氏とは、誰のことか。それは、雪の結晶の研究で知られる中谷宇吉郎のことです。そんな彼の、別の側面が垣間見える一文です。ソ連への警戒心によって、水爆実験による過失的惨事の隠蔽を正当化できる、と考えていたようですね。氏は当時、アメリカに滞在していたが、その文は「ちえのない人々−−ビキニ被災をアメリカでみて」と題されていた。アメリカ政府が第五福竜丸の船員に、すぐ、たくさんの見舞金を出し、船も即刻買いとってしまえば、日米おたがいによいのではないか、ことをおこせば、水爆の秘密はもれ、よろこぶのはソ連だけだ、というのがその文の趣旨であった。
これにたいして、物理学物で科学評論家の菅井準一氏は、「彼がアメリカにわたるとき、『民族の自立』という書物を書き、祖国日本の人々に、科学によるほんものの自主的な道を説いたことを考え入れると、まことにおどろかざるを得ない。」 (注1)
「たくさんの見舞金」でカタをつけようとするあたり、本土による沖縄への基地政策にそっくりです。「アースキン国防長官補佐官(当時)がOCBに対し、反核運動が高揚しつつある中、事件がソ連の反米運動の扇動に利用されることへの危機感を示す書簡を送っている」ので、彼の思考は、当時の米国政治高官に通ずるものだったようです(注2)。ちえのあるせかいてきながくしゃさまのおかんがえは、ちがいますね。
ちなみに、英国の哲学者バートランド・ラッセルは、ある時期までは、米国の保有する原爆によって、ソ連・東側諸国を押さえ込むことに賛成していました。しかし、ソ連の核兵器開発の成功と、アメリカの水爆開発計画によって、世界の破滅を予感し、核兵器廃絶の運動に転向します。そして、核兵器廃絶・科学技術の平和利用を訴えたラッセル=アインシュタイン宣言がなされ、核兵器およびすべての戦争の廃絶を目標とするパグウォッシュ会議が開催されることになります。
中谷とラッセル、どちらに先見の明があったかについては、あえて問いません。重要なことは、中谷が、水爆実験に対して、「世界の破滅を予感」するより、反共(反ソ)主義を貫くことを選択したことです。「ソ連の核兵器開発の成功」は、むしろ彼の反ソ主義を強化しただけだったのでしょう。
パグウォッシュ会議には、日本人では湯川秀樹らも、参加しています。中谷のいう「ちえのない人々」のなかに、ラッセルやアインシュタイン、湯川らは、入っているのでしょうか。
なお、Wikipediaに、「ソビエトは欧米の反戦運動に工作員送り込んでおり、パグウォッシュ会議においてもソ連に関する批判は抑制あるいは握りつぶされるとともにアメリカおよび西側の批判が拡張されるという事態になっていた」という一文があります(注3)。ただし、英語版Wikiですと、
だそうです。During the Cold War, the Pugwash Conferences were the subject of criticism that they were a front conference for the Soviet Union. No proof was ever provided of this allegation, and an investigation by the House Un-American Activities Committee came to nothing.
つまり、冷戦中、「パグウォッシュ会議はソ連のための会議である」という批判にさらされたが、これまでこの主張が証明されたことはないし、非米活動委員会による調査も無駄に終わっている、ということです。少なくとも、パグウォッシュ会議がソ連有利である証拠は、不足していますね。(注4)
(注1) 「かえれビキニへ 原水爆禁止運動の原点を考える」『磯野鱧男Blog』様
(注2) 「ビキニ環礁で被爆した第五福竜丸の乗組員:「発症原因は放射能ではない」米公文書で判明」『21 世紀のヒューマン・リテラシー』様より孫引き。それにしても、第五福竜丸の被爆を矮小化しようとした米国の姿勢と比較するならば、中谷の発言はマシなものに聞こえてしまいます。
(注3)「パグウォッシュ会議 - Wikipedia」
(注4) 「パグウォッシュ会議 - Wikipedia」で挙げられていた、Richard Felix Staar " Foreign policies of the Soviet Union"をgoogle bookで検索したところ、「パグウォッシュ会議においてもソ連に関する批判は抑制あるいは握りつぶされるとともにアメリカおよび西側の批判が拡張されるという事態になっていた」に該当する箇所は見当たりませんでした。知ってる人は教えてください。
そもそも、英語版にさえ記載の無い文献が、日本語版にだけ記載されていること自体、不思議でなりません。