鹿鳴館のイスラム様式から、モダニズムと軍国主義の関係まで -井上章一『現代の建築家』を読む-

 井上章一『現代の建築家』を読んだ。

井上章一 現代の建築家

井上章一 現代の建築家

  • 作者:井上 章一
  • 出版社/メーカー: ADAエディタトーキョー
  • 発売日: 2014/11/26
  • メディア: 単行本
 

 内容は紹介文の通り、

明治に生まれ、モダニズムの波を越えて、現代に至る日本の建築家たち。日本の自我は、どのように建築や都市にあらわされてきたか。建築家のあゆみを、社会のありようから考える、画期的な日本近代化論としても読める一冊

である。
 アマゾンレビューにもあるように、安藤忠雄評価が割と高いが、安藤については今回は取り上げない。*1

 以下、特に面白かったところだけ。

鹿鳴館イスラム様式

 鹿鳴館にインド・イスラム風の形がまぎれこんでいることは、あまり知られていない。 (49頁)

 コンドル作の鹿鳴館の話である。
 二階の正面ベランダにイスラム様式の形が見て取れる。*2
 コンドル、伊東忠太、タウトが、いずれも「オリエント」な様式に行きついたことが、本書で言及されている。

媚びと威張り

西洋にたいしては、エキゾティシズムをくすぐり媚を売る。だが、東アジアにたいしては、西洋化をなしとげたかのような姿で、いばって見せた。 (227頁)

 博覧会の日本館は、以上のような帝国の姿勢を垣間見せた。
 西洋で開かれる万博ではエキゾティックにふるまう(19世紀末のシカゴ万博の「鳳凰殿」が特に有名だろう)。
 その一方、東アジアの植民地では、総督府はモダニスム建築だった。
 1933年の満州博覧会の日本館は当時の現代的な様式だし、1940年の朝鮮大博覧会でも、日本館は、モダンな造りであった*3。 
 片方に媚び、片方に威張っていたのである。

モダニズム軍国主義

 日本趣味へ手をそめた建築家に、こういう文句をのこした者は、ひとりもいない。当時は、モダニストのほうが、より好戦的にふるまった。 (253頁)

 帝冠様式等に関する話である。
 実際、分離派の瀧沢真弓は、1934年に、「日本精神はあの軍人会館の様式に存るのではなく、あのわが海軍の軍艦の様式にある」と述べている(94頁)。
 著者は、日本趣味へ手をそめた建築家よりも、前川国男の方がよほど当時の臣民と軍国主義を分かち合っていると述べている。*4

関東大震災をきっかけに

 大阪の漫才という芸能が、たとえばこのころに首都圏へもちこまれている。 (355頁)

 関東地方は、大阪の笑芸は受け入れてこなかった。
 だが、関東大震災のあとのラジオ放送は、関西弁の「お笑い」を流し出す。*5 *6
 同じく、料理についても、関西風の味付けも、同じころに東京へ押し寄せている。*7

 

(未完)

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*1:安藤については、飯島洋一『「らしい」建築批判』を超えるような感想がまだ思いつかないので、何か思いついたら書くかもしれない。

*2:河東義之は、コンドル設計の旧岩崎邸について、

洋館内部で注目されるのは,一階の婦人客室にイスラム風の意匠が用いられていること,また日本の火灯窓をあしらったような意匠もみられ,このあたりはコンドルの日本文化の研究,あるいは西洋と日本との間のイスラム様式を比較的早くから日本に提案していたことの現れであると言われています。

と述べている(「コンドルと邸宅建築- 生活文化史を視野に入れて-」https://swu.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=4948&item_no=1&page_id=30&block_id=97 )。イスラム様式というのは、コンドルにとって、「西洋と日本との間」、「西」と「東」をつなぐ建築様式であった。

*3:前者については、『満州大博覧会案内』(1933年)に、建物の姿が載っている。詳細は、ブログ・「古書 古群洞」の記事https://kogundou.exblog.jp/22920202/ の画像を参照。その特徴は、同博覧会の「土俗館」(満州諸民族の生活文化を示すような品が展示された)の建物と比較すればわかりやすい。「土俗館」については、山路勝彦「満州を見せる博覧会」(https://ci.nii.ac.jp/naid/110006484720 )に、その写真が載っている。

*4:松隈洋『建築の前夜 前川國男論』に関するスライドによると、「前川國男『日誌』に記された言葉」は、以下の通り(https://www.aij.or.jp/jpn/design/2019/data/2_1award_009.pdf(PDF) )。

「建築新体制について大東亜戦は史代転換の戦争にして日本は世界に対してその担当者たるの責任をもつ今茲に世界史の形而上学的原理の上より之を見る時は自然中心の古代 神中心の中世 人間中心の近代とに分つ事を得べし今日近代史の終焉として茲に大東亜戦争の世界史的意義を見る時今日本の闢く新しき史代の原理は何であるか、此の原理を真実在として生き抜かるべき形而上学的原理は何であるか二千年の西欧的各史代の有った諸原理の裡に形而上学的有的世界の一切がすでにつくされたるを見る時茲に新しき原理は無の世界に見出されねばならぬ此の原理を中心に統一秩序をもった生活文化の相を新秩序と呼ぶ。そして此の文化の支柱により国家の倫理が確立され国家の独立が顕彰されるかうした生活文化の確立がそれに相応しい建築の母胎である」1942年1月18日

なんか、近代の超克みたいなことを言っている。以前書いた「日本的国際法」云々の者たちと異なるのは、前川がいちおう戦後の建築界で確たる成功を収めたところである。
 モダニスト軍国主義の関係については、以前、井上の『つくられた桂離宮神話』に関するレビューで言及したことがある。

*5:後段の料理の件も含め、これは井上のデビュー作『霊柩車の誕生』からずっと言ってきたことである。実は「帝冠様式」についても、既にこのデビュー作で持論を述べていたはずである。

*6:ただし、逆に関東大震災で、東京から三代目柳家小さんらが関西に移住・巡業したりしているので、相互交流という面も、なくはない(『こちらJOBK NHK大阪放送局七十年』(日本放送協会、1995年)53頁)。なお、同書によると、ラジオが上方ことばを変えたという。例えば、当時は録音機材の性能が悪く、マイクに乗りやすい声や楽器の音になるよう工夫する必要が生じたという。また、芸の内容も、昔は「墨字の芸」(毎回ごとに味わいが変わる)だが、今は「活字の芸」(毎回同じ調子)になったと菊原初子が証言しているようだ(同頁)。

*7:なお、関東大震災後、関西料理が関東に進出した当初は、東京人には関西風の昆布出汁や淡口醤油は不評だったようである(奥村彪生「料理屋の料理」(高田公理編『料理屋のコスモロジー』(ドメス出版、2004年))70頁)。

新約聖書における、「救済」と「自責」に関する一考察(ってほどでもない) -田川建三『宗教批判をめぐる』を読む-

 田川建三『宗教批判をめぐる 宗教とは何か〈上〉』を読んだ。

宗教批判をめぐる―宗教とは何か〈上〉 (洋泉社MC新書)

宗教批判をめぐる―宗教とは何か〈上〉 (洋泉社MC新書)

 

 内容は紹介文のとおり、

人間はなぜ宗教を生み出し維持してしまうのか? 著者の問題意識は鮮明である。人間のいとなみの中から、「宗教」と呼ばれる部分だけを抜き出してきても、宗教を生み出してしまう人間の実態を知ったことにはならない。我々にとって必要なことは、宗教として知ることではなく、何故、どのようにして、人間が宗教を生み出し、維持してしまうかを知ることである。護教的立場とは無縁な場所から宗教学者・作家などの所説を逐一批判することで、いわゆる宗教性を解体する。

という内容。
 数ある宗教批判の書の中でも、かなり刺激的な本ではないだろうか。*1

 以下、特に面白かったところだけ。*2

ザイールでのピグミー差別

 「田川さん、ピグミーを見ましたか。人間でもないし、猿でもない、あんなおかしなのはない。ザイールを離れる前に是非一度見に行って来るといいですよ」 (96頁)

 ピグミーも、すでに白人侵略者が大陸を侵略する前から、周囲のアフリカ人によって、いびられてきた。
 上記の引用部は、あるアフリカ人学生の言葉である。*3
 著者がその文章でいおうとしているのは、現在いる「原始人」がかつての人類の姿をそのまま保存している、と考える論者に対しての批判であるが、それはここでは詳しく論じない。

遠藤周作と「疑似宗教的イデオロギー

 遠藤が読者大衆におもねって言いつのり続けたきざな疑似宗教的イデオロギーにすぎない (204頁)

 どんな裏切りでも愚劣さでも無力さでも、まとめて許して肯定していただけるありがたい「論理」を遠藤周作は説くが、それは聖書とはまるで関係ないイデオロギーだ、と著者は述べている。
 ここら辺を論じていくと、聖書における救済の問題に行き着く。*4 *5

感情の切り替え?

 資料からは、イエス死後の弟子たちが裏切りの自責の念にさいなまれたなどということは、まったく推定できない。 (238頁)

 ペテロについては、裏切った直後には後悔して泣いた、と記されているが、イエス死後には、ペテロが裏切りの卑劣さに自責の念を以て苦しんだという記述はないのである。*6
 まあ、単に書き忘れなのかもしれないし、古代人は心の切り替えが早いだけなのかもしれないが。
 しかし注意すべきことであるのは間違いない。

 

(未完)

*1:いつになったら下巻のレビューを書くのかは、現段階では未定である。

*2:今回は取り上げなかったが、特に、「『知』をこえる知 宗教的感性では知性の頽廃を救えない」の章が、身もふたもなくて好きである。この章は、教育出版の教科書『精選 現代文B』にも載ったようで、その編修趣意書には、

近代が「知性」に頼り招くことになった諸課題を「感性」によって克服することはできず,善悪両面の影響力を洞察する「真の知性」をもつことが必要という文章

とある(参照:http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/kyoukasho/tenji/1385385.htm )。つまるところ、前近代では「知性」をも担っていた宗教は、近代になると「知性」は科学が担い、宗教は「感性」だけを担うこととなったが、そんな「感性」だけになった「宗教」に、どの程度近代の諸課題が克服できるんじゃい、というような内容である。 

*3:ピグミーおよびバボンゴ・ピグミーの(差別/被差別の)相違について、児玉由佳は松浦直毅『現代の〈森の民〉』を紹介する記事のなかで、次のように言及している(「資料紹介: 松浦直毅『現代の〈森の民〉 中部アフリカ、バボンゴ・ピグミーの民族誌』」https://www.ide.go.jp/Japanese/Publish/Periodicals/Africa/2013_07.html )。

先行研究では、ピグミーが狩猟採集活動から農耕へと生業の軸足を移していく過程で、農耕民によるピグミーへの差別が強まる傾向にあることが指摘されてきた。しかし、バボンゴの場合は、頻繁な交流を通して近隣の農耕民と友好的な経済的・社会的紐帯を形成することで、差別の拡大ではなく、より対等に近い関係を築いている。本書は、その要因について、経済的関係だけでなく、社会制度や言語の共有、彼ら独特の儀礼のもつ政治的・社会的権威など、さまざまな側面から検討している。

そして、前者のピグミーの差別について、松浦直毅は、次のように先行論文をまとめている(「ガボン南部バボンゴ・ピグミーと農耕民マサンゴの儀礼の共有と民族間関係」(2007年)https://ci.nii.ac.jp/naid/130000730469 )。

ピグミーと農耕民の関係は,農耕民社会がもつ社会的カテゴリーを際だたせるヒエラルキカルな共存の論理(竹内,2001)や「不平等」イデオロギー(塙,2004)にもとついている場合には不平等なものになる。もともと社会経済的な格差が小さい場合でも,商品経済化や国家によるピグミー蔑視の政策という外部世界の影響によってピグミーと農耕民は差異化され,両者の格差が顕在化する(寺嶋,2002)。農耕民の社会制度や外部世界の影響がピグミーと農耕民の不平等な関係に結びついて
いるのである。

興味深いことと思ったので、ここで引用・紹介する次第である。興味のある方は是非ご一読を。 

*4: ただし、遠藤周作の描いたキリスト(教)像と、パウロの救済思想と間に類似性をみる意見が存在する。例えば、青木保憲は次のように述べている(「神学書を読む(9)『沈黙』と共鳴するキリスト教の犠牲批判 青野太潮著『パウロ 十字架の使徒』」https://www.christiantoday.co.jp/articles/23047/20170118/koredake-ha-yondemitai-theological-books-9.htm )。

『沈黙』では、このカトリック的な思考に潜む欺瞞(ぎまん)を暴き出し、真に神を信じる者として生きるとはどういうことかについて問い掛け、司教はカトリック信仰を捨てる。弱き者と同じ姿になり、彼らに寄り添う決断をする。その時、彼の心に神の声が届く。「私は決して沈黙していたのではない。あなたがたと共に苦しんでいたのだ」と。/ここで描き出された神の姿、これこそ青野氏をしてパウロが語ったとされる「十字架につけられたままのキリスト」ということになる。

つまり、青野、すなわち青野太潮の解釈に従えば、聖書(ここではパウロの救済思想)との間に齟齬は見られなくなる。
 また、青野は、犠牲の強要を問題視してもいる。

犠牲者は「現代のキリスト」となって、後に生きる者たちのために亡くなったと捉え、彼らの犠牲を神聖視することにつながっていく。しかし、それが強要されるとしたらどうであろうか。パウロが聖書の中で「偽りの福音」と語り、幾度もこれから離れよと語っていたのは、この「身代わりのキリスト」という論理だ、と青野氏は結論づけている。

こうした点から見れば、青野の解釈は魅力的に見える。もちろん、青野のパウロ解釈が正しければ、の話ではあるが。
 じつは田川も、救済思想としてのパウロの考え方は一応評価している。田川訳『新約聖書 訳と註 第四巻』の註や解説を見れば、はっきりとそう書いている。実際、第四巻を読んだ架神恭介もその箇所に言及している(「【7/28】イズン様マジ鬼畜」http://curry-blog.cagami.net/?eid=1071279 )。勿論、パウロより親鸞の方が、救済思想の完成度が高い旨を、田川は述べているが。

 また、田川は『新約聖書 第四巻』の「ローマ書」第七章註において、パウロの他律性の自覚を重視している。これは、神の救済の他律性のみならず、自分に悪を成さしむる欲求その他(自己の外部の社会的な要素も視野に入る)の、あらゆる外部的なものの他律性をも示す。果たして、遠藤の描くイエスにそうした意味での他律性の自覚性があったかどうか(また、「社会」というものが視野にあったかどうか)は検討すべき課題であるが、ここでは置いておく。

*5: ここで一つ問題にしたい。先に述べたようなパウロの救済思想が、新約聖書全体に当てはまるかどうかである。

 実際、田川は本書『宗教とは何か 上』において、次のように述べている(以下、ブログ・「世界の名著をおすすめする高等遊民.com」の記事https://kotoyumin.com/endoshusaku-silence-juda-1035より、孫引きを行ったことをお断りしておく。)。

けれども悲惨なことに、あるいは遠藤にとっては皮肉なことに、このように本当に裏切りの自責の念に責めさいなまれた人物のもとには、復活したイエスは現れない。/『沈黙』の著者はくり返し、くどいほどくり返して、裏切者キチジローを赦し続ける。福音書記者マタイは情容赦もなく、ユダに自殺させてしまう

ユダに赦しが訪れる描写は、新約聖書には載っていない。

 もちろんカール・バルトのように、ユダの救済の可能性を説く者もある。本多峰子は次のように述べている(「ユダは救われるか  カール・バルト 『イスカリオテのユダ』と、遠藤周作『沈黙』による考察」http://www8.plala.or.jp/mihonda/Yudahasukuwareruka.htm )。 

これは、保障されたものではないかもしれない。しかし、イエスがすべてのもののために死んでくださったその恵みが、棄却されたものには及ばないとは、バルトは考えられないのである。

ただ、それは、本多の述べるように、「教義的にではなく、むしろ、信仰から出た『希望』の訴え」というに留まるのではある。もし救済されたのであれば、なぜユダの救済は新約聖書においてきちんと描かれなかったのか、と述べることも可能である。 

*6:実際、これは田川訳でなくとも把握できる話である。特に四福音書のうち、イエス裏切り後のペトロの出番が最も多いであろう「ヨハネ福音書」の場合、日本聖書協会版『口語 新約聖書』(1954年 https://ja.wikisource.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%8F%E3%83%8D%E3%81%AB%E3%82%88%E3%82%8B%E7%A6%8F%E9%9F%B3%E6%9B%B8(%E5%8F%A3%E8%AA%9E%E8%A8%B3) )でも、そのことを確認できる。自責の念で苦しむ描写はない。ただ、イエスへの愛を言動で示すばかりである( 「ヨハネによる福音書」21:15 付近。 なお田川は、『新約聖書 訳と註 第五巻 ヨハネ福音書 』の註において、この箇所(ヨハネ福音書の21:15付近)はペテロ伝説として創作されたものだとしている。他の福音書と読み比べればその解釈が妥当だろう。) 
 また、自責の念で苦しむ描写がないのは、使徒行伝でも同様である(https://ja.wikisource.org/wiki/%E4%BD%BF%E5%BE%92%E8%A1%8C%E4%BC%9D(%E5%8F%A3%E8%AA%9E%E8%A8%B3) )。 

確かにこんな哲人王はヒトラーには無理。あと「高貴な嘘」について -斎藤忍随、後藤明生『「対話」はいつ、どこででも』を読む-

 斎藤忍随、後藤明生『「対話」はいつ、どこででも』を読んだ。

 内容は、哲学者(哲学研究者)と小説家の対話、なかでもサブタイトルにもあるように、プラトンに関する話が一番の読みどころ。*1
 以下、特に面白かったところだけ。*2

高貴な嘘

 哲学者のくせに嘘を語るとは何事かと。 (125頁)

 プラトンは英訳すると、tell a noble lieをやっている。
 これが後代批判されることになったが、ギリシャ語のウソにあたる「プセウドス」は、フィクションという意味もある。
 そこら辺を押さえておかないと、プラトンについて、とんだ誤解をしてしまうのである。
 ただ、詳細は、話すと長い。*3 *4

ヒトラーじゃ無理」な哲人王

 第一、ヒットラーのような男が、そんな長期の教育にたえられるものでもありませんしね。 (132頁)

 プラトン全体主義、という主張への論駁である。
 『国家』を読んでいくと、50過ぎの初老の男が静かな研究生活を捨てて、いやいやながら支配者になるという仕組みになっている。*5 *6

 こんな条件では、ヒトラーは無理だろう、と述べられている。

 どちらかというと、仏僧の修業に近い内容である。

なぜ党派があるのかを考えよ

 じゃあ、どうして、主義主張とか信条の違いというものがそもそも存在しているのか、というところまでは考えていない。 (142頁)

 後藤が反核アピール(1981~1982年)に署名しなかった理由についての話である。*7
 主義主張を越えて核に反対、というのは一見人間的に聴こえるが、なぜ党派があるのかという問いには至っていない、という言い分である。
 「小異を捨てて大同につく」ということを考えるときに、これは重要なことではないか。*8

 もちろん、党派が生じる理由を厳しく問うのであれば、連帯は可能ということでもあるのだが。

 

(未完)

*1:のちに出た、後藤明生スケープゴート』には、斎藤との対談の際の話も書いてある。斎藤忍髄は酒豪で、常にグラス片手に対談をしていたという(162頁)。

*2:以下に紹介したもののうち、最初の二つは斎藤、残りの一つは後藤による発言である。言わなくてもわかるとは思うが。

*3:児玉聡氏のウェブページ(http://plaza.umin.ac.jp/~kodama/ethics/wordbook/noble_lie.html )では、

プラトンの『国家』(414-5, 459-60)に出てくる神話で、 人間は土から作られ、統治者になるべくして生まれたものは金が混じっており、 戦士には銀が、農作者と工作者には鉄が混じっている、という話がある。 これは各人が各自の役割に不満を持たずに国家のために生きることができるように、 統治者が人々に信じこませるためのもので、 プラトンはこれを高貴な嘘(ギリシア語でgennaion pseudos)と呼んだ。 royal lie, maginificent mythなどとも訳される。

 いうまでもなく、この解説は必ずしも適切なものとはいいがたい。田中伸司は「高貴な嘘」について次のように述べる(「プラトンの『国家』における友愛と正義」https://ci.nii.ac.jp/naid/110009552097 以下の引用は、古代ギリシャ語表記を省略して引用していることをお断りしておく。)。

プラトンは市民たちの同族性を、正しいポリスの実現のために用いられる偽りであると認めていた(Rep. III 414b7-c2)。第3巻において市民たちが「自分がいる土地を母や乳母と見なして心を配り、攻め襲ってくる者があれば守らなければならないし、また他の市民たちのことを、みな同じ大地から生まれた兄弟であると考えなければならない」(Rep. III 414e2-5)、「すべてはお互いに同族の間柄」(Rep. III 415a7)であるという言説は正しいポリスを築くための「気高い」(Rep. III 414b8)嘘と呼ばれていた

実際の「高貴な嘘(田中論文では「気高い嘘」)」と呼ばれているものの内実は、以上のとおりである。では実際のところ、この「嘘」は、どの程度の効果があるのか。Perseus Digital Libraryの415dの英訳では

“No, not these themselves,” he said, “but I do, their sons and successors and the rest of mankind who come after.” “Well,” said I, “even that would have a good effect making them more inclined to care for the state and one another. For I think I apprehend your meaning. XXII. And this shall fall out as tradition guides.”

とある(http://www.perseus.tufts.edu/hopper/text?doc=Perseus%3Atext%3A1999.01.0168%3Abook%3D3%3Asection%3D415b *註を除いて引用した)。

 つまり、この「嘘」は聴かされた側には鵜呑みにできるようなものではなく、あくまで「たとえ話」のような感じでしか機能しないことがわかる。岩波文庫版『国家』で、この個所では「嘘」ではなくて、作りばなし、作りごと、といった訳され方をするのは、そのためである。なお、「高貴な嘘」という語が使用されるのは、厳密には、『国家』の ”414-5” の箇所のみである。

*4:ついでに、『国家』の ”459-60” の箇所についても述べておく。

 確かにこの個所における「プセウドス」は、「嘘」というニュアンスであることが、文脈から読解可能である。これは、被統治者に対して利益がある場合のみ統治者だけが使うことのできるもの(一方、被統治者には嘘は禁じられている)で、医者における「薬」のようなものだとしている。

 この場合の「プセウドス」が、「薬」にたとえられていることに注意が必要である。なぜなら、ここでいう「薬」は、あの「パルマコン」(ジャック・デリダの議論を想起すべきであろう)である。つまり「薬」であり「毒」であることをも意味する。

 『国家』の ”459-60” の箇所に出現する「嘘」は、「薬/毒」のようなものであり、ゆえに統治者のみが取り扱える、という議論になっている。①「嘘」はあくまでも被統治者に利益がある場合のみ統治者が使用できること、②その「嘘」は「毒」でもある危険なものであること、が重要である。

 プラトンはやはり、一筋縄ではいかない議論をしているのである。この点を踏まえて、議論がなされるべきなのである。

 以上。長かった。

*5:実際のところ、瀬口昌久によると、統治者になるには、次のような訓練を受けなければならない(「古代哲学は現代的問題にどのような意義をもつのか」https://ci.nii.ac.jp/naid/110004670783 )。

『国家』において、哲人統治者となるべき者は、20歳までに数学的予備教育や体育の義務教育を終えて、30歳まで哲学的問答法によって吟味され選抜され、さらに5年間の言論の修練を経て35歳になった時に、洞窟の中に降りて行かねばならない。 (引用者中略) この洞窟での実務の期間は、実に15年間に及ぶ とされている。哲人統治者は、流言飛語やさまざまな利害が衝突する洞窟のなかで、15年間の実務経験を積まねばならないのである。

ストイックな人間でなければ、絶対に不可能である。

*6:斎藤が「いやいやながら」云々と述べているのは『国家』の540bあたりのことだろうと思われる。Perseus Digital Libraryの英訳では以下の通り(http://www.perseus.tufts.edu/hopper/text?doc=Perseus%3Atext%3A1999.01.0168%3Abook%3D7%3Asection%3D540b *註は除いて引用を行った)。

throughout the remainder of their lives, each in his turn, devoting the greater part of their time to the study of philosophy, but when the turn comes for each, toiling in the service of the state and holding office for the city's sake, regarding the task not as a fine thing but a necessity

 not as a fine thing but a necessity とあるので、この場合のnecessityは、必要上やむなく、避けられない理由で、といった、わりと消極的なニュアンスであることがわかる。

*7:「思想信条の相違をこえて」はむしろイデオロギー的だ、とする菅孝行の意見が、いちばん後藤の主張に近いものと思われる。「核戦争の危機を訴える文学者の声」(正式名)の詳細については、花崎育代「「核戦争の危機を訴える文学者の声明」と大岡昇平https://ci.nii.ac.jp/naid/110009885988 等参照。

*8:これはいつかの脱原発運動の時にも、同じことが言えるように思う。

拝観制限がされると人気が下がる、開放されると人気が出る、というシンプルなメカニズム -井上章一『つくられた桂離宮神話』を読む-

井上章一『つくられた桂離宮神話』 (講談社学術文庫) を読んだ。(というか再読)

つくられた桂離宮神話 (講談社学術文庫)

つくられた桂離宮神話 (講談社学術文庫)

 

 内容は、

著者は、タウトに始まる桂離宮の神格化が、戦時体制の進行にともなうナショナリズムの高揚と、建築界のモダニズム運動の勃興を背景に、周到に仕組まれた虚構であったことを豊富な資料によって実証する。社会史の手法で通説を覆した画期的日本文化論。

というもの。
 既に古典となった著作であるが、改めて読んでみた次第である。

 以下、特に面白かったところだけ。

モダニズムと一線を画すタウト

 コルピュジェ風の現代建築理解では、桂離宮のことはわからない。合理主義ではとらえきれないところに桂離宮の「精神的」な美があるという。モダニズム理念からの乖離はあきらかだろう。 (引用者略) 彼は、「実用性の立場」すなわち当時のモダニズムを「無趣味」だときめつけているのである。 (49頁)

 ブルーノ・タウトのスタンスは表現主義モダニズムに対して独特の立場を持つ。
 つまり、単なる合理主義ではとらえきれない点に美を見出したのである。
 じっさい彼は、桂離宮について「このやうな建築物は実に、究極の細緻な点が合理的には把握し得ないが故に古典的なのである。その美は全く精神的性質のもの」と書き残している。
 彼にとっては非モダニズム的な実用性、精神性が大事だったようなのである。*1

 タウトは「誤解され」るようになる。「機能」という言葉も、「功利的な有用性」をさすものとして「解せられた」。すなわち、モダニズムの理想を意味する言葉としてうけとめられたのである。 (65頁)

 「機能」という語についても、タウトの実際の意図は、モダニズム的解釈とは異なっていた。*2
「『すべてすぐれた機能をもつものは、同時にその外観もまたすぐれている』という私の命題は、しばしば誤解された。それというのもこの言葉が功利的な有用性や機能だけに局限されて解せられたからである」とタウトは文章の中で書いている。

モダニズムと戦争

 モダニズムの建築理念は、戦時体制のなかへとけこむようになる。 (引用者中略) 昭和初期には、モダニズムもまだまだそんなに強くはない。様式建築を奉じる旧派から、その台頭をおさえつけられている。しかし、戦時体制はこの状況を一変させた。様式建築の装飾過多が時代の流れにあわなくなってきたのである。モダニズムの前進をはばむものはこうして衰弱した。 (120頁)

 モダニズムは戦争(総力戦)に親和的だった。*3 *4
 こうした井上の見方は、のちの著作である『アート・キッチュ・ジャパネスク』等につながっていく。

人気の正体

 一九五〇年代の人気をもたらしたものの正体が読めてくるだろう。それは、けっして、モダニストやタウ卜による啓蒙のみに由来する人気ではなかった。基本的には、拝観制限の緩和にねざしていのである。 (245頁)

 インテリのほうならともかくも、一般人にとっては、拝観制限がされると人気が下がる、開放されると人気が出る、という単純なメカニズムで説明ができてしまうのである。*5  *6

 

(未完)

*1:田中潤は、

表現主義の文脈でタウトを研究した土肥美夫は、国際様式のモダニズム美学とタウトのそれとの間には、立場の相違がかなり明瞭に表れているとし、近代建築の主流からのタウトの逸脱を強調している

と述べている(「作り上げられた『ブルーノ・タウト』」https://ci.nii.ac.jp/naid/120006713451 )。

*2:田中潤は、

彼にとって「機能」が指し示すのは、「有用性」とともに生活環境に結びついた「生物」(ein Lebewesen)なのである。また「機能」という語に関して、シュパイデルはタウトが建築と庭園の間の関係を単なる有用性の原理を超えて、暮らしの様式と結びついた特有な一連の機能の表現として考えたことを指摘している

と述べる(田中前掲)。タウトは実際はかなりオーガニックな建築思想を持っていた。

 松友知香子も次のように述べている(「ブルーノ・タウトの建築と色彩 : ベルリン近郊のタウト自邸を中心に」https://ci.nii.ac.jp/naid/120005650721 )。

芸術的な美しさや特定の様式が優先されている住宅も大量生産するために規格化された住宅もタウトには批判すべきものであった。彼の理想の住まいとは,そこに住む人の生活に一致した環境であり,健全で根源的な思考 (Die gesundenurspringlichen Gedanken) によってはじめて創造されるものであるという。この自「あらゆる内的機能と外部への影響力を備えた全体として,つまり環境,庭,風景などを包み込んだもの」として示されるべきであった。これは具体的には,周辺の環境の諸要素が,住宅を構成するものとして強調されることを意味していた。この考えは、住宅の敷地への配置,住宅の外形および外壁の色彩,内部構造に至るまで反映されている

*3:例えば、タウト「批判」で名高い坂口安吾「日本文化私観」(初出1942年)というのは、完全にモダニズム的な思考であり、実はそうした点において、じつは戦争(総力戦)に親和的な議論ではあった、と言えるだろう。

 実際、著者・井上も『日本の醜さについて』(幻冬舎、2018年)において、安吾「日本文化私観」を批判し、その「戦時体制の旗振りめいた物言い」について言及している(194頁)。そして安吾が言及した「小菅刑務所」について、著者は、そこにドイツ建築の様式的な流れがあるとして、安吾の無知を批判している(201頁)。

*4:この箇所の表現について、表現の訂正と加筆とを行った。以上2022/7/31

*5:日中鎮朗は、井上の結論を次のように要約している(「ブルーノ・タウトの〈ニッポン〉 その受容と桂離宮理解」https://ci.nii.ac.jp/naid/120001645963 )。

離宮への編入、内国博覧会の開催、戦後における拝観制限の緩和である。これらは文化史的事件ではなく、官僚の手になる行政史上の出来事であるがゆえに「文化史として桂離宮を論じるさいには軽くあつかわれ」、当然、「ブルーノ・タウトの「発見」という文化史的なできごとのほうが大きくとりあげられる」のである

*6:ちなみに、タウトが批判的に評価した日光東照宮であるが、こちらの日本近代における評価の変遷については、内田祥士「昭和初期の建築史文献に於ける日光東照宮評価 : 近代に於ける日光東照宮評価」(https://ci.nii.ac.jp/naid/110004836696 )が詳しい。ここにも、インテリと一般人、という受容の違いの構図が存在している。

冷戦において利用されかねない内容だったパル判決について -中里成章『パル判事』を読む-

 中里成章『パル判事 インド・ナショナリズム東京裁判』を読んだ。 

パル判事――インド・ナショナリズムと東京裁判 (岩波新書)

パル判事――インド・ナショナリズムと東京裁判 (岩波新書)

 

  内容は紹介文のとおり、

パルの主張をどうみるか。その背景に何があるのか。インド近現代史を研究する著者が、インドの激動する政治や思想状況の変遷を読み解きながら「パル神話」に挑む

というもの。
 とりあえず、パル判事*1について知りたい人は、まずこれを読めばよい。*2

 以下、特に面白かったところだけ。*3

自身の研究との齟齬

 しかし国家主権を乗り越えて「真の国際平和のための機構」をどのようにして構築するのか、その道筋が全く示されておらず、理想を実現するのは難しいから、現実を受け入れるほかないという現状維持論に陥ってしまっていた。 (121頁)

 パルは保守的な法実証主義者とよくいわれる。
 それは、上記のような彼の「判決」を通しての印象であろう。
 しかし、パルの研究業績に照らしてみると、彼はヒンドゥー法史の研究では法社会学的あるいは社会進化論的な立場を採用しており、社会の変化とともに法も変わっていくとしていた。
 つまり、彼の研究成果と東京裁判での彼の判断との間で、齟齬が見られるのである。

 この引用したくだりでは、法の不遡及の原則が英米法では弾力的に解釈を行っているのが現実である旨も述べられている。
 それは次の話につながる。*4

事後法批判、とは何だったのか

 パルのいわゆる「無罪論」が「通例の戦争犯罪」といういちばん分かりやすい犯罪のところで破綻し、筋の通らない言い抜けになってしまっていることは、記憶されてよいであろう。 (130頁)

 ドゥーリトル空襲*5の後に、日本政府は空襲に関する軍律を定めた。
 その爆撃機が墜落して捕虜になった搭乗員を戦争犯罪で裁き、死刑や禁固刑に処することができるようにしたのである。
 結果、ドゥーリトル空襲に関しては、事後法による裁きとなったのである。*6
 日本側の捕虜に対する軍律会議は、死刑優先の厳罰主義が貫かれ、裁判手続きでは弁護に関する規定を欠いていた。
 運用の実態としては、残酷な取り調べや虐待が行われ、多くの場合軍法会議を開かずに即決処刑がなされたり、銃殺という規定になっているにもかかわらず、斬首による処刑がなされたりした。*7
 だが、パルは先の事後法批判を棚に上げて、その軍律は「悪意」に基づいて事後的に制定されていないから被告人に刑事責任を負わせることは出来ないとした。
 また、日本内地で起こった事件は「情勢が極度に混乱していた」1945年に起ったから問題ないとした。

 パル判決というのは、こういう点が、随分と杜撰なのである。

中国ナショナリズムへの冷淡さ

パルは、中国ナショナリズムに対する共感などまったくと言ってよいほど見られない法律論を、展開するのである (135頁)

 中国のボイコット運動開始の1905年には、ベンガル分割反対運動において、多様なボイコット戦術が展開されていた。*8
 にもかかわらず、パルは中国のボイコット運動には冷淡であった。*9
 著者によると、こうした中国(民族主義運動)に冷淡な傾向は、ベンガルの「郷紳」*10 *11の保守派によく見られるものだったという。*12 

冷戦に利用されそうな論理

 実は、こういう意見書の読み方は、ジャーナリストの間にもあった。アメリカのジャーナリストのコステロは、ウィロビーとは正反対の立場からであるが (161頁)

 GHQ参謀第2部部長のウィロビーは、パル意見書を支持した。
 彼は反共主義の立場から、戦犯容疑者の釈放を主張していたのである。
 対して、アメリカのジャーナリストだったウィリアム・コステロは正反対の立場から、パル意見書を読んでいた。*13

 パルが自衛権を絶対化し、当事国の判断だけで(主観的に脅威を感じているだけで)自衛戦争を起こせるとしたこと、そして、共産化の恐れのある国に干渉する権利があるとしたことにコステロは注目し、皮肉を込めて次のように指摘する。
 ならば米国は今日、ギリシャやトルコや中国、ドイツに日本に朝鮮に、干渉する権利を持っているのだ、と。
 戦争違法化の流れに逆行するパルの論理は、しかし、冷戦や膨張主義の論理に容易に転用できるものであった。*14

東京裁判研究会」の実態

 戦犯法的研究会とは別に東京裁判研究会というものがあることにして、『共同研究』を出版したのである (218頁)

 『共同研究 パル判決書』で知られる東京裁判研究会であるが、その実態は戦犯法的研究会という研究会という研究会であった。
 その戦犯法的研究会は、法務省大臣官房司法法政調査部が設けたものである。*15
 座長の一又正雄は、外務省嘱託として39-48年まで活動しており、八紘一宇を指導理念とする「日本的国際法観」を樹立せねばならないと説いたり、満洲国は「東亜新秩序建設の試金石」と説いたりしていた過去がある。*16
 『共同研究 パル判決書』は研究上参照される書物であるが、一応の注意点として、書いておく。*17

 

(未完)

*1:「パル」という呼称は、ベンガル語での発音や遺族の意向等に依るという。もちろん、本稿もこの著者の方針に従い、原則「パル」と表記する。。

*2:本書を読む際は、他に著者の書いたもの、例えば、「書評 中島岳志著『パール判事 -- 東京裁判批判と絶対平和主義』」や「 「パル判事」を上梓するまで (講演)」等も、ぜひどうぞ。https://ir.ide.go.jp/index.php?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_snippet&pn=1&count=20&order=16&lang=japanese&creator=%E4%B8%AD%E9%87%8C+%E6%88%90%E7%AB%A0&page_id=39&block_id=158 

*3:東京裁判については、最近出たデイヴィッド・コーエン/戸谷由麻『東京裁判「神話」の解体』もぜひ読んでおきたいところである。特に、これまで見過ごされてきたウェブ裁判長の判決書草稿を再評価し、その判決書が他の判事たちのものに比べてはるかに筋が通っている(法的な完成度が高い)点を指摘したのが、最大の読みどころである。その中で今回は、一点だけ触れておきたい。

しかし裁判所は、ヴァイツゼッカーの言葉は「信じる」としながらも、それは大虐殺に加担することを正当化する何らの弁明にならないとして、退けている (当該著254頁)

従来の東京裁判論では、広田と重光に対する有罪は不当だったという見方が一般化している。しかし、同時代のニュルンベルク裁判やニュルンベルク継続裁判と比較すると、元外相の有罪判決は決して異例ではなかった。「諸官庁裁判」では、重光より下位のエルンスト・フォン・ヴァイツゼッカー(元大統領ヴァイツゼッカーの父)も、有罪判決を受けている。彼は、日本でいうならば、外務官僚トップのキャリアの官職にいた。ヴァイツゼッカーは、ソ連ポーランドで行われた虐殺やその他残虐行為に対して責任があると判断された。犯罪が侵されていると知った後にもかかわらず、辞任しなかったからである。彼自身は、反ヒトラー運動に寄与するために政府に残ったのだ、としたが、裁判所はそれでもなお、最終的に退けたのである。ここで重要なのは、知った後どう行動するかが問われる点である。

 これは現在のわれわれにとってもなお、注目すべきことと思われるので、一応書いておく。

*4:小暮得雄「刑事判例の規範的効力 罪刑法定主義をめぐる一考」(https://ci.nii.ac.jp/naid/120000954201 )が述べるように、

コモン・ローを基調とする両国に、法典国の意味における罪刑法定主義、すなわち罪刑の前提として成文の刑罰法規が存しなければならない、との意味における罪刑法定主義を期待できないことは、あらかじめ自明といえよう。

もちろんこの事実は、小暮論文がさらに続けて述べているように、罪刑法定主義英米法に存在しない、というようなことを意味するものではない。ただ、島田征夫は

人間が,すさまじい力を持つ国家権力との闘争において最も力づけられた思想とも言えるであろう。その意味では,単に「犯罪なければ刑罰なし」の標語は,あまりに内容を単純化しすぎていると言わざるをえない。罪刑法定主義の思想、の根本には,正義の実現という法の目的が存在することを見逃してはならないのである

として、罪刑法定主義国際法に適用することの限界について述べている(「東京裁判罪刑法定主義https://ci.nii.ac.jp/naid/120003142851 )。

*5:いうまでもなく、この空襲は多くの民間人をも巻き込むものであった。

*6:

1942年4月18日、日本本土に初めての空襲があった。指揮官の名を取ってドゥーリトル空襲と呼ばれる空襲である。その爆撃機のうち一機が撃墜され、一機は日本陸軍の支配地*1に不時着し搭乗員八名が日本軍に捕獲された。/その八名の搭乗員の処遇をめぐって軍上層部*2で議論が生じた。

そして、「八名のドーリットル空襲隊員をふくめ、広く、今後予想される捕獲搭乗員を対象とした規則」はなく、「捕獲搭乗員を処罰しようとする場合、かれらに捕虜の身分を与えてはならないことになる。捕虜としないで処罰するには、根拠となる新たな規則が必要だった」ため、こうした規則を(事後的に)設けたのである。以上の内容は、「空襲軍律 その一」(『bat99のブログ』https://bat99.hatenablog.com/entry/20061109/1163086528 )からの引用・参照となる。

 また、次の「空襲軍律 その二」(https://bat99.hatenablog.com/entry/20061113/1163429340 )で、「復員庁第一復員局」は、極東国際軍事裁判の論理(「行為が不法ならのちに罰則を設けて処罰してもかまわない」)を逆手にとって、事後法の件を弁明した、という説を紹介している。もちろん、日本側の軍律会議は、のちの述べるように、「裁判手続きでは弁護に関する規定を欠いていた」などの点において、その法的プロセスは、極東軍事裁判と比較してもなお、かなり怪しいわけだが。

*7:立川京一「旧軍における捕虜の取扱い : 太平洋戦争の状況を中心に」(『防衛研究所紀要』. 10(1) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1282366)も、

終戦までに、捕獲された連合国軍航空機搭乗員約530人のうち、約100人が定められた手続きに従って軍律会議に付されている(92)。しかし、軍律会議を経ずに処断されているケースも少なくない。とくに、終戦が近づくにつれて、その傾向が増した。  (引用者中略) このように、数多くの捕獲連合国軍航空機搭乗員が軍律会議を経て、あるいは、そうした手続きを省略されて、多くの場合は斬首によって殺害されている。捕獲連合国軍航空機搭乗員の取扱いがとりわけ残酷であったのは、通常の捕虜に対する軽蔑の観念に、復讐心や怨嗟が重なったためであった。また、いずれ死ぬ運命にある者という共通認識もあった。

という点は認めている。

*8:ボイコット運動によりベンガル分割は阻止されることとなった。

*9:千田孝之氏は、本書書評において、パルの中国に対する見方を次のように要約している(https://sendatakayuki.web.fc2.com/etc5/syohyou294.html )。 

「中国が内乱によって絶望的に無政府状態に巻き込まれたとき、その国民は国際法の保護を得るのは極めて難しい」という。そして「1937年の国共合作が日本の対中国戦争を誘発した」と因果関係を全く逆転した見方をしている。そして極めつけは中国が日本への抵抗運動として日貨排斥運動をおこしたことを「このような国際的ボイコットはまさに国際的不法行為である」とまでいうのである。

*10:植民地インドで中間層で、特に英語教育を受け専門職・行政職につく階層を指す。パルは地方の農村中間層から出世して、郷紳となった。詳細は本書参照。

*11:なお、郷紳は、現地の言葉では「ボッドロロク」(「バドラローク」)と呼ばれる。安見明季香「近代インド美術における民族主義とアカデミズム」(https://ci.nii.ac.jp/naid/120005572376 )によると、

タゴール家は当時のインドで最も栄えた家柄の一つであり,カーストでは上位のバドラローク(bhadralok)にあたる。タゴール家はヒンドゥー教の一族で,一族の中でその宗派は二つに大きく分かれていた。ブラフモ(Brahmo)と呼ばれるヒンドゥー教改革派と,古くから続く伝統的なヒンドゥー教から派生した一派である。

とのことである。なお、ノーベル文学賞受賞者のラビンドラナート・タゴールは、家系的に前者に属する。

*12:かつて家永三郎は、パルの中国革命に対する反感に納得できる説明がないので、何らかの理由で、パルが反共思想を抱いていたのだ、と推定していた。本書『パル判事』によって、その背景が確かめられた、と言えよう。家永のパル評については、家永三郎十五年戦争とパール判決書」『評論1 十五年戦争』(家永三郎集第12巻)岩波書店、1998)を参照。

*13:W・コステロ「戦争は果して追放されたか」(『世界』、岩波書店、1949年6月号)。なお、『思想の内乱』という著作が同じく1949年に板垣書店から出版されている。この書物の内容については、目次(https://iss.ndl.go.jp/books/R100000039-I001867152-00)を
観ればおおよそ察しはつくだろう。一方、本書について、渡辺一夫は、コステロ氏の日本観はむしろ親切すぎると評している(「『思想の内乱』(コステロ氏著)を読む」『架空旅行記など』1949年、160頁)。

 コステロの当該論文は、過去に、家永三郎・マイニア論争の際に、家永が参照している(詳細、『家永三郎集 第12巻』を参照)。念のため。

*14:軍事的脅威のみならず、経済、政治、イデオロギー上の脅威が正当な自衛権発動の理由になりえるか、という論点については、東京裁判より以前に、既にニュルンベルク裁判で否定されていた(戸谷由麻『東京裁判みすず書房、2008年。以下、頁数は新装版(2018年)のものに従う。)。

 例として、アインザツグルッペン裁判を戸谷は挙げている(315頁)。

*15:千田孝之氏は、先に紹介した本書書評において、以下のように経緯をまとめている。

1966年東京裁判研究会編纂「共同研究 パル判決書ー太平洋戦争の考え方」は一又正雄、角田順、阪埜淳吉の解説が入っている。ところがこの東京裁判研究会には実体はなく、法務省大臣官房司法法政調査部が設けた戦犯法的研究会が「戦争犯罪およびその裁判の法的研究について」という研究を行なったものを、私的に不透明な形で刊行したようである。戦犯法的研究会の研究者とは一又正雄、角田順、阪埜淳吉、奥村敏雄の4名である。戦犯法的研究会の基本的な態度は、太平洋戦争を正当化する流れにあわせて出版する意図は明らかであった。この本の出版にあわせて1966年パルを招待する計画が持ち上がった。一又正雄が佐山高雄に相談し、岸信介が500万円を用意した。清瀬一郎が羽田に迎え、石井光次郎法務大臣の推薦で日本大学名誉博士号を授与された。岸信介清瀬一郎の申請でパルに勲一等瑞宝章が贈られた。

*16:佐藤太久磨は、一又について、「最終的に『大東亜国際法』理論の直接的な担い手として言葉を紡ぐに至った」と評している(佐藤太久磨「主権的秩序をめぐる二つの法理(2)」https://researchmap.jp/maro-1982/ )。もちろん、明石欽司が指摘するように、

日本における近代国際法受容という歴史的過程の中で、大東亜国際法理論の構築は、日本の国際法研究者が、近代国際法(学)の充分な理解の上に、理論的独自性を発揮しようとした試みであったと評価できることになる。我々は大東亜国際法理論を、単なる日本の膨張政策の正当化理論であり、日本の国際法(学)史における異常現象として、無視することは許されない

というのは事実である(「「大東亜国際法」理論 日本における近代国際法受容の帰結」https://ci.nii.ac.jp/naid/120005653124 )。もちろんこれを、「近代の超克」の栄光と悲惨、というふうに言い換えることもできるような気がするのだが。

*17:なお、既に戸谷由麻が指摘していることであるが、田岡良一は『共同研究 パル判決書』のなかで、パル意見書を称賛しつつも、パルの自衛権解釈については留保し、自衛権行使は完全に国家の自由に任されているのではない旨を述べている(戸谷『東京裁判』345頁)。該当な文は以下の通り(田岡良一「パル判決の意義」http://ktymtskz.my.coocan.jp/cabinet/tokyo.htm#43  )。

自衛権は、そのようなことをしている暇のない急迫した事態において、個人が行使することを許された権利だからである。/その意味で「自衛権をいつ行使するかは個人の判断によって決定してよい」といわれる。/しかしかくして行使された自衛権が、正当な限界を超えていなかったかどうかは、社会の判断に付せられねばならないことである。

 『共同研究 パル判決書』のような書物においてさえ、そういった点は指摘していた、というのが重要である。

 もちろん田岡は、先の一又正雄らとは、立場を異にする人物であることは言うまでもない。この田岡の姿勢自体は、良くも悪くも、戦前の論文・「疑ふべき不戦条約の実効」(1932年)から変わっていないように思われる。じっさい田岡は、先の「大東亜国際法」理論等については否定的な見方をしていたようである。詳細、田岡の論文「国際法否定論と将来の国際法学」1942年 を参照。

性教育は市民教育であり、その国の市民社会の成熟度を測る重要なバロメータ -橋本紀子 (監)『こんなに違う!世界の性教育』を読む-

 橋本紀子 (監)『こんなに違う!世界の性教育』を読んだ。 

こんなに違う!世界の性教育 (メディアファクトリー新書)

こんなに違う!世界の性教育 (メディアファクトリー新書)

 

 内容は、紹介文のとおり、

 日本では、男女別にひっそりと教えられ、その実態が明らかにされてこなかった「性教育」。人種や宗教、社会が抱える問題が異なる世界の国々では、どのような性教育が行われているのだろうか? 性教育の各国比較研究の第一人者である橋本紀子氏のもとに、各国の事情に詳しい研究者が集結。

という内容。
 比較性教育(政策・制度)の試みとして、大変興味深く読んだ。
 以下、特に興味深かったところだけ。*1

時間数が足りない

 中学校で性教育にあてられる授業の平均時間数をまとめたものです(2007年筆者ら調査)。これを見ると、中学の各学年での平均はそれぞれ3時間前後。3学年の通算で9時間弱です。 (237頁)

 日本の中学校での性教育の授業時間についての話である。
 著者によると、「フィンランドの中学校では年間17時間、韓国では年間10時」とのことで、日本での短さがうかがえる。*2

性教育は「市民教育」

 相手の行動や態度についてとやかく言う「YOUメッセージ」よりも、自分の考えを率直に言う「Iメッセージ」のほうが相手にとって受け入れやすいことを教えます。  (246頁)

 栃木県宇都宮のある公立学校において行われている「性教育」の一例である。
 性教育というものが、こういった人間関係のやり取りの仕方をも含むものであることがよくわかる例である。*3
 性教育は市民教育でもあるのだ、と改めて思う。

性教育はその国の市民社会の成熟度を測る

性教育を受けた脱北者女性320人を対象にした調査では、彼女らの平均年齢は34.9歳で、30代が43.1%と最も多かったとか。 (引用者中略) 学歴でいえば、対象者の99.4%が北朝鮮で教育を受けた経験があり、そのうち90.9%が高等中学校(日本の高等学校に相当)卒業以上 (引用者中略) 性教育を受けたことの有無でいうと、94%は性教育を受けたことがないと答えました。 (225頁)

 脱北後に女性たち性教育を受けることとなった。*4
 大半は性教育を受けておらず、特に約半数を占める未婚者は、妊娠や出産についての知識が乏しかったという。*5
 性教育は、その国の市民社会の成熟度を測る重要な要素でもある。

(未完)

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*1:余り他国の性教育事情について触れられなかったが、それらについては、各自、本書をご一読あれ。もっと専門的に知りたい人は、橋本紀子「ジェンダーセクシュアリティと教育 : 海外の性教育関連教科書から日本の性教育を見直す」https://ci.nii.ac.jp/naid/120005689873 等をどうぞ。

*2:橋本紀子ほか「日本の中学校における性教育の現状と課題」(https://ci.nii.ac.jp/naid/120005408557、2011年)は、「年間計画の有無にかかわらず、3学年で確保された時間数は平均 9.19 時間であり、2006 年時、フィンランドの基礎学校 7~9 学年における性教育の合計時間 17.3 時間の半分にしかあたらない」と指摘している。また、

性教育に含まれている内容を見ると年間計画の有無にかかわらず、「思春期の身体の変化」「妊娠・生命の誕生」「性感染症」は、80%以上を占めているが、「自慰」「避妊法」「性に関する相談先」は 40%以下、「さまざまな性」は 10%以下である。

と日本の性教育の問題点についても言及している。

*3:先の橋本(ほか)論文は、

年間計画有無別では、「性行動と自己決定権」「自分と相手を大事にする交際」「氾濫する性情報への対処」「男女の平等と性役割観」「いのちの尊さ」の項目で有意差(p<0.001)が見られ、年間計画を作成している学校の方が、高い割合を示している。

と述べている。この場合、「Iメッセージ」といったものは、広義の「自分と相手を大事にする交際」に当たるだろう。

 なお、Iメッセージという言葉は、それなりに歴史は深いようで、1960年代に、臨床心理学者のトマス・ゴードンの提唱した概念であるという。 以下、町田まゆ(ほか)「デートDV予防のための中学校家庭科における授業開発」(https://ci.nii.ac.jp/naid/120006398853 )から引用する。

I メッセージとは I を主語にし、自分の感情を素直に伝える開かれたメッセージである一方、YOU メッセージとは YOU を主語にし、相手を解釈、非難・判断・指示するなど、行動を規制しようとする意味合いの強いメッセージである。これらは、もともと臨床心理学者のトマス・ゴードンが親子関係のコミュニケーション改善に提唱した技法であったが、後に、親子関係だけではなく、人と人とのあらゆる関係に適応できると評された技法である

*4:ヒューマン・ライツ・ウォッチは2018年、北朝鮮における政府関係者による女性への性暴力の背景について、「こうした問題の原因には、社会に深く根づく深刻な性格差のパターンや性教育の不在、性暴力に対する認識の欠如などが一部にある」と指摘している(https://www.hrw.org/ja/news/2018/11/01/323801 )。

*5:もちろんこうした事態は対岸の火事というのではない。「1999 年の手引き以降、文部科学省性教育を体系的に示していないばかりか、学習指導要領においても性教育という言葉は一切使用していない」日本は、「韓国、台湾、中国という東アジアの国々からも大きく立ち後れている」という2014年時点での指摘は記憶されねばならない(以上、田代美江子「東アジアにおける性教育の制度的基盤 韓国・台湾・中国と日本」『現代性教育ジャーナル』No.36(2014年3月15日発行)https://www.jase.faje.or.jp/jigyo/kyoiku_journal2014.html )。

星岡茶寮においては、牛肉のすき焼きは提供されなかった、ということらしい。 -『魯山人と星岡茶寮の料理』を読む-

魯山人星岡茶寮の料理』(柴田書店)を読んだ。

魯山人と星岡茶寮の料理

魯山人と星岡茶寮の料理

 

 内容は、おおざっぱにいうと、解説文にある通り、

カラー頁では戦前の婦人雑誌のレシピで再現する星岡茶寮の料理、現代の料理人が魯山人作の器に盛るといった料理企画、星岡茶寮のパンフレットや販促材料などを紹介。モノクロ頁では資料編として、料理を中心として魯山人の半生を探るとともに、魯山人が料理について語った新資料やレシピを採録

といった内容。

 今回は、モノクロ頁の部分のみを取り上げることにする。

 以下、特に面白かったところだけ。

もっと材料の本来の味を活かせ by 魯山人

 これからはもっと材料の本質を生かして技巧も大切ではあるが、本来の味を失わぬよう調理すべきである (125頁)

 「日本料理の本質とその欠点」(北大路魯山人)より。
 日本では野菜を軽視しているが、野菜くらい貴いものはない。
 また、日本料理はあまりに材料より技巧に重きを置いているが、その結果今日の衰退を招いたのだ、と魯山人は書いている。
 魯山人に言わせれば、当時の日本料理は材料本来の味を生かしていなかったのである。*1
 現在の日本料理に対する語られ方とはずいぶんと違うものである。
 出典は大正14年(1925年)の「婦人画報」。

中華風の料理を出していた魯山人

 恐らくこの頃がターニングポイントだったのではないだろうか。 (102頁)

 かつて、魯山人は、中華風の料理を出し、中華風の装飾に凝っていた。*2
 だが、器は染付や色絵の磁器を手掛けていたのが、土物主体に傾斜していく。
 昭和5年には荒川豊蔵が美濃で織部や志野を焼いた窯を発見し、魯山人が発掘に乗り出す。
 この頃には、中国文化から脱却していたと本書は見ている。*3

牛肉のすき焼きは提供されなかった?

 星岡茶寮においては、牛肉のすき焼きは提供されなかったと想像される (113頁)

 魯山人といえばすき焼きであるが、星岡茶寮では提供されなかったのでは、と。
 新聞広告などに歌われてきた名物料理は、スッポンと狸汁である。
 また、『星岡』誌に不定期に載るその月の使用素材リストに、鴨肉と猪肉はあっても牛肉は一切登場しないという。*4

 

(未完)

 

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*1:木下謙次郎『美味求真』(1925年)は、日本の料理は材料の本来の味をロクに吟味せず、料理に補助味砂糖のようなものを乱用している、と批判している(256、257頁)。魯山人とおよそ同時期の似た意見である。

 一方、金原省吾『表現の日本的特性』(1936年)には、1935年12月号の『星岡』に掲載された大村正夫「日本料理の味」が引用されている(138、139頁)のだが、大村によると、日本料理は材料を活かすことに力を入れ、「支那料理」や「西洋料理」とはそこが違う旨が述べられている。この大村は俳優ではなくて、医学博士のほうであろう。日本料理も十年で随分と出世したものである。

 東四柳祥子は、1926年の波多野承五郎『古渓随筆』には、日本料理は材料にわずかに手を加えるだけで完成する「生地料理」だとする言説がみられることを、指摘している(「「日本料理」の誕生」(西澤治彦編『「国民料理」の形成』)、2019年、168頁)。日本料理のこの手の「再評価」は、このあたりからのようだ。

*2:もちろん、真鍋正宏が述べるように、ある時期まで魯山人が中華風料理に凝っていたことは(白崎秀雄が書いているように)周知の事柄ではある(「大正の美食/谷崎潤一郎『美食倶楽部』 食通小説の世界(4)」https://ci.nii.ac.jp/naid/120005630881、107頁 )。

*3:「料理と食器」(1931年)https://www.aozora.gr.jp/cards/001403/files/50008_37774.html で魯山人は、以下のように述べている。

わたしの見解をもってすれば、中国料理が真に世界一を誇り得たのは明代であって、今日でないというのは、これも中国の食器をみると分る。中国において食器が芸術的に最も発達したのは古染付にしても、赤絵にしても明代であって、清になると、すでに素質が低落している。現代に至っては論外である。むべなるかな、今日私たちが中国の料理を味わって感心するものはほとんどない。

興味深いのは、まず、当時の中華料理が否定的に言及されていることである。既にこの頃は彼の中でかなり「中華風」離れが進んでいたのだろう。さらに興味深いのは、明代褒め、清代批判を行っている点である。というのも、この手の趣味は、永井善久「志賀直哉『万暦赤絵』論 "古典的作家"の完成」(https://ci.nii.ac.jp/naid/120001441343 )が紹介するように、「昭和初年代は、万暦赤絵を中心とする赤絵が一大ブームとなっており、しかもそのブームは山中商会によって半ば演出されたもの」であり、

久志卓真は、「支那の陶磁の鑑賞(一九)」(『日本美術工芸』、昭二六・一二)という文章の中で、「我国には清朝宮窪の精品の真価を知る人が稀であつて、支那陶磁といふと嘉靖、万暦以外には雅味のあるものがないといふやうな偏見を持つ人が多いが、事実公平な意味で支那陶磁を鑑賞するならば陶磁工芸の頂点は康煕末、雍正であつて、そこに中心をおかなければ支那陶磁の正当な鑑賞は皿八って来ないといふことを知らねばならない」と、「私」や志賀の嗜好に典型的に窺える陶磁器鑑賞のあり方を厳しく批判している。

のである。久志のような研究者から見ると、そういった趣味は、悪し様に言えば素人めいたものだった。ただし、魯山人は、万暦赤絵より古赤絵のような、茶の趣味により近いもののほうをより好んだようであるが(魯山人「古器観道楽」https://www.aozora.gr.jp/cards/001403/files/55109_69324.html 参照)。

*4:もちろん、星岡茶寮を追放される前から、魯山人は、すき焼きの作り方について、言及している。1933年の「星岡」に載った「料理メモ」https://www.aozora.gr.jp/cards/001403/files/50011_37666.html には、牛肉屋のすきやきとして、

*東京の牛肉屋のタレは悪い。出来合いのタレの中に三割くらいの酒と、甘いから生きじょうゆ一割くらい加えること。/*ロースやヒレを食う時は肉の両面を焼くべからず。必ず片面を焼き、半熟の表面が桃色の肉の色をしているまま食べること。/*豆腐、ねぎ、こんにゃくなど、いっしょにゴッタ煮する書生食いの場合は別。/*ロース、ヒレはタレをよくつけて鍋で焼く。汁の中に肉を入れるのではない。

などとある。