木庭顕『笑うケースメソッド 現代日本民法の基礎を問う』を再読した。
内容は、紹介文にある通り、「基本書を開けばどれも当たり前に出てくる民法の用語たち。だが現代日本の民事事件とがっぷり四つに組んだ本書を読んだら最後、そこにはこれまでとは違った世界が広がり、根本的な問題が浮かび上がっているはずだ。有名判例を一つ一つ、事案の細部にわたって笑いとともに解きほぐす」といった内容。
読んで笑えるかどうかはともかく、説かれる内容は実に知的で面白い。
「占有」をキーワードに、有名な判例を読み進めることで、民法、特に現代日本民法の問題点が浮き彫りになる。
以下、特に面白かったところだけ。*1
「占有」とは何か。
占有という、二千年来難解で知られる概念の正体 (14頁)
著者は次のように説く。
一方に対象と個別的で明快で固い関係、もう一方にそれを包み込むように圧迫する不透明な集団。
このとき、一方に「占有」、一方に「暴力」があるとみなす。*2
そして、法は占有の味方をする、と。*3
実に簡明である。
ではいかにして、そうした不透明に寄って集って為される「暴力」を回避するのか。
文化とは回り道であるという説(レヴィ - ストロース) (19頁)
占有はそうした回り道をすすめる。
そうした手続きを踏むことによって、「暴力」を回避しようとするのである*4。
木庭顕における「政治」
裁判官、陪審、当事者等々のあいだに結託があってはならないし、力や利益が介入してはならないし、言語だけで決着しなければならないことを考えれば、すぐにわかります。 (65頁)
透明な場で独立対等の主体同士が厳密な議論のみで物事を決めることを、「政治」と著者は定義する*5。
この「政治」システムは、法の基礎条件である。
「政治」の例として、司法(システム)等が挙げられる*6。
ただし、占有を基礎とする法システムは、後述するように、「政治」から独立に成り立つ。
「政治」に対して「占有」は対抗する力を持つのである。
「政治」がいつもうまく機能するとは限らないからだ。
その法システムの内部には、さらに小さな「政治」システムが利用される。
例として、組合や、破産手続きにおける債権者集会などが挙げられる。
切り札としての時効
味方であるべき政治的決定までもがグルになっている。そういうときにこそ時効がすべての理屈を切り捨てます。理屈の源である政治的決定もがグルに感染している (36頁)
民法における時効というのはただの便宜的存在ではない、と著者はいう*7。
そうではなく、自由の砦だ、と。
誰も味方がいない孤立した人に、力を与える存在だという。
透明かつ公平であるべき議論が機能しなくなった時に、時効が味方をするという。
脅威に曝された最後の1人が追い詰められた場面でのみ使用しうる武器なのです。 (37頁)
それが時効だという。
占有保障は、プライマリーな事柄の重要な安全弁となる。
時効は、占有保障を担うこの政治システムが万が一機能不全に陥った場合にさえ占有が保障されるよう、設置された制度である。 (37頁)
「政治」は先に述べたとおり、著者のキータームである。
取得時効の存在理由は占有原理を補強するという一点に尽きる、と著者はいう。
自由な決定に基づく「政治」と占有との関係において、後者を保護するための制度なのである。
占有の天敵
占有の天敵は金融債権で、かつ反対に、占有はこの天敵を駆除するために開発されたといっても過言ではない。 (54頁)
占有侵犯は金銭債権者の格好をしてやってくる、と著者はいう。
貸し込んで介入し、自由を奪い、実力を用いて持ち出す。
金を返せなければモノで返せ、というやり方を嫌う。
これに蓋をするのが、占有原理である。
どこまでも執拗に実務は占有原則をかいくぐろうとします。それほどまでに金銭債権者の物つかみ圧力は強いんです。 (55頁)
民法349条で、質権が正式に認定されている場合でも、債権者は債務不履行でも質物を取ることが出来ない。
あくまでも、競売した売却益から弁済に充当されるしかない。
本来、譲渡担保は違法である*8。
しかし、日本では、実務と判例と学説によって、強行規定を無視してきた。
著者はここに日本の民法の問題点があるとする*9。
ならば貸主が躯体を支配したくなるのは当然である。 (57頁)
著者は「貸し込んで介入し、自由を奪い、実力を用いて持ち出す」というのが起こるメカニズムについて説明している。
利子をつけて返すと、果実(*法律用語)の一部が貸主に帰着する。
すると、貸主が費用を投下し果実を取得したごとくになる。
ならば、貸主が躯体を支配したくなるのは当然である、と。*10
ここに不透明な支配従属関係が生じ、実力行使などが出て来る。
歴史的にどの社会も借財、特に、高利貸しを取り締まるのはそのためだと著者はいう。
占有と互酬性
占有と賠償は鋭く対立する二つの思想です。 (202頁)
占有は、やったりとったりを嫌う。
互酬性を嫌うのである*11。
そうしたやりとりと、支配従属関係は、深くつながっているからである。
それに対して、占有は完全水平に独立の単位が一列に並ぶ思想である。
じっさい傷害以外の賠償はローマでは認められなかった、と著者はいう。
本当の狙いは、「占有」を破壊すること
日本国憲法や人権理念に対する攻撃のほんとうの動機がむしろ占有破壊ドライヴに存する場合が多い。 (23頁)
連中が本当にしたいのは、土地上集団の活性化・軍事化である、と著者はいう。
実際、連中は透明性が欠如している。*12 *13 。
(未完)
*1:本稿では、具体的な判例については触れないことをあらかじめお断りしておく。
*2:著者は本書204頁において「暴力の定義は占有の蹂躙」であり、占有を跨ぐ実力の形成である、とする。
*3:著者は本書205頁において、「たとえ所有権者でなくとも、占有するということは、なにか果実をとることだし、利用するということです」と、占有を定義している。
*4:犬塚元は、以下のように木庭の主張をまとめている(「政治思想の「空間論的転回」 : 土地・空間・場所をめぐる震災後の政治学的課題を理解するために」https://ci.nii.ac.jp/naid/120006374121
木庭顕によれば,土地(一般に対象物)との安定的・直接的で透明な関係である「占有」は,さまざまな不透明な暴力,不透明な社会集団から個人を保護する原理として,古代ローマ以来,すべての法の公理に位置してきた基底的原理である。所有権とは明確に区別される「占有」は,外部の権威に依拠せずに成立する法的価値として,個人の自由を保障する立脚点である。木庭によれば,一切の法は,この占有原理のヴァリエーションですらある
*5:「『法の前提には政治があり、政治とは暴力や不透明な取引を排除し、言語による自由な議論のみが君臨することである』という木庭顕の基本テーゼ」というふうに、ブログ・「ともの読書日記」では要約されている(「自由な憲法解釈と政治の不在―木村草太『憲法の創造力』」http://tomonodokusho.cocolog-nifty.com/blog/2013/04/post-8f21.html )。
*6:
教授によれば、ローマ以来想定されている、理想的な人同士のありかたというのは、他人が立ち入ることはないことが保障される最小限の自律領域を確保した上で、互いに実のある(透明性がある、言葉に嘘がない、誠実である)コミュニケーションが確保された状態であるという。そして、そのようなコミュニケーションが確保されるための諸前提の積み重ねを政治システムといい、裁判という制度もこの政治システムの一部であるという。
以上、「お得な一日」http://katsusokudoku.blogspot.com/2012/04/2.htmlというブログの記事より引用。
*7:林田光弘は、「いわゆる取得時効と登記の問題は解決困難な難問として今なお残存しており、また、取得時効の存在理由や法律構成に関する議論状況は、学説が取得時効の基本的な制度理解についてさえ共通認識を有するに至っていない」と書いている(「取得時効の要件となる占有の継続性に関する一考察 : フランス法の検討を通じて」https://ci.nii.ac.jp/naid/120006548620 )。
*8:著者は「『債権法改正の基本方針』に対するロマニスト・リヴュー,速報版」(PDF注意) http://www.sllr.j.u-tokyo.ac.jp/05/papers/v05part10(koba).pdf#search='%E3%80%8E%E5%82%B5%E6%A8%A9%E6%B3%95%E6%94%B9%E6%AD%A3%E3%81%AE%E5%9F%BA%E6%9C%AC%E6%96%B9%E9%87%9D%E3%80%8F%E3%81%AB%E5%AF%BE%E3%81%99%E3%82%8B%E3%83%AD%E3%83%9E%E3%83%8B%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%AA%E3%83%B4%E3%83%A5%E3%83%BC%EF%BC%8C%E9%80%9F%E5%A0%B1%E7%89%88'
において以下のように書いている(註番号を抜いて引用した)。
ローマでは,占有概念の機能の結果流質が禁じられるから譲渡担保の一種であるこのタイプの制度は認められなかった。帝政期の広大な空間を前提すれば実務がここへ傾斜したことを否定できないから,正確に言い直せば,ともかく法学者はこれに対して戦った。透明な信用の未発達,透明な信用の潜脱,が制度の骨子であり,現在の世界の取引社会が示す病状の一つである。
*9:著者(あるいはそれに擬せられた人物)は別のところで、次のように言及している。
古い古い伝統的な規定ですが、日本では判例と学説によってこれを無視することにしています。皆で強行規定を書いておいて皆で違反するというのは、何とも面白い光景ですが、流石に民法学の最高権威、我妻栄はやましい気持ちだけは持っていて一生懸命弁解しています。その後は誰も弁解もしなくなりましたから、やはり違うなとは思いますが、ただ、我妻栄でさえ、『社会的作用』や『社会的要請』の前には、強行法違反も、やむをえない、と言うばかりで、流石にロジックにはなっていません。そういうロジックはありえないからです。皆がやりたがっているのだからいいじゃないか、という考えが通ったら、法の墓場です。『最後の一人』が、占有が、死ぬからです。 (略) 債務者の占有が大事だ、それが社会の質を分ける致命的な点だ、という意識、つまりは一個の経済社会についての見通しが無ければ、この条文を守れません。
(木庭顕「法学再入門 第8回」『法学教室2013年11月号』所収 69頁 http://picopico.blog.jp/archives/1037396481.html )
*10:著者は、フランスの社会人類学がこれを明らかにした、とする。ここでいう「フランスの社会人類学」というのは、マルセル・モースの贈与論を指しているだろうと思われる。木庭は、「モース『贈与論』を徹底的に批判的に分析した結果として、そこから『枝分節segmentation』と『分節articulation』という概念を見事に抽出」している(「ともの読書日記」http://tomonodokusho.cocolog-nifty.com/blog/2010/03/post-5811.htmlより)。
*11:上と同じくhttp://tomonodokusho.cocolog-nifty.com/blog/2010/03/post-5811.html を参照
*12:一連の政権における疑惑、例えばモリカケと称される疑惑、統計改ざん問題といった諸々を見れば明らかであろう。
「"war potential”の語が印象的だ。いくら防御のためと称しても中を火の玉のようにして軍事体制を作り待ち受けることも禁じられるというのは古典的な法原則だ。内部に文節を擬制しその分節を融解させることも横断的軍事化vis armataと看做す。これは脅威ないし危機の法学的定義である」と集団的自衛権の違法性につきローマ法の観点から断じています
(ブログ・「ともの読書日記」の記事より http://tomonodokusho.cocolog-nifty.com/blog/2015/08/post-fecc.html )