ハーレクイン・ロマンスから、ブック・クラブまで、文学を搦手から攻める -尾崎俊介『ホールデンの肖像』を読む-

 尾崎俊介ホールデンの肖像』を読んだ。

ホールデンの肖像―ペーパーバックからみるアメリカの読書文化

ホールデンの肖像―ペーパーバックからみるアメリカの読書文化

 

  内容は紹介文にある通り、

ペーパーバック研究から横滑りして、ハーレクイン・ロマンスから、果てはブック・クラブ事情へ “日本エッセイスト・クラブ賞”受賞・アメリカ文学者による縦横無尽のビブリオ評論&エッセイ。

というもの。
 米文学を搦手から攻める良書。*1

 以下、特に面白かったところだけ。

映画向けに削除版を売る

 この種の削除版にも少しはメリットがあったのかも知れない (18頁)

 小説が映画化された場合、映画にする分内容を縮めてしまう。
 なので、映画をみてから原作を読む読者を面食らわせてしまう可能性があった。
 そこで、古き良きアメリカン・ペーパーバックの黄金時代には、映画版に合わせて原作をところどころカットしてしまうことが、しばしばあったという。
 もちろん作者にしてみれば、たまったもんじゃないが。
 たとえば、1948年のペーパーバック版『アンナ・カレーニナ』は、大幅な削除版である。*2
 しかも、この本はベストセラーになったようだ。

ロマンス小説は女性の味方

 ロマンスという文学ジャンルが、その決して短くない歴史の全期間を通じ、一貫して「女性の味方」だった (86頁)

 膨大なロマンス小説が、ヒロインのもとにいつか必ず白馬の騎士がやってきて、ヒロインの悩みや不幸は結婚ですべて解消する、というワンパターンなメッセージを繰り返し発信し続けた。
 これにより、各時代の過酷な現実に直面して意気阻喪した女性たちを励ましていった。
 そのことを著者はポジティブに見ている。
 ロマンスは麻薬というか痛み止めなのだ、といったところであろうか。*3

戦争をよそに

 現代もののロマンス小説の中で戦争が描かれることはきわめて少なく、それゆえ兵士がヒーローとなるロマンスも少ない (92頁)

 ロマンス小説はある程度の期間をおいて再販されることを前提にしている商品だというのが、その理由である。
 また、ロマンス小説というのは、基本的に「逃避文学」なので、現実は必ずしも直視しない。
 ゆえに、ビートや怒れる若者の時代だった1950年代には、ロマンス小説では「ドクター・ナースもの」が流行っていたのである。*4

それじゃあ物足りない

 「ベータ・ヒーロー」の誕生である。 (164頁)

 1990年代になると、ヒロインを翻弄したり蹂躙したりする横暴で謎めいたタイプの「アルファ・ヒーロー」は登場しにくくなる。*5
 その代わりに、ヒロインの心に敬意を払い、親切に接するような礼儀正しいヒーロー、すなわち「ベータ・ヒーロー」が登場する。
 しかしながら、読者には、こういうヒーローは、物足りないところがあるという。*6
 ロマンス小説では、偉ぶった男性が最終的には女性にへりくだって愛を求める、という女性による「征服」的エンディングで終わるのが定番だが、「ベータ・ヒーロー」だと、物足りなくなるそうだ。
 「攻略」し甲斐がないからであろう。

女性たちのブッククラブ

 では何について語り合うのかというと、作品にかこつけて、ブッククラブのメンバーの一人ひとりが自分のことを語るのである。 (244頁)

 米国における女性たち中心のブッククラブについての話である。
 そこで行われる文学作品に対する議論はどこがいいのか悪いのか、なぜよいのか悪いのか、という分析ではない。
 こういうのは、男性が良くやる談義であろうが、女性たちの場合それとは別の傾向にある。
 どの登場人物に共感できるか。
 それが、女性たちのブッククラブで良く使われるディスカッションテーマなのである。
 登場人物に自己投影して、そこから自分の過去をとうとうと語る。

 これによって、自分の人生、自分自身についての理解を深めることを目的にしている(245頁)。

 そして、ブッククラブで読まれるのは、そうした自己投影がしやすい小説ばかりになり、主人公が女性か、脇役に女性が多い、登場する女性の多くが中産階級以上、下品な場面がない、などの条件で選ばれる傾向にあるという。
 これを文学研究的には邪道と思う人もいようが、しかし、これは歴史的に連綿と続いてきた文学受容の一つのかたちであることは間違いないのである。*7

 

(未完)

*1:著者は、最近は自己啓発文学を研究しているようだ。個人的には、「アメリ自己啓発本出版史における3つの『カーネギー伝説』」とか、「コピペされ、拡散されるエマソン」とかが面白かった。

*2:1948年版の映画『アンナ・カレーニナ』はアメリカではなくイギリス製作のもので、アメリカでは、20世紀フォックス社が配給して各地で上映された。ちなみに、淀川長治は、クレタガルボ主演の映画版(1935年)よりも、ヴィヴィアン・リー主演の映画版(1948年)に軍配を上げている(『映画好きなら一度は観ておきたい!淀川長治総監修クラシック名画解説全集3』参照)。まあ、わかる。

*3:

この文学ジャンルを研究する場合,その内容の希薄さを批判するだけでは不十分であることは明らかであろう。現代文化の一側面と位置づけた上での,あるいは女性学の視点も採り入れた上でのロマンス小説研究がなされない限り,ロマンス小説という文学ジャンルそのものの存在意義が,研究者の手をすり抜けて「逃避」してしまうことは避けられないのである。

と著者自身はのべている(「後ろめたい読書--女性向けロマンス小説をめぐる「負の連鎖」について」https://ci.nii.ac.jp/naid/120001030303)。

*4:

ハーレクイン社が積極的に北米大陸に導入しようとしたロマンスのジャンルがあります。それは病院を舞台に医師と看護婦の間で育まれる恋を描いたロマンスです。一般に「ドクター・ナースもの」と呼ばれるヤツ。イギリスでは1950年代にこの手のロマンスが流行していたんですね。 (引用者中略) 1958年には16冊、2年後の1959年には34冊のミルズ&ブーン・ロマンスをハーレクイン社はペーパーバック化して出版していますが、これらのほぼすべてがドクター・ナースものでした。で、実際、これが北米で、とりわけアメリカ市場で、馬鹿受けだったんですね。かくして1950年代末から60年代にかけて、アメリカ中の女性が白衣のロマンスの虜になるんです。

以上は、著者自身のブログより引用した(「ロマンス小説史 (2)」https://plaza.rakuten.co.jp/professor306/diary/200509150000/ )。

 Michael Smith の "Nurses and Doctors, Oh My!" - The ACE Books “Nurse Romance” series (の概要)によると、

This was especially true since between the close of the Second World War and into the early 1950s the only career options available for women with a modicum of education were secretarial work, banking, teaching, and nursing – a situation that continued nearly unchanged until the mid-1970s. In particular, nursing was considered a prestigious profession, requiring a capable and intelligent young woman who had the heart to dedicate her life to caretaking…unless, of course, she met a husband (Ryan, 2008). Eventually the “nurse romance” fell out of favor by the mid- to late 1970s.

とのことである(https://www.researchgate.net/publication/282878317_Nurses_and_Doctors_Oh_My_-_The_ACE_Books_Nurse_Romance_series )。このジャンルが流行った背景がなんとなくわかる。

 あと、念のため述べておくが、ハーレクイン社はカナダの会社である。

*5:アルファ・ヒーローについて、著者は次のように説明している(「吸血鬼を「ロマンス」する ヴァンパイア・ロマンスtwilightについての一考察」https://ci.nii.ac.jp/naid/120002852383 )。

パワフルなアルファ・ヒーローがハイ・ティーン、もしくは20 代前半といった年頃の可憐なヒロインを散々に弄ぶといった内容のロマンス小説が、この時期のロマンス小説の定番となっていたのである。何故なら、このようなアルファ・ヒーローであっても、ロマンス小説の登場人物である限り、いずれ自分の身勝手な行動を深く反省し、最終的にはヒロインの前に跪いて彼女の愛を乞うことになるわけで、この「横暴で謎めいた男」から「へりくだった求愛者」への劇的な変貌が、ロマンス小説の主要ファン層である女性読者にとっては、たまらない魅力と映ったからである。

*6:ベータ・ヒーローについて、著者は次のように説明している(同上)。

ロマンス作家の側でも自粛傾向が強まったこともあり、1990 年代あたりからアルファ・ヒーロー的なキャラクターは大衆向けロマンス小説の世界から姿を消し始め、これと入れ替わりに、ヒロインの人格と心情に敬意を払い、彼女に対して常に親切に接するような、礼儀正しいヒーローが登場することが多くなってきた。“anti-macho” にして “politically correct” な存在、いわゆる「ベータ・ヒーロー」の誕生である。

これじゃあ、エンディングも物足りなくなるわけである。いうなれば、猛獣を「調教」するような快楽なのだから。

*7:北村紗衣は、「英文学の読解ではこうしたキャラクター中心の批評(「性格批評」などと呼ばれます)は伝統的に女性が活躍していた分野で、一方で古くさい手法として軽視されていたフシがあった」のだが、「性格批評は最近、上演研究やフェミニスト批評、大衆文化研究などの影響もあり、人気を取り戻しています。これを考えると、登場人物について語り合う女性たちの読書会は、19世紀以来の性格批評の伝統を思いの外よく保存しているように見えます」とのことである(「読書会に理屈っぽい男は邪魔? 女性の連帯を強める読書会の歴史を探る」https://wezz-y.com/archives/35823 )。

 こういう性格批評は、どこか歴史上の人物(武将とか)に対する批評でもよく見るような気がするが、それについては、また機会を改めて書くことにしたい(*たぶん書かない)。