阿部良雄『ひとでなしの詩学』を読んだ。
詳しい内容については既に、書評がウェブ上に存在する。(良い阿部良雄入門にもなっているので一読してほしい。)
以下、気に入ったところだけ書く。
写実主義から印象主義へと、描く対象が市井の人々や見慣れた風景になってくると、画家の工夫は画題の珍奇ではなく、芸術的な独創に注がれるようになる。
神話に出てくるような人物や王侯貴族ではなく、もっと平凡なものが描かれるようになる。
その時、画家は技の独創性を前面に押し出す。
すると何が起こるか。
黒ずくめの服の中での創意工夫が、自分もそうした苦心を知っているダンディ仲間の目にしかとまらないように、芸術家も、その工夫を理解・歎賞できるのは、芸術家のみ、という状況が生ずる(174頁)。
分かるやつにだけ分かる。
そうした見えにくい差異、理解しにくい差異が、芸術の中枢を占めるようになる。
ダンディスムとは、あえて際立った特徴を消し去る(黒ずくめ)によって、その創意工夫を分かるやつにだけ分かるようにする所作であり、そうした生き方である。
同じようなことが、芸術においても生じる。
芸術家の工夫は、旧来のテクニックの常識にとらわれる素人には見えにくい(同頁)。
当時(1850年代)において、印象派の絵画を買うのは、主に、貴族や富豪の上流階級である。(現代芸術の受容の様を想起せよ。)
一般観衆は、当時の風俗画や古代風俗と称するエロティックな絵だの、エキゾチックな風物の絵画などを喜んだ(同頁)。
分かるやつにだけ分かる、このことは、当然、階級なども無縁でない。
文学でも、同じようなことは起こる。
例えば、ボードレールの散文詩「港」。
港へ行って海や空を眺めてぼーっとしているならだれでも出来る。
これは、デモクラティックな事態だ。
しかし、そうした何の変哲もない主題から<詩>を引き出すのは、誰にでも出来る事ではない。
これは、アリストクラティックだ(175頁)。
多くの「大衆」が「芸術」に手を伸ばせるようになる時代、それは、芸術じしんが「大衆」から差別化・差異化を図って「分かるやつにだけ分かる」という側面をいよいよ顕在化させる時代でもあった。
近代芸術の逆説。
(未完)