斎藤晴彦における、ブレヒト劇とエノケンからの影響について -斎藤晴彦『〈音楽〉術・モーツァルトの冗談』を読む-

 斎藤晴彦斎藤晴彦〈音楽〉術・モーツァルトの冗談』を読んだ。 

斎藤晴彦〈音楽〉術・モーツァルトの冗談 (シリーズ日常術 6)

斎藤晴彦〈音楽〉術・モーツァルトの冗談 (シリーズ日常術 6)

 

  内容は、俳優であり、クラシックの替え歌で著名な著者の、音楽エッセイめいたものである。
 個人的には、某番組でやったジャズの替え歌が好みではある。*1

 以下、特に面白かったところだけ。

モダンジャズに食傷

 「おれが、おれが」といってるようにしか聞こえなくなってきて、それに食傷しちゃったんだね。 (40頁)

 筆者がモダンジャズに飽きてしまった理由である。
 まあ、身もふたもないが、わからないではない。*2

ブレヒトの影響

 おれがクラシックのメロディに言葉をつけてうたうやり方は、すくなからず『三文オペラ』とか『阿部定の犬』の影響をうけている (48頁)

 オペラだと、メロディ第一主義で、言葉はいい声の引き立て役となる。
 ブレヒトとワイルの場合、役者が歌いやすいように、言葉がわかるように、どんどん音楽を変えている。*3

エノケンの音楽の才能

 かれはメロディを絶対にのばさない (63頁)

 筆者(斎藤)は、エノケンの歌い方を意識しているという。
 歌い上げず、こぶしを聞かせることもしない。
 早めに切ってしまう。
 でも伴奏は続くから、聴衆は、その間言葉が残像になって残る。
 そういう方法である。*4

 エノケンの歌を聴くとかならずある種のジャズ・ボーカルを思いうかべる。 (65頁)

 エラもサッチモも、メロディーはきれいだけど、それではすまないものがある。
 聴衆はそれを楽しみながら感動する。
 そしてこの系譜には、悪声が多い。
 そのおかげで、自分の声にのめりこまずに客観的な、「作曲家なんかと近い位置」に身を置くことができる。
 エノケン評として覚えておくべきものである。*5

風刺をやりたかった

 マス・メディアというのは、じつはあの手のやつがいちばん好きなんだ。ただし、風刺はだめ。パロディまで。 (82頁)

 自分は話芸では客を感動させられない、と思った筆者(斎藤)。
 そこで「軍隊ポロネーズ」を「ワレサノーベル賞受賞」をテーマに風刺で歌った。*6
 斎藤は本当は風刺をやりたかったらしい。

 

(未完)

 

*1:とりあえず、ようつべのリンクを貼っておこう。https://www.youtube.com/watch?v=ZzCEk98SmFQ 

*2:ブログ・「心に残った音楽♪」の記事には、次のような言葉が載っている(「『THE GIL EVANS ORCHESTRA / OUT OF THE COOL』」http://cdcollector.blog.fc2.com/blog-entry-79.html )。

ではモダンジャズの個人技的なアドリブプレイが最高かというと、そちらに走れば走るほど、音楽のうちの曲という素晴らしさというものが消えて行ってしまう。派手で華麗なプレイを追っていくと、どんどんフリージャズ方面に行ってしまうのですが、そうなるとフォルムが消えてしまう。

フリージャズが苦手なジャズ好きなら、斎藤の気持ちはわかるかもしれない。自分はフリージャズも悪くないと思うが。

*3:なお、『安倍定の犬』というのは黒テントの代表作で、『三文オペラ』のクルト・ワイルの音楽が転用されている。斎藤は黒テントの創立メンバーである。

ブレヒトの劇中歌(ソング)と言えば、黒色テントの佐藤信・林光コンビの日本版ソングには、素敵な作品がたくさんあります。有名なクルト・ヴァイル作曲の『三文オペラ』の「マック・ザ・ナイフ」だって、二人の手にかかれば阿部定事件の「包丁お定のモリタート」になってしまうんだから。 (ぱんこさん「CDのうらおもて 第19回 宮沢賢治からブレヒトへ」http://www.fukushi-hiroba.com/magazine/book/essay/cd/040521_cd.html

*4:井崎博之は、服部正の証言を紹介している。それによると、浅草オペラのコーラスボーイ時代に、エノケンは本格的なオペラ唱法を身につけたのだという(『エノケンと呼ばれた男』(講談社、1985年)、41頁。)。エノケンは、歌に関しても才能のある人物だったのである。

*5:エノケン評として、故・相倉久人のものも、紹介しておく。https://twitter.com/gosan5553/status/799769462635233280 

*6:この歌詞についてはhttp://suigyu.com/2014/12#post-3295 を参照。

「靖国化」していた摩文仁の丘と、それから、沖縄料理が不味いと言われた時代について -多田治『沖縄イメージを旅する』を読む-

 多田治『沖縄イメージを旅する』を読んだ。

 内容は、紹介文の通り、

青い海、白い砂浜、穏やかな三線の音。「基地の現実」を一手に引き受けてきた島で、こうした南の楽園像は誰によって、いかにしてつくられたのか。数々の風景を通じて、沖縄のいまを探る

というもの。
 沖縄の現在抱かれるイメージと、過去の実像との間にある断層を、いくつも見つけることができる。

 以下、特に面白かったところだけ。

靖国化」と沖縄戦の語り

 五〇年代後半から六〇年代前半にかけて、沖縄戦の語りは軍隊中心の戦史が主流になった。 (97頁)

 実際この時期に、軍を顕彰する慰霊塔が林立するようになる。*1
 五〇年代後半の沖縄の「靖国化」には、遺族年金給付開始が、影響している。

 米軍統治下の沖縄にも適応させるため、いかに献身的に軍に協力したかを、より強調する必要があったのである(98頁)。*2

結局「日本国民」の物語

 興味深いのは、戦前の軍国主義と戦後の反戦平和という、相矛盾する日本国民の物語に、ひめゆりはともに奉仕する役割を与えられていたことだ。 (99頁)

 今井正監督の『ひめゆりの塔』(1953年)の話である。
 沖縄処分以来、「日本人になる」ため苦心してきた沖縄の固有性が、すっかり忘れ去られてしまっているのである。*3
 結局、日本国民(そこに沖縄の歴史的な固有性はない)の物語に奉仕していることになる。

 靖国神社と同様、国に殉じた「戦没者」という抽象化された存在が、崇め奉られる場所になっていった。つまり、慰められるのはいつも、訪れる「日本人」の方なのだ (105頁)

 結果起こったのは、ひめゆりの塔の「国民主義」化だった。

沖縄料理が「不味い」と言われた時代

 九〇年代のヘルシー志向に「長寿」や「健康」というキーワードが結びついたことで、沖縄料理は脚光を浴び始めた。 (172頁)

 沖縄料理は、それ以前は、「グロテスク」な存在だった。*4

「沖縄の心」とモンパチ

 だがその一方で、モンパチが沖縄で認められたのは、全国で売れたからではないのか、という鋭い指摘もある。 (222頁)

 売れる前は「こんな奴らに沖縄の心なんてわかってるはずないだろ」などと言われていたようだ。
 それが、2018年には、モンパチフェスに知名定男が出演するほどである。*5

 時代は変わる。

 

(未完)

*1:北村毅は、次のように述べている(「沖縄の「摩文仁の丘」にみる戦死者表象のポリティクス 刻銘碑「平和の礎(いしじ)」を巡る言説と実践の分析」https://ci.nii.ac.jp/naid/110007501170 )。

1960年代、丘の上に立て続けに各県の慰霊塔が建立きれ、それぞれのお国自慢を競い合う様は、「慰霊塔コンクール」と嫌誇されたほどであった。後述するように、これら慰霊塔の碑文は、いずれも、「殉国者」や「愛国者」を奉賛する調子に貫かれていたため、1970年代に入ると、この摩文仁の丘の変化は、「靖国化」と呼ばれるようになる。

*2:当時の観光ルートについて、吉田竹也は次のように解説している(「地上の煉獄と楽園のはざま―沖縄本島南部の慰霊観光をめぐって―」http://rci.nanzan-u.ac.jp/jinruiken/publication/ronshu.html)。

1960 年代当時の観光のモデルルートは、次のようなものであった。まず、初日に南部の戦跡をめぐる。ひめゆりの塔摩文仁の丘がそのメインスポットである。 (引用者中略) 最終日は、舶来品ショッピングで物欲を満たす。そして、これら昼間の観光に加えて、夜は沖縄の料亭で食事し、琉球舞踊を鑑賞し、歓楽街に繰り出すのである。とりわけ、かつて遊郭があった那覇の辻地域は、夜のメインスポットであった。日本では、1957 年に売春防止法が施行されたが、沖縄においてそれが適用されるのは日本復帰を待ってからであり、米軍関係者を相手として定着した売春宿は、当時沖縄を訪れる本土の日本人観光客にとって、いわば合法的な性産業であった。男性観光客や商用や視察など仕事で訪れる人々の中には、昼はひめゆりの塔で殉国した無垢で純潔な少女の姿に落涙し、夜は売春街を訪れるという者がいたことになる。

非常に重要なことであると思うので、長いが引用しておく。
 そして、菅野聡美

ひめゆり学徒と売春婦、両者は対照的なようで酷似している。どちらも過酷な運命にたいして懸命に対処するが、自らに課せられた困難の理不尽きと根源を問うことはなく (引用者中略) 声高な批判や責任追及をしない存在であるがゆえに、本土側が安心して受け入れることができた。彼女らの悲劇、彼女らを「そうさせた」主体・原因は不問にしたまま、同情や共感をよせることができるのである。

と、論じている(「戦後沖縄イメージの探究」 http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/listitem.php?index_id=69495 )。この点も重要なので、やはり引用する。

*3:佐藤忠雄は、1982年版の「ひめゆりの塔」(同じく今井正監督作)について、1953年版以後に新しく出てきた、沖縄と本土の関係などの問題が描かれないままであることを指摘しているという(仲程昌徳「「ひめゆり」の読まれ方 映画「ひめゆりの塔」四本をめぐって」https://ci.nii.ac.jp/naid/120001372359 14頁)。また、櫻澤誠は、映画「ひめゆりの塔」について、次のように述べている(「沖縄戦」の戦後史--「軍隊の論理」と「住民の論理」のはざま」https://ci.nii.ac.jp/naid/120006551910 *以下引用符を削除して引用を行った。)。

映画「ひめゆりの塔」は、沖縄戦ひめゆりの悲劇というイメージを定着させていく。御国のために純真無垢に尽くした。崇高なイメージ。学徒出陣した学生や、特攻隊に対するイメージに通じるものとして理解されたといえる。まさに「ひめゆり学徒隊のアイドル化」が生じるのである。また、この映画には、米軍そのものが具体的に登場しない。

*4:吉村昭は、沖縄県は食べ物がまずい、という話は半ば定式化しており、自分もそうした考えを抱いていたが、実際には沖縄の家庭料理がうまいことを知ったという(『味を訪ねて』河出書房新社、2010年、94頁)

 この文章の初出は、1982年7月である。

 また、『聞き書沖縄の食事』(農山漁村文化協会、1988年)の月報において、永六輔は沖縄は料理がまずいと述べる本土の人間を批判し、沖縄の家庭料理は実はうまいと指摘している(月報・11頁)。

 両者ともに、沖縄の料理がまずいと言われた原因について、本土の人間は沖縄でよそゆきの料理ばかりを出されていたからではないか、つまり、おいしい家庭料理を食べられなかったからではないか、としている点で共通している。

*5:「【速レポ】モンパチフェス<WWW!! 18>、知名定男「彼たちは、実は私を受け継いでいるんです」」https://www.barks.jp/news/?id=1000176124 

連綿と受け継がれてきた、『源氏物語』へのおっさんたちの愛(ラブ) -島内景二『源氏物語ものがたり』を読む-

 島内景二『源氏物語ものがたり』を読んだ。

源氏物語ものがたり (新潮新書)

源氏物語ものがたり (新潮新書)

  • 作者:島内 景二
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2008/10/01
  • メディア: 新書
 

  内容は、紹介文の通り、

なぜ源氏物語は千年もの長きにわたって、読者を惹きつけてきたのか?本文を確定した藤原定家、モデルを突き止めた四辻善成、戦乱の時代に平和を願った宗祇、大衆化に成功した北村季吟、「もののあはれ」を発見した本居宣長…。源氏物語に取り憑かれて、その謎解きに挑んだ九人の男たちの「ものがたり」

という内容。
 源氏狂いのおっさんたちの物語、読み応えがある。*1

 以下、特に面白かったところだけ。

世界最古(?)の長編物語

 確かに源氏物語は長編だが、もっと長い作品は世界各国にある (17頁)

 源氏は世界最古の長編物語、ではない。
 例えば、『うつほ物語』は分量は源氏の3/5だが、源氏より20、30年は古い。*2 *3

帝王学としての『源氏』

 なぜなら、そこには理想の政治家の条件が書かれているからである (118頁)

 いつかきっと、平和をもたらしてくれる理想の政治家が出現する。
 そう信じて、宗祇は『源氏』等の研究に励んだ。*4
 「和」の精神を体現した政治家に導かれ、民も自分の居場所を与えられ喜びにあふれ、家族でも楽しい夫婦関係や親子関係が営める、そうした社会を願ったのである。

平和を希求する『古典』

 宗祇が、古今伝授の系譜の中で重要な位置を占めるのは、彼ほど平和を渇望した文学者がいなかったからである (119頁)

 「古今伝授」は、世の平和を呼ぶために為政者に必要な心がけを『古今』や『源氏』などの古典から学ぶことを目的とする。*5
 平和を待望する古今伝授の儀式は、戦乱の世の間も続いた *6

心のさびを落とすための『源氏』

 だから、源氏物語を読むべきだ、と宣長は言う (187頁) 

 平和になった江戸期。
 しかし、身分社会で、自分の置かれた状況がこれ以上好転することもない。
 どう生きていったらいいか。
 人生は苦しく、努力してもうまくいかない。
 北村季吟のような成功者は少数でしかない。
 また、人は日々の暮らしに埋没して、喜びや悲しみや怒りに鈍感になって、感情が錆びついている。
 そこで源氏物語である。
 これを読めば心の錆を落とせる。
 そう、宣長は考えた。*7
 帝王ではない者のための『源氏』を見出したのである。

 「もののあはれ」もまた、人生論読み、あるいは教訓読みの一種だったのだ。 (190頁) 

 宣長自身は、しいて言うなら「もののあはれを知れと教える」教訓が源氏だと述べている。

すでに先を越されていた

 宣長が自分だけの正解と思いこんだ中には、とっくの昔に「箋」が指摘していることが、ままある。 (136頁)

 三条西実隆の孫である実枝も源氏の解釈を行った。それが中院通勝『岷江入楚』に「箋」という書名で取り込まれている。

 宣長は、『玉の小櫛』において、過去の解釈は誤りであり、自分だけが正しい解釈に到達したのだ、というふうに宣言していた。*8

 しかし宣長は、自分の解釈が、すでに先人によってなされていたことを知らなかったようなのである。
 宣長は結果的に、車輪の再発明を行うこととなった。

居場所はどこだ

 世の中はいづれかさして我がならむ行きとまるをぞ宿と定むる (198頁)

 『源氏物語』(の「夕顔」)に出てくる、古今和歌集の一首である。*9 *10 
 広い世の中のどこかに自分の本当の居場所があると思うな、たまたま寝れる場所があるのなら、そこがあなたの居場所だ、と。

 

(未完)

*1:本書に出てくるのは、紫式部を除けば、ほぼ男性である。もちろん、著者・島内景二も男性である。

*2:ちなみに、著者によると、やはり『源氏』の文体は『うつほ』よりも文体的に難しいらしい(「森鴎外と『源氏物語』--近代文学の始発を見届ける」https://ci.nii.ac.jp/naid/110000491082 173頁)。やはりそうなのか。

*3:なお、『うつほ』こそ世界最古の長編文学というのは、須永朝彦編『日本幻想文学全景』(1998年)も述べるところである(18頁、当該箇所の執筆も須永による。)。

*4:宗祇の講義内容とはどのようなものだったのか。その例について、著者(島内)の講演をもとに、伊藤無迅は次のように書いている(「島内景二先生 近世の源氏文化と詩歌(その2)」http://www.basho.jp/ronbun/gijiroku_6th/6th_3.html )。

これは宗祇が、源氏学で最も重要視したと言われている帚木巻の「雨夜の品定め」を踏まえた一節です。「雨夜の品定め」が、重要視されたのは、この中で女性の優劣を競っていることでは決してありません。それは人間を見る眼というものを、光源氏や頭中将に左馬頭(ひだりのうまのかみ)が教えているからです。つまり政治家として、なくてはならない「人間を見る眼」を、教えていることが重要なのである。このように宗祇以来力説して来ているわけです。つまり「和」の思想です。宗祇は、人間関係を上手に成立させるには何が大切か、ということを考え「雨夜の品定め」を重要視したのです。

今の読者には無茶な解釈に読めるだろうが、当時の『源氏』は「和」に寄与する「実学」として、用いられる必要があったのである。

*5:こうした見方は人口に膾炙しているようで、三島市の「歴史の小箱」第157号にも、

なべて世の 風を治めよ 神の春 戦乱の嵐が吹きすさぶ室町時代三嶋大社の社前で、神の力によりその嵐を治め、平和の春の到来を願う気持ちが込められた句。

と書かれている(以下のURLを参照。https://www.city.mishima.shizuoka.jp/ipn000076.html )。

*6:なお、こうした宗祇のような解釈の源流はおそらく中国に存在する。釜谷武志陶淵明 〈距離〉の発見』には、次のようにある。

しかし、『詩経』所収の詩三〇五篇すべてのはじめに付けられた「小序」とよばれる解説文では、詩制作のいきさつを説明する際に、男女間の関係を君主と臣下の関係に置き換えて解釈しようとする。 (17頁)

詩経』の国風に含まれる詩は、普通に読めば男女の恋愛感情を歌っている。それを引用部のように君臣関係のように解釈したのである。この小序は漢代に今の形になったのだろう、と著者の釜谷武志は述べている。

*7:具体的には、どんな形で心のさびを落とせると考えたのだろうか。大久保紀子は次のように述べている(「歌を詠むことによって「心がはれる」とはどのようなことか : 本居宣長の『源氏物語玉の小櫛』を手がかりに」https://ci.nii.ac.jp/naid/120005606264 )。

現実の世界ではゆるされない、歌によって作り出された虚構の世界でこそのたわむれなのである。 (引用者中略) そうしたたわむれを歌は可能にし、二人は現実を離れた虚構の世界を楽しみ尽くして、心をはらすのである。 (引用者中略) おもしろいのは、このように解釈することによて、歌のたわむれの世界から、舞台がくるりとまわるように一転して、現実の世界にひきもどされている点である。 

大久保の論の重心は歌にあるが、これは虚構全般についても比較的似たことが言えるだろう。『源氏』を読むことで、虚構の世界を楽しみつくし、一転して、現実の世界に引き戻される事を経験する。現実逃避のためでなく、現実に向き合うために虚構が必要とされるのである。

*8:ちなみに、宣長源氏物語講釈の「聞書」(聴講者が書き残した記録)には、「過去にでた注釈に出てきた注は誤り」というたぐいの文言が、刊行された『玉の小櫛』に比べて明らかに多かったという(山崎芙紗子「聞書と注釈書の間 本居宣長源氏物語講釈」
https://ci.nii.ac.jp/naid/110007807879 、
170頁)。やはり自分の解釈にはかなり自信があったのだな、宣長は。

*9:この一文について、明らかな書き間違いがあったので、2021/3/17に訂正を行った。

*10:粗末な住居を見た光源氏が、しかし、古今和歌集の一首を連想して、この粗末な住居も立派な御殿も、けっきょく仮の宿にすぎない点では同じことだ、と思う場面である。なお、この歌がネタ元であるというのは、はるか昔の『源氏釈』が指摘したところであるという(http://obaco.web.fc2.com/long/GENJI/GENJI_1/comment/c04-01.html )。

ハーレクイン・ロマンスから、ブック・クラブまで、文学を搦手から攻める -尾崎俊介『ホールデンの肖像』を読む-

 尾崎俊介ホールデンの肖像』を読んだ。

ホールデンの肖像―ペーパーバックからみるアメリカの読書文化

ホールデンの肖像―ペーパーバックからみるアメリカの読書文化

 

  内容は紹介文にある通り、

ペーパーバック研究から横滑りして、ハーレクイン・ロマンスから、果てはブック・クラブ事情へ “日本エッセイスト・クラブ賞”受賞・アメリカ文学者による縦横無尽のビブリオ評論&エッセイ。

というもの。
 米文学を搦手から攻める良書。*1

 以下、特に面白かったところだけ。

映画向けに削除版を売る

 この種の削除版にも少しはメリットがあったのかも知れない (18頁)

 小説が映画化された場合、映画にする分内容を縮めてしまう。
 なので、映画をみてから原作を読む読者を面食らわせてしまう可能性があった。
 そこで、古き良きアメリカン・ペーパーバックの黄金時代には、映画版に合わせて原作をところどころカットしてしまうことが、しばしばあったという。
 もちろん作者にしてみれば、たまったもんじゃないが。
 たとえば、1948年のペーパーバック版『アンナ・カレーニナ』は、大幅な削除版である。*2
 しかも、この本はベストセラーになったようだ。

ロマンス小説は女性の味方

 ロマンスという文学ジャンルが、その決して短くない歴史の全期間を通じ、一貫して「女性の味方」だった (86頁)

 膨大なロマンス小説が、ヒロインのもとにいつか必ず白馬の騎士がやってきて、ヒロインの悩みや不幸は結婚ですべて解消する、というワンパターンなメッセージを繰り返し発信し続けた。
 これにより、各時代の過酷な現実に直面して意気阻喪した女性たちを励ましていった。
 そのことを著者はポジティブに見ている。
 ロマンスは麻薬というか痛み止めなのだ、といったところであろうか。*3

戦争をよそに

 現代もののロマンス小説の中で戦争が描かれることはきわめて少なく、それゆえ兵士がヒーローとなるロマンスも少ない (92頁)

 ロマンス小説はある程度の期間をおいて再販されることを前提にしている商品だというのが、その理由である。
 また、ロマンス小説というのは、基本的に「逃避文学」なので、現実は必ずしも直視しない。
 ゆえに、ビートや怒れる若者の時代だった1950年代には、ロマンス小説では「ドクター・ナースもの」が流行っていたのである。*4

それじゃあ物足りない

 「ベータ・ヒーロー」の誕生である。 (164頁)

 1990年代になると、ヒロインを翻弄したり蹂躙したりする横暴で謎めいたタイプの「アルファ・ヒーロー」は登場しにくくなる。*5
 その代わりに、ヒロインの心に敬意を払い、親切に接するような礼儀正しいヒーロー、すなわち「ベータ・ヒーロー」が登場する。
 しかしながら、読者には、こういうヒーローは、物足りないところがあるという。*6
 ロマンス小説では、偉ぶった男性が最終的には女性にへりくだって愛を求める、という女性による「征服」的エンディングで終わるのが定番だが、「ベータ・ヒーロー」だと、物足りなくなるそうだ。
 「攻略」し甲斐がないからであろう。

女性たちのブッククラブ

 では何について語り合うのかというと、作品にかこつけて、ブッククラブのメンバーの一人ひとりが自分のことを語るのである。 (244頁)

 米国における女性たち中心のブッククラブについての話である。
 そこで行われる文学作品に対する議論はどこがいいのか悪いのか、なぜよいのか悪いのか、という分析ではない。
 こういうのは、男性が良くやる談義であろうが、女性たちの場合それとは別の傾向にある。
 どの登場人物に共感できるか。
 それが、女性たちのブッククラブで良く使われるディスカッションテーマなのである。
 登場人物に自己投影して、そこから自分の過去をとうとうと語る。

 これによって、自分の人生、自分自身についての理解を深めることを目的にしている(245頁)。

 そして、ブッククラブで読まれるのは、そうした自己投影がしやすい小説ばかりになり、主人公が女性か、脇役に女性が多い、登場する女性の多くが中産階級以上、下品な場面がない、などの条件で選ばれる傾向にあるという。
 これを文学研究的には邪道と思う人もいようが、しかし、これは歴史的に連綿と続いてきた文学受容の一つのかたちであることは間違いないのである。*7

 

(未完)

*1:著者は、最近は自己啓発文学を研究しているようだ。個人的には、「アメリ自己啓発本出版史における3つの『カーネギー伝説』」とか、「コピペされ、拡散されるエマソン」とかが面白かった。

*2:1948年版の映画『アンナ・カレーニナ』はアメリカではなくイギリス製作のもので、アメリカでは、20世紀フォックス社が配給して各地で上映された。ちなみに、淀川長治は、クレタガルボ主演の映画版(1935年)よりも、ヴィヴィアン・リー主演の映画版(1948年)に軍配を上げている(『映画好きなら一度は観ておきたい!淀川長治総監修クラシック名画解説全集3』参照)。まあ、わかる。

*3:

この文学ジャンルを研究する場合,その内容の希薄さを批判するだけでは不十分であることは明らかであろう。現代文化の一側面と位置づけた上での,あるいは女性学の視点も採り入れた上でのロマンス小説研究がなされない限り,ロマンス小説という文学ジャンルそのものの存在意義が,研究者の手をすり抜けて「逃避」してしまうことは避けられないのである。

と著者自身はのべている(「後ろめたい読書--女性向けロマンス小説をめぐる「負の連鎖」について」https://ci.nii.ac.jp/naid/120001030303)。

*4:

ハーレクイン社が積極的に北米大陸に導入しようとしたロマンスのジャンルがあります。それは病院を舞台に医師と看護婦の間で育まれる恋を描いたロマンスです。一般に「ドクター・ナースもの」と呼ばれるヤツ。イギリスでは1950年代にこの手のロマンスが流行していたんですね。 (引用者中略) 1958年には16冊、2年後の1959年には34冊のミルズ&ブーン・ロマンスをハーレクイン社はペーパーバック化して出版していますが、これらのほぼすべてがドクター・ナースものでした。で、実際、これが北米で、とりわけアメリカ市場で、馬鹿受けだったんですね。かくして1950年代末から60年代にかけて、アメリカ中の女性が白衣のロマンスの虜になるんです。

以上は、著者自身のブログより引用した(「ロマンス小説史 (2)」https://plaza.rakuten.co.jp/professor306/diary/200509150000/ )。

 Michael Smith の "Nurses and Doctors, Oh My!" - The ACE Books “Nurse Romance” series (の概要)によると、

This was especially true since between the close of the Second World War and into the early 1950s the only career options available for women with a modicum of education were secretarial work, banking, teaching, and nursing – a situation that continued nearly unchanged until the mid-1970s. In particular, nursing was considered a prestigious profession, requiring a capable and intelligent young woman who had the heart to dedicate her life to caretaking…unless, of course, she met a husband (Ryan, 2008). Eventually the “nurse romance” fell out of favor by the mid- to late 1970s.

とのことである(https://www.researchgate.net/publication/282878317_Nurses_and_Doctors_Oh_My_-_The_ACE_Books_Nurse_Romance_series )。このジャンルが流行った背景がなんとなくわかる。

 あと、念のため述べておくが、ハーレクイン社はカナダの会社である。

*5:アルファ・ヒーローについて、著者は次のように説明している(「吸血鬼を「ロマンス」する ヴァンパイア・ロマンスtwilightについての一考察」https://ci.nii.ac.jp/naid/120002852383 )。

パワフルなアルファ・ヒーローがハイ・ティーン、もしくは20 代前半といった年頃の可憐なヒロインを散々に弄ぶといった内容のロマンス小説が、この時期のロマンス小説の定番となっていたのである。何故なら、このようなアルファ・ヒーローであっても、ロマンス小説の登場人物である限り、いずれ自分の身勝手な行動を深く反省し、最終的にはヒロインの前に跪いて彼女の愛を乞うことになるわけで、この「横暴で謎めいた男」から「へりくだった求愛者」への劇的な変貌が、ロマンス小説の主要ファン層である女性読者にとっては、たまらない魅力と映ったからである。

*6:ベータ・ヒーローについて、著者は次のように説明している(同上)。

ロマンス作家の側でも自粛傾向が強まったこともあり、1990 年代あたりからアルファ・ヒーロー的なキャラクターは大衆向けロマンス小説の世界から姿を消し始め、これと入れ替わりに、ヒロインの人格と心情に敬意を払い、彼女に対して常に親切に接するような、礼儀正しいヒーローが登場することが多くなってきた。“anti-macho” にして “politically correct” な存在、いわゆる「ベータ・ヒーロー」の誕生である。

これじゃあ、エンディングも物足りなくなるわけである。いうなれば、猛獣を「調教」するような快楽なのだから。

*7:北村紗衣は、「英文学の読解ではこうしたキャラクター中心の批評(「性格批評」などと呼ばれます)は伝統的に女性が活躍していた分野で、一方で古くさい手法として軽視されていたフシがあった」のだが、「性格批評は最近、上演研究やフェミニスト批評、大衆文化研究などの影響もあり、人気を取り戻しています。これを考えると、登場人物について語り合う女性たちの読書会は、19世紀以来の性格批評の伝統を思いの外よく保存しているように見えます」とのことである(「読書会に理屈っぽい男は邪魔? 女性の連帯を強める読書会の歴史を探る」https://wezz-y.com/archives/35823 )。

 こういう性格批評は、どこか歴史上の人物(武将とか)に対する批評でもよく見るような気がするが、それについては、また機会を改めて書くことにしたい(*たぶん書かない)。

相手のことは、期待されるほどには分かっていない (あと、女神ヴィリプラカについて) -ニコラス・エプリー『人の心は読めるか?』を読む-

 ニコラス・エプリー『人の心は読めるか?』(の2015年版)を読んだ。 

人の心は読めるか?

人の心は読めるか?

 

  内容は紹介文にある通り、

私たちは日々、相手の心を推測して生きている。ところが実は、もっとも近しい人の心でさえ、知らず知らずのうちに読み誤っていることが実験で明らかに。誤解や勘違いを引き起こす脳の“罠”を知っておけば、うまく人間関係を築き、人を動かすことができるはず。

というもの。
 お互い人の心は読めていない、ということを説く本。

 以下、特に面白かったところだけ。

相手のことは、期待されるほどには分かっていない

 さらに驚くのは、一緒にいる期間が長いほど、過信も強くなる点 (35頁)

 付き合っている期間が長いカップルほど、相手がわかっていると思う割合が高い。
 ところが、実験によると、付き合っている期間の長さと、検証する実験の検証結果 *1の間に、相関性はまったくないのである。
 相手のことは期待されるほどには分かっていない。
 相手の理解力への過大評価、カップルの多く(?)が別れてしまう原因はこの辺りにあるのか。*2

「偏狭な利他主義

 自爆テロリストは、かならずしも極貧家庭の出身ではない (93頁)

 自爆テロリストはみな貧困層出身とは限らない。*3
 そして、彼らは狂人でもない。
 家族があり子持ちの人もいる。
 親しい人を愛してもいる。
 彼らの行動は「偏狭な利他主義」からきている。
 すなわち、ひたすら自分の集団や大義名分に利することをしたいという思いに殉じている。*4

孤独と見神体験

 実験の一環として、一時的に孤独な状態に置かれているだけでも。人は、天から見守る神の存在を強く信じるようになる。 (134頁)

 聖フランチェスコらが、見えない神と対話するために、世間から隔絶された状態に自らを追い込むのも、偶然ではないという。*5

相手が自分がどう見ているのか、見抜く能力を上げる方法

 実験の三ヵ月後に自分の写真を見た人が持つ印象を予測してもらった (172頁)

 この場合は、自分の(相手に与えた)印象をかなり正確に言い当てたらしい。*6

 他人が自分をどう判断するのか、当日にではなくて、数ヶ月後に自分の写真が評価されると被験者に考えてもらうと、判断の精度が高まるのだという。

男女は共通点の方が多い、そりゃそうだ。

 たしかに違う点もあるが、共通点のほうが多く (206頁)

 男女差について。
 実は共通点の方が多い。
 思いやりがあって賢い人を男女ともに求めている、というのが著者の述べるところである。*7

交渉術の基礎:利害の共通点を探る

 交渉術の授業を受ける学生は、紛争を解決する秘訣は、相手の関心は自分と正反対ではないかもしれず、お互いの関心は、自分の理想以上に重なっているのかもしれないと認識することにあると学ぶ (211頁)

 こうした教訓を、著者は、中東戦争の時のイスラエルとエジプトのシナイ半島をめぐる交渉を例に挙げている。*8

お世辞の効果は大きい

 口先だけのお世辞がどこに行っても喜ばれる理由も、これでおわかりだろう。 (236頁)

 ある実験の結果である。
 被験者は自分に向けられた言葉は一字一句台本にのっとって読み上げられているだけだといくら頭でわかっていても、厳しいことを言う審査員よりほめてくれる審査員に好感を持つ。
 わかっちゃいるけど、やめられないのである。*9

夫婦喧嘩の収め方

 次に話す人は、最初に話した相手の言い分を繰り返してから、自分の意見を話すというものだ。 (277頁)

 夫婦の意見の違いの解決のために、このような手法が有効であるという。*10 *11

 

(未完)

*1:あるAMAZONのレビューでは、

カップルや夫婦に対し、一方に五択のアンケートを行い、もう一方にパートナーの回答を予測させると、当てずっぽうよりは良い精度(4割強)で当たるが、一方「自身が考える予測の正答精度」は8割超と大幅に過大評価している

と内容を手短に要約されるテスト。参照されたのは、Swann & Gillの手になる論文であり、これは、日本の博士論文などでも参照されている(武田美亜「他者からの理解に関する認知と現実のギャップに影響を及ぼす関係性要因の検討」https://ci.nii.ac.jp/naid/500000439267 )。

*2:もちろん、こうした欧米での検証を、そのまま日本で適用できるかどうかは、別途検証が必要である。それは、このテスト結果に限らない。じっさい、心理学的恋愛研究の分野でも、「無批判に欧米の理論や知見を取り入れ、日本での適用を確認するだけではなく、日本特有の恋愛現象・行動に着目した研究を行うこと」と課題を述べる論文も存在する(髙坂康雅「日本における心理学的恋愛研究の動向と展望」https://ci.nii.ac.jp/naid/120005818803 )。まあ、今回のテスト結果は、日本でも当てはまりそうな気もするが。

*3:小野圭司は、 

テロ組織は経済的に裕福で高学歴といった階層からの参入者で構成されているという事実があるが、この点からもテロと貧困を結び付ける考えには批判的な傾向も存在する (引用者中略) むしろ裕福で高学歴であるという事実は、個人の選択においてテロヘの参加を促す要因であるという見方がある。例えばパレスチナでの自爆テロ実行犯のうち、貧困層出身者は 13%を占めるに過ぎない。そして 57%以上は、大学水準の教育を受けた者である。

と、自爆テロリストは、かならずしも極貧家庭の出身ではない事を例証している(「テロ予防手段としての政府開発援助」http://www.dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1282365 *註番号をのぞいて引用を行った。)。ただし、テロリストの発生要因と「貧困」そのものとが必ずしも相関していないわけではない旨を、小野は述べてもいる。詳細は、小野論文を参照。

*4:著者は、人類学者である Scott Atran の ”Talking to the Enemy” に基づいて述べている。

*5:ブログ・「忘却からの帰還~Intelligent Design」は、

University of Chicagoの行動科学のNicholas Epley助教授たちの研究によれば、「人は孤独だと、ペットや物を擬人化したり、神などの超自然を信じやすくなる」

という研究結果を紹介している。まあ、著者・エプリー氏の研究である。

*6:タイラー・コーエン「テレパスっぽくなる方法」(『経済学101』https://econ101.jp/%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%80%8C%E3%83%86%E3%83%AC%E3%83%91%E3%82%B9%E3%81%A3%E3%81%BD%E3%81%8F%E3%81%AA%E3%82%8B%E6%96%B9%E6%B3%95%E3%80%8D/ )から引用する。

2010年に,ベン=グリオン大学のニコラス・エプリーとタル・エヤルが一連の実験結果を公表した.実験の目的は,対人・知覚知覚スキルを改善することだ.論文の題名は:「テレパスらしく振る舞う方法」(How to Seem Telepathic). (引用者中略) 分析の水準を調整してやれば,もっとずっと直観がするどくて正確なようにみせかけられる.ある研究では,他人が自分をどう認識するかの判断精度がある要因で高まった.判断する当日ではなくて,数ヶ月後にじぶんの写真が評価されると被験者に考えてもらったのだ.また,自己紹介の録音を数ヶ月後に聞いてもらうと考えてもらったときにも,同様の精度の変化が生じた (引用者中略) 数ヶ月後に判断されると想像するだけで,他人がなにげなく使いがちなのと同じ抽象的レンズに突如きりかわったわけだ

他人が自分をどう見ているのか、人はよくわかっていないが、こうした工夫をすることによって、ある程度改善ができるものなのである。

*7:この点については、既にほかのブログにて、引用されている(ブログ・”I'm Standing on the Shoulders of Giants.”より。http://extract.blog.shinobi.jp/Entry/5721/ )。

男女の性別を論じる人も,当然,1人の人間であり,私たちと同じく,共通点より違う点に注目してしまう。男女の共通性を論じることを提案した唯一の心理学者であるジャネット・ハイドは,性差に関する大規模な研究では,2つの性に驚くほど共通点があることが示されているにもかかわらず,それらを引用した二次研究では,男女のステレオタイプを定義づける小さな違いのほうに焦点が当てられてしまう,と指摘する。

ちなみに、ジャネット・ハイドは、”Men are from earth, women are from earth. The media vs. science on psychological gender differences. ”で、ある賞を受賞している。これは、日本でも翻訳されたジョン・グレイの『Men are from Mars, Women are from Venus』(邦題は『ベスト・パートナーになるために―男と女が知っておくべき「分かち愛」のルール』)のもじりである。

*8:これは交渉術にかかわる学問では有名なケーススタディーのようである。以下、松浦正浩「都市計画とまちづくり11 交渉と合意形成のテクニック -家庭生活からまちづくり,国際紛争まで―」(https://www.mmatsuura.com/research/pdfs/sokuryo-200210.pdf )から引用する。

両国は長年紛争状態が続いていた(第三次中東戦争)。 (引用者中略) 当時の米国大統領 カーターは,イスラエル,エジプト双方の利害に着目した調停に乗り出 した。イスラエル,エジプトともに「シナイ半島はわが国の領土」という立場であるが,前者の利害は「エルサ レムの防衛」であり,後者の利害は「プライ ドの満足」である。調停の結果,シナイ半島の領有権はエジプトに返還されたが,シナイ半島を非武装地帯 とする合意が結ばれた。イスラエルは攻撃される不安を解消でき,エジプトは領土を奪還でき,お互い満足できたということである。

以上のような内容になっており、第四次中東戦争がすっ飛ばされている点の類似性を見ると、松浦が扱った元ネタ(テキスト)は、おそらく、本書『人の心は読めるか?』と同じものと思われる。(本書には、出典は書かれていないが、松浦自身が挙げている(https://www.rieti.go.jp/jp/events/bbl/10060101.html )、Fisher & Ury の『ハーバード流交渉術』(日本語題。日本での初版は、TBSブリタニカ、1982年)あたりが元ネタだろうと思われる。)

 なお、実際にはキャンプ・デーヴィッド合意へ至る交渉がもっと混み入っていた点について、鈴木啓之パレスチナ被占領地における政治活動の発展:キャンプ・デーヴィッド合意(1978年)と揺れ動く地域情勢」(https://ci.nii.ac.jp/naid/110009830858 )等を参照願う。

*9:ところで、他者をほめる、ということについては、日本の心理学分野でも当然研究の蓄積はある。例えば、小島弥生は、

結果は仮説の一部を支持し、直接ほめ言葉を聞かされる場合よりも第3者から相手のほめ言葉を伝え聞く場合の方が、ほめ言葉やほめ行動を肯定的に認知することが示された。

というように、褒め言葉は第三者を迂回して聞く方がより嬉しくなるものであることが、小島の研究およびその先行研究でも明らかであるようだ(「相手と状況がほめ言葉の受けとめ方に与える影響」https://ci.nii.ac.jp/naid/120005772397 )。

*10:このアイデアは、心理学者のハワード・マークマンのものだという。

 ここで思い出されるのは、ローマのかの女神である。以下、『神魔精妖精辞典』より引用する(https://myth.maji.asia/amp/item_viripuraka.html )。

ローマの神で夫婦喧嘩の守護女神。ローマにはごく些細な事まで守護神が存在したが、ヴィリプラカはその一人である。ローマ人は夫婦喧嘩の収拾がつかなくなった場合、二人してヴィリプラカの祀ってある祠に向かう。この祠には祭司などが居るわけでもなく、女神の像が置いてあるだけだが、祠の前では一つの約束事がある。それは一人が喋っている間、決してもう一人は喋ってはいけないというものだ。この約束事により、それぞれ大きな声で自分の意見を主張し、その間もう一人は冷静に相手の意見を聞くことが出来る。

出典は、『西洋神名辞典』となっている。

 もしかしたら、相手の言い分を繰り返す、復唱する必要は、ないのかもしれない。

*11: 女神ヴィリプラカについては、もう少し書いておきたいことがある。出典の問題である。実は、『西洋神名辞典』の参考文献を確認すると、塩野七生ローマ人の物語』第一巻が載っている。おそらくこれがこのヴィリプラカの項目の出典ではないかと考えられる。なぜなら、過去に日本で出版された、『ギリシアローマ神話辞典』や『ギリシアローマ神話事典』などには、一切ヴィリプラカ女神について記載がないからである。

 では塩野は何を参照したのか。塩野が参照したのはヴァレリウス・マクシムスと思われる。じっさい、『ローマ人の物語』第一巻の参考文献にヴァレリウス・マクシムスの名を塩野は挙げている(あれを参考文献と呼称してよいのかは、わからないが。特に日本語文献の表示について。)。

 塩野以前に日本で、ヴィリプラカについて紹介されたことがある。柚木馨「ヘッカー初期ローマ法に於ける女子の権利(一)」(『法学論叢』第十五巻二号、1926年)には、「ウァレリウスマキシムス」に依拠して、「ヴィリプラカ女神」の礼拝堂で感情を披瀝すると、ケンカしていた夫婦も怒りを捨て去り、元の仲に戻る、との記述がある(109頁)。しかし、「祠の前では一つの約束事がある~」云々は書かれていなかった。

 するとこう考えられる。元ネタであろうヴァレリウス・マキシムスの著作には、「祠の前では一つの約束事がある~」云々は書かれていない、あるいはさほど言及されていないのでは、と。

 実際のところ、ヴァレリウス・マクシムスは何と書いていたのか。原文(Wikipediaではこの件についてドイツ語版が一番詳しい。面倒なので、これを参照した。
https://de.wikipedia.org/wiki/Viriplaca )で該当するのは、” ibi inuicem locuti quae voluerant ”であり、お互いの心の中にあるものをすべて交代で吐き出す、といった意味である。あくまでも、交代で話すということを述べているのみである。(この点について、 Robert Kaster の Emotion, Restraint, and Community in Ancient Rome をも参照したことを断っておく。)

 以上のことから、「祠の前では一つの約束事がある~」は、塩野自身の考えに基づくものか、もしくは、塩野が依拠した別に外国語文献に載っている事柄ではないか、と考えられる。これは、別に原文に反してはいないが、若干創作気味ではないかと思われる。

バリはいかにして「創られた」のかを解き明かす、古典的名著 -永渕康之『バリ島』を読む-

 永渕康之『バリ島』を読んだ。 

バリ島 (講談社現代新書)

バリ島 (講談社現代新書)

 

 内容は、紹介文にもあるように、

「神々の島」「芸術の島」は、いかにして生まれたのか。バリ、バリ、ニューヨークを結んで織りなされた植民地時代の物語をたどり、その魅力の深層に迫る

という、バリはいかにして「創られた」のかを解き明かす内容。
 すでに古典に近い本だが、やはり面白い。*1 *2

 以下、特に興味深かったところだけ。

植民化とカースト

 バリをヒンドゥー的社会ととらえて統治を開始した地方政府は、カーストこそバリ文化に根ざす社会体制の基盤であるとみなし、現地人官吏に貴族階層の人々を独占的に指名した。 (56頁)

 実際には、植民地時代が始まる以前には称号を持たない人々も政治的な役職に多数ついていたにもかかわらず、である。
 オランダの現地地方政府は上記のような政策をとった。
 現地の貴族階層の人々はそうした植民地政府の立場を擁護したのである。*3
 植民地政府の意向をかさに着て伝統の名で自らの特権的立場を正当化した貴族階層、といったところであろうか。

「黄金文化」と植民地統治の正当化

 植民地政府は、古典ジャワ文化を「黄金文化」とみなすことで自らの支配を正当化した (146頁)

 黄金文化の「退廃」した結果が現在のイスラム的世界であり、現地人は「堕落」した人間である、とする論理を、植民地政府はとった。
 ゆえに、黄金文化を復興しうる学識を持つオランダ人が責任を以て統治しないといけない、と理屈づけたのである。*4

コバルビアスの二面性

 この矛盾は『バリ島』の記述に大きな問題を投げかけている。 (192頁)

 マンハッタンでイラストレーターとして活躍していたメキシコ人ミゲル・コバルビアスの話である。
 彼は、1930年代にバリを幾度も訪れた経験をもとに、『バリ島』を出版する。
 そして、ニューヨークにバリ島ブームを起こし、その後のバリ島イメージの形成に寄与した。
 コバルビアスは、バリにおける観光などの商業主義の拡大を、著作の中では文明の侵略と攻撃している。
 だが、その一方、マンハッタンに帰るとバリのイメージを用いた商品を自ら積極的に売り出してもいたのである。
 そこにミゲル・コバルビアスという人物の魅力と矛盾があったのである。*5 *6

 

(未完)

*1:その他、バリ島関連の論文で特に面白かったのは、梅田英春の論文「バリ島西部ププアン村に伝承される大正琴を起源とする楽器マンドリン」(https://ci.nii.ac.jp/naid/120006596244 )で、どうやら華人商人たちによって広まったようである。

*2:ところで、お気づきになったであろうか。先の紹介文、本当は「バリ、パリ、ニューヨーク」という風に表記せねばならなかったはずであることを!!! 

*3:井口由布と近藤まりは、本書を参照しつつ、

永渕によれば,バリにおけるカースト制度は古くからの伝統というよりは植民地時代に再構成されたものであるという.オランダの植民地支配以前,バリのカースト制度は地域によってまちまちでたいへん複雑であった.オランダ植民地政府はその支配に都合の良いようにカースト制度を統合して単純化した.

とまとめている(「劇場ホテルにおける観光文化の形成 : インドネシアにおけるリゾートホテルの調査をとおして」https://ci.nii.ac.jp/naid/110009500425 )。そして自身の研究を

フロント・オフィス・マネージャーの例からわかるのは,植民地制度によって再構成されたカースト制度が,グローバリゼーション時代の近代的な組織の中でまた新たに意味を与えられて改変されていることである.

と規定している。なかなか興味深い論文なのでぜひ。

*4:菅原由美は、

当時のオランダ領東インド(現在のインドネシア)の統治も、最も人口が多いジャワが中心であった。ジャワ語文献研究は、オランダ人エリート植民地官僚の必修科目であった。しかし、彼らの興味の対象は、イスラーム化する以前の、ヒンドゥー・仏教王国時代のジャワ語文献であった。オランダ人はイスラームをジャワ文化の表層としてしかとらえず、イスラーム文献研究にはほとんど手がつけられなかった。イスラーム流入以前のジャワを、「真」のジャワとする考え方は、オランダ人研究者からインドネシア人研究者にも引き継がれ、戦後も長い間この研究傾向は続いた

と述べている(「インドネシア写本研究最前線」(『生産と技術』Vol.69, No.1、2017年)http://seisan.server-shared.com/69-1-pdf.html )。ジャワの黄金文化、という言説は、植民地統治の方便というだけではなく、半ば本気で信じられていたのかもしれない。

*5:著者は別に寄稿した記事で、次のように述べている(「ジャズあるいはジャンゲールの挑発──統治者を模倣するバリ人」http://db.10plus1.jp/backnumber/article/articleid/909/)。

コバルビアスにしても最終的にはジャンゲールの狂気をあたらし物好きのバリ人を語る事例として解決してしまっている。つまり、新奇なものを「同化」して自らの伝統的形式に取り入れ、「文化のバリらしさをけっして失わない」バリ人たちの芸術への態度を物語っているのがジャンゲールだというのである。伝統と呼ばれる象徴体系に勝利を与え、未開の文化に文明の失った精神性の可能性を求める当時勃興期にあった民族誌というジャンルに参入したコバルビアスにとって、この最後の解決はやむをえなかったのかもしれない。

著者の当該記事は、この引用部以降も面白いので是非ご一読をどうぞ。

*6:コバルビアスは、軍国主義時代の日本に関して、次のようなイラストも描いている。
https://yajifun.tumblr.com/post/7196209980/printsandthings-the-japanese-single-1942 

題名は大仰だが、リスト凄いってのはよくわかる。 -浦久俊彦『フランツ・リストはなぜ女たちを失神させたのか』を読む-

 浦久俊彦『フランツ・リストはなぜ女たちを失神させたのか』を読んだ。 

フランツ・リストはなぜ女たちを失神させたのか (新潮新書)

フランツ・リストはなぜ女たちを失神させたのか (新潮新書)

  • 作者:浦久 俊彦
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2013/12/14
  • メディア: 単行本
 

  内容は紹介文のとおり、

リサイタルという形式を発明した「史上初のピアニスト」フランツ・リストは、音楽史上もっともモテた男である。その超絶技巧はヨーロッパを熱狂させ、失神する女たちが続出した。聴衆の大衆化、ピアノ産業の勃興、スキャンダルがスターをつくり出すメカニズム…リストの来歴を振り返ると、現代にまで通じる十九世紀の特性が鮮やかに浮かび上がってくる。音楽の見方を一変させる一冊。

という内容である。
 リストは音楽もスゴイし、それ以外もすごい、ということがよくわかる。*1
 まあ、タイトルは大仰だが。

 以下、特に面白かったところだけ。

サロンは慈善も行った

 芸術家の支援だけでなく、慈善活動も行ってきた芸術・社会福祉財団ともいえる存在だった (50頁)

 この当時、サロンが援助したのは、芸術家個人のみではなかった。
 サロンは、チャリティーコンサートやバザーなども行っていたのである。*2

リストも慈善

 動くメセナ活動ともいうべき、慈愛に満ちた芸術振興への功績 (99頁)

 リストの慈善活動についてである。
 ハンブルクでは、市立劇場の管弦楽奏者のための年金基金を創設している。
 また、ケルンでは大聖堂建立のために、ケルン開催の演奏会の収益の多くを寄付している。
 その他、訪れた街で例外なく、学校や教会、孤児院などに多額の寄付をおこなっている。*3

ピアノ・ソロリサイタルのパイオニア

 ピアノ・リサイタルは、リストによって発明された。 (100頁)

 ショパンでさえ、生涯一度もソロコンサートは開催していない。
 当時のコンサートは、ひとつの公演で、ピアノあり、歌曲あり、室内楽ありという、混合型だった。
 当時は、交響曲などの複数楽章からなる楽曲は、別の曲をはさんだり、一部のみしか演奏しないことも普通にあったのである。*4

ピアノ曲の古典を復興

 最もましなピアニストでさえ、モーツァルトハイドンが、ピアノ曲を書いていることさえ知らない。 (105頁)

 メンデルスゾーン1830年ミュンヘン音楽界の状況に対する言葉である。*5
 そんな状況で、リストは、バッハやモーツァルトベートーヴェンシューベルトといった古典を頻繁に演奏した。
 彼は、他人が作曲した楽曲だけで演奏会のプログラムを組んだ最初のピアニストでもある。

 

(未完)

*1:ちなみに、木下由香によると、日本でのリスト受容は、

大正期には、なぜか彼のロマンスに関する記事が目に付き、ヘルムが次のように言っている―「確かに、リストの栄光や、音楽史上の位置は、このような女性問題とは全く関係ない。しかしおそらく、当時の彼の〈知名度〉とは、少しは関係しているかも知れない。初めて書かれる伝記では、すべての事実を記載すべきであり、作者の捉え方になじまないからといって、重要なことを省いてしまっては意味がないのである。リストの人生において、女性は本質的なものであった」。

というような伝記(スキャンダル先行)的な感じだったらしい(「日本におけるフランツ・リストの受容 : 明治・大正期の音楽雑誌を中心に」https://ci.nii.ac.jp/naid/120006488887 )。

*2:未読ではあるが、福田公子『19世紀パリのサロン・コンサート―音楽のある社交空間のエレガンス』(北星社、2013年)には、 「サロン・コンサートの中には慈善演奏会も存在し、ロッシーニが曲目として大人気だったという記述」があるようである(http://www.robo.co.jp/product/book/19salon/index.html )。また、米澤孝子によると、

当時貧しい人々や孤児や未亡人の為の募金活動としての慈善コンサートが頻繁に行われていたが、出来るだけ沢山の基金を集めるため、そのプログラムはより多くの人々の趣向に合わせるため、さらに雑多な選曲で構成されていた

とのことである(「ファニー・ヘンゼルの『日曜音楽会』の考察 : 19世紀前半のベルリンの音楽環境に照らし合わせて」https://nagoya.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=25274&item_no=1&page_id=28&block_id=27 )。フランツ・リストが活躍した時代の一側面を知るうえで、ためになる論文ではないだろうか。

*3:上田泰史は、

気前良すぎるほど寛大で、予見できない先々のことは全く考えず、すべての不運な芸術家に広く奨学金を与え、不幸な人ならだれでも援助の手を差し伸べ、慈善活動や芸術的企画には真っ先に出資し、王や――時には小市民のように振舞う――大貴族の如く、気前よく振る舞う。そんなリストは、芸術の進歩と不運に見舞われた芸術家の慰藉に、数え切れないほどの演奏会で集めた相当な金額の大部分を捧げた。

と述べている(「19世紀ピアニスト列伝 フランツ・リスト 第9回(最終回):御前演奏と慈善活動」http://www.piano.or.jp/report/02soc/19memoirs/2016/10/18_21859.html  )。

*4:中野真帆子によると、

ヨーロッパにおけるロマン派の時代は、コンサートの運営がサロンや慈善演奏会から音楽ホールや市民組織による音楽団体主催の定期演奏会へと移行し、内容も数人の賛助出演者を招いてさまざまな楽器の組み合わせによる曲目を無秩序に並べるだけのコンサートから、単一楽器による統一の取れたプログラムで構成されるリサイタル形式が誕生して、作曲家と演奏家が分離していく過程に在りました。

という、狭間の時期だったという(「パリ発 ショパンを廻る音楽散歩 08.シャイヨ通り74番地/ピアノ・リサイタルの誕生」http://www.piano.or.jp/report/04ess/prs_cpn/2008/08/01_7545.html )。
 また、リサイタルについても、

1839年3月8日に「音楽のモノローグ(独白)」と名付けた史上初めての自作単独演奏会をローマで開き、翌年の1840年6月9日にロンドンのスクエア・ルームズで、告知に英語のリサイタル(独奏)という用語を史上初めて用いた自作自演の単独コンサートを開きました。

と、リストの功績について述べている(同上)。リストすごい。

*5: ヴィルヘルム・フォンレンツ『パリのヴィルトゥオーゾたち ショパンとリストの時代 』に対するAMAZONレビューには、「モーツァルトが時代遅れと見なされていたことや、ベートーヴェンソナタは1840年代までは初期の曲と月光・熱情くらいしか弾かれなかったことなど、当時の音楽事情が書かれている」との言葉も見える。

 また、西原稔は次のように述べている(「楽譜出版を通してみる19世紀ピアノ音楽 その1 ピアノの19世紀」http://www.piano.or.jp/report/02soc/nshr_19th/2007/10/12_7480.html )。

18世紀はあれほどの人気を得ていたピアノ・ソナタが、1830年を過ぎると、劇的に表舞台から去っていきます。もちろんそれ以前からピアノ・ソナタは次第に人々の関心から遠のきつつありましたが、1830年頃に劇的にピアノ音楽の種類が変化していきます。ピアノ・ソナタに代わって多くの人々が熱中したのは、「音楽総合新聞」の新譜案内記事にも示されているように、ワルツやエコセーズ、クァドリールなどの舞曲、そして有名なオペラのアリナなどの旋律の編曲、また、有名なアリアの旋律や親しみやすい旋律を主題とした変奏曲でした。つまり、ピアノ文化の到来は、ポピュラー音楽の到来でもあったのです。

これはピアノ・ソナタの例であるが、リストが先人の古典のピアノ曲を演奏しようとした背景にあったのは、こうした「ポピュラー音楽」化が進む時代風潮だった。