「きっと何者にもなれないお前たち」のための、あるいは、「負けない」ための、競争論について語ろう(てきとう) -井上義朗『二つの「競争」』を読む-

 井上義朗『二つの「競争」―競争観をめぐる現代経済思想』を読んだ。
 隠れた良書である。
 是非、一読してほしい。

 以下、面白かったところだけ書いていく。

他者との比較を気にしない、昔の「競争論」

 完全競争論における経済主体は、自分以外の他人という存在をそもそも意識していませんから、自分と他人の利益を見比べようとする、比較の目線を持っていません (75頁)

 ある時期まで、競争論の主役は「完全競争論」だった。*1
 その競争論というのは、他者との比較を気にしない、という現実の経済活動とは、離れている仮定をしていた。
 ワルラス一般均衡理論とかもそうだが、実際の経済と乖離しているのである。*2

競争論の主役交代

 企業の「質」は決して一定不変ではない(略)こうした研究は、完全競争論の系譜を引き継ぐ競争論から現代の競争論へと、経済学者の認識を変えさせる大きなきっけにもなりました。 (105頁)

 デムゼッツやブローゼンらの1970〜80年代の研究によって、十年間トップ企業の顔ぶれが変わらない業界を見つけるのが難しい、という事実が「発見」された。
 この事実は、経済人ら非経済学者たちの経験則にも合致するものだった。
 「完全競争論」からは、大企業による独占・寡占が想定されたのだが、「現代の競争論」では、そうした事態は起こらないだろう、されたのである。
 奴らはあくまでも暫定的な勝利者に過ぎない、と。*3
 
 このとき、主役は交代した。
 以降、主役は「現代の競争論」に移った。
 では、この交代の何が問題となるのか。

二つの競争。コンペティションとエミュレーション

 ハイエクは、明らかにコンペティションとエミュレーションの差異を踏まえたうえで、新古典派経済学における市場認識の欠如を突いています。 (143頁)

 コンペティションは、競争の本質を淘汰性に見出し、競争の抑制も必要とする概念。
 一方、競争の本質を「模倣性」*4の中に見出し、競争の促進を必要と考えるのが、エミュレーション。
 経済を巡る西洋思想には、まるで違う二つの「競争」の考え方が存在し、時に混在している。

 前者は「完全競争論」につながり、後者は「現代の競争論」につながる。
 要は、これまで競争は抑制すべき(という規範。独占禁止法はその発想につながる。)とされていたのが、1970-80年代には、実証したけど大丈夫だろ、競争促進しちゃおうぜ☆、というネオリベな流れに代わったのである。

 だが、これでいいのか、というのが本書の問題意識である。
 すなわち、「競争」(エミュレーション)の陰に隠れる、規範としての「競争」(コンペティション)の意義を、思想史的観点から考察するのである。

残酷な資本主義のテーゼ

 エミュレーションには容赦もなければ、慈悲もないのです。 (183頁)

 そう、エミュレーションはブレーキを持たない。
 すると、優位に立った企業は、劣位になった企業の事業や顧客を際限なく、吸収する。
 でも、抑制はかからない。
 そういうことをエミュレーションは想定していないのである。
 やめられない。とまらない。

 著者は、こうして、コンペティションにも十分存在理由があることを示していく。 
 それは、既に示唆したような、暴走に対してブレーキをかける役割だけではない。
 それは競争の、経済学にとどまらない哲学的、思想的意義にもかかわる。
 

自分を見つめ直せ

 「卓越」とは、他者との比較をむしろいったん脇において、他人はどうであれ、あくまで自分自身の内面のありかたとして「徳」を身につけること、そしてそれを日常の生活行動に反映させていくこと (152頁)

 先に、「完全競争論における経済主体は、自分以外の他人という存在をそもそも意識していません」という言葉を引用した。
 それは、実は、他者を気にしない独りよがりを意味しているのではない。
 あえて他人の評価・比較を離れることを、重視しているのである。
 他者との比較をあえて脇におくという点は、コンペティションと相性が良い。

 「卓越」は、プラトンからストア派に受け継がれた理想である。
 後世のアダム・スミスが、ストア派の思想を重視していたことはよく知られている。
 後述するが、ここに「卓越」の思想史的系譜が存在する。

自分を見失うな

 勝つための競争は、(略)自分自身を見失わせる契機をも含むものです。私たちがエミュレーションに見いだしたものは、こうした力強さと危なさの表裏一体の関係でした。 (228頁)

 エミュレーションの「模倣」(と「差別化」)の弱点は、まさに引用部の通りである。
 勝ち続けていくうちに、徐々に自分自身を見れなくなってしまう、その危うさが、エミュレーションには隠れている。
 

自分のことに専念すること、「卓越」と「分業」

 「利己心」とは (略) もともとは、他者に不利益を及ぼさないための心得を述べようとした概念だったと言っていい (181頁)

 著者によれば、アダム・スミスの「利己心」の考えは、伝統的な「卓越」の概念に連なっている。*5

 実は、プラトンの思想にも、「自分のことだけをする」、つまり、他者の利益を損なわないように注意しながら、各人が各人の生業に専念して、その成果物を交換し合う、という考えが出てくる。
 分業と協業である。
 古代ギリシア人は、一人一人がそのような存在の仕方をすることに徳を見出した。
 これが「卓越」につながる。

 アダム・スミスの「利己心」(と分業)と、古代ギリシア以降の「卓越」(と分業)の伝統は、つながっていたのである。
 他者(の利益)のためにも、あえて、自分のことに専念するという姿勢。
 コンペティションは、実はすぐれた哲学的な思想・発想なのである。*6

負けないラジ、、、「負けない」競争観。

 コンペティションは「負けないようにする」競争観であるのにたいし、エミュレーションは「勝とうとする」競争観である (226頁)

 前者では、結果的に負けないことが重要となる。*7
 別に怠けているのではなくて、他者に負けるよりまず、自分がベストを尽くせないことへの自己反省を重んじる。
 コンペティションの良い所とは、ここである。*8
 先の「卓越」につながる話である。

 著者によれば、「スミス的なコンペティションは、そうした勝者や強者が一時的にせよあらわれることを当然視するものではなく、むしろその出現自体をむずかしくするための抑制装置として競争を捉えてい」る。*9
 「同業者に後れはとるまいと必死に努力はするが、あえてそれ以上を求めようとはしない、そういう人びとで作られる社会」。

 例えば、別に手を抜いているわけでもないのに、もっと優秀な奴が現れたら、市場から退場せよ、と言われる。
 みんなのためだ、と。
 いい理屈だ。
 ミルトン・フリードマンの思想そのものである。*10
 だが、「自己の領分に自己の尊厳をかけて生きようとすること、そうしたささやかな生のありかたに、絶対的な価値を見いだそうとする思想」は見直されるべきではないか。

(未完)

*1:完全競争論について知りたい人は、経済学の教科書を読もう(丸投げ)。

*2:ただし、ワルラスの問題意識は、実際はこんな感じhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%82%AA%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%AF%E3%83%AB%E3%83%A9%E3%82%B9#.E4.B8.80.E8.88.AC.E5.9D.87.E8.A1.A1.E7.90.86.E8.AB.96であるので注意。

*3:コンペティションの考え方では、淘汰をくぐりぬけて生き残ったのは、企業の「経営手法」などであって、企業それ自身ではないと考える。

*4:なお、模倣性には、文字通り模倣することと、相手との差別化を図ることも含まれている。マーケティングして他社商品と差別化を図るのも、この「模倣性」に含まれるから、注意してほしい。

*5:引用部についての解説は、めんどくさいので省略する。

*6:ただし、プラトンらが、奴隷もその天性に応じた存在とみなしていたことを、忘れてはならない(129頁)。彼らの思想は、奴隷制を肯定する帰結を招きかねない。こうした点を考えると、「自分のことだけをする」というのは「自律」と表現した方が含意に近い、という著者の主張(75頁)は正しいと思われる。「奴隷」は「自律」していると言い難いわけだから。

*7:なお、著者の議論は、コンペティションのエミュレーションに対する優位を説くものではなく、むしろ、二つが補完関係にあることを説いている。実際、詳述はしないが、「コンペティションというのは、じつは密かにエミュレーションの先行を期待しているところがある」(203頁)。

*8:他のブログさんhttp://d.hatena.ne.jp/Toshi-shi/20121106/1352152378が引用しているように、「完全競争論がそもそもあらわしていたのは、誰もが自分の生業、「自分のことだけ」をしていれば、それなりに生きていくことができるという、そういう社会の理念であり、そういう経済のありかた」であり、「いま必要なのはもしかすると、完全競争論の復権なのかもしれません。(P215)」ということである。

*9:以下、こちらのサイトにも、http://d.hatena.ne.jp/kingfish/20121101引用されている。

*10:ミルトン・フリードマンの競争観については、http://d.hatena.ne.jp/haruhiwai18/20121230/1356796872も参照。フリードマンは、競争において、そもそも努力云々というものに興味を持っていない。