ともあれ、「加害者の顔が見えない"和解"は茶番である」というような話。 -梶谷懐『「壁と卵」の現代中国論』再読-

 梶谷懐『「壁と卵」の現代中国論』を読んだ。

「壁と卵」の現代中国論: リスク社会化する超大国とどう向き合うか

「壁と卵」の現代中国論: リスク社会化する超大国とどう向き合うか

 2011年に出た良書である。
 久々に読んだが、やはり面白かった。
 3年前の本だけど、古びていない。

 (あまり関係のない話だが、例の「壁と卵」のスピーチの問題点は、「卵が正しくないとしても、私は卵サイドに立ちます」と述べ、「焼かれ、銃撃を受ける非武装の市民たち」を支持する者が、果たして、抑圧されるがゆえに武器を手にとった「卵」に対してどう向き合うのか、また、もしその返答が例の小説だとするなら、あの小説はどう見てもその回答として不十分としか言えない、という点と、そして、あのスピーチは「壁」が「爆弾・戦車・ミサイル・白リン弾」と「システム」と二種類出現していて、「システム」変えようぜと言うのは”そーですね!”(アルタ風)という返答しかないのだが、一方の、「爆弾・戦車・ミサイル・白リン弾」を使用する側の「卵」の加害への責任はどうするんだよ、という二つの点だと思う。ともあれ、「加害者の顔が見えない"和解"は茶番である」という伝説の名言を噛み締めるべきだ。 )
 
 以下、興味のあるところだけ。



 数年前にあった、毒入り餃子事件を発端とする、中国産食品に対するバッシング問題について。

 1990年代後半、農産物の過剰生産により、中国の地方政府は輸出振興策を行った。
 その動きに乗ったのが、中国の人件費の安さに目をつけた日系の商社や食品会社だった。
 そもそも、現在の日本の中国からの輸入農産物は、ほとんどが、日本企業によって生産・品質管理・加工などのノウハウが持ち込まれた、「開発輸入」によるものだった。
 本書によると、農薬の多くも、もともとは、日本企業によって持ち込まれたものだという指摘もあるらしい(19頁)。

 問題は、中国側の人件費などの生産コストが上昇していく中でも、消費者が「安さ」しか求めない、という日本における中国産食品の位置づけが、当初とまったく変わらなかった点にある、というのが著者の主張。

 これは、当時の日本のデフレ経済も含めて考えるべき問題なのだろうが、「デフレ脱却」を政府が唱道する2014年現在、「中国産食品の位置づけ」は、どこまで変わってきているのだろうか。
 2011年の「事故」によって忌避される目に遭っている福島県産の食品の位置づけも。
 (この件については、こちらのブログの記事も参照されるべきだろう)。



 CSRの問題点について。
 
 多国籍企業CSRや民間機構による認証は、ILOのような国際機関の定めた労働基準と違い、立場の異なる複数の当事者の粘り強い「摺り合せ」によって作成されたものではない。
 すると、どうしてもそこに、先進国の価値基準が入り込んでしまう可能性が出てくる。

 たとえば、ナイキのような多国籍企業CSRを盾にして現地企業の労使対立に介入したり、組合の結成を助けたりするのは、法で言う「自力救済」に当り、国内法・国際法ともに違法行為である可能性が高い(39、40頁)。
 いくらナイキの方が現地政府より開明的であるように見えても、容認されていいのか、ということである。

 もちろん労働CSRは、きちんとした国内法の運用と組み合わせれば、確実に途上国の労働者の待遇改善につながる(41頁)。
 だが、現実に途上国で運用されるCSRの問題点は、その理念が現実社会で実現されるための精緻な「方法」を欠いている点にある。
 これが著者の言わんとするところだ。

 さて、日本の場合は、どうなのか。
 はてダの記事「「人権」問題のグローバル化はすでに終わっている 」を読んでそう思う。
 日本は一応、先進国である。
 先進国だと聞いていたのだが。

 とりあえず、"現実社会で実現されるための精緻な「方法」"として、労基署の権限と労働組合の力を強化しよう(こなみかん。



 現実のデータを見れば、むしろ米国の金融緩和が、ホットマネーの流れを通じて中国の物価水準の上昇を招くなど、中国の金融政策全般に影響を与えている(104頁)。
 その逆ではない。
 中国がいくら世界第二位の経済大国になったとはいえ、まだ中国経済が米国に与える影響力は、その逆に比べてはるかに弱い。

 この件については、2009年の時の著者のブログ記事も参照されるべきだろう。
 2014年の今でもこのような構図は、変わっていないように思うのだが、はてさて。



 ラヴィア・カーディル氏(世界ウイグル会議議長)。
 著者のブログ記事から引用すると、もともと、議長は「改革開放の波に乗って財を成しながら、『誰もが平等に金儲けのチャンスが与えられる社会』を目指す、という形で民族のおかれた状況を改善していこうと」した人である。

 ビジネスを拡大する場合には漢族だろうと外国人だろうと、信頼できる相手なら積極的に協力している(148頁)。
 また、民族の伝統に対しても異説を唱える姿勢は、イスラムの保守的伝統に縛られたウイグル人男性たちの批判を浴び、夫にさえあきれられるほどだった。
 この姿勢に、著者は、J・ジェイコブズの「市場の倫理」と「統治の倫理」のうち、前者を見ている。
 (簡単にいうと、身内びいき(「統治の倫理」)ではなくて、「商人」が身内ではない相手との間に分かち持つような「信頼」を重視している(「市場の倫理」)、という話。)

 このカーディル議長が、2012年、会議メンバーをともなって、「日本人支持者と共に靖国神社に向かい、集団での昇殿参拝というパフォーマンスを行った」。(以下、引用元は、著者によるウェブのこの記事。)
 この出来事について、著者は、「日本に亡命したムスリム」が「日本の国家主義に利用されていった」テュルク系ムスリム、クルバンガリーの事例を紹介しつつ、「なぜ戦前から現在に至るまで、日本の国家主義たちは、自分たちを頼ってきたアジアのムスリムたちを、信仰的に相いれないことが明らかな国家神道の儀式に巻き込もうとするのだろうか?」と提起している。
 そして、「そのような『野合』がうまくいかないことくらい、戦前の日本の経験を少しでも振り返れば明らかなはずだ」と批判している。
 まあ、その通りである。

 問題はこの議長の行為をどう考えるか、だ。
 彼女のような「市場の倫理」に従っている、とみられていた人物でさえ、たやすくその道を外れて、身内(仲間)びいきをしてしまったのである。
 あるいは、「漢族だろうと外国人だろうと、信頼できる相手なら積極的に協力」するという「市場の倫理」を忠実に守り、日本の右翼を信頼して靖国参拝をしたのだろうか?
 とすれば、この出来事は「市場の倫理」の結果によるものと考えるべきなのか?

 ともあれ。
 著者は、「複雑な民族問題について『正義』を追求するとき、曲がりなりにも普遍性を追求しようという姿勢がない限り、ご都合主義的なニセの連帯が生まれるだけである」と、真っ当なことを述べている。
 普遍性とはすなわち、身内や仲間にしか通じない倫理ではなくて、それ以外の人、さらには敵においてさえ、通じるような(反論しがたいような)倫理を追求せよ、ということだろう。
 もっとわかりやすく言うと、ダブスタをするな、ということだろう。

 ちなみに、人道的介入におけるダブスタの問題については既に書いたことがある



 新自由主義の重要な要素である「搾取しやすく相対的に無力な大量の労働力の存在」が見られるという点では、間違いなく新自由主義経済な中国(186頁)。 
 アルゼンチンへの輸出攻勢によって現地の伝統産業が破壊を受けるという批判に対して、中国は「そのような産業は滅びるにまかせ、急激に発展している中国市場に原料や農産物を輸出することに専念しさえすればいいと忠告」した国、中国(187頁)。
 (これについて、「一九世紀にイギリスがインド帝国に対して振舞った時のやり方そのもの」である、と、ハーヴェイ『新自由主義』は書いている(邦訳193−194頁))。

 とりあえず、中国人民は立ち上がって、ゼネストを起こすべきではないだろうか(マテヤコラ 。



 石原吉郎アイヒマンの告発」を著者は紹介している(220頁)。

 石原は、広島の平和運動への違和感を述べている。
 ?政治的な「告発」は「当事者(被害者あるいは目撃者)」によってしかなされるべきではない。
 ?政治運動としての「告発」が基本的に死者の「計量可能性」の前提に立っており(「一人二人が死んだのではない」というなら「一人二人ならいいのか」。)、一人一人の犠牲者をないがしろにすることにつながっているのではないか。

 ?はそのとおりだし、?も確かにそうである。

 ただし、後者の「一人の死者もないがしろにするな」論法を濫用してしまうと、1982年の「反核異論」において、戦争による死や後遺症のみならず「老衰による自然死」までも(!)被爆者の問題と同等の事柄として扱おうとした吉本隆明みたいになってしまうから、注意が必要である。
 ある特定の死を特権化するのは確かに危うい、だがしかし、警戒するあまり、ある死や害における「加害性」を覆い隠してしまうのは、やはり、いただけないと思う。

 (吉本の「反核異論」については、こちらのブログの記事をご参照あれ。また吉本の80年以降の言論の「衰え」を批判した田川建三『思想の危険について』も参照されるべきだろう。)



 中国の「左派」の話(255頁)。

 社会の矛盾をあくまで「資本主義化」の弊害として捉え、国家による分配の平等を重視するのが中国の「左派」である。
 この立場からは、インターネットの言論統制を批判し、法に基づいた基本的人権の擁護を訴える知識人や弁護士などは、しばしば「ブルジョア的な自由主義」の論理を体現しているとして批判の対象にされる。
 例えば、「欧米の団体からカネをもらって共産党政権の転覆をはかる資本主義の手先」といったステレオタイプの誹謗中傷を受ける。

 平等の理念をまとった国家(指導者)への帰依、という彼らの観念が、外敵から平等の理念を守る、という考えに転嫁してしまう。
 (リベラル=「右派」とソシアル=「左派」という問題である。)

 著者はそうした左派に対し、希望を「民間思潮」に求めている(詳細は、こちらの記事を参照)。
 「民間思潮」の「民間」は、日本語の意味と違う。
 「社会の病根を『外部』に求めるのではなく、『内部』の専制政治に目を向けることで変えていこうとする、極めて象徴的な意味を持っている」。

 リベラルとソシアルと「民主主義」をめぐる問題については、kihamu氏のブログ記事、例えば、これとか、これが、実に有益でおすすめである。



 (未完)