松尾匡『対話でわかる痛快明解 経済学史』を読む。
ライトなつくりになっていて、読みやすいが、中身はしっかりしている。
マルクスは、自分自身の字も読めないことがあり、実際に『資本論』第2巻の序文で、エンゲルスもそう書いている(66頁)。
こんな感じの小ネタものってる。
興味深かった所だけ。
ワルラスの社会主義者っぷりについて。
ワルラスは、土地の国有化を唱えた(128頁)。
それは自由競争市場の合理的な動きのために必然的に要請される側面があった(らしい)。
土地を国有化して、その地代を国家の収入にし、労働者への課税は廃止するよう主張したのである。
そうすることで、労働者も資産を形成して、資本家と「同化していけるようになることを目指した」。
労働者個人が、『アソシアシオン割引金庫』に貯金して、それで金庫側が機械を買い、労働者集団にリースをする、という感じである。
土地という「既得権益」の打破し、労働者へ「チャンス」を広げることが目的だった、といえるだろう(たぶん)。
しかし、ワルラスは、こういった社会主義的ともいえる政策を、体系的に論じる前にこの世を去ってしまった。
A・マーシャルについて(159頁)。
マーシャルは、ちゃんとした最低賃金を定めろ、とか、公的扶助をすべきだとか、語っている。
これくらいは、まあ、まともな経済学者なら、誰でもいっている。
だがマーシャルは、さらに、「資本主義企業は、労使の共同収益制とか、部分的な協同組合とかを経て、将来的には協同組合に進化していくんだという見通しも述べている」。
マーシャルは、大企業や資本家が社会を牛耳る未来を望んでいたのではなく、むしろその反対であった。
(たしか、こうした非大(資本)企業の方が技術革新を生み出すんだ、みたいなことを、どこかで彼は書いていたはずである。)
そんなマーシャルの論敵が、マンチェスター学派の連中であった(155頁)。
彼らは、自由貿易には賛成したが、その自由貿易を、外国との食うか食われるかの戦いと見なしていた。
賃金を下げることで、利潤を増やして戦いに打ち勝とう、という発想をしていた。
今も結構、こういうことを主張する輩がいるw
自由貿易ってのは、食うか食われるかじゃなくて、全ての国の取引相手がみんな得をするからやるものなんだが・・・というのが当然のツッコミである。
イメージとは違う、ミルトン・フリードマンについて(250、251頁)。
フリードマンは、労働組合の賃上げがインフレの原因であるという説を批判していた(『選択の自由』第9章)。
かれはあくまでも、貨幣数量主義者であり、インフレは貨幣供給量を減らせば落ち着くのであり、ゆっくりでいいから、恐れずブレず、金融引き締めをすればいい、という。
そして、財政支出も、削減しろと主張する。
曰く、問題なのは財政支出が大きいこと自体であって、だからかえって減税して財政赤字を増やしたほうが、政治家が真剣になって財政削減をするからいいくらいなのだ、と。
フリードマンは、徴兵制に反対していた(253頁)。
『赤狩り』にも反対し、共産主義を信じる自由そのもの、は守ろうとした。
共産党員には薬剤師や教師などの免許が出ない、という制度が米国に存在していたとき、それをばかげていると批判したのが、フリードマンである。
フリードマンにとっての「競争」(259、260頁)について。
競争に負けるのは、努力が足りなかったからか?
いや、そうとも言い切れない。
フリードマンの場合、親から資産を相続するのも、努力する遺伝子を相続するのも同じと考えていた。
つまり、努力すること自体をそこまで偉いとは見ていなかった、というわけだ(こちらも参照)。
(「努力する遺伝子」というと誤解を招きやすいだろうから、努力を可能にする家庭環境や経済的な環境、といったものを想像されたい。)
フリードマンの発想では、世の中全体で、色々な欲求の大小にあわせて各産業に労働が上手く配分されている状態が「効率的」とされる。
そしてその自由な労働移動を通じて、この状態をもたらすものが、「競争」である。
彼が重んじていたのはあくまでも、市場による調整機能であり、努力ウンチャカではなかったのである。