実は、人権は権利ではなくて、占有であった。 -木庭顕『誰のために法は生まれた』を読む。-

 木庭顕『誰のために法は生まれた』を再読。 

誰のために法は生まれた

誰のために法は生まれた

 

  内容は紹介文にある通り、「追いつめられた、たった一人を守るもの。それが法とデモクラシーの基なんだ。替えのきく人間なんて一人もいない―問題を鋭く見つめ、格闘した紀元前ギリシャ・ローマの人たち。彼らが残した古典作品を深く読み解き、すべてを貫く原理を取り出してくる。この授業で大切なことは、感じること、想像力を研ぎ澄ませること。最先端の知は、こんなにも愉快だ!中高生と語り合った5日間の記録」という内容。
 基本的には、過去に書評してきた本とくらべれば、平易かつ簡潔な内容である。

 特に面白かったところだけ。

再びアンティゴネ

 血縁主義だったら両方とも重んじるのに、下のほうのお兄さんだけをやっているから、血縁主義者とはいえない。 (引用者略) 自分はポリュネイケースの埋葬だけを論じている、切り離して個人としてのポリュネイケースを捉え、他を完璧に捨象しているのである、と。 (230頁)

 前の木庭著でも書いたが、(ソフォクレスの)アンテイゴネーは見事に反血縁主義だ、という見解である*1
 あくまでも、「個人」を、アンティゴネーはとらえている。

みたびアンティゴネ

 シャープな抽象能力で、とことんクレオンを理論的に追いつめるような知性の持ち主が、家族とか血縁とかにどっぷり染まった原始的なメンタリティの女、であるはずがない。かえって、或る種のポストモダンとかフェミニズムは実はただの集団主義ではないかという尻尾を出させる試金石にさえなっている。 (233頁)

 アンティゴネーこそ知性(知的)だった説である。
 また、クレオンのなんでも男女で区別する、個人でものを考えられない体質が指摘されている。
 これまでのアンティゴネーに対する通説を一気に変えるものではないだろうか*2

「人権」は占有

 これが基本的人権です。これを保障しないと、ほら、あの徒党の解体が徹底しないじやない? だって「自由な言葉」と君たち言ってくれた。精神が自由でなければ「自由な言葉」など出てくるはずもない。自分で判断し自分で考え、そして権威に服さない。本当言うと、これは権利ではありません。占有なんです。どこが違うかというと、権利というのは、いま持っていないものを獲得しうるということです。 (引用者略) 人権は、人権とは言いますが、決して攻撃的には使えません。実は権利ではなく占有だからです(だから「幸福追求の自由」、「自由権」は曖昧です)。われわれは全員アプリオリに精神の自由を持っている。だから今更持っていないものを獲得するなんてことはない。それを侵害されるので、占有のモデルで防御する。 (381頁)

(基本的)人権は、権利というよりも占有だという。
 もしそうだとすれば「人権感覚」という言葉は、案外間違っていないのかもしれない*3

(未完)

*1:ところで、本書では、「アンティゴネー」のほかに、ソフォクレスの『ピロクテーテース』も題材とされている。これについて、

私には少し衝撃的でした。「2500年も昔から、当マンションのように、社会は人間の思うようには論理的合理的な結果にならなかったのか・・」というような・・。ま、気落ちせず、皆さんを見習って今後も奮起します。

というマンション住人の書評https://www.e-mansion.co.jp/bbs/thread/605119/res/225/ が印象に残ったので、ここに記しておく。

*2:ただし、大越愛子はアンティゴネーについて、以下のように言及している(「弔いのポリティクス」http://www.hmn.bun.kyoto-u.ac.jp/dialog/act8_oogoshi.html )。 

国家の論理は、自らに従順か、そうでないかで死者を峻別する。それに対し家族の論理は、兄弟かそうでないかの血の論理で死者を峻別する。このような死者の峻別に、アンティゴネーは抵抗したと読むことができるのではないか。そしてこのような死者の峻別を拒絶し、むしろ国家や家族などの共同体から排除された者を弔い、彼等の記憶を呼び覚まそうとする者こそ、国家の「弔いのポリティクス」の陥穽をも暴くものではないだろうか。

これこぞ俗流の(旧弊の?)フェミニズムではない、知的なフェミニズムの読解ではないだろうか。

*3:ブログ・「とある法学徒の社会探訪」は、「木庭顕東京大学名誉教授は、自著で、占有を土台とする法という概念は究極には形態的感覚的概念であり、論理ではなくイメージによってよく感得されるという趣旨をあちらこちらに示されています」と述べている(「「法と文学」という可能性」https://ameblo.jp/jurisdr/entry-12353388298.html )。こうした「形態的感覚的概念」だとするのならば、「人権感覚」なる言葉も、あながち間違っていないのかもしれない。

軍事政権時のミャンマーと江戸幕府の面影 -高野秀行, 清水克行『世界の辺境とハードボイルド室町時代』を読む-

 高野秀行, 清水克行『世界の辺境とハードボイルド室町時代』(オリジナル版のほう)を再読。

 話題になった本なので、知っている人も少なくないはず。
 内容は、紹介文にある通り、「現代ソマリランドと室町日本は驚くほど似ていた! 世界観がばんばん覆される快感が味わえる」、「世界の辺境を知れば日本史の謎が、日本史を知れば世界の辺境の謎が解けてくる」という内容。
 面白い中でも特に面白かったところだけ*1

足軽は略奪集団

 足軽は略奪集団だったという説 (44頁)

 いうまでもなく、藤木久志の説である*2
 徳政一揆応仁の乱の間には全く起きていない。
 というのも、乱が続いている間は、略奪集団が足軽に姿を変えて京都を襲っていたからである。

 村からあぶれて食い詰めた連中のサバイバルだったという。

日本史とモノカルチャー経済

 江戸時代の飢饉の原因はずばりそれですよ (112頁)

 室町の人の方が江戸の人よりコメをたくさん食っていた可能性があるという。
 室町期は、銭での納税も可能だったが、江戸は米での納税となる。
 江戸はモノカルチャーであり、それが飢饉の原因につながった*3

出家の片道切符、出家の往復切符

 上座部仏教で出家するというのは、日本の場合とは比べものにならないくらい、ハードルが低い (133頁)

 還俗に対する批判は上座部仏教にはない。
 個人主義なので、いつ入って出てもいいのだという*4
 一方、日本中世では出家は片道切符である(戻れない)。

犬猫とインドとイスラーム世界

 犬がいる所には猫は怖がって出てこないんです。 (146頁)

 インドには犬はいるけど猫は外にいない*5
 猫はその場合家の中にいる。
 一方、トルコのようなイスラーム世界だと、犬の代わりに猫が外にいる*6

 犬はイスラームでは不浄の動物である*7
 居場所はどこかというと、汚い所にいるのだという。

中世史における翻刻

 今の若い中世史研究者はくずし字が読めなくてもそこそこの論文が書けます。 (169頁)

 中世の史料はおよそ活字になっているからである*8
 江戸時代の史料になると、活字にできないくらい膨大な量があるので、くずし字が読めないと研究できないという。

ミャンマーと幕府

 あの本を読んでよかったと思う人は、軍事政権時のミャンマーを肯定しなきゃいけないはず (206頁)

 渡辺京二『逝きし世の面影』の内容は、書かれている八割ぐらいは、「数年前」のミャンマーにも言えたのだという*9

 例えば、識字率の高さなどである。
 これはさすが、『ミャンマーの柳生一族』の著者らしい指摘である。

統治と薬物

 やっぱり支配者が言うことはどこでも同じ (211頁)

 シカゴのマフィアは、住民にヤクをやるな、トラブルを起こすなという*10

 警察沙汰になって商売にならなくなるためである。
 売人にも、ヤクを使わずにちゃんと売れ、と指導する。
 権力者は平和と秩序と勤労を求めるものである。

「敵に塩を送る」の実像

 江戸時代に生まれた伝説にすぎない (231頁)

 信玄が謙信に塩を送る話である。
 江戸期生まれであるという*11

自力救済と当事者主義、ゆえに「共同体」

 やっぱり個人では生きていけない社会だった (297頁)

 伊達の領国だと、盗みがあった場合は、被害者が自分で犯人を捕まえて突き出さないと裁いてはくれなかった。

 だが被害にあう弱い立場の人が、自力で被害者を捕まえることはほぼ不可能である*12*13

 親族や地縁の集まりで結束しないと対応できない社会だったのである。
 これが、16世紀の話である。

(未完)

*1:以下の引用部にはどちらの発言であるかはあえて書かない。いや、読めばどっちかすぐわかると思うのだが。

*2:小関素明「『新版 雑兵たちの戦場:中世の傭兵と奴隷狩り』 藤木久志著」は、

戦禍にさらされた村々においては、奴隷狩りとも言うべき人さらいや、富の略奪行為がなかば黙認されていました。なぜなら戦闘への従事に見合う恩賞が保障されていなかった雑兵にとっては御恩も奉公も武士道も関係なく、そうした戦場からの『戦利品』が生きていく上での大きな糧ともなっていたからです

と、かれらが略奪をする背景にも触れている。(国際平和ミュージアムだより VOL.17-1 2009年8月11日刊行 http://www.ritsumei.ac.jp/mng/er/wp-museum/publication/dayori09/dayori09.html ) 

*3:藤木久志『飢餓と戦争の戦国を行く』(吉川弘文館、2018年。元は2001年に朝日新聞社より出版。)は、アマルティア・センや藤田弘夫を参照しつつ、室町期に既に村は自給自足しておらず、首都である京に食料等を供給すべくモノカルチャーであることを強制されていたので、凶作になるとまず生産地である村が飢餓に陥る、と説明している。

 これに対して、本書の著者の一人である清水克行は、『大飢饉、室町社会を襲う!』(吉川弘文館、2008年)において、複数の原因が考えられるとしつつ、原因としては、都鄙間の物価差と、それを利用して商売を行っていた農業者や商人たちの存在を特筆していた。当該書では、室町期がモノカルチャーであるか否かという点については特に言及していない。

 本書(『世界の辺境~』)において、清水は、江戸の飢饉の原因はモノカルチャー化だとしているが、室町期については、モノカルチャー化が原因の一つである可能性を認めつつも、証拠不十分としている(112、113頁)。

 以上、2020/5/9に加筆した。

*4:ただし、「スリランカでは、タイやビルマと違って、一度出家したら還俗は原則的に認められない」と、荒木重雄は述べている(「東南アジアに広がる上座部仏教の源流をスリランカ仏教にみる」http://www.alter-magazine.jp/index.php?%E6%9D%B1%E5%8D%97%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%A2%E3%81%AB%E5%BA%83%E3%81%8C%E3%82%8B%E4%B8%8A%E5%BA%A7%E9%83%A8%E4%BB%8F%E6%95%99%E3%81%AE%E6%BA%90%E6%B5%81%E3%82%92%E3%82%B9%E3%83%AA%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%AB%E4%BB%8F%E6%95%99%E3%81%AB%E3%81%BF%E3%82%8B  )。

*5:実際、インドでは野良犬は見かけたが、野良猫をみかけなかった、という報告が存在する(一般財団法人日本計測機器業連合会「インド計量計測機器市場・投資環境及び計量制度等調査報告書 no.109 2013年4月」http://www.keikoren.or.jp/material/publication/research/20130516.pdf )。

*6:ただし、「イスタンブルには野良犬や野良猫が多く、普段は広場周辺を我が物顔で闊歩している」、とイスタンブルはそれに該当しないようである(伊吹裕美「イスタンブル・レポート;2010~2011 年」https://core.ac.uk/download/pdf/71790109.pdf )。このことは、本書著者の一人・高野も指摘するところである。

 以上、2020/5/9に加筆した。

*7:しかし、アラン・ミハイルによると、イスラームの世界において犬が不浄な動物とみなされるのは近代からではないかという。実際エジプトのカイロでは、「オスマン役人はじっさい,食べ物や水を与えたり,犬に暴力を振るう者を罰するなどして犬の数を増やし,維持することを積極的に奨励した」。 

カイロの野良犬たちにとって日々の糧の源として最も重要だったのは,オスマン当局が提供する食べ物や水でもなければあちこちに彼らがいた街路で見つけることができた食べ残しでもなく,都市の数多くのごみ山だった。カイロはごみ山で有名であり,じっさい,カイロにはごみ山とそれが養っていた犬があまりに多く,世界中の都市にとってひとつの参照点とされるほどだった。

しかし、ごみ山が人の手で撤去されると、政府は野良犬は有害な潜在的な病気の媒介者であるとし、犬は追い出されることとなった。「犬の臭い,動き,そして排泄物は 1815年あたりまでのエジプトの人々にとってはまず問題ではなかったのだが,わずか数十年のうちに犬のこうした特性は,汚物と腐敗,堕落の主体として犬をエジプトから排除する事業の概念的な支柱として浮上してきた」。(以上、アラン・ミハイル「狡兎良狗の帝国 オスマン期カイロの街路における暴力と愛情」https://www.lit.osaka-cu.ac.jp/UCRC/wp-content/uploads/2019/04/vol21_article10.pdf を参照、引用した。)こうした犬がゴミ(残飯)処理を行っていたのは、江戸期の日本も同様である。詳細については、仁科邦男『伊勢屋稲荷に犬の糞: 江戸の町は犬だらけ』等を参照。

*8:本郷和人は、中世の史料について、

史料を読むという行為は、(ⅰ)自分で原史料の所在を捜索し、機会を捉えて閲覧し、解読困難なくずし字と格闘しながらデータを得る(主に戦前)(ⅱ)主要史料の多くが活字に翻刻され、読解とデータ蒐集が(ⅰ)に比べれば容易になる(戦後の昭和期)という過程を経て、今や(ⅲ)各種データベースが整備され、検索作業に工夫を施せば、キーワードなどをもとに必要なデータを簡便に入手できるというステージにある。

と、2008年時点で述べている(「15分で分かる日本中世史」https://www.hi.u-tokyo.ac.jp/personal/kazuto/new-up/15.html 初出は『人文会ニュース』103 2008.5)。2008年時点で述べている(二度書いた)。

 もちろん、あくまで主要なものだけであり、東寺百合文書の翻刻の場合、2018年時点で、歴彩館の方が出しているのは「第十三巻―リ函二・ヌ函一―」まで、東京大学史料編纂所の方が「東寺文書」として出しているのは「家わけ第十 東寺文書之十七: 百合文書れ之三・そ之一」となっている。先は長いのだ。

*9:なお、酒井邦彦は、「これから来るであろう目覚ましい経済発展の中にあっても、ミャンマーには、いつまでもこの国の誇るべき美徳を保ち続けていただきたい」として、ヤンゴンの佇まいの美しさ、国民の伸びやかな生活、明るさ、親切さなどを挙げ、江戸から明治にかけての日本との類似を指摘する。それも、渡辺京二『逝きし世の面影』を引用して行っている(「希望のミャンマーhttp://www.moj.go.jp/content/000112913.pdf 『ICDNEWS』第52号(2012年9月号)。

 2012年の文章とはいえ、随分と能天気な話であるが。もちろん酒井は、幕藩体制であった江戸の政治的側面(幕藩体制という軍事政権)には触れることはなかった。 

*10:julyoneone氏は、次のように書いている。

ギャングスター・ディサイプルズをはじめとするシカゴのストリートギャングは、長年にわたる抗争で築き上げた確固とした縄張りを持っている。/彼らはその中で麻薬取引を行うのみならず、住民たちに目を光らせ、彼らの様々な裏稼業から税金を取り立て、一種の互助組織としてふるまうこともある。/いわば彼らは不完全ながら地下経済を統制する「政府」であり、ヴェンカテッシュはその著書「アメリカの地下経済」「ヤバい社会学」においてはまさに「一日だけのギャング・リーダー」となることによって、この社会を見渡すことができたのである。

(「ニューヨーク・ストリートギャング/1970年代」https://julyoneone.wordpress.com/2018/05/07/%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%A8%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%88%E3%82%AE%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%82%B0-1970%E5%B9%B4%E4%BB%A3/ )

 つまり、シカゴのマフィア(ギャング)の場合、縄張りを持ち、住民の裏家業から金を徴収することで生計を成り立たせることで、「政府」として君臨している。住民や売人にヤクを禁じるのは、「政府」として当然のことであろう。それはギャングの「政府」ができなかったNYと実に対照的である。あちらはギャング自体が麻薬中毒者だというのだから。同じく、引用する。

実際、「ギャング・オブ・ニューヨーク」の序文は、固有名詞を置き換えたら、1980年代後半のNYにそのままぴったりと当てはまるのではないかと思われるところがある。/新旧のギャングを比較しての/「とはいえ…(中略)、彼らの方が危険なのだ。その大半が麻薬中毒者で、すぐに癇癪を起こし、引き金を引くからである」/との記述はまさに、クラックと金銭欲に取りつかれてテロリスト的犯罪を繰り返した1980年代のドラッグディーラーたちにふさわしい墓碑銘だろう。

 なお、julyoneone氏も、本書の著者の一人・高野も、スディール・ヴェンカテッシュの本を参照しているが、高野が『ヤバい社会学』を参照したのに対して、氏は『社会学者がニューヨークの地下経済に潜入してみた』の方に批評的に言及している。

 以上、2020/5/9に追記した。

*11:「脚色された謙信公御年譜の記述が、武将感状記などに引用された可能性がありそうです」と、朝日新聞甲府総局記者・田中基之は、取材の結果をまとめている(「敵に塩を送る」本当にあった? 上杉謙信武田信玄、美談の真相は」https://withnews.jp/article/f0180717002qq000000000000000G00110601qq000017487A )。やはり江戸時代の生まれ、ということで専門家の見解は一致しそうである。 

*12:この件は、のちの清水の著書、『戦国大名と分国法』でも変わっていない。よそ様の書評のまとめによると、「当時の刑事事件は自力救済が基本で、例えばものを盗まれた場合でも、犯人を自ら捕縛して伊達家に突き出す必要がありました。一方、冤罪の疑いをかけられた者も、自らの無実を証明するための生口を連れてくる必要がありました」とのこと(「山下ゆの新書ランキング Blogスタイル第2期」よりhttp://blog.livedoor.jp/yamasitayu/archives/52222246.html )。 

*13:なお、研究史的には、奥州は他地域に比べ「自力救済」の度合いが低いとする見解(小林清司ら)と、奥州でも村の自立は顕著に認められる、という見解(藤木久志ら)に分かれている。この件については、佐藤の論文・「『塵芥集』から探る奥羽の自力救済社会 : 他国法と比較して」(https://ci.nii.ac.jp/naid/120006543689 )の104頁を参照。

 以上、2020/4/3に、この註の追記を行った。

そういう行政をもったら「この世は終わりだ」くらい考えたほうがいい -木庭顕『笑うケースメソッドII』を読む-

 木庭顕『笑うケースメソッドII 現代日本公法の基礎を問う』を読んだ。

[笑うケースメソッドII]現代日本公法の基礎を問う

[笑うケースメソッドII]現代日本公法の基礎を問う

 

 内容は、紹介文にある通り、「公法の根底にある、近代ヨーロッパ概念である政治システムとデモクラシー。そしてそれらが全面的にギリシャ・ローマの観念体系に負うことを踏まえ、人権概念へと迫る」という内容である。
 AMAZONのレビューでは、「本書の脚注に挙げられている数多の文献のうち、ほとんどを読んでいないことに絶望感を覚える読者が大半なのではないだろうか」と書かれているが、その絶望感をやり過ごして、以下に、特に興味深かったところだけ、書いていきたい*1

占有呼ばわり

 私もロースクール棟の廊下で見ず知らずの学生にいきなり「あ、占有!」と指差されました。名誉と思うべきでしょうか。 (100頁)

 笑った。 

 みんなが迎合主義になったとき、たった一人孤立した個人を擁護するのが法じゃなかったんですか? (301頁)

 「社会通念」が幅を利かせすぎているが、それで済めば法は不要である。
 大事なことなので改めて。

そもそも外来文化

 近代ヨーロッパにとってもギリシャ・ローマの学者の産物、「外来文化」 (25頁)

 木庭のいう「政治」が、近代ヨーロッパにおいてさえ不完全にしか消化できず*2、さらに、源流たるギリシャ・ローマでさえ、未完に終わったこと、そして、それは我々と変わらないことを、忘れるべきはない*3
 そう、著者は書いている。

誰のものでもない「憲法

 中世イタリアのポデスタを見ればわかるとおり、憲法は外国人に起草してもらうのが正規でさえありました。 (25頁)

 憲法がすべての立場や主権者さえ越える以上、絶対多数、全員でさえ、自分たちで書けば、自己利益の追求になってしまう*4
 公平な専門家からなる第三者委員会が起草することが望ましい、と著者は言う。
 なお、引用部の「ポデスタ」とは、中世イタリアのコムーネにおける執政職を指す。*5 

政教分離と信教の自由

 政教分離と信教の自由は全然ちがう (114頁)

 政教分離の目的は信教の自由ではない。
 二つは異なるものである。
 実際、主権者が宗教を独占するホッブズ的体制でも、政教分離は貫かれている、と著者はいう。
 政教分離においては、方法は違っても、政治システムの中に「団体」を進出させてはいけない、というのが大原理である*6
 対して、信教の自由はあくまでも個人の精神の自由*7なのである。

「奴隷」だらけの現代

 ところが近代に関係が逆転し、働くほうは他人の占有内で、その他人の支配下で労働するようになった (131頁)

これはローマなら奴隷の地位である*8
 自分の労働を「使わせてやる」という優位が崩れてしまった*9 *10
 これをカヴァーするために分厚い立法がなされ、労働契約は事実上契約法を離脱し、代わりに占有保障の体制が構築されたのだと著者は見る。

アンティゴネ―と「反コンフォルミスム」

 アンティゴネーが死を賭して望んだ理由は、肉親に対する情ではありません。 (160頁)

 ソフォクレスのテクストにおけるアンティゴネ―について。
 死を以て埋葬を禁じるクレオンこそ当時流行の徹底した利益多元論に依拠し、血と土、互酬性、見せしめなどの古い観念に毒されていると著者はいう。
 アンティゴネーは、そうした利益計算が集団のロジックにほかならず、個人のかけがえなさを踏みにじることを、透徹した論理で明るみに出す*11
 徹底した反コンフォルミスム(反画一主義)なのである。

古代ギリシャ社会保障

 社会保障、とくに子供に対するそれは周知のごとく典型的なギリシャ的伝統です (185頁)

 20世紀以降国家サーヴィス・メニューに加わったというのは俗説だと著者はいう*12
 夜警国家など、イデオロギー色の強いスローガンに過ぎないとも。

真の合理性

 見かけの合理性と真の合理性は区別されなければなりません。後者は政治に固有の自由な議論によってのみ得られます。 (221頁)

 いっぽう前者は、誰か一人の頭の中だけに存在する「合理性」である。
 例えば、勝手な計算で効率的な団地を大規模に立てても、住宅問題の解決にはならない、と著者は述べている。
 著者にとって、「合理性」とは、複数の者同士の緊張感のある相互チェックを前提とするものである*13

行政の恣意

 そういう行政をもったら「この世は終わりだ」くらい考えたほうがいいですよ (204頁)

 外国人に本来発給すべき在留許可を出さないのは、その権利を侵害しているだけではない*14
 公的な作用が致命的に害されているのである。
 そういう政治システムであると、行政の恣意を生み、我々一人一人の自由が脅かされる*15

 

(未完)

*1:ところで著者は、「倫理が自然状態に内在しているなどという混乱した概念ですね」(281頁)という風に、ヘレニズム期からすでに自然を社会学的メカニズムで汚染することが始まっているとしている(近代の代表者としてプーフェンドルフを挙げている)のだが、この点については、まだこちらも消化しきれていない(彼の法学にどう位置づけるべきか解っていない)。本文とは何の関係もないが、備忘として書いておく。

*2:近代ヨーロッパにおける「政治」受容については、樋口陽一、蟻川恒正との「鼎談 憲法の土壌を培養する」において比較的簡潔に語られているhttps://ci.nii.ac.jp/naid/40021526946

*3:「西洋は西洋、日本は日本。何故よその事情に従わなければならないのだろうか?」と、本書のAMAZONレビューで問うている人がいるが、究極的には、「最後の一人」のため、ということになるだろう。そして、「ギリシャ・ローマの人々がある時、『どうしたら社会の中で力の要素がなくなるだろうか』と考える」、そこへの共感の是非であり、「木庭は言う。人の苦痛に共感する想像力があって初めて、何が問題かが掴(つか)める。よってまず直感せよと」という時の「想像力」の問題である(「毎日新聞 加藤陽子・評 『誰のために法は生まれた』=木庭顕・著」)https://mainichi.jp/articles/20181014/ddm/015/070/012000c 。 

*4:以前書いたとおり、著者のレスプブリカ概念を考えれば、決して特異な考えではないだろう。

この「立法者」は、つまるところ、主権者・人民に提案すべき法律を起案する者のことだから。彼自身の言い方に従えば、主権者の権力すなわち立法する権力それ自体からは区別される立法の権威なのだから。 ルソーはこうも言う。――「ギリシャ都市国家の多くでは、自分たちの法律の作成を外国人たちに委ねていた」。日本国民も、まさしく、その典型ともいうべき出来事を経験してきた

という樋口陽一の言葉を想起すべきところか。(『抑止力としての憲法』 https://kingfish.hatenablog.com/entry/20180216) 

*5:ポデスタはそのコムーネの外から選出された。「多くは他の都市から法知識のある貴族を招請し」、「選出・招請は、間接選挙、又は間接選挙とくじ引き(15)を組み合わせた方法等により行われた」という。「ポデスタとカピターノ・デル・ポポロの任期が極めて短く、再選が妨げられたのは、彼らの専横を押さえ、彼らが独裁者化するのを防ぐためであった。これは、取りも直さず、自治都市の共和政の伝統を守ることであった」。(三輪和宏「諸外国の多選制限の歴史」http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/999740 )。まるで古代ローマ独裁官(任期付)である。

*6:既に旧版の『ローマ法案内』(羽鳥書房、2010年)等で説明する通り、古代ローマでは、「宗教について不寛容であるというのではなく、団体について不寛容」(43頁)であった。まず、自由な体制こそ重要であり、宗教が団体を意味する場合は全く自由ではありえない、という考えであった。

*7:木庭に言わせれば「占有」の一種であろう。

*8:木庭は、「同一占有内労働人員」を「奴隷」としている(「東京地判平成25年4月25日(LEX/DB25512381)について,遥かPlautusの劇中より」http://www.sllr.j.u-tokyo.ac.jp/10/papers/v10part08(koba).pdf )。ついでに、以下の証言も紹介する。

古代ローマの奴隷も貴重な労働力だったので、家族を持つことができる労働条件だった。木庭顕先生のローマ法の講義で、「古代ローマでは、奴隷が自分の家族と一緒に食事をする権利が保証されていた。現代日本のサラリーマンは、古代ローマの奴隷以下です」とおっしゃっていたのが、印象に残っている。

石川公彌子氏)https://twitter.com/ishikawakumiko/status/932499852776239106 

*9:田中純は、「アテナイが (引用者略) 家内奴隷制と市民権が出現して支配的な社会関係となるのは、ポリスの成立と同時期であったとされている」とし、「ポリスと政治の誕生がディアレクティカを通じて、ディアレクティカとして語られる以上、奴隷という『言葉なき者』の影がそこからまったく消失するのは当然である」と述べている(「心の考古学へ向けて──都市的無意識のトポロジーhttp://tenplusone-db.inax.co.jp/backnumber/article/articleid/1002/ )。三部作がそろった現時点の木庭のローマ法学おいて、「奴隷」がどのような存在として位置づけられるのかは、なかなか興味深い問題である。とりあえずは、「フィンリーは、理念的に完全な自由――古典期のアテネ市民の置かれた地位がそれに近い――と完全な隷属――鉱山奴隷の境位のごとき――とを両極とする諸身分のスペクトルなるものを想定する。自由人にせよ、広義の奴隷にせよ、現実に人はこのスペクトルのどこかに位置づけられる、とするのである」(伊藤貞夫「古代ギリシア史研究と奴隷制」 https://ci.nii.ac.jp/naid/130003655720)とあるように、奴隷の自由/隷属の度合には幅があったことに留意が必要であろうし、ついでに、「近代の労働者は他人の占有内に入り込み、費用投下の通り道となる。占有サイドに立たないのである。奴隷と同じである。」https://twitter.com/tomonodokusho/statuses/970279219493158917 という木庭『新版ローマ法案内』の言葉も想起されるべきであろう。

*10:本文とはあまり関係ないが、ローマ法の家族法的側面について、少し書いておきたい。

 「多くの点で、ローマ法における成人女性は、近代以前のほとんどの法制度におけるより独立していた」(中村敏子『トマス・ホッブズの母権論』128頁)とあるように(現代のアメリカで編集された古代ローマ法に関する判例集に載っているという)、ローマ法では、結婚においても別産制が貫かれたため、「自権者」として独立していれば、結婚後も女性は自分の財産を自由に使え、20世紀以前の英米の既婚女性よりずっと多くの財産権を持っていた。(中村の主張については、論文「ホッブズの「ファミリー」概念に対する古代ローマ法の影響」https://ci.nii.ac.jp/naid/120005327670 をネット上で読むことができる。)

 こうした女性の財産的自律性については、木庭は、『新版 ローマ法案内』において言及している(当該書・81~85、200~203頁)。ただし、木庭自身は、「より高級な(実力に遠い)占有」(85頁)の構築という点に重きを置いて、論じている。

 以上、この註について、木庭著について読解不足があったので、内容の訂正を行ったことを予めお断りしておく(2019/12/22 )。 

*11:

クレオンはたとえ親族であろうと敵は埋葬しないという国家の制度を重視すべきと考えたのに対して、アンティゴネーは血縁だから埋葬するのではなく、敵だから埋葬しないという考えに反対している」「もう、死んでしまっていて、誰とも替えのきかない存在になっている」から、集団が個人を犠牲にしていくのを批判し、犠牲にされる個人を救うにはどうするかを考える。

(「揖保川図書館 大西」氏による木庭著『誰のために法は生まれた』に対する書評(たつの市立図書館発行「来ぶらり」2018 年 11 月 1 日 No.158 11月号 http://www.city.tatsuno.lg.jp/library/burari/documents/1811.pdf ))

*12:「典型的なギリシャ的伝統」は、次の著者の言葉に関連するものと思われる。たぶん。

交換を避け、一方的で見返りを切断された贈与が政治システム自体に対してなされ、政治システム自体がそのような贈与として見返りなしに信用供与する。古典的方式の場合、政治システムの人格化さえおそれ、特定主体から特定主体への、政治的決定による裁可を経た、贈与、として概念構成された。これは何も突飛なことではない。現在でも、税と社会保障の関係はこれであり、社会保険や年金団体による解決は上の最後の部分とパラレルである。今人々の生存を支えておけば、将来の税収になり、それはまた新たな人々の生存を支える。ポイントは、これが不透明な交換にならないようにすることであり、政治システムの任務は、それを透明にすべくガヴァナンスすることである。

(「科学研究費助成事業(科学研究費補助金)研究成果報告書 信用の比較史的諸形態と法」 https://kaken.nii.ac.jp/file/KAKENHI-PROJECT-20243001/20243001seika.pdf) 

*13:木庭とハイエクの議論はいくつかの点、例えばハイエクのいう「設計主義」には批判的であるといった点などで似通っているが、異なる点もある。例えば、木庭のいう「政治」を重視するか否か、という点である。

ナイトは「議論による統治」を目標とし、人間は知的であり、人間による民主主義的な議論により正しい法を確保することを理想とした。それとは反対に、ハイエクは、人間は無知であると見做し、進化した「法による統治」が必要と考え、民主主義についても消極的な賛成に留まった。

今池康人「フランク・ナイトによるハイエク批判の検討 : 「法の支配」と「議論による統治」」https://ci.nii.ac.jp/naid/120006453249 )

*14:「現地情勢や人権状況の厳しさが明白な国・地域からの難民が、日本では難民としてなかなか認定されない」理由として、滝澤三郎は、法務省の「難民」の定義が狭いこと(法務省は条約を厳格に解釈し、「紛争難民」を「難民条約上の難民」であると認めないなど、その認定基準は厳しく、「本来救われるべき難民も日本に来ることを避けてしまう」)を挙げ、「外国から来た人々を管理し、取り締まる組織が、同時に難民を庇護するということは両立しにくい」点を問題点とし、「法務省の中でも人権を扱う、人権擁護局に難民認定審査を担わせることが良い」としている(志葉玲「認定率は0.2%「難民に冷たい日本」―専門家、NPO、当事者らが語る課題と展望」 https://news.yahoo.co.jp/byline/shivarei/20180509-00084621/)。

*15:たとえば、生活保護申請における「水際作戦」等を想起すべきだろう。大西連「生活保護の水際作戦事例を検証する」http://synodos.jp/welfare/4583 等参照。

近代に発見された「作者」としての世阿弥 -田中貴子『中世幻妖』を読む-

 田中貴子『中世幻妖』を再読した。

中世幻妖―近代人が憧れた時代

中世幻妖―近代人が憧れた時代

 

  内容は、紹介文にある通り、「小林秀雄白洲正子吉本隆明らがつくった“中世”幻想はわたしたちのイメージを無言の拘束力をもって縛りつづける」とし、近代知識人たちの中世像と、研究で判明している中世の実像との落差を見ていく本。

 面白かった。

 以下、とくに面白かったところだけ。

とはずがたり』と金栗四三

 鎌倉時代の話なのに、ほとんどのレビュアーが平安時代の物語と勘違いしているのだ。宮廷で、女房と皇族・貴族の恋愛が絵が描かれればすべて平安時代のものと思っているらしい (50頁)

 『後宮』という『とはずがたり』をベースにした漫画のアマゾンレビューを見ての、著者・田中の感想である。
 ところで、『とはずがたり』は、山岸が「昭和十三年の冬頃」に「図書寮の図書目録」の「日本文学中の日記・紀行の部に、「とはずがたり」が収載」されていたのを発見したものである*1が、
この山岸は金栗四三の後輩である。*2 *3

「さび」と俊成

 「さび」とは平安末期の歌人藤原俊成によって使われはじめた言葉であり、(略)これだけ長い時間の経過があるわけだから当然その内実や意味するところは変化しているだろう。 (54頁)

 たしかに、当然のことではある。
 「わび」や「さび」という語の変遷については、岩井茂樹「「日本的」美的概念の成立 (2) 茶道はいつから「わび」「さび」になったのか?」等が参照されるべきであろう*4

東山文化と太平洋戦争

 東山文化についての代表的な研究書が(略)昭和十七年(一九四二)から昭和二十年にかけて刊行されているのは偶然ではない。 (78頁)

  応仁の乱という大規模な内戦が太平洋戦争のアナロジーとされ。モデルケースとしての東山文化を称揚する必要があったのである。
 今のように戦争で苦しい時期でも、東山文化みたいな立派な文化を我々の祖先は築いたのだ、という意気であろうか。
 該当する研究書は、森末義彰『東山時代とその文化』(1942年)、笹川種郎『東山時代の文化』(1943年)、芳賀幸四郎『東山文化の研究』などである*5

西行の旅の期間

 高野山には約三十年間も暮らしているのである。 (略) 西行が旅に出ていた期間を総計しても三年未満だということになる。 (96頁)

 これは、川田順の研究に基づいている*6 *7

 思ったほど、旅をしているわけでもないのである。
 なお、平安末期の奥羽への旅も、西行以前に、藤原実方や能因などの歌人がすでに東国に行っており、べつだん先駆的存在だというわけでは必ずしもない。

詞書は大切

 詞書と歌はセットなのである。だが、近代知識人はしばしば詞書を捨てて、歌の中に「真なるもの」があるかのごとく錯覚してしまう。 (177頁)

 こういうのは、西欧経由の近代詩の影響なのだろうと思われる。
 德植俊之も、詞書を省いて古典教育をおこなうことを、批判している*8

源実朝の実像

 「武」の最たるものとしての戦争や闘争から知識人が距離を置くための思想的基盤として、実朝の再評価が要請されたのである。実朝は沈黙し、無常を観ずる。何もしないことが、何かを饒舌に語ることになるわけだ。 (184、5頁)

 小林秀雄らへの批判である。
 戦わない、どちらにも立場をとらない、そんな自身を正当化するものとして、実朝が利用されることとなった*9

 今まで「いかにも実朝、いかにも万葉調」と賞賛されてきた和歌はすべて晩年に詠まれたと考えられてきたが (略) 、実朝がもっとも「実朝らしい」和歌の才能を発揮したのは二十一、二歳までだというのである。 (212頁)

 実朝の万葉調の歌は、きほん二十一、二歳頃の歌である*10
 「吹く風の涼しくもあるかおのづから山の蝉鳴きて秋は来にけり」、「大海の磯もとどろに寄する波われて砕けて裂けて散るかも」、「ものいはぬ四方のけだものすらだにもあはれなるかなや親の子をおもふ」、「時により過ぐれば民の嘆きなり八大竜王雨やめたまへ」、「山はさけ海はあせなむ世なりとも君にふた心わがあらめやも」、など「実朝らしい」和歌は、晩年の作品ではなかった。
 むしろ、「実朝が好んだ結句は、新古今的な結句であり、新古今集の特徴といわれるものを、実朝もまた有している」という指摘も存在する*11

近代に「発見」された『風姿花伝

 世阿弥の伝書は、実際の能楽師が読んだわけでもなかった。幼少期から口伝と稽古で芸を身につける能楽師にとって、世阿弥の直筆テキストを読む必要すらなかったのだろう。 (238頁)

 江戸以後の能の世界では、誰も『風姿花伝』などを読んだことが無かったようだ。
 じっさい、観世寿夫が1974年にそのような証言をしている。
 世阿弥の口伝書(『風姿花伝』を含む)は、吉田東伍によって発見され、1909年に刊行された。
 『風姿花伝』の場合、世に広く知られるようになるのは、1927年に岩波文庫から『花伝書』として刊行されてからである*12

 古典の文句を切り貼りした「綴れの錦」などと酷評され、文化的にも程度の低いものとして扱われてきた能は、伝書発見によって、 (略) 高い評価を受けることになった。 (238258頁)

 能は実は伝書発見以前は、相対的に、程度の低いものとして扱われていた*13

近代における「作者」

 明治から昭和初期にいたる中等教育の国語教科書では『平安物語』や『太平記』に、根拠の乏しい作者説によってむりやり作者名を添えている (258、9頁)

 先も述べたように、世阿弥は近代に発見されることになった。
 当時の文学史では、作者の不明なテクストや「偽書」はほとんど、無価値に等しく、作者不在はすなわち作品の存在意義を失わせた。
 だから、世阿弥の「発見」は、能を由緒正しい「ニッポンの文学」に格上げさせたのである。*14

世阿弥ギリシャ悲劇

 世阿弥を時代的にさかのぼるギリシャ悲劇と比較することが多いが、これは能と世阿弥の研究に「国文学」研究者よりも海外文学や演劇の研究者によって先鞭がつけられたことによると考えられる。 (262頁)

 著者は、「難解で入手しがたいテクストを外国語の翻訳で読むことで、世阿弥や能を「発見」しやすかったのが理由である」とも指摘している(262頁)。*15
 実に興味深い。

 

(未完)

*1:横井孝「 山岸徳平博士の現写本考 : 実践女子大学図書館山岸文庫蔵本識語編年資料から」https://ci.nii.ac.jp/naid/120006250390 より。

*2: ブログ・「ばーばむらさきの『I Love 源氏物語』」のコメント欄http://murasakigenji.blog.fc2.com/?no=683によると、「『源氏』の最後の冊を開いたら、まず目に飛び込んできたのが『金栗四三』の文字。1度も開かれなかったと思しき、まっさらの月報の最初に校注者・山岸徳平氏(東京高師の後輩)の思い出を綴っていたのでした」とのことである。該当するのは、おそらく、山崎校註の「日本古典文学大系 源氏物語」の最終巻の月報ではないかと思われる。(https://www.kosho.or.jp/products/detail.php?product_id=235720632https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000000953958-00 

*3:文部大臣官房体育課『本邦ニ於ケル体育運動団体ニ関スル調査』の「全国的学生体育運動団体一覧」を見ると、「全国学生マラソン連盟」の代表者に金栗四三の名前があり、「山岸徳平気附」という文字も見える(当該書196頁)。

 以上、2020/5/9にこの註の追記・添削を行った。

*4:https://ci.nii.ac.jp/naid/120004966540  

 「さび」を名詞として用いたのは、蕉風俳論においてのことである。「さび」が名詞的にその美を現すのは、江戸中期に入るところだった(以上、岩井論文、31頁)。

 また、本書(田中著)でも、鈴木貞美岩井茂樹編『わび・さび・幽玄』が参照されていることを念のため述べ添えておく。

 この項目に対する註について、修正・添削を、2020/5/28に行った。

*5:川嶋將生「東山文化--その言説の成立」https://ci.nii.ac.jp/naid/110006388153 は、次のように述べている。

このように概観してくると、義政時代への注目は、その時代が応仁・文明の乱を挟んで、いわゆる下克上の時代へと突入した、混乱する時代であったこと、そして森末・芳賀両氏とも、そうした時代と、太平洋戦争に突入した昭和17年頃とが、混乱ということでは共通した時代と認識されたこと、しかしそうした時代であったからこそ、「国史の本質を露呈」した時代であったと捉えたことが、その背景にあったことが知られる。

 なお、本書でも、川嶋論文が参照されていることを、念のため書いておく。以上、2020/5/28に追記を行った。

*6:参考までに、2005年4月15日発行の「西行の京師」http://sanka11.sakura.ne.jp/sankasyu4/201.html によると、西行の最初の東北の旅は、「川田順氏説」で、「康治二年出発(1143年=西行26歳)」、「天養元年帰洛(1144年=西行27歳)」である。

*7:西行の長旅を通算しても3年程度、また、日本国中に佐藤の同族の縁者がいるのだから、西行が乞食坊主のはずがない、という川田順西行』(1939年)の意見に対して、風巻景次郎『西行と兼好』(角川書店、1969年)などは肯定的である(36頁)。

 なお、川田の主張については、大内摩耶子の論文・「『とはずがたり』の旅」(https://ci.nii.ac.jp/naid/40000306457 )が、該当する箇所を引用している。

 以上、2020/5/28に追記した。

*8:「中学古典和歌教材の再検討 : 古典和歌教材に詞書は不要か」https://ci.nii.ac.jp/naid/120006599365

*9:五味渕典嗣は、「小林秀雄が口にし書いてしまったことの責任を免罪することでは少しもない」としつつ、小林の「実朝」の結末の一文は、「書き手小林にとっても、十全たる確信を持って提示できるようなものではなかった、ということでもある。つまり、読者の同意を得るためには、ある程の強制とともに語らねばならない、と小林自身、どこかで感じていたのではないか」と解釈している(「死ぬことの意味 : 小林秀雄「実朝」を読む」https://ci.nii.ac.jp/naid/110000376057 )。小林の性格を考えれば、その可能性はある。その罪は消えないだろうが。

*10:「昭和四年、佐々木信綱が発見した定家所伝本の奥書によって、この歌集は実朝が二十二歳までの習作を集めたものと判明した。これによって、歌の解釈が微妙に変更された」のである(駒澤大学総合教育研究部日本文化部門 「情報言語学研究室」のホームページ、 https://www.komazawa-u.ac.jp/~hagi/kokugo_kinkaiwakashu22.htmより引用。 )。

*11:三木麻子「実朝詠歌,一つの方法--結句を中心として」(1979年)、26頁。https://ci.nii.ac.jp/naid/120002276567 

*12:大正期にはほとんど世阿弥受容が進展してはおらず、「大正期を通じて和辻哲郎安倍能成、野上豊一郎、桑木厳翼らいわゆる教養主義の担い手たちに読まれるようになり、 (引用者省略) 昭和初期の世阿弥受容につながっていく」。また、「世阿弥発見に先立って、能楽に関する学問的研究がまず開始され、それが契機となって、同書(引用者注:吉田東伍が校注した『世阿弥十六部集』)が刊行された」
ことにも注意が必要である。以上の引用(及び参照)は、横山太郎「世阿弥発見:近代能楽史における吉田東伍『世阿弥十六部集』の意義について」https://www.academia.edu/836090/%E4%B8%96%E9%98%BF%E5%BC%A5%E7%99%BA%E8%A6%8B_%E8%BF%91%E4%BB%A3%E8%83%BD%E6%A5%BD%E5%8F%B2%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E5%90%89%E7%94%B0%E6%9D%B1%E4%BC%8D_%E4%B8%96%E9%98%BF%E5%BC%A5%E5%8D%81%E5%85%AD%E9%83%A8%E9%9B%86_%E3%81%AE%E6%84%8F%E7%BE%A9%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6_Zeami_Discovered_Significance_of_Yoshida_Togo_s_Sixteen_Treatises_of_Zeami_for_the_History_of_Modern_Noh_Theater による。

 なお、本書(田中著)でも、この横山論文が参照されている。

 以上、2020/5/28に追記を行った。

*13:前掲横山論文も指摘するように、

坪内は、実際には「綴れの錦」という言葉を使っていないのだが、皮肉なことに、謡曲を擁護しようとした久米のこの文章のなかに見えた蔑称としての「綴れの錦」が、その後の謡曲を文学的に評価する際の、決まり文句となったのであった。

ここでいう「坪内」は坪内逍遥、「久米」は久米邦武を指す。久米、かわいそうである。

*14:前掲横山論文が指摘するように、

世阿弥が作者であった」という事実は、単に世阿弥という人物の経歴に修正を加えるのみならず、〈世阿弥非作者説〉に立脚したすべての文学史認識と謡曲価値認識を、根底から覆し、能を一級の国民「文学」の地位へと引き上げた。さらに、「文学史」テキストの中で謡曲がその時代にあって最も優れた文学であるとされた、室町時代の文学そのものの再評価のきっかけになったとも言えるだろう。

「作者」という存在は、近代においてそれほどに大きいものだったのである。

*15:ここでいう海外文学者の代表例としては、英文学の松浦一、同じく英文学者の野上豊一郎らがいる。野上は、バーナード・ショーなど英語演劇の研究者である。ここに、西洋史学者の野々村戒三も加えるべきであろう。

 ただし、野上は「役者、合唱部、仮面の比較を通して、ギリシア悲劇と能とは相似の関係にはなく、正当の対比ではないと指摘しておられる」と、荻美津夫は書いている(「能とギリシア悲劇との対比について:野上豊一郎「能の主役一人主義」の場合」https://ci.nii.ac.jp/naid/130003849498 )。 

自己利益を厳密に計算する思考なしに真の信頼は築きえない -木庭顕『法学再入門 秘密の扉―民事法篇』を読む-

 木庭顕『法学再入門 秘密の扉―民事法篇』を読んだ。

法学再入門 秘密の扉―民事法篇

法学再入門 秘密の扉―民事法篇

 

 内容は、「法律学の学習になじめない学生のために著者が実際に行った講義を、紙上で余すところなく再現。『二ボレ』Profと学生たちによる、面白くて鋭い、白熱した議論が展開される」といった内容。
 AMAZONレビューにもあったが、正直、特に後半は難易度が高い。
 
 以下、面白かったところだけ取り上げる。

「皆」から見捨てられた「最後の一人」

 もし「皆(みんな)」で見捨てたならばどうか。 (19頁)

 まえに取り上げた木庭の本と同様、占有の話である。
 「みんな(多数派)」があてにならないときどうするか。
 彼らに見捨てられた「最後の一人」に、法は焦点を当てる。
 たとえどちらが「正義」側であろうとも、法的手続きを破るのは厳禁である、ということである。
 以上、前回の復習である。

 公的空間は「誰のものでもない」 

 公的空間ではそもそも占有と果実が成り立たない (33頁)

 公的空間は、何かを利用して何か利益を生む、という構造ではない。
 そして、「皆」(≒多数派)のもの、という性質のものでもない。
 少数者が排除されてしまうからである。
 むしろ、誰のものでもない、と著者はいう*1。 

 そしてそうした空間は、本当に開かれていることが求められ、そのためには厳密な言語で構成される必要がある。

 権力や権威や利益が幅を利かせないような圏域、それが、裁判等の「政治システム」なのである。

 公共空間へのアクセスと占有

 公共空間へのアクセスなしには占有が壊死してしまう (24頁)

 相隣関係の問題*2である。
 当たり前であるが、ライフラインへのアクセスが出来ないと占有が死んでしまう。
 たとえ暴力を使わなくても道路等を封鎖して公共空間へアクセスできなくすれば、相手に無理強いできてしまうのである*3
 地上げではおなじみの手口である。
 法はそうした横暴を許すことはしない。

「直接性」の回復

 書いたものは、発話者を物の背後に隠すからです (48頁)

 裁判があくまでも口頭弁論によらねばならない理由はこれだと著者はいう。
 水平的で非権威的な言語交換のためには、直接性が不可欠である。*4 *5
 透明性が欠かせないからである。
 「政治システム」たる裁判は、開かれていること、厳密な言語で構成される必要があり、各主体の背後に権力や権威などが隠れてはいけない。
 そして、議論の主体が論拠を把握しあうことが重要である。
 そうした「回り道」が質の高い「決定」を生む。*6

 信頼とは詮索しないこと

 言うならば、「約束を守れ」ではなく、「約束を守らなくともよいのに」 (169頁)

 『走れメロス』の元の原型となった古代ギリシャのお話である*7 *8
 これは横断的連帯の話なのだ、と著者はいう。
 「何故戻ってきた俺が代わりに死ぬと言っているのに」、「いや俺が死ぬ、そのために帰ってきた」というクライマックス、これこそがまさに友情なのだという。
 この発想は、信頼に対する考えにも通じる。

 真の信頼は詮索を拒否します(172頁)

 ツルの恩返しでいうなら、信頼していれば、障子は開けることはしない。
 相手のことを詮索しない、相手の自由を尊重することが重要である、唯一、信頼できるかどうかだけを見る。
 それが木庭における「信頼 (bona fides・善意・信義則)」の要である。*9
 もちろん、ひたすら信じるという甘え切った考えではなく、むしろ、厳密な利益計算が求められる。*10

 故意と責任

 取引世界からレッド・カードにより追放される (175頁)

 信頼を裏切った場合のローマ法での事例である。
 不透明なことをした場合、つまり、bona fidesの原理に反することをした場合、dolus malusという*11
 占有侵害となり、懲罰的な賠償責任を負い、ブラックリストにも登録されて信用剥奪となる。
 著者は、契約法の基本は故意責任だという。*12

「ありがとう」と労働

 お金を払うと同時に「ありがとう」とも言う。これはどうしてだろう? (271頁)

 医者と患者、家庭教師と生徒の母の話である。
 医者は患者の占有(身体)に治療を「入れる」(与える)、家庭教師は子供に知識・知恵を「入れる」(与える)。
 対して、普通の労働者はそうではない。
 使用者の保護・敷地に入って、働かせてもらう(与えられる)形になる。
 これだと、請負に近くなる*13

ローマ法が嫌った「法人」

 法人は気が遠くなるほど分厚い要件をクリアしなければ生まれなかった概念 (342頁)

 政治的システムと同じくらいに怪しい徒党が背後にいるのではないということが完全に保証されていることが、キリスト教の教会を基礎づける全概念構成によって保障される仕組みになっていた*14
 要は、透明性が教会の存続条件だったのである。
 それが出来ない学校法人や宗教法人などはローマ法では否定された。
 そもそも、ローマ法では、団体や集団には根底的に懐疑的である。
 こうした集団が透明性を失いがちであるからである。
 こうしたローマ法の傾向が法や政治システムの土台となっている。
 実際、ギリシャやローマでは法人は存在せず、結社団体は強く禁止されていたのである。

 

(未完)

*1:「ともの読書日記」は、

憲法とは「皆のもの」(占有して皆で取り分けることが出来るもの)ではなく、「誰のものでもない」(誰も占有しえない)と木庭先生がいうとき、私は、res publica共和国という言葉の原義はそう訳すべきであったのかもしれないと考え、改正限界の基礎理論は「誰のものでもない」という公共概念を前提とすべきなんだろうなと気づくことになります

と、「公共」は「誰のものでもない」ことを強調している。http://tomonodokusho.cocolog-nifty.com/blog/2015/08/post-fecc.html 

*2:「隣接する不動産の所有者の間で、隣地の通行・排水・境界などについて相互の不動産の利用を調整し合う関係」のことである。

*3:山野目章夫は、木庭顕著『現代日本法へのカタバシス』への書評 https://ci.nii.ac.jp/naid/130006627559 において、次のように書いている。

Q・Rの相続紛議に巻き込まれてAの保護が達せられなくなることの喜劇は、その直観により一瞬にして悟られたものであろう。そしてまた、その実務家の方々に、ながく乙土地のQ所有を立証しない限り相隣関係上の権利を主張することができない、と信じ込ませてきた者は、誰か。それは、『法定のものから『地役権』の語を剥奪し……基本的には『相隣関係』として括られる』(本書一五九頁)いう思考により、事態を所有者Aと、ひとしく所有者である(!)Qの関係として把握させる方向(そのことから②・③の連続性が看過される)を誤導した人たちではないか。

*4:直接性、書いたもの(エクリチュール)といった言葉から、例えばジャック・デリダの存在を想起する者もあるかもしれない。デリダの場合、西洋形而上学における「直接性」の根源的な脆弱さを脱構築差延などの概念を以て指摘することで、「パロールエクリチュール」等の階層性・序列制を揺るがせることが狙いだったと思われるが、木庭の場合は、そうした「直接性」の根源的な脆弱さを想定しつつも、「政治」の公開性・透明性を向上させることで、主体同士の水平性を回復させることが狙いだったように思われる。そういった点においては両者は異なる存在であるようにも思われる。ただし、会計学からは(後期)デリダにおける「責任の無限性」の概念を会計に応用した國部克彦などの研究者も登場している。國部の著書への書評において田崎智宏は、「先のSDGsでは『誰一人取り残さない(No one is left behind)』という理念が提示された。SDGsの策定プロセスでも多くの人々の闘技的な議論があった。企業経営においても闘技的議論とそのための能動的・多元的会計が実践されることを期待したい」と、木庭の「最後の一人」を思わせるような理念にも触れている(「書評 『アカウンタビリティから経営倫理へ――経済を超えるために』」http://www.yuhikaku.co.jp/static/shosai_mado/html/1805/05.html 。なお、國部著については、藤井良広 による書評https://ci.nii.ac.jp/naid/130007501351も参照すべきであろう。)。こういった点をも考えると、デリダと木庭顕はそこまで遠い場所にいるわけではないのかもしれない。

*5:木庭自身はデリダ等ではなく、例えばホッブズスピノザなどによく言及する。本書の場合には、「記号を使わない精神的活動は存在せず」(83頁)といった、スピノザ的考えも登場する。記号は常にシニフィアンを要求し、それは物的な存在なのである。つまり、物的な存在を伴わないシニフィエ(精神や思考)などはあり得ない。木庭におけるその法学的意義は、「政治システムによって自由を概念することの重要な帰結は心身二元論」で、「政治は実力及び利益交換に満ちる領域から離脱する空間を構築することを意味します。しかし同時に、その領域の実力及び利益交換を制圧する任務を帯びます。だから二元論です。後者を放っておくわけではない」といった非乖離的な<二元論>に認められる(「Motoharuの日記」よりhttp://d.hatena.ne.jp/Motoharu0616/20170926/p1 )。なお、スピノザについては、「木庭教授自身が、『デモクラシーの古典的基礎』において『Spinozaの理論構成の中にわれわれは実はデモクラシーに関する潜在的に最も正統的な形而上学的基礎づけの可能性を見出すことができる』(23頁)と高く評価していた」という(「ともの読書日記」http://tomonodokusho.cocolog-nifty.com/blog/2011/10/post-779a.html )。 )

*6:木庭は以下のように述べている。

決定の実施が取引・迂回・サボタージュ等々にあわずにストレートに進むことがどこで保障されるのか、という批判であるように読みました。しかし、私見によれば、「カール・シュミットの真空」は却って彼が無視するデイアレクテイカの過程を通じてしか得られない、さきに(どうでもよい形で)決定しておいていざenforceしようと様々な手立てを講じてみても、むしろ混乱を招くだけであり、戒厳権力でさえ迂回されざるをえない、意外であるかもしれないが、議論の特定の構造が真の「主権」を生む、というのが私の考えです。多くの人には私が転倒しているように見えるでしょうが、私にはカール・シュミットの転倒は明らかであるように見えます

(「川出良枝『自由な討議と権力の不在』(本誌9号)に付して」http://www.jcspt.jp/publications/nl/010_200004.pdf )。自由な討議と最終的な集団的意思決定との摩擦的関係について、その決定の強制性をどうするのか、というのが、川出による『政治の成立』の書評での問い(http://www.jcspt.jp/publications/nl/009_199912.pdf )であった。これに対して、著者は、形式的ともいえる「議論の特定の構造」こそが真の「主権」を生む、と逆説的な返答しており、その「回り道」の効能を説いている。

*7:実際、「メロス」の話は、「南イタリアギリシャ植民都市圏、ピタゴラス教団周辺から出た伝承で、ヘレニズム期、ローマ時代に書き継がれ、近代になって翻案されました。これを太宰治が新たに翻案した」。そして、「契約は守らなくともよいのです。だけれども守る。だからこそ守る。自然とそうする。約束したからしようがない、守るか、ではありません。もっと実質レベルの信頼関係のために自発的にそうする」のである(以上、「picolightのblog」より。http://picopico.blog.jp/archives/1033966607.html )。契約における根源的な自発性の意義が説かれている。

*8:奥村淳は、太宰治走れメロス」で知られる「西洋古来の伝承の総称」を<ダモン話>と呼称し、

<ダモン話>は明治4年に日本で紹介されて以来、太宰治走れメロス」に至るまでその数は多い。教科書を始めとして児童読み物になり、歌舞伎や学校劇の題材となり、宴会の余興の題目となり、軍隊の訓話にもなった。<ダモン話>と構造が類似したものを含めるとその数は多い。

として、様々なバージョンを紹介している(「太宰治走れメロス」について : 日本における<ダモン話>の軌跡」https://ci.nii.ac.jp/naid/120005983065 今回、註番号等を削除して引用したことを予め断っておく。)。
 中でも面白いのは、「大正10年6月:三浦喜雄、児玉安積「高等小学読本教授書:教材精説実際教法.第一学年前期用」東京・宝文館」の「真の知己」で、

「要旨」に「二人も堅固な宗教的信念の上に立つてゐたので斯の如き所行が可能であつた事も或は知らせてもよからう。」とある。「宗教的信念」とはピタゴラス学派のことであり、「解説」の「ピチユースとダモン。」がその内容を説明している。 (引用者中略) 「罪」について問う児童に対しては「或る学説を信じてゐるが故に、ディオニシユースに反抗してゐるやうに取られたのは無理もない事である。」と教えるとよいとある。児童は「学説」いうならば思想が死刑の対象となることを知ることにる。広島高等師範学校訓導の著者が大正9年の森戸事件を意識していたことは間違いない。「死生の境」を超越する信念が向けられるべき対象は自明のことだったのだ。

と、奥村は内容をまとめている。
 大正十年時点で、既にピタゴラス学派のことが言及され、しかも、森戸事件の影もあるというのは興味深いところではある。(ただ、前年の大正九年に、鈴木三重吉の「デイモンとピシアス」は、ピタゴラス学派について言及しているのではあるが。)
 ただ、当該論文の本旨は別にあり、それもなかなか面白いので、是非ご一読あれ。
 以上、2020/2/20に、追記した。

*9:木庭は、bona fidesについて、「政治的結合体、自治団体の如きもの」が「個別的に二当事者間で信用を供与しあう。そういう自由な信用の関係を称して、bona fides の関係、つまりgood faithの関係」、としている(「信用の比較史的諸形態と法・研究成果報告書」https://kaken.nii.ac.jp/ja/grant/KAKENHI-PROJECT-20243001/ )。そして、

この関係の特徴は、具体的にというよりヴァーチャルに政治システムに属する当事者が、合意をし、丁度政治的決定に対するようにこれに絶対の信頼を寄せる。まるで対価を期待しないが如くに先に商品を引き渡したり、代金を支払う。もちろん、やがてそれは報われるが、その関係は、無償で給付することが将来〈世代〉に返って来る、という政治的関係に似る。このタイムラグが、信用に該当する。それは、実体の取引が極めて頻繁であって(個々のデフォールトにもかかわらず)全体としては信頼できる、ということによって補強されている。

*10:木庭は、「法学再入門 : 秘密の扉 番外篇」(『法学教室』 (419), 2015-08)において、「むしろ皆が同じように考える、或いは考えるはずだという前提がとことん無いのでなければならない」(69頁)と、社会が深い亀裂によって裂かれていることが、徒党の排除に不可欠だとマキャベリは『マンドラゴラ』などで看破した事を書いているし、「無自覚のまま惰性で動いているのではない、成熟した、ということ」(73頁)と、社会内部の亀裂と外からのインパクトによって、社会は主体的に動く、というふうに書いている。こうした「不信」の思想と先の「信頼」がどのように結びつくのか。これは、「番外篇」で強調する「不信」を土台にしてはじめて、「信頼(bona fides)」が成立する、と理解される。「不信」こそ木庭における「政治」の、不透明な徒党の解体の前提条件であり、不透明な徒党の解体こそ、bona fidesの前提条件であるからである。後述するように、bona fidesを裏切ったときの措置はそれを裏付けるものである。また、「自らの利益を厳密に計算する思考が無いところに本当の信頼は築きえないということがこの事案からもわかる。ペーネロペイアはオデュッセウス帰還に感激する前に徹底的にアイデンティティーを吟味した」という、「東京地判平成25 年4月25 日(LEX/DB25512381)について,遥かPlautus の劇中より」www.sllr.j.u-tokyo.ac.jp/10/papers/v10part08(koba).pdf の註にある言葉も、思い出すべきでああろう。

*11:「「債権法改正の基本方針」に対するロマニスト・リヴュー,速報版」www.sllr.j.u-tokyo.ac.jp/05/papers/v05part10(koba).pdf では、

引き受けた以上は絶対に履行結果を達成しなければならない,さもなくば賠償だ,というのである。前代未聞の厳格責任主義であり,契約法の基本に反する。bona fides に反しない限りごりごりと履行を迫ったりしない,まして賠償請求などしない(不当利得返還にとどめる),のが契約の精神である。ごりごりと杓子定規に履行を迫るのはbona fides に反する

という言葉で、bona fides(と、dolus malus)が説明されている。

*12:単純な占有においては、「過失責任原則は登場せず、故意責任原則の方に忠実」であるが、ただし、「過失責任原則を欲する事態が新たに登場します。占有が二重に概念され、二重構造で思考しなければならない。そういう状況になると自ら責任帰属が複雑になる、ということは自明ですね。そう、所有権概念が基軸たる役割を担う段階で、テクニカルな意味での過失概念が登場した」と、木庭は説明している(「Motoharuの日記」よりhttp://d.hatena.ne.jp/Motoharu0616/20170926/p1 )。

*13:もっとも、請負の場合は材料や道具は自分持ちで、作業の場所も自分が仕切る。無論、これは近代における請負の話である。「近代の請負の場合は, (引用者略) Q は対価を得て成果をPに引き渡す。これは問題を惹き起こしやすい形態であるが,しかしこの場合でも対価は予め定まっている」。一方、ローマ法における「元来のlocatio conductio であれば,conductor たるQ が定まった対価を払って仕事をし,自ら販売して元を取る」こととなる(「東京地判平成25 年4 月25 日(LEX/DB25512381)について,遥かPlautus の劇中より」www.sllr.j.u-tokyo.ac.jp/10/papers/v10part08(koba).pdf )。農園主にお金を払って、農園で果実を収穫させてもらい、その果実を持ち帰って自分で販売する、というようなイメージである。

*14:法人の起源は、「中世教会法における『キリストの身体』(Corpus Christi:コルプス クリスティ)である(個別)教会」であり、

国家に法人理論を応用したのはホッブズということですが、そこではやはり教会法の神学理論が適用されていました(木庭顕「笑うケースメソッドⅡ 現代日本公法の基礎を問う」p37)。どんな末端の機関も頭と対等であり、しかも、頭といえども神の代理人ではなく、「キリストの身体」の一部分に過ぎないとされています。対して、キリストの精神(Animus:アニムス)は天上の父のもとに帰っています(前掲・p312)。つまり、「法人」は、神学理論によって、精神(アニムス)の抜け殻である身体(コルプス)として位置付けられた 

と、木庭の文章を引用しつつ、「恵比寿ガーデン法律事務所」は述べているhttp://ebisugarden-law.jp/2017/05/08/%E5%80%8B%E4%BA%BA%E3%81%A8%E7%B5%84%E7%B9%94%E3%83%BB%E6%B3%95%E4%BA%BA%EF%BC%88%EF%BC%97%EF%BC%89/

目的のためなら自分も他者も手段として酷使する松陰 -一坂太郎『司馬遼太郎が描かなかった幕末』を読む-

 一坂太郎『司馬遼太郎が描かなかった幕末』を読んだ。


 内容は、紹介文の通り、「司馬が書いた小説を史実であるかのように受け取る人も少なくない。しかし、ある程度の史実を踏まえているとはいえ、小説には当然ながら大胆な虚構も含まれている。司馬の作品は、どこまでが史実であり、何が創作なのか」を、解説する内容である。

 以下、特に面白かったところだけ取り上げる。

吉田松陰天皇

 司馬遼太郎は松陰の天皇崇拝者としての言葉は引用しない (36頁)

 松陰の天皇*1や忠誠観*2、対外論*3についてはあまり詳しく論じないが、もし明治まで生きていたら、目的のために自分も他者も手段として酷使する組織の長になっていたと思う。

松下村塾は武士の塾

 松下村塾は、特権階級である武士の塾 (39頁)

 武士身分は、全体の83パーセントを占めていた*4
 少数派として、町人と僧侶、医者などもいたようである。

少年テロリストを求めた松陰

 テロリストに仕立てたいから、死んでも構わぬ少年がいれば三、四人みつくろって、早く送れと依頼している(41頁)

 同志あてに手紙を松陰が送ったらしい*5

「草莽」に百姓は入らない

草莽崛起」と「百姓一揆」は区別していた (55頁)

 松陰の「草莽」観の実際である*6
 彼が書いた手紙によると、草莽が一揆を扇動して変革の起爆剤にするのだと述べている。

奇兵隊の身分差

 藩は一見して身分が識別出来る方法を幾つも講じた。 (121頁)

 奇兵隊は、庶民が入っても武士になれるわけではない。
 刀や銃は持たせてもらえるが、姓は公認されなかった*7
 武士になりたいという庶民の野心を巧みに操作して、ほんの数人を武士に昇格させて広告塔として使うなどの方法を用いたようだ。
 それでも人数が足りず、藩は半強制的に兵を集めたりもしている。

奇兵隊と被差別民

 被差別民を除いたと明言している。 (123頁)

 奇兵隊は被差別民の入隊を認めず、それでも望んで身分を隠して入ったものを「手討」にしている。
 高杉晋作は、山県らへの手紙で、被差別民を除外したと明言している*8

女台場

 工事現場はファッションショーと化し (144頁)

 長州において、台場築造(女台場)に女性たちが駆り出された時の話である。
 この時、藩がOKを出したのがきっかけで、絹の着物を新調して女性たちが競い合ったという。
 藩はあわてて新規のあつらえを禁じた。
 このようにして、日ごろ外出もままならない武家の女たちには、開放的で楽しいイベントでもあったらしい*9

赤禰武人

 いまなお赤根の霊は、奇兵隊招魂場である下関市桜山神社にも、東京九段の靖国神社にも祀られていない (156頁)

 赤禰武人のことである。
 けっきょく、赤根は復権しなかった。
 後年、名誉回復の話も出たが、山県有朋が強烈に妨害したのである*10

坂本龍馬と「参議」

 その「職制案」には「参議」として「坂本(龍馬)」の名が出ている (232頁)

 龍馬とともに新政権の人事案を練った尾崎三良の回顧による。
 龍馬が新政府の「職制案」を作ったとき、自分の名前を名簿に載せなかった逸話について、実際は、名前は「職制案」にのっていた、という話である*11

脱退騒動

 山口県では百五十年近くを経たこんにちでも「脱隊騒動」をタブー視する風潮が強く (246頁)

 奇兵隊の「脱退騒動」のことである*12
 結果、武力で鎮圧され、百人以上の刑死者を出した*13
 故郷に逃げて捕えられて自宅の畑で首を斬られた者、処刑場で最後まで暴れて抵抗した武士もあったという。

(未完)

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*1:松陰の天皇観は、桐原健真がいうように、「松陰は、日本固有の天皇の存在自体に基づいていた国学の主張を受け入れ」、「『神勅』が真実であると信じることは、みずからの尊攘運動の成就を信じること」であり、「『天壌無窮の神勅』は『皇国』たる日本が、未来永劫独立不羈でありつづける『神聖な約束』にほかならないと、松陰には考えられた」といった内容である(「今日のお題:【要旨】吉田松陰研究序説――幕末維新期における自他認識の転回(東北大学大学院文学研究科提出2004年3月博士号取得」 http://www.kinjo-u.ac.jp/kirihara/log/eid620.html ))。ただし、松陰は、死んだ年である1859年に書簡「子遠に告ぐ」において、「草葬の臣切に謂へらく、聖上社稷に殉じたまひ、天下の忠臣義士一同奉殉せば、則ち天朝寧んぞ再興せざるの理あれんや」と書いており、これについて張惟綜は、「松陰は『信』の視座に立脚して日本の天皇(皇国)の尊貴さとその永続を謡歌するが、注目すべきは、天皇が社稜、すなわち日本のために殉ずべきだという叙述」であり、「あるべき様態を実現するために己を犠牲にするような自己否定的な行動に移ると同時に、他者にもあるべき様態を目指すよう厳しく要請するのである」とその内実を述べている(「吉田松陰草莽崛起の思想--「信」から「行」へ」https://ci.nii.ac.jp/naid/120000842538 )。松陰は、天皇にすら「社稷」に殉ぜよと言うことをためらっていない。そういったタイプの「天皇崇拝」なのである。

*2:武石智典は、松陰の忠誠観について、

天皇が頂点に位置し,次に藩主毛利敬親が位置している。松陰は,既存の封建社会下における身分制度を否定したわけではなく,組織と個人を分離し,個人との関係性から忠誠観を構成し直したと言える。 (引用者中略) ゆえに,『草莽崛起』論とは,松陰が最終的に至った忠誠観は,天皇―藩主毛利敬親―草莽という位置関係の下で草莽が起すべきという主張であり,能力がある人間が天皇や藩主に取って代わって良いという論ではない。 (引用者中略) 朝廷―幕府―諸藩の構造の水戸学的勤王論でもなければ,天皇―臣民といった国学的勤王論でもない。天皇―藩主毛利敬親―草莽という忠誠観は,松陰,独自のものであり,水戸学や国学に分類することはできない

としている(「吉田松陰経世論https://ci.nii.ac.jp/naid/120005358973 )。松陰の身分観・忠誠観を考えるうえでも重要な指摘である。先の指摘も考え合わせると、松蔭は藩主にも「奉殉」を迫るであろう。

*3:先の武石智典論文は、松陰の「雄略論」について、

松陰の対外認識及び政策は,武力で近隣に進出する『雄略論』から,近隣の各地に市を置き,西洋列強同様交易によって国力を蓄えるという『雄略論』へと変化している。しかし,西洋列強を脅威と認識し,日本の独立を現実に脅かす存在であると考えていたことに変わりはない。

という風にまとめている。しかし、もし国力を増すことができれば、「西洋列強」同様に、十分「武力で近隣に進出」することも、松蔭は否定しないのではないか。すなわち、

松前藩を除くと未封の地である蝦夷を開墾し,諸侯を封建し,カムチャツカを奪うべきだと説いている。更に琉球を諸大名と同じように遇し,朝鮮に対しては,古と同じように朝貢させるべきであると説いている。また,北は満州を南は台湾と呂宋の島々を手に入れて,進取の姿勢を示すべきだと説いている

と、武石が『幽囚録』を敷衍して述べているように、である。ブログ・「万年書生気分」は、桐原健真吉田松陰の思想と行動』を踏まえつつも、

 松陰がこだわりを捨てた武力による対外戦略は、次のヨーロッパ諸国の国際秩序の中では、うまく戦争を遂行する能力によって、相手の力を計るという共通認識があり(ポール・ケネディ『大国の興亡』)、日本は軍事強国として東アジアで戦争を行わなければ、その一員として認められない世界へと足を踏み入れた。松陰の『懾服雄略』からの脱却は、『皇国』論の枠組みではなく、次の西洋の国際法秩序の中で復活を遂げた

と述べている(http://denz.cocolog-nifty.com/blog/2013/01/post-7dcc.html )。この「ヨーロッパ諸国の国際秩序」に松陰が乗るであろうことは、先の彼の思考からして、十分に予想できる。

*4:別のブログの書評(「観楽読楽-観て楽しみ、読んで楽しむー」 https://mirakudokuraku.at.webry.info/201403/article_2.html )では、「松下村塾は身分、年齢隔てなく入塾を認めとしているが、実際は武士(陪臣も含む)が中心。士分53名、陪臣10名、地下医4名、僧侶3名、町人3名、他藩人(医師)1名、不明8名。」と、より細かく参照している。著者自身も、「松陰は国を守るのは武士であり、武士こそが第一と考え、身分秩序を重視していた」と朝日新聞にてhttp://d.hatena.ne.jp/ujikenorio/20180302/p5 発言している。

*5:「史実では、松陰は伊之助の実兄にあたる小国剛蔵に「きみの塾からやる気があって命を惜しまない若い少年を3,4人見繕ってくれないかな?」という、少年兵スカウト的なことを頼んでおりますが、流石にそこまではやらないようです」と、サイト「BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン)」の武者震之助氏は述べている。https://bushoojapan.com/theater/hanamoyu/2015/04/12/47213 

 なお、このエピソードは、著者の『時代を拓いた師弟:吉田松陰の志』(2009年)にも、載っているようである。以上、2020/2/10に追記した。

*6:著者の勤める萩博物館の「長州男児、愛の手紙」展のフライヤー(PDF)には、「『草莽』とは、松蔭の場合、藩政に参画できない下級武士のことらしい」とある。 http://www.city.hagi.lg.jp/hagihaku/event/1504choshuloveletter/images/choshuloveletter_chirashi_s.pdf#search='pdf+%E4%B8%80%E5%9D%82%E5%A4%AA%E9%83%8E+%E8%8D%89%E8%8E%BD' 

*7:袖印によって「一般的に、諸隊は身分を問わないというイメージがありますが、実際は身分による区別が、はっきりと設けられていたことがわかります」と、山口県立山口博物館の「奇兵隊の軍服の袖印 奇兵隊士元森熊次郎資料」と題した解説シート(PDF)には記されている。  http://www.yamahaku.pref.yamaguchi.lg.jp/pdf/%E5%A5%87%E5%85%B5%E9%9A%8A%E3%81%AE%E8%BB%8D%E6%9C%8D%E3%80%90%E8%A7%A3%E8%AA%AC%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%83%88%E3%80%91.pdf#search='%E8%BA%AB%E5%88%86+%E5%A5%87%E5%85%B5%E9%9A%8A+%E8%A2%96%E5%8D%B0'

 なお、こうした奇兵隊の身分的表象の存在については、芳賀登『幕末志士の生活』等、既に先行研究の言及する所である。以上、2020/2/10に追記した。

*8:ブログ「革新的国家公務員OBが語りたいこと・伝えたいこと」は、

後年、慶応元年(一八六五)一月六日、高杉晋作大田市之進・山県狂介らにあてた手紙で、結成当時のことを振り返り、「新たに兵を編せんと欲せば、務めて門閥の習弊を矯め、暫く穢非の者を除くの外、士庶を問わず、奉を厚くしてもっぱら強健の者を募り」云々と、被差別民を除いたと明言している

と、本書書評において言及している。http://blog.livedoor.jp/shoji1217/archives/1010733148.html 

 こうした、高杉晋作の「暫く穢非之者を除~」という発言は、布引敏雄長州藩部落解放史研究』(三一書房、1980年、148頁)など、先行文献の言及するところである。

 以上、2020/3/19に追記を行った。

*9:ブログ「天然居士のとっておきの話」は、著者一坂の『長州奇兵隊』に載っていた話として、以下のように記している( https://blog.goo.ne.jp/tennnennkozi/e/29709ad67853d00f7052d133b68d5603 )。

長州藩では、この工事に出る夫人たちの意識を鼓舞するため、それまで厳禁してきた絹類の着用を工事参加の時に限り許可します。絹の着物で工事が出来るのか、少し気にはなりますが。戸外に出る事が少なかった武家の夫人たちは、禁じられていた絹の着物姿で出掛けられる訳ですから、尊王攘夷とは全く関係なしに多くの人が集まりました。解放感に浸った女性たちは、互いの着物を競うようになります。これが過熱してしまったようで、長州藩では、絹類着用は持ち合わせのものならば良いが、 新たに誂えることは不心得であるとの通知を出しています。高杉晋作は、この事情を知っていたので、夫人に行くなと指示したようです。

*10:赤禰の地元・岩国市の公式の観光サイトhttp://kankou.iwakuni-city.net/akane-taketo.htmlも、「晋作は武力による撃破を主張。『赤禰は一農夫、自分は譜代の家臣である』と、晋作は奇兵隊員を説得した。身分の無意味を説いた松陰が聞いたら、なんと言っただろうか」、「明治に入り、武人の義弟は政府に贈位復権を請願。柳井、岩国がこれに続いたが、実現しなかった。反対したのは奇兵隊の同僚・山縣有朋。下関戦争で、『武人は敵前逃亡した』。最後まで前線で奮戦との史料が残るなか、その証言の真意は謎のままだ」と言及している。

*11:「職制案」は複数のバージョンが知られているが、寺島宏貴は、「作成年代の順にみるとAcは明治・大正期を通じて著された尾崎の回想における『職制案』の初見である。本稿は、この Acを『職制案』の原型とする」として、「参議」として龍馬の名前の載るAcの「職制案」が原型だとしている(「大政奉還と「職制案(新官制擬定書)」 : 「公議」の人事」 https://ci.nii.ac.jp/naid/120005327024 )。 

*12:須賀忠芳「高等教育一般教養科目における多様な歴史観・地域観構築の試み : 「学校歴史」から「地域歴史」へ」https://ci.nii.ac.jp/naid/120005444955 は、註において次のように指摘している。

幕末長州藩の動向に関して、地域の立場から多く発言してきた一坂太郎は、戊辰戦争後、奇兵隊に属した農民・商人出身の兵士らが、論功行賞が不十分であったことに憤慨して藩に対して反乱を起こし、藩から武力鎮圧された「脱退騒動」について、山口県から依頼された、県外向け広報紙で取り上げたところ、その部分がカットされていたということや、この「脱退騒動」が学校ではほとんど取り上げられていないことに触れ、「奇兵隊の歴史は、栄光の美談としてのみ教えられている」ことに驚愕するとともに、「晋作が四民平等を唱え、『人民軍』の奇兵隊を組織したといった、政治的イデオロギーに彩られた、噴飯ものの評価を信じている者がいまだにいて呆れる」と、厳しい口調で批判的に述べている。

*13:「『勝者』こそが『正義』であり、それは気持ちよいほど徹底している」(165頁)と著者は述べている。

切り札としての「占有」。あるいは、君が見た光、僕が見た希望 -木庭顕『笑うケースメソッド』を読む-

 木庭顕『笑うケースメソッド 現代日本民法の基礎を問う』を再読した。

[笑うケースメソッド]現代日本民法の基礎を問う

[笑うケースメソッド]現代日本民法の基礎を問う

 

 内容は、紹介文にある通り、「基本書を開けばどれも当たり前に出てくる民法の用語たち。だが現代日本の民事事件とがっぷり四つに組んだ本書を読んだら最後、そこにはこれまでとは違った世界が広がり、根本的な問題が浮かび上がっているはずだ。有名判例を一つ一つ、事案の細部にわたって笑いとともに解きほぐす」といった内容。
 読んで笑えるかどうかはともかく、説かれる内容は実に知的で面白い。
 「占有」をキーワードに、有名な判例を読み進めることで、民法、特に現代日本民法の問題点が浮き彫りになる。

 以下、特に面白かったところだけ。*1

「占有」とは何か。

占有という、二千年来難解で知られる概念の正体 (14頁)

 著者は次のように説く。
 一方に対象と個別的で明快で固い関係、もう一方にそれを包み込むように圧迫する不透明な集団。
 このとき、一方に「占有」、一方に「暴力」があるとみなす。*2
 そして、法は占有の味方をする、と。*3
 実に簡明である。
 ではいかにして、そうした不透明に寄って集って為される「暴力」を回避するのか。

 文化とは回り道であるという説(レヴィ - ストロース) (19頁)

 占有はそうした回り道をすすめる。
 そうした手続きを踏むことによって、「暴力」を回避しようとするのである*4

木庭顕における「政治」

 裁判官、陪審、当事者等々のあいだに結託があってはならないし、力や利益が介入してはならないし、言語だけで決着しなければならないことを考えれば、すぐにわかります。 (65頁)

 透明な場で独立対等の主体同士が厳密な議論のみで物事を決めることを、「政治」と著者は定義する*5
 この「政治」システムは、法の基礎条件である。
 「政治」の例として、司法(システム)等が挙げられる*6

 ただし、占有を基礎とする法システムは、後述するように、「政治」から独立に成り立つ。
 「政治」に対して「占有」は対抗する力を持つのである。
 「政治」がいつもうまく機能するとは限らないからだ。

 その法システムの内部には、さらに小さな「政治」システムが利用される。
 例として、組合や、破産手続きにおける債権者集会などが挙げられる。

切り札としての時効

 味方であるべき政治的決定までもがグルになっている。そういうときにこそ時効がすべての理屈を切り捨てます。理屈の源である政治的決定もがグルに感染している (36頁)

 民法における時効というのはただの便宜的存在ではない、と著者はいう*7
 そうではなく、自由の砦だ、と。
 誰も味方がいない孤立した人に、力を与える存在だという。
 透明かつ公平であるべき議論が機能しなくなった時に、時効が味方をするという。

 脅威に曝された最後の1人が追い詰められた場面でのみ使用しうる武器なのです。 (37頁)

 それが時効だという。
 占有保障は、プライマリーな事柄の重要な安全弁となる。

 時効は、占有保障を担うこの政治システムが万が一機能不全に陥った場合にさえ占有が保障されるよう、設置された制度である。 (37頁)

 「政治」は先に述べたとおり、著者のキータームである。
 取得時効の存在理由は占有原理を補強するという一点に尽きる、と著者はいう。
 自由な決定に基づく「政治」と占有との関係において、後者を保護するための制度なのである。

占有の天敵

 占有の天敵は金融債権で、かつ反対に、占有はこの天敵を駆除するために開発されたといっても過言ではない。 (54頁)

 占有侵犯は金銭債権者の格好をしてやってくる、と著者はいう。
 貸し込んで介入し、自由を奪い、実力を用いて持ち出す。
 金を返せなければモノで返せ、というやり方を嫌う。
 これに蓋をするのが、占有原理である。

 どこまでも執拗に実務は占有原則をかいくぐろうとします。それほどまでに金銭債権者の物つかみ圧力は強いんです。 (55頁)

 民法349条で、質権が正式に認定されている場合でも、債権者は債務不履行でも質物を取ることが出来ない。
 あくまでも、競売した売却益から弁済に充当されるしかない。
 本来、譲渡担保は違法である*8
 しかし、日本では、実務と判例と学説によって、強行規定を無視してきた。
 著者はここに日本の民法の問題点があるとする*9

 ならば貸主が躯体を支配したくなるのは当然である。 (57頁)

 著者は「貸し込んで介入し、自由を奪い、実力を用いて持ち出す」というのが起こるメカニズムについて説明している。
 利子をつけて返すと、果実(*法律用語)の一部が貸主に帰着する。
 すると、貸主が費用を投下し果実を取得したごとくになる。
 ならば、貸主が躯体を支配したくなるのは当然である、と。*10
 ここに不透明な支配従属関係が生じ、実力行使などが出て来る。
 歴史的にどの社会も借財、特に、高利貸しを取り締まるのはそのためだと著者はいう。

占有と互酬性

 占有と賠償は鋭く対立する二つの思想です。 (202頁)

 占有は、やったりとったりを嫌う。
 互酬性を嫌うのである*11
 そうしたやりとりと、支配従属関係は、深くつながっているからである。
 それに対して、占有は完全水平に独立の単位が一列に並ぶ思想である。
 じっさい傷害以外の賠償はローマでは認められなかった、と著者はいう。

本当の狙いは、「占有」を破壊すること

 日本国憲法や人権理念に対する攻撃のほんとうの動機がむしろ占有破壊ドライヴに存する場合が多い。 (23頁)

 連中が本当にしたいのは、土地上集団の活性化・軍事化である、と著者はいう。
 実際、連中は透明性が欠如している。*12 *13 。

(未完)

*1:本稿では、具体的な判例については触れないことをあらかじめお断りしておく。

*2:著者は本書204頁において「暴力の定義は占有の蹂躙」であり、占有を跨ぐ実力の形成である、とする。

*3:著者は本書205頁において、「たとえ所有権者でなくとも、占有するということは、なにか果実をとることだし、利用するということです」と、占有を定義している。

*4:犬塚元は、以下のように木庭の主張をまとめている(「政治思想の「空間論的転回」 : 土地・空間・場所をめぐる震災後の政治学的課題を理解するために」https://ci.nii.ac.jp/naid/120006374121

木庭顕によれば,土地(一般に対象物)との安定的・直接的で透明な関係である「占有」は,さまざまな不透明な暴力,不透明な社会集団から個人を保護する原理として,古代ローマ以来,すべての法の公理に位置してきた基底的原理である。所有権とは明確に区別される「占有」は,外部の権威に依拠せずに成立する法的価値として,個人の自由を保障する立脚点である。木庭によれば,一切の法は,この占有原理のヴァリエーションですらある

*5:「『法の前提には政治があり、政治とは暴力や不透明な取引を排除し、言語による自由な議論のみが君臨することである』という木庭顕の基本テーゼ」というふうに、ブログ・「ともの読書日記」では要約されている(「自由な憲法解釈と政治の不在―木村草太『憲法の創造力』」http://tomonodokusho.cocolog-nifty.com/blog/2013/04/post-8f21.html )。

*6:

教授によれば、ローマ以来想定されている、理想的な人同士のありかたというのは、他人が立ち入ることはないことが保障される最小限の自律領域を確保した上で、互いに実のある(透明性がある、言葉に嘘がない、誠実である)コミュニケーションが確保された状態であるという。そして、そのようなコミュニケーションが確保されるための諸前提の積み重ねを政治システムといい、裁判という制度もこの政治システムの一部であるという。

以上、「お得な一日」http://katsusokudoku.blogspot.com/2012/04/2.htmlというブログの記事より引用。

*7:林田光弘は、「いわゆる取得時効と登記の問題は解決困難な難問として今なお残存しており、また、取得時効の存在理由や法律構成に関する議論状況は、学説が取得時効の基本的な制度理解についてさえ共通認識を有するに至っていない」と書いている(「取得時効の要件となる占有の継続性に関する一考察 : フランス法の検討を通じて」https://ci.nii.ac.jp/naid/120006548620 )。

*8:著者は「『債権法改正の基本方針』に対するロマニスト・リヴュー,速報版」(PDF注意) http://www.sllr.j.u-tokyo.ac.jp/05/papers/v05part10(koba).pdf#search='%E3%80%8E%E5%82%B5%E6%A8%A9%E6%B3%95%E6%94%B9%E6%AD%A3%E3%81%AE%E5%9F%BA%E6%9C%AC%E6%96%B9%E9%87%9D%E3%80%8F%E3%81%AB%E5%AF%BE%E3%81%99%E3%82%8B%E3%83%AD%E3%83%9E%E3%83%8B%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%AA%E3%83%B4%E3%83%A5%E3%83%BC%EF%BC%8C%E9%80%9F%E5%A0%B1%E7%89%88'

において以下のように書いている(註番号を抜いて引用した)。

ローマでは,占有概念の機能の結果流質が禁じられるから譲渡担保の一種であるこのタイプの制度は認められなかった。帝政期の広大な空間を前提すれば実務がここへ傾斜したことを否定できないから,正確に言い直せば,ともかく法学者はこれに対して戦った。透明な信用の未発達,透明な信用の潜脱,が制度の骨子であり,現在の世界の取引社会が示す病状の一つである。

*9:著者(あるいはそれに擬せられた人物)は別のところで、次のように言及している。

古い古い伝統的な規定ですが、日本では判例と学説によってこれを無視することにしています。皆で強行規定を書いておいて皆で違反するというのは、何とも面白い光景ですが、流石に民法学の最高権威、我妻栄はやましい気持ちだけは持っていて一生懸命弁解しています。その後は誰も弁解もしなくなりましたから、やはり違うなとは思いますが、ただ、我妻栄でさえ、『社会的作用』や『社会的要請』の前には、強行法違反も、やむをえない、と言うばかりで、流石にロジックにはなっていません。そういうロジックはありえないからです。皆がやりたがっているのだからいいじゃないか、という考えが通ったら、法の墓場です。『最後の一人』が、占有が、死ぬからです。 (略) 債務者の占有が大事だ、それが社会の質を分ける致命的な点だ、という意識、つまりは一個の経済社会についての見通しが無ければ、この条文を守れません。

(木庭顕「法学再入門 第8回」『法学教室2013年11月号』所収 69頁 http://picopico.blog.jp/archives/1037396481.html

*10:著者は、フランスの社会人類学がこれを明らかにした、とする。ここでいう「フランスの社会人類学」というのは、マルセル・モースの贈与論を指しているだろうと思われる。木庭は、「モース『贈与論』を徹底的に批判的に分析した結果として、そこから『枝分節segmentation』と『分節articulation』という概念を見事に抽出」している(「ともの読書日記」http://tomonodokusho.cocolog-nifty.com/blog/2010/03/post-5811.htmlより)。

*11:上と同じくhttp://tomonodokusho.cocolog-nifty.com/blog/2010/03/post-5811.html を参照

*12:一連の政権における疑惑、例えばモリカケと称される疑惑、統計改ざん問題といった諸々を見れば明らかであろう。

*13:木庭はのちに憲法9条についても言及するようになる。

「"war potential”の語が印象的だ。いくら防御のためと称しても中を火の玉のようにして軍事体制を作り待ち受けることも禁じられるというのは古典的な法原則だ。内部に文節を擬制しその分節を融解させることも横断的軍事化vis armataと看做す。これは脅威ないし危機の法学的定義である」と集団的自衛権の違法性につきローマ法の観点から断じています

(ブログ・「ともの読書日記」の記事より http://tomonodokusho.cocolog-nifty.com/blog/2015/08/post-fecc.html )