映画は追悼しない - ダニエル・シュミットと"ヘップバーン" 蓮實重彦『映画論講義』(6)

ダニエル・シュミット、または追悼ならざる追悼■
 「ダニエル・シュミットは死なない 追悼を超えて」の章を見てみましょう。
 著者はまず、亡くなったダニエル・シュミットの映画について、次のように言います。男性が女性を後ろから抱える姿勢が愛を生じさせる。女性たちが一人になる時、所作が止まり死に近づいてゆく。やがて二人が向かい合った時には「死」が待ちうけている。著者は、彼の映画における、愛と死と所作の関係を語っています。
 そして、『今宵限りは…』での、エンマの演じられた死(「仮死」!)を、ヴェンダース監督の『アメリカの友人』での俳優たるシュミットが暗殺されるシーンと被せることで、私たちの知るシュミットの死をあくまでも仮死とし、追悼ではなく、誇張すれば「仮死の祭典」とすることで、彼とその映画の存在を肯定するのです。
 このような、追悼のやり過ごしは、『絶対文藝時評宣言』の「中上健次の死は、無慈悲なまでに抽象的である」という章での、津島佑子中上健次の「追悼」の仕方に似ています。大方の人たちが「追悼」をはしたなく行うのに対して、津島は、海外で中上へ言及した記事を切り抜き、それを中上に送ろうする。しかし、そのときに中上がすでに死んでいたことを思い起します。追悼という、死者の厄介払いは、ここにはありません。
 このような追悼とは程遠い形の「追悼」は、「中上健次の死は、無慈悲なまでに抽象的である」の章自体でも行われていますが、その詳細については、ここでは述べないことにしましょう。同じような追悼のやり過ごしは、『ゴダール マネ フーコー 思考と感性とをめぐる断片的な考察』での、ダニエル・ユイレにも行われています。
 蓮實は、本書の論述へ変更を余儀なくさせた、この優れた映画作家の一人の死に対して、パートナーだったストローブとの映画『セザンヌ』での、ナレーションである女性の声が、男性のはずのセザンヌを名乗るシーン等に言及することで、映画における「声」の主体の自己同一性の揺らぎについて語っています。もし追悼というものが、死者の自己同一性の確保を前提的な条件とするのなら、映画における自己同一性の否認に言及することとは、彼女への追悼をやりすごすことであり、彼女(たち)の映画への肯定をすることなのです。
 だからこそ、キャサリン・ヘップバーン追悼」の章での、著者の「わたくし自身は、ヴィデオで『男装』と『アダム氏とマダム』を見て彼女を追悼しました」という時の「追悼」は追悼などではないのです。「ヘップバーンさん」と「さん」づけで彼女について述べるとき、そこにあるのは、「誰かまわず「さん」づけで呼ばぬと気のすまぬらしいテレビや新聞・雑誌の官僚主義」による、彼女への無知に対する批判であり、彼らのようなはしたない追悼をするまいとする、著者の誠実さなのです。彼女の姿をせめて、ヴィデオで見ること。これこそが、彼女と映画に対する肯定の、最低限の振る舞いなのです。
 追悼とは、「小津安二郎はわたくしたちにとって、あくまで来るべき作家にほかなりません」と述べる著者にとっては縁遠い言葉なのです。

■終わりに■
 ここら辺で、本著についての話を終えることにいたしましょう。「ネット上のサイトには、注目すべきものもある」が、「読むと、どれも同じ文体に見える。ネットに書くということで、同一性が生まれてしまうのか。文体的に際立つ人が非常に少なくなっている」という指摘や「自分がそれを語るにふさわしい人間か、また、そのかたちで語っていいのかということに対する反省が、いたるところで失われてゆきます」という言葉を気にしている人間としては、これ以上は何も述べられません(「蓮實重彦さんの映画批評復活」(『YOMIURI ONLINE』様))。
 溝口が短いショットをうまく編集して活劇も見事に撮れたことや、成瀬組だった美術監督の中古智が、『山の音』を監督した後に、『ゴジラ』のロケを監督したという話など、興味深い挿話もある本著の面白さは、まだまだ尽きないのですが。

(了)


(追記)
 本書に関する優れた書評のひとつに、「「映画論講義」蓮實重彦」(『Mani_Mani』様)があります。ただし、「環境によっては観点の多様性と声の複数性というのがネット上で機能していく可能性はあるのだろうと思う。」という展望については、「■終わりに■」での蓮實先生の見方とは、間隙があるのも事実です。
 しかしやはり、拙稿「ベンヤミンと、批評家の【知的な賭け】」で引用したように、「情報社会なり、あるいはネットワークというものが無意味というわけではなく、もっと魅力的になり得るはずでありながら未だ十分魅力的でない。」という言葉に、あくまで希望を見るべきでしょう。