって母親が一番の友達であり理解者でありパトロンである、という感じで、どちらかといえば、日本の娘と母親との仲の良さに近いかもしれません。密接につながりながらも、お互い、精神的には自立している」と。「日本の娘と母親との仲の良さ」と比較して考えてみると、男性の「マザコン」振りも、あまり違和感はないのではないでしょうか。

(追記)著者のランベッリ氏の手になる「比較宗教論1 第2回 宗教とはなにか」は、宗教の定義そのものを再審する内容です。「個人的な次元=内面性=感じる・考えること=言葉が中心になる=「神」との直接で個人的なつながり」と「共同体的な次元=外面性=演じる・見せること=体が中心になる=「神」との間接的で共同的なつながり」というわかりやすい対比をするなど、読んで損の無い内容です。この点については、拙稿「『一Q禅師のへそまがり“宗教”論』」書評(1)〜(4)も、ご参照ください。