『ランジェ公爵夫人』、あるいは、足フェチ作家バルザックによる足の小説について 工藤庸子『砂漠論』(2)

■『ランジェ公爵夫人』、あるいは、足フェチ作家バルザックによる足の小説について■
 本書は、オリエントへの憧憬というのが主題の一つとなっております。西欧人たちの持つオリエントへの憧れというべきものです。冒頭の「砂漠論」と、最後の一編となる「『ランジェ公爵婦人』論」は、それがテーマ(の一つ)となります。
 バルザックランジェ公爵夫人』は、著者が翻訳したものでもあり、その翻訳を契機として「『ランジェ公爵婦人』論」は書かれています。で、本書への批評のテーマの一つは、「足・脚」です。
 例えば、作品中、ヒロインは、男に自らの素足を露わにして挑発するのですが、当時の上流階級の女が素足をみせることはまれで、素足をみせることはまさに性的な挑発となりえたわけです。著者はその背景にあるものとして、スカートに覆われた部分であるがゆえに、異性にとって禁忌の対象となったのではないかと考えており、これは一九世紀小説における「脚フェチ(足フェチ)」傾向に関わるといいます。著者は、一九世紀において女性の足に執着する小説家として、フローベールバルザックを挙げています。
 ちなみに、フローベールの脚フェチを示す作品のひとつは、『感情教育』でしょう。作品中、主人公は、ヒロインの足に魅せられており、ラストでも、その足が「たまらなくなる」って言ってますよね。蓮實重彦「運動・距離・中心 『感情教育』の構造をめぐって」っていう論文に、詳細書いてありますのでご一読あれ(『筑摩世界文學体系 16』の付録に書かれていますよ)。
 地中海対岸の気候では素足にサンダルが自然な格好でしたが、ドラクロアがその素足にオリエンタリスティックな視点をそそいでいた事実(231頁)も、ここで指摘しておくべきでしょう。素足とは、その性的な誘惑において、上流階級の恋愛の駆け引きの仕草とも、異郷の女のエクゾチシズムの表れともなる身体的部位だったのです。実際、男がヒロインの足を「値打ちがある」などと言って褒めた際、女は、オリエントの女をご存知なのねと男を牽制しているのですから。
 この素足、更に重要な役割をも果たします。男は自らの頭を、女の足に持たせかけながら愛の言葉を語りかけます。そのとき、「彼の頭の燃えるような拍動が、さながら電流のように、恋人の足からその頭へと伝わった」のです。男の頭から、彼女の素足を通して女へと電流のように道の感覚が走る。素足は、恋する熱情をも伝える身体的部位となります。
 最初は男の方が本気だったのに、いつしか女のほうが本気になり、しかし、そのときには男は女に冷淡になっていた。もう立場が逆転していた。男が再び動き出したときにはもう遅く、女は、修道院へと遁れます。女が隠れた僧院こそ、名前は「跣足カルメル会」。この修道会、文字通り厳冬にも素足で修行に励むという戒律があり、そこが一般のカルメル会と区別されます。「足」で始まる恋は、ついに「足」で終わりを告げようとするのです。
 最後までこの小説には「足」が登場するのです。足フェチの方もそうでない方も、ご一読を。

(続く)