まさしく、「渡辺裕の研究のおいしいところだけ載せた感じ」かな。 -渡辺裕『考える耳 記憶の場、批評の眼』を読む-

 渡辺裕『考える耳 記憶の場、批評の眼』を読んだ。 

考える耳 記憶の場、批評の眼

考える耳 記憶の場、批評の眼

 

  内容は、紹介文に、「超『音楽時評』。しなやかな研究の視座。音楽は歴史の中で生成・変容する…音楽文化時代を読む」とあるが、これではどんな本かわかりにくいと思う。
 新聞に連載された音楽の研究的エッセイで、某密林のレビューが述べるように、「渡辺裕の研究のおいしいところだけ載せた感じ」である。

 渡辺裕入門として、ぜひどうぞ。

 以下、特に面白かったところだけ。

「国民オペラ」の存在意義

「原語主義」は、ドイツの歌劇場でもアメリカ人や日本人の歌手が珍しくなくなった近年の状況と相関的に生まれた比較的新しい流れであり、「国民オペラ」の求心力の弱まった、いわば「オペラのグローバリゼーシヨン」の産物である。 (6頁)

 かつては、国民オペラを作るという「国民文化」構築が求められていたため、フランス語のワーグナーやロシア語のモーツァルトなどは普通だったのである。*1 *2
 それが演者の多国籍化などに伴い、徐々に「原語主義」が広まっていったのだ、と。*3

日常の延長上にある「戦争協力」

たぶん彼らにはことさら「戦時協力」をしているという意識はなかったのだろう。 (引用者略) 戦時体制が日常の延長の上にあり、本人が意識しないうちに訪れるものだという事実が心に重くのしかかるのだ。 (11頁)

 團伊玖磨芥川也寸志は戦前、積極的に軍楽隊に参加している。*4
 そんな彼らに対する評である。
 「戦争協力」といったものは、おおよそこのような「日常化」の延長にあり、よほど意識しない限り、取り込まれるのが普通、と思った方がよいのかもしれない。

ウィーンワルツと創られた伝統

「ウイーンっ子以外には真似できない」と言われる、独特のデフォルメを伴ったワルツの三拍子の刻み方だって、それ以前のウイーン・フィルの録音を聴いてみるとほとんどみられず、さらりと流れていってしまう (39頁)

 オーストリア併合をきっかけとする、ウィーンフィルニューイヤーコンサート誕生以前の話である。
 あのワルツの刻み方は、創られた伝統だった、ということになる。*5 *6
 もちろん著者は、創られた伝統であることに対して単純に否定的なわけではない。

戦前にあった辛口批評

 だが、大正期頃の批評記事をみてみると、それが日本人の「本来」の体質であるとはとても思えなくなる  (67頁)

 初期の宝塚、大正七年のある雑誌記事では宝塚の生徒数人が取り上げられ、人気ばかりが先行して中身が追いついていないと批判されている。
 しかもかなり口汚く批判されているのである。*7
 先人たちの批評は、今のように糖衣に包まれてはいなかったのである。

弦楽器を模倣するピアノ

 SP時代のピアノの録音を聴くと、楽譜には普通の和音しか書いていないところを崩してアルペッジョにする弾き方がよく出てくる。こういうものは十九世紀にありがちな演奏家の勝手な「弾き崩し」と思われてきたのだが、十八世紀の理論書などをみると、この慣習が、鍵盤楽器の奏法においてかつて支配的であった弦楽器奏法の模倣の名残であり、モーツァルトやべートーヴェンの時代には広く行われていたことがわかる。(88頁)

 「弾き崩し」は、18世紀には普通のことだったのである。*8

ヴィブラート奏法の歴史

 今日一般的なヴァイオリンのヴィブラート奏法は、レコード録音の出現とともに、その特性を生かす形で編み出された奏法だった (101頁)

 レコードだとその方が聞きやすかった、ということだろうか。*9

レコードが変えた感性

 二十世紀初頭の大家たちの残したSP録音には随所にミスタッチやテンポの乱れなどがあり、この時代の演奏家は皆へタクソだったのかと訝ってしまうほどだが、実のところ、レコードができて細部を繰り返し聞き返すことができるようになるまでは、弾く側にも聴く側にも、一つ一つの音にこれほど注意を払うような考え方はなかった。 (140頁)

 演奏のうまさの判断基準までもが、レコードやCDなどのメディアを通して聴く機会が増えて、変わってしまったのである。*10

 

(未完)

*1:その一例として、「山田耕筰は、啓蒙主義的な立場から国民音楽の創設を訴え、日本語によるオペラ《夜明け》(のちに《黒船》と改題、1940)をはじめとした国民オペラの作曲に執心した」のである(葛西周「地域横断的な「国民楽派」の議論に向けて─日本における関連用語の混乱を例に─」(http://www.cias.kyoto-u.ac.jp/files/pdf/publish/ciasdp49.pdf )。

*2:あまり関係のない話だが、半澤朝彦によると、

君が代は,明治期には現在よりかなり早いテンポで歌ったり演奏したりされていたが,1928年に著名な指揮者の近衛秀麿が新交響楽団(現在の NHK 交響楽団)と録音した際,きわめてゆっくりした荘重なテンポで演奏し,それがレコードやラジオで普及し,とりわけ 1940 年の皇紀 2600 年記念行事で使用されたことで演奏規範として定着した。ことさらに荘重なテンポと弾き方は,近衛が当時流行していたマーラー風の重厚な表現を目指したことから来ている

という(「グローバル・ヒストリーと新しい音楽学https://ci.nii.ac.jp/naid/120006367241 )。あれマーラーの影響か、と妙に納得したので、とりあえず引用した次第である。

*3: 

「浅草オペラ」にしても、原語上演・招聘スター歌手が基本の今日のオペラ界の常識からすれば、三流にもならない愚行ですが、同時代の世界に視野を広げると、一九世紀から各国で行われていた訳詞上演の「国民オペラ運動」の一環であったことが見えてくる。

以上、犬飼裕一「渡辺裕『歌う国民 唱歌、校歌、うたごえ』(中公新書2010年、840円)」https://blogs.yahoo.co.jp/inukaimail2003/38258125.html より引用した。本書ののちに出た渡辺著に対する書評である。著者(渡辺裕)の「国民オペラ」に対する視野の広さを示すものとして引用する次第である。

*4:芥川自身の回想によると、学校に行ったら、貼札があった。内容は、どうせ徴兵されるのだから(陸軍)戸山学校軍楽隊に志願してはどうか、というものだった。そこで芥川は志願を決めたのだという。そして当時、ピアノ等は世間では自粛の風潮があり満足に弾けなかったのに比べて、軍楽隊はその埒外であったため、音楽の勉強にはプラスだった、と芥川は回想する。以上、『芥川也寸志 その芸術と行動』(の44、45頁)に依った。そういった誘因(インセンティブ)によって彼は「戦争協力」を行ったことになる。

*5: 渡辺裕、増田聡クラシック音楽政治学』(青弓社、2005年)によると、「美しき青きドナウ」のウィーンフィル最古の録音であるヨーゼフ・クライン指揮の演奏(1924年)は普通の三拍子であり、今のウィーン・フィルっぽい演奏になるのは1942年の録音の時のものだという(42、43頁)。で、「ニューイヤーコンサート」が生まれたのは、1940年である。当該箇所の執筆は、渡辺によるものである。

*6:なお、「ウィンナーワルツの3拍子の音響的特徴 その2」というブログ記事(よこやままさお執筆・https://ameblo.jp/masaoprince/entry-12615071492.html  )によると、「ウィンナーワルツの2拍目は常に前のめりになるわけではないのです。/メロディや他の伴奏との関連があるとみられます。」とのことである。

*7:貫田優子によると、雑誌「歌劇」の投稿欄「高声低声」は小林一三創案であり、公演評や生徒評、劇団運営の仕方まで、辛口批評や毒舌を歓迎する場であり、小林一三をはじめとする劇団関係者が投稿者として名前を連ねる場であったという。そうしたファンと劇団との交流の場も、2007年頃には、あたり触りのない公演評ばかりになったという。以上、貫田「宝塚歌劇団ネット掲示板」(榊原和子(編著)『宝塚イズム1』(青弓社、2007年))に依った。

*8:三島郁は以下のように述べている(「 「ファンタジー」する演奏 : チェンバロ曲演奏考 」https://ci.nii.ac.jp/naid/110003714486 )。

十八世紀半ば以前の音楽は、通常、楽譜に記されている音符のみで演奏されることはない。奏者でもあったそのころの作曲家は、楽譜を「ラフ」にしか書かず、特定の状況における演奏行為のプロセスにおいてはじめて、音楽としてあるべき姿を作っていた

当時においては「『楽器を空虚にしないために』、和音をアルペッジョしたり、単音で記譜された音を何回も打ち直すことの必要性」があったのである。18世紀の音楽的嗜好はこのようなものだったのである。

*9:あるウェブページによると、「ノースカロライナ大学のMark Katzによれば、20世紀前半にレコード録音が始まったことも無視できないという。彼によれば、録音における臨場感の欠陥を補うために、ビブラート奏法がさらに使われるようになったという」(「オーケストラ演奏におけるビブラートの歴史 (1)」『Intermezzohttp://www.fugue.us/Vibrato_History_1.html )。出典は、 Capturing Sound: How Technology Has Changed Music” (2004), by Mark Katz となっている。この場合、臨場感の欠如を補うため、ということになる。また、聖光学院管弦楽団のコラム記事は、以下のように述べている(「ヴィブラートは装飾音だった (1) 」http://seiko-phil.org/2013/01/23/201735/ )。

中世初期から記述が残るヴィブラート。バロック時代には、ある種の情緒を表現するために使われました。「恐れ」「冷たさ」「死」「眠り」「悲しみ」、あるいは「優しさ」「愛らしさ」などです2。歌詞を持つ声楽曲のみならず器楽曲においても、このような情緒を強調するためにヴィブラートを使うことが許されました。つけても良いのは、アクセントがある長い音だけ。装飾音の一種と捉えられていたのです。音を豊かにするためという現在の目的とは、全く違いますね。

ヴィブラート奏法については、部分的な装飾の一種として用いられるケースと、曲において音を豊かにする目的で恒常的に用いられるケースとを、わけて論じる必要がある。歴史的にいえば、前者から後者へ時代的に移行していくのが、大まかな流れとみるべきだろう。あくまでも、大まかな流れ、であるが。

*10:こととね『グレン・グールドの音楽思想』は、グールドの音楽思想について次のように述べる(https://www.kototone.jp/ongaku/gg/gg2.html )。

聴衆はレコードがもたらした非一回性の恩恵によって何度でも同じ演奏を矯めつ眇めつ聴けるようになり、その聴取の際にはコンサート体験で起こり得るような、満足に音が聴き取れないという不都合さから解放される。 (引用者略) このことはグールドが音楽の細部まで聴き取る必要性を感じていたこと、またそれを聴衆にも求めていたということを示すだろう。

グールドは、レコードの可能性をこのように見出していた。すなわち繰り返し聞くことで、一つ一つの音に注意を払ってほしい、と。そして、著者・渡辺の意見に従えば、グールドが考える以前から、レコードは既に音楽に対する感性を変えていたのである。なお、同論文では

『聴衆の誕生』で渡辺裕が述べたように、カタログ的聴取、表層的聴取が横行し、良くも悪くも、それが現代の音楽状況を考える際には欠くべからざる要素となっている 

と、渡辺『聴衆の誕生』の内容に言及している。だが、テクノロジーの代表例であるレコードがもたらした聴取のあり方は、それだけではなかったのである。集中して聞くシリアスな方向性と、散漫に聞く反シリアスな方向性(ベンヤミン「複製技術時代の芸術」を想起せよ)の二つを生んだ、とみるべきであろう。

やはり、「戦争は飯をまずくする(物理)」というような話。 -斎藤美奈子『戦下のレシピ』を読む-

 斎藤美奈子戦下のレシピ 太平洋戦争下の食を知る』(のオリジナル版)を読んだ。
 (サムネイルは、現代文庫版だが。) *1

  内容は、解説文にある通り、

十五年戦争下の婦人雑誌の料理記事は、銃後の暮らしをリアルに伝える。配給食材の工夫レシピから、節米料理の数々、さまざまな代用食や防空壕での携帯食まで、人々が極限状況でも手放さなかった食生活の知恵から見えてくるものとは

 というもの。
 「戦時下」というのがどういうものか、食の視点から実によくわかる一冊である。

 以下、特に面白かったところだけ。

戦前における、料理に手間暇をかける余裕

 このイデオロギーは婦人雑誌などのメディアによって「つくられた」部分が大きいのだ。/家庭の食卓が飯と漬け物程度だった時代(地域)には、こんな考え方はどこにもなかった。裕福な家庭では炊卓は使用人の仕事だったから、主婦は自分で料理なんかしなかったし、忙しい農家や商家では、主婦も大事な労働力だから、炊事なんかに時間を割いてはいられない。料理に手間暇かけられるのは 夫は外で働き、妻は家事に専念する、新しい都市型の核家族にだけ可能なこと。 (32頁)

 核家族と専業主婦の誕生が、主婦の手料理云々という「イデオロギー」を生んだのである。
 これは、核家族化が進んで料理に手間暇をかけることがなくなっていった、という戦後の言説とは逆の現象である。*2 *3

場当たり的な政策・戦中版

 戦場の苦労をしのんで質素に暮らす日として最初は「日の丸弁当」が奨励されたが、これでは米の消費量が上がってしまう。そこで翌年、節米運動がはじまると「せめてこの日だけは米なしで暮らそう」に変更された。まったく場当たり的である。 (58頁)

 ほんとうに戦争する気はあったんだろうか、そう言いたくなるほどの場当たり的政策であった。*4

食感がない、味がない

 材料不足を補うために、なんでもかんでもすりつぶしたり粉にして増量材に使うことから来る。料理の多くはモサモサしているか、ドロドロしているかに偏る。かといって、その手間を省けば、今度は異常に固いものや筋ばったものを食べなければならなくなる。戦争は、カリッ、パリッ、サクッといった気持ちのいい食感を料理から失わせるのだ。 (引用者略) そして味がない。調味料をケチって使うから (引用者略) その上、燃料が制限されて火が自由に使えず (169頁)

 戦争は飯を不味くする(物理)。*5 *6

戦争は産業の敵

 戦争になると、なぜ食べ物がなくなるか。/ひとつめの理由は、すべての産業に軍需が優先するからだ。男たちは戦地に召集され、戦地に行かない男女は軍需産業に駆り出され、繊維工場や食品工場など、日用品を作る工場もことごとく軍需工場に転業させられた。農村の人手は手薄になり、それまで伸び続けていた米の生産量は、一九四〇(昭和一五)年をピークにとうとう減少に転じた。 (175頁)

 戦争は産業発展の敵なのであった(知ってた)。*7

 

(未完)

*1:そのため、以下の頁はすべて、オリジナル版の方に依っている。

*2:「『核家族社会』になり、失われたものは『手』です」といった言説がその一例である(「シュガーレディの食育かわら版 第十一号」)https://www.sugarlady-net.jp/official/shokuiku/images/kawaraban/11.pdf 

*3:古家晴美は、ある本の書評にて、次のように述べている((「矢野敬一 著「家庭の味」の戦後民俗誌 -主婦と団欒の時代-」https://www.tsukuba-g.ac.jp/library/kiyou/2017/12FURUIE.pdf )。

戦局の悪化による米不足で、白米の「代用食」として脚光を浴びた「郷土食」は、全国的規模の食糧調達システムの末端に位置づけられ、国家総動員体制が家内領域にまで及ぶ。しかし、このような外部からの「主婦役割」の要求は、過酷な肉体労働(農作業や様々な家事)に従事し経済的なゆとりも欠如していた戦前・戦中期の農村女性にとって、実現困難なものであった。 (引用者略) 普及員の指導により、生活改善実行グループが結成され、自給やその食品加工活動を通し、高度成長期の豊かな消費生活を享受する一歩が踏み出された。これらの活動を通し、「主婦」役割の規範が提示され、村内での家格を示す公的なシンボルであった味噌は、「家庭の味」としての家内領域の問題に取り込まれて行く。

 「主婦役割」の規範の広がり、そして、手間暇かけた食事というのは、このように農村においては戦後高度成長期の出来事であった。

*4:昭和館学芸部「「昭和の『食』の移り変わり ~食卓を中心として~」の概要」によると、日の丸弁当奨励が1939年、節米運動開始が1940年である(https://www.showakan.go.jp/publication/bulletin/ )。なお、「米穀搗精等制限令」(白米禁止令)は、1939年12月に施行されている。

 なお、以上の内容については、本書(斎藤著)でも言及済みである。

*5:もちろんそれは、戦争によって加工食品は進化・成長した、といった類のこととは別の話である。念のため書いておく。

*6:ちなみに、本書56頁では、「興亜パン」(小麦粉のほか、海草粉、魚粉等をベースに、人参や大根葉などを混ぜて蒸して作る蒸しパン)の話題も出てくる。「イーストではなく、ベーキングパウダーを使うので、出来上がりは現代のふっくらしたパンではなく、モサモサした食感の蒸しパンが想像される」(栗東歴史民俗博物館「平和のいしずえ2014」
http://www.city.ritto.lg.jp/hakubutsukan/sub369.html より)。酵母を使うケースもあるようだが、そっちはともかくも、ベーキングパウダーを使う場合はかなりきつそうである。

*7:米の生産量については、「右肩上がりで増加してきた水稲の収穫量は、1933(昭和8)年をピークに停滞するようになり、終戦の1945(昭和20)年には 582万トンにまで落ち込みます」というのがより正確ではないかと思われる( 中田哲也「【豆知識】米収穫量の長期推移」https://food-mileage.jp/2018/09/02/mame-150/  ) 

若干タイトル詐欺気味な感じだが、スタインウェイの良さはよくわかる -髙木裕『今のピアノでショパンは弾けない』を読む-

 髙木裕『今のピアノでショパンは弾けない』を読んだ。

 内容は紹介文の通り、「今のピアノを知らない大作曲家達、ロボットが優勝しかねない現代のコンクール、ピアニストの苦悩と憂鬱、巨匠の愛したピアノの物語―裏側まで知り尽くした筆者だから語れる、クラシック音楽が100倍楽しくなる知識」といったもの。
 とりあえず、ピアノを弾いたことのない方でも楽しめる内容かと。

 若干タイトル詐欺気味な感じだが、スタインウェイの良さはよくわかる。

 以下、特に面白かったところだけ。

 

「ノイズ」を愛したホロヴィッツ

 ノイズを愛したホロヴィッツ (46頁)

 1883年製のスタインウェイ社が開発したピアノ「New Scale D」は、特殊仕様のため、中音域が少し鼻詰まりのような音とジーンというノイズが出る。
 これは、ピアノの前身、ピアノフォルテとそっくりの音であり、まだピアノの中音域が人間の声の役割をしていた19世紀の音である。*1
 これがホロヴィッツが最も求めていた音なのだろう、と著者は述べている。*2

「オートマ」と「マニュアル」

 低中音域の粒立ちがはっきりしていなければ、和音は団子のように潰れて聴こえ、内声の変化を付けようとして、ある音だけ強調して弾いても、何の音色の変化もなくなります。表現力は乏しい。 (引用者中略) しかしある意味、和音を無造作に弾いてもどの音も均一に問こえるということは、下手な人にはアラが目立たないので、「弾きやすいね」と言うことでもあるのです (120頁) 

 演奏者の表現力を引き出せるピアノと、そうではないために下手な演奏者でもあらが目立ちにくいピアノという対比である。
 著者は、その違いを、自動車のマニュアルとオートマの違いに例えている。*3
 小さく叩けば小さく響き、大きく叩けば大きく響く、西郷隆盛のような話である。

ボディの軽さ

 ニューヨーク・スタインウェイのボディは驚くほど軽いのです。 (139頁)

 ニューヨーク・スタインウェイの場合、音量増大のすべてを響板の反発力に頼らず、駒の上に若干緩めの張力で張られた弦をそっと載せている。
 そして、伝わった振動をボディやフレームにも共鳴させているので、ピアノ全体で鳴っていることになる。*4 *5

 

(未完)

*1:江口玲のホームページの日記(2002/06/18付)から、引用する(http://www.akiraeguchi.com/scr1_diary/200206/18.html )。

本日初めて伝説的調律師、フランツ・モアさんにお目にかかり、使用するピアノに触りました。調整をしながらモアさんは、うんうん、これがホロヴィッツの好きな調整なんだ、と一人うなずいていらっしゃいました。 (引用者中略) まず、低音域は弦の音がビンっと響き、まさに底鳴りのする音、これは想像通り。高音部はまたクリスタルクアな、こんな美しく透き通るような高音部を持つ楽器は、見たことありません。意外だったのが中音域です。ちょっとつまったような、ぽこぽこした音で、どちらかというと木質な音なのです。強いていえば、昔のフォルテピアノ。これは大発見です。現在のピアノの原型はまさに、フォルテピアノ!!そうなんです、まさにホロヴィッツが愛したピアノはフォルテピアノの末裔の特徴をはっきり示していたのでした。

なお、フランツ・モアによると、ルビンシュタインは、ホロヴィッツが求めたものとは両極端な調律を求めたのだという(吉澤ヴィルヘルム『ピアニストガイド』(青弓社)178頁)。ブログ・『HirooMikes』の、フランツ・モア『ピアノの巨匠たちとともに あるピアノ調律師の回想』(音楽之友社、1994年)に対する書評によると、「敏捷に反応するアクションを好み、彼の好み通り機能するよう鍵盤の重さを軽くしてバランスさせている/ルービンシュタインは、指にもっと抵抗があるアクションを好む」と、鍵盤の重さのことのようだ。なお、鍵盤が軽いのもフォルテピアノの特徴である。

*2:ホロヴィッツといえば、最近読んだ、津島圭佑「《展覧会の絵》に施したウラディミール・ホロヴィッツの妙技 《展覧会の絵ホロヴィッツ版の考察 」(https://ci.nii.ac.jp/naid/120006627764 )も、なかなか興味深いので是非どうぞ。

ピアノという楽器は、一度打鍵した音は減衰をたどる一方である。ホロヴィッツは持続低音を積極的に維持し、打鍵の補充やトレモロ化を行った。また、長く伸ばされる音に対して、音の波動を察知し実体化させたかのような音を施した。この対処が示すのは、楽曲への深い解釈が裏付けする想像力の必要性である。

*3:この件について、ブログ・「ピアノのある生活、ピアノと歩む人生」は、本書書評において、次のように書いている(http://2013815piano.blog.fc2.com/blog-entry-464.html )。

愛好家の立場からの感想だと、ピアノの演奏会で、ピアノが鳴らないということは最近の傾向として感じてはいた。もちろん、プロの演奏家でも・・・

鳴らない、とは、単調な音しか出ない、といった意味であろう。やはり、ピアノの愛好者にも納得できることであるようだ。

*4:大木裕子・柴孝夫「スタインウェイの技術革新とマーケティングの変遷」(https://ci.nii.ac.jp/naid/120005346920 )によると、「ボディが響板に張り付けられる.リムと外枠がひとつにプレスされるというこの特殊な方法により,ピアノ全体を響板のように響かせる効果を生み出している」とのことである。実際、同じような記述が、足立博『まるごとピアノの本』(の123頁)にもみられる。そんな理由で、スタインウェイに使用されるフレームは軽量で済む。

 なお、当該論文には、「スタインウェイ・ジャパン株式会社鈴木達也相談」の名前も見える。

*5:村上和男、 永井洋平『楽器の研究よもやま話 温故知新のこころ』(ITSC静岡学術出版事業部、2010年)によると、1900年製のスタインウェイ(Oモデル)は、脚柱を叩くと響板が「コーン」と鳴るという(64、65頁)。

「スシ」を巡って、「寿司」に対する固定観念を剥がしていく良書 -玉村豊男『回転スシ世界一周』を読む-

 玉村豊男『回転スシ世界一周』*1を読んだ。 

回転スシ世界一周 (光文社知恵の森文庫)

回転スシ世界一周 (光文社知恵の森文庫)

 

 内容は、「米は野菜? インターネットでスシ修行? オシボリで顔拭きは世界共通? ジョン・レノン・ロールって何? 日本のスシは世界でどのように食べられているのか――あくなき探求心をパスポートにして、回りに回ったパリ、ロンドン、アムステルダム、N.Y、L.A。満腹、眼福、感服の『目からウロコ』世界一周スシの旅」という内容。
 2000年に書かれた本だが、今読んでも面白い。

 「スシ」を巡って、「寿司」に対する固定観念を剥がしていく良書といえようか。*2

 以下、面白かったところだけ。 

昔は寿司はデカかった。

 もっとも、日本のスシの大きさも、昔はもっと大きかったのだそうだ。明治から昭和のはじめにかけては、1貫ひとくち半、といわれ、スシはひとくちで食べるものではなかったらしい。いまの大きさに定まったのは、終戦直後の食糧難のとき、客が持ってくる配給米でスシを握ったのがはじまりだという。 (引用者中略) 現在も1人前のスシが握りと巻きもので合計10貫(ふつう握り7貫に巻きもの半本分で3貫)とされているのはその時代の名残りなのだ。 (113頁)

 戦前の寿司はもっと大きかったが、戦後直後の食糧難で、小さくなってしまったのだという。
 ただし、この話には異説も存在する。*3 

紹興酒が出てくる背景

 私たちは中華料理を食べるときには紹興酒(老酒)を飲むものと思い込んでいるが、紹興酒は南部の酒で、北京など中国の他の地域では飲まれない。が、世界中にネットワークを持ついわゆる華僑といわれる人びとはそのほとんどが南部の広州(広東)・福建の出身であるため、彼らが持ち込んだ酒がまるですべての中華料理につきものであるかのようにに世界中で理解され (186頁)

 中華料理には紹興酒、というのは、華僑の影響ではないかとのこと。*4

アメリカのスシの「伝統」

 カリフォルニアにおけるスシの草創期、日本の海苔は貴重品で、海苔を節約するためにキュウリの桂むきで代用したことがしばしばあったそうだ。アメリカの太くて長いキュウリは太巻きにぴったりのサイズだったからだが、こんな手法もいまさらの発明ではなく、連綿と受け継がれたカリフォルニア・スシの財産なのである。 (240頁)

 カリフォルニアの寿司があんなふうになるのには、ちゃんとした背景があったのである。
 ちなみにカリフォルニア・ロールの考案者は日本人である。*5

寿司の人肌幻想

 摂氏7度とか8度とか、厳しい規制があるからこそここまで無事故でこられたともいえるのである。日本では毎年のようにスシによる食中毒があるというのに。/その意味では、むしろ日本人の”人肌幻想”のほうが問題かもしれない。/スシは冷たいからこそ、前菜として、アミューズグール(突き出し)として、酒肴として、時間とコースを問わず既存のシステムに入り込めるのである。 (261頁)

 海外のスシは冷たいが、それゆえに広まることになった。

 むしろ日本の人々のほうこそ、寿司=人肌という観念を疑った方がいいのかもしれない。*6 *7

 

(未完)

*1:Takara酒生活文化研究所から出版された2000年の版を読んだので、頁番号はこちらに準拠していることを、あらかじめお断りしておく。

*2:本書に対するAMAZONのレビューに、我が意を得たりというコメントがあったので、引用しておく。

それにつけても感じるのは、こうした新たな食文化誕生の必然性や将来性を理解しないまま、「正しい和食」を教える専門家を世界に派遣しようなどと本気で言い出す、我が祖国の了見の狭さよ。

*3:1940年の木下謙次郎『続々美味求真』は、2升で200個握るのが普通だとしている(507頁)。要は、戦前から寿司は既に小さくなっていたことになる。ただし、1930年の主婦之友社編輯局編『寿司と変り御飯の作り方』(主婦之友社)の、13頁の図を見る限りでは、寿司が今現在よりもずっと大きい。なので少なくともこの時点では、まだ一貫一口半の大きさが続いていた、と考えるべきかもしれない。

*4:海外に華僑として海へ渡ったのは福建や広東の出身者が多いのに、なぜ日本の中華料理店では、中国の酒の中でも、浙江省周辺を代表する酒である紹興酒を出すのか。

 じっさいのところ、戦前期以来、「紹興酒」が浙江省のみならず中国全土における格の高い酒として、日本でも認識されていたことが、その背景にあると思われる。

 (浙江省周辺以外での「紹興酒」の、現在における扱いについては、ブログ・「一衣帯水 中国在住料理長の中国料理あれこれ」の記事「7.中国は大きい!(2)」(https://ameblo.jp/yiyidaishui/entry-12704595671.html )などを参照。)

 たとえば井上陳政『支那内治要論』(敬業社、1888年)は、醸造酒である黄酒全般(の中でももち米を使用したもの)を「紹興酒」と呼び、その中でも紹興産が特に優れている旨を書いている(56頁)。いっぽう、外務省通商局『福建省事情』(1921年)は、当時の福建省中流以上の人は「紹興酒」を常用していたとする(65頁)が、ここでは、ほかの醸造酒(黄酒)などと区別して紹興産のそれを、「紹興酒」と呼んでいる。

 井上紅梅『中華万華鏡』(改造社、1938年)では、紹興から北京まで「老酒」が運ばれてそれが愛飲されていたことが語られている(6頁)のだが、この場合、この酒は「紹興酒」を指すとみてよいだろう。また、後藤朝太郎『支那料理通』(四六書院、1930年)の場合、山東青州など中国北方で作られるもち米を使用した醸造酒を「黄酒」とし、もち米を使用した紹興産の醸造酒を「紹興酒」とし、後者が中国の大部分に歓迎され、北方でも知識階級や上流階級で用いられ、日本に輸入される中国の酒はほとんどこれだとする(76、77頁)。この後藤の分類では、紹興以外の南方で作られたもち米の醸造酒は視野の外にある。

 上記の書物からわかるのは、紹興酒が戦前期の日本において中国の酒の中でも格の高いものとして認識されていたことである。

以上、2024/2/7に、煩雑さを避けるため、また、内容の誤りを正すため、註をまとめ、内容を大幅に添削した。

*5:サーシャ・アイゼンバーグ『スシエコノミー』に対する松本仁一の書評によると、

60年代後半、カリフォルニアの日本食レストラン「東京会館」で、オーナーの小高大吉郎は、白人受けするすしができないかと考える。板長の真下一郎が職人と頭をひねり、タラバガニの脚とアボカドをマヨネーズであえた巻きずしを考案した。これが当たった。

とのことである(http://s04.megalodon.jp/2009-0616-0921-10/book.asahi.com/review/TKY200806100138.html )。なお、「のりを内側に巻く『裏巻き』は、米国人がのりを気味悪がり、はがしているのを見た職人が思いついた」としている。

 カリフォルニアロールの考案者については、「裕さん鮨」の佐々木祐三だという説(佐々木祐三、聞き手・佐藤孝治「インタビュー 草の根から見た日米関係の戦後五〇年(4)」(『神奈川大学評論』第29号、158頁))も存在するが、真偽不明である。 

*6:いうまでもなく、寿司の人肌の温度が悪いというのではなく、それを最上とする固定観念をここでは問題視している。王利彰は、「酢飯で言えば関東は人肌で関西は冷たくても良いという微妙な温度差があるし、米の堅さ、粘り、酢の甘さ、などかなりの違いがある」と述べている(「今後の飲食店・業種・業態別動向 回転すし店の将来」https://www.sayko.co.jp/article/res-news/res-news8.html )。関東と関西の寿司の違いについて、漫画『江戸前の旬』(41巻)が合理的な説明を試みている。それは、砂糖の量と寿司の保存性とが関係しているとするものであるが、その説明がどの程度正しいのかについては今後の検証課題としたい。

*7:寿司の作り方において、人肌という言葉は、遅くとも、1936年の中原イネ子『割烹指導方案. 基本篇』(文光社)には見られる。ただし、酢飯は人肌に冷まして使用する、という文脈においてである(16頁)。あくまでも、熱い飯に酢飯をかけて、それを人肌の温度になる程度まで、握るのにやけどをしない温度まで下げる、といった程度の意味合いであって、人肌のシャリこそ旨い、というような文脈ではない。

 寿司は人肌がうまい、という主張がはっきり確認できるのは、ざっと調べた限り、内田正『これが江戸前寿司 』(筑摩書房、1995年。底本は1988年)である。遅くとも、1988年には言われていたことになる。それ以前に言われていたかどうかは、まだ調査が十分でないので、また今後の課題としたい。

日本美術は中国美術から何を学び、何を学ばずに独自の道を歩んだか、という話(主に後者) -戸田禎佑『日本美術の見方』を読む-

 戸田禎佑『日本美術の見方 中国との比較による』を読んだ。

日本美術の見方―中国との比較による

日本美術の見方―中国との比較による

 

  内容は、紹介文の通り、「日本の美術が中国の周辺地域の美術であることから、日本美術の個性・独自性を、中国美術との比較によって検証。作品に即して日中絵画鑑賞のあり方をやさしく解説、美術史の再構築を提起する」というもの。
 佐藤康宏の書評にあるように、便宜上、日中芸術がやや類型化されてしまっているが、その点を踏まえてもなお、良書というべきである。*1

 以下、特に面白かったところだけ。

リアリズムと装飾性①

 中国絵画は巨視的には、自然主義的なリアリズムが基調になっており、そのことが、水墨画を発生させ、同時に装飾性、工芸性からの訣別をももたらしたと考えられる。筆でコントロール不可能な截金は、中国ではあくまで工芸の手法であって、筆による金泥こそが絵画における金の使用の原則であった。 (63頁)

 日本絵画(界)は、水墨が光を含む空間の最も有効な表現手段の一つであるということを、十分に理解できなかった。
 すなわち中国絵画の中にある「自然主義」を十分に理解しなかったのだという。
 そんな日本では、絵画は工芸性と未分化のままに展開し、それなりに独自の洗練を獲得していった。
 截金技法を使った仏画は、その好例だという。*2 *3

リアリズムと装飾性②

 (引用者注:日本で)絵画をこのように、デザイン家具の機能と融合させてしまう発想こそ、床の間のサィズに合わせて、「廬山図」を切断した動機と通底する。 (引用者中略) 中国美術の基本に恐るべきリアリズムがあることは確かであり、それはつねに凝視されることを期恃していた。「清明上河図巻」の魚も「瀟湘臥遊図巻」の蘆も、見えるがままに画かれたというよりは、あるがままに画かれたというに近い。そして、また一見、象徴的な表現のようにみえる節略の多い南宋絵画でもその基本はゆるがない。それをさらりと表面的に受容しエモーショナルな世界に翻案したのが、擬南宋的絵画なのである。 (145頁)

 著者は、中国美術が凝視されること、そしてそれに足るリアリズム・空間性を前提にされており、それは北宋はもちろん、南宋絵画においても同様だとする。
 それに対し、日本美術は、その表面的な感覚だけを受容したとしている。
 じっさい日本では、表面的に南宋画をなぞった「擬南宋的絵画」*4が多く観賞されたという。*5
 それにしても、引用部で紹介されてる玉澗の「廬山図」の件はつくづくすごい。*6

山水と宗達

 山水的空間とは言えないとしても、宗達画のなかで自然景を表現した数少ない作品の一つ、「関屋澪標図屏風」(静嘉堂文庫美術館)における山体の描写が、琳派作の「蔦の細道図屏風」(萬野美術館)ではさらに抽象化し、"蔦の細道"という自然景観は、ほとんど草花図のモチーフを囲む枠に変容している。ここには積極的な"山水的"なものに対する拒否への展開があるとみてよい。 (123頁、一部図番号等を削除して引用)

 山水画のような空間性を宗達は受け付けなかった、と著者はいう。
 そして、宗達が写実に根差した空間性を受け入れることなく、視覚効果としての装飾性を突き詰めた点を、著者は高く評価している。*7 *8
 なお、2020年現在、萬野美術館は既に閉館し、「蔦の細道図屏風」は相国寺承天閣美術館)にある。

アクションペインティングの先駆

 つまり、中国絵画というのはある意味では大変早熟で、二十世紀の西欧の芸術家がやっているようなことを八世紀に試みてしまったわけである。この撥墨によって、水墨画は、その墨面の拡がリや濃淡の諧調というものにめざめていく。 (161頁)

 水墨は、アクション・ペインティングのような大変はげしい技法から始まり、そこから、濃淡の諧調を獲得するに至った。*9
 西洋の先を行っていた、というのが、中国絵画愛好者や研究者の自慢するところである(あるある)。

 

(未完)

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*1:「中国絵画と日本絵画の比較に関する二、三の問題 戸田禎佑『日本美術の見方』を受けて」(『絵は語り始めるだろうか 日本美術史を創る』、羽鳥書房、2018年)において、佐藤は戸田著から抜け落ちてしまっている点を指摘している。具体的には、①元・明以降の絵画への言及が少ないこと(宋代至上主義と言えようか)、②中国・江南画と日本絵画、唐代絵画と平安絵画、これらの間にある同質性に注意が払われていないこと、などである。佐藤の書評は大変ためになるので、戸田著をお読みになった方はぜひこちらもご一読を。

*2:ただし、截金の使用が必ずしも平面性(≒非自然主義)につながるわけでない点について、小林達朗が指摘している(「東京国立博物館蔵国宝・普賢菩薩像の表現および平安仏画における「荘厳」」https://ci.nii.ac.jp/naid/120006480270、11頁)。截金は奥深い。

*3:佐々木剛三「資料収集ということ」(https://www.kyohaku.go.jp/jp/gaiyou/gakusou/num011.html )によると、昭和30年頃の「当時の常識」では、截金は日本独自の技法であり、まさか中国にあるわけがない、という認識だったのだという(当該論文135頁)。実際、中国の仏画にもその技法が見られることは、過去に著者(戸田)が指摘している事柄である。もちろん、戸田自身は、「中国・宋代の仏画においても金あるいは截金の使用は限定的」とする立場である(小林達朗「研究ノート 東京国立博物館所蔵 国宝本・虚空蔵菩薩像の表現」https://ci.nii.ac.jp/naid/120006480235 、217頁) 。それに対し、さきほど紹介した佐藤康宏の書評は、そうした見方に対して反論を試みている。詳細は当該の書評を参照。

*4:南宋絵画の優品は日本にはあまりに来なかったため、その需要を補うように日本で愛好された、南宋絵画「風」の絵画。著者・戸田によると、寧波や日本で作られたと考えられる。

*5:藤田伸也は以下のように述べている(「対幅考--南宋絵画の成果と限界」https://ci.nii.ac.jp/naid/110000500108 )。

対幅絵画が日本で愛好された大きな理由は、この単純さと装飾性、そして説明的であることに求められる。 (引用者略) 大きな絵画史の流れから見ると、南末時代の対幅絵画は、三次元空間を平面上に創出することを本意とする古典的な写実主義の終焉を意味している。それは同時に、絵画の装飾性・平面性の再発見でもあった

このように、比較的本書の内容と親和的な論述である。また一方で、次のようにも述べている。

彼ら(引用者注:元代の画家たちのこと)は南宋絵画の卑俗さを否定し、対幅形式も嫌った。彼らが好んで用いた画面形式は画巻であり、それは対幅と対照的に親密な関係の少人数が鑑賞するのに適した形式であった。

こうした「六朝絵画に学んで著しく古様で、不自然なはど視点は移動する」絵によって、「南宋絵画の卑俗さからの脱却を意図」したという。こうしたことからも、やはり、元代の絵画に著者は正面から言及するべきだったのではないか、と思わなくもない。

*6:玉澗の「廬山図」について、所蔵している岡山県立美術館は、次のように解説している(http://jmapps.ne.jp/okayamakenbi/det.html?data_id=692 )。

本図がある時期切断されたものであることは、原図を写した《玉澗廬山図模本》(根津美術館)が伝えている。この模本によれば、もとは瀑布を中心とした構図であった。また、全体の表現としては、墨の暈しや滲みで形作られた山の形態に、渇筆で景が添えられていたようである。 (引用者略) 切断の経緯としては、京都・広隆寺の西林坊から佐久間将監真勝が原図を入手し、承応2(1653)年に茶掛の掛料とするため、狩野探幽と合議のうえに行ったものであるという。このとき切断して3幅としたうちの一つが本図であり、酒井忠勝の手に入った後、徳川将軍家に献上された。

 門脇むつみ『寛永文化肖像画』(の174、175頁)は、「廬山図」に関する戸田の意見に肯定的である。その意見とは、具体的には、①切断の際に探幽が加筆したことが考えられること、②「廬山図」は上下にも切断され、樹叢を隠すように農墨で塗りつぶされており、本来の空間構成では、最も手前にあった樹叢と奥の山並みが見えなくされ、微妙な筆致の違いも判別不可能となったこと、③その結果、廬山を取り巻く空気や光の表現が失われることになった(空間性が消えていった)こと、④佐久間将監らは、自分たちの絵画的趣味、つまり、「擬南宋的絵画」に見られるような、絵の「優雅な雰囲気」の方をなにより優先したこと、などである。さらに門脇は、江月宗玩の『墨蹟之写』を参照して、旧来の説について少々訂正を行っているので、気になる方はお読みください。

*7:玉蟲敏子は、「中国唐代の美術の洗礼をほとんど全身に浴びた奈良・平安時代以降、精神的であるはずの仏教美術や崇高な中国美術もまた『座敷飾』と呼ばれる室内装飾の空間に取り込まれてきた」のであり、「かざりの空間に生きることは、内部の絵画表現を損なうどころか、かえって水墨の美しさ、観音の慈悲、動物親子の情愛を引き立て、その荘重的な評価を高めていたことを忘れてはならない」と指摘している(「かざりと装飾 ――日本美術からのアプローチ――」 http://geiren.org/news/2017/03.pdf )。装飾=表層的(深みがない=非精神性)、という固定観念に気づかせてくれる重要な指摘である。そして「日本美術において装飾的であることは、精神性や聖性と対立するものではなく、それらを含めた造形藝術の全体を包み、支える基盤であった」とまとめている。琳派研究者の重要な言及として、引用しておく。

*8:ところで、文化比較の基本として、やはり対象は三つあった方がよいと思うのだが、日本と中国以外で、もう一か所、比較できる文化はないだろうか。朝鮮でもいいだろうが、他に適した対象があれば、ぜひ知りたいところである。チベットベトナムもいいかもしれない。

*9:中川真一は次のように述べている(以下、諸々の事情で、「溌墨」と書き換えて引用していることを、あらかじめ断っておく。原文では「溌」ではなく、その正字が使用されている。)。

唐代の溌墨はだいたい安禄山の乱以後に盛んになったものである。溌墨の画家として王洽、張志和らが有名であり、彼らの制作工程も注目する。封氏見聞録、唐朝名画録、歴代名画記など当時の文献には、いずれも酒を飲み酔いに乗じて絵を描く、とある。さらに笑い吟じたり、音楽や歌の伴奏に調子を合わせながら、画面に注いだ墨汁を足でけり手でなで布でこすったり、あるいは刷毛のかわりに自分の髻などを用いたりして、形を作り濃淡をあらわす。最後に筆で形を整えることもある。 (引用者中略) こうして画面に注がれた墨のかたまりが乾いて、山となり石となり雲となりみずとなっていくさまはさながら「造化のごとく」、完成した画面には「墨汚の迹」をのこさなかったという。ほとんど曲芸的な技法である。現代のアクション・ペインティングに近い感覚を、この時代の溌墨画家はもっていた。

以上、中川の「長谷川等伯《松林図屏風》における余白の考察」(http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/9386865 )より引用を行った。また、中川は、「溌墨」を使用した画家には、「安禄山の反乱以後の不安と混乱の時代の中で、官僚への任官を断念したり辞職したりして処子逸民となった人々が多かった」とも指摘しており、大変興味深い。水墨の「初期衝動」にはこんな背景があったのである。

近代的「性欲」の誕生(ともあれ、一語の辞典シリーズは、今後も読み継がれるべきである。) -小田亮『性 (一語の辞典)』を読む-

 小田亮『性 (一語の辞典)』を読んだ。

性 (一語の辞典)

性 (一語の辞典)

 

 内容は、「20世紀最大のテーマの一つ『性』。男女の性愛を表す『性』という言葉は、どのようにして生まれたか。そして『性』は、日本人の考え方・生き方をどう変えたか」というもの。
 三省堂の「一語の辞典」シリーズは、薄いのに中身は濃いことで知られているが、本書もそれにあてはまる。*1

 以下、特に面白かったところだけ。

性欲の「物象化」

 性欲という装置の成立によって、その場で終わる行為や状態としての〈色情〉は、個人の隠された内面としての〈性欲〉へと変えられていく。 (引用者略) 男色は単なるある場面・ある時の行為ではなく、そのような行為をうながす〈性欲〉をもっている個人=人格が問題視され、異性愛者とは絶対的に区分された〈性欲〉を所有する「同性愛者」というアイデンテイテイが成立する。 (62頁)

 あくまでも状態や行為であったものが、個人の属性のようなものに変化する。
 個人の中に「性」が、本質的なものとして「物象化」されていったのである。*2

性的不能という強迫観念がもたらすもの

 その根底にある男の恐怖とは、つきつめれば、性的不能などといった形で現われる、性欲を正しく使えないことへの恐怖であり、性の主体化が脅かされるという恐怖に他ならなかった。性欲の装置においては、性関係の失敗が、男にとって能力や自信の喪失に、すなわち自らを主体として確証することの失敗につながるからである。それゆえ、自分自身の性欲をもとうとしたり、いたずらに男の性欲を刺激し翻弄するような女性、すなわち男性の主体化を脅かすような女性は、「下層の粗野な女性」「娼婦」「妖婦」として、すなわち「異常な女性」として排除されなければならなかったのである。  (80頁)

 性の主体化を脅かすような女性は、「娼婦」・「妖婦」として、「異常な女性」として排除される。*3
 一方、性的な存在でも、性的要求をしない女性は、「母性」として配置されることとなった。*4

「全身的性感」に対する注目 

 中国やインドの古代文明における性愛術でも「接して漏らさず」、つまり性交しても射精しないことが重要とされていた。それは男性の養生のためと説明されているが、男性の快感のプラトー期(高原期)を生みだすための術でもあっただろう。いずれにしろ、そこでも愛撫などによる全身的性感が重視され、性器性欲が目標とする射精が必ずしも最終目標とされていなかったのである。 (113頁)

 性器性欲至上主義は、やはり近代的なものにすぎないのかもしれない。*5

 

(未完)

 

*1:個人的には、樋口陽一『人権』を特に薦めたい。

*2:杉浦郁子は、論文「「女性同性愛」言説をめぐる歴史的研究の展開と課題」https://ci.nii.ac.jp/naid/120006353594において、次のように述べている。

1960 年代に「レズビアン」は主に「人」を指す言葉となった。それは、女性間の性的な「行為」や「関係」のみならず、その関係へ誘われる「人」という存在、さらには個人の内面にあるとされる「性欲」への関心を呼び起こす。 (以上、一部を省略して引用)

このように、「レズビアン」においては、このような「内面化」現象が1960年代になって見られたのだという。

*3:先の杉浦論文によると、

ヘテロセクシズムは「男の性欲は能動的でなければならない」という強迫観念を作りだす。男の性的主体化は女を性的客体とすることに依存しているため、男の能動性に支配されない女の性欲が恐れられることになる

とのことである。なおこの論文の当該箇所では、本書『性(一語の辞典)』が参照されている。

*4:高橋由季子は、性の二重基準について、次のように要約している(「〈運命の女ファム・ファタール〉と妖精のイメージ」 http://www.danceresearch.ac/taikai/20131208_D.pdf(PDF) )。

19 世紀、ブルジョワジーが家庭に関して新しい概念を創り出した。家庭における娘(処女)、妻、母という役割に貞淑で献身的な良妻賢母像を求めた。ブルジョワ社会が模範とする女性像を「聖母」像に見出したのである。貞淑さを妻に求めた家父長制度は「誘惑するもの」として娼婦に性的魅力を求めた。性の二重基準である。性の二重基準は女性を2つのジャンル、「聖母」と「誘惑するもの」に分割した。

本書における「母性」とは、性の二重基準における「聖母」と対立しない、むしろ親和的な、濾過されたタイプのセクシャルな存在、と考えるべきであろう。 

*5:著者は、論文・「ポルノグラフィの誕生――近代の性器的セクシュアリティ――」において、以下のように述べている(https://garage-sale.hatenablog.com/entry/20111223/1324607498 )。

そのような性器的(男根的)セクシュアリティの絶対化が、男の全身的な性感と受動的な性的快楽の認知を阻害していること、そして、ポルノグラフィは男根的セクシュアリティの幻想を維持する働きをしていると同時に、ポルノグラフィの中の女の社会的人格喪失に自分の性欲を同調させるという特殊な形で男たちに受動的な性的快楽を与えているのではないか

そして、「現代男性の攻撃的・競争的な男根的セクシュアリティは、受動的・依存的な口唇的あるいは全身的セクシュアリティの抑圧によるものである」としている。

 ただし、ポルノグラフィについては、受動的であるという点はともかくも、「全身的性感」は十分でなく、この点については、ポルノグラフィだけでは解消は出来そうにないのが難点と言えようか。

大人げない諸国家の中で、国益を「合理的」に追及するということ -宮下豊『ハンス・J・モーゲンソーの国際政治思想』を読む-

 宮下豊『ハンス・J・モーゲンソーの国際政治思想』を読んだ。

ハンス・J・モーゲンソーの国際政治思想

ハンス・J・モーゲンソーの国際政治思想

 

  内容は紹介文のとおり、「ハンス・J・モーゲンソーのアメリカ亡命前から晩年までの膨大な著作を克明に検討して、その国際政治思想を『リアリズム』として捉える通説が誤りであることを明らかにするとともに、新たなモーゲンソー像を提起する」というもの。
 リアリスト()を気取る輩の多い巷間にうんざりしている人に、お勧めしたい一冊。

 以下、特に面白かったところだけ。

大人げない国家ども

 モーゲンソーが想定する国家は、相対的な地位というものに敏感な国家であり、国際紛争は亡命前の国際法研究における「緊張」の考察にあるように、どちらの地位が上であるかをめぐる潜在的な対立が、背後に存在すると想定する。逆に、国家がもっぱら生存だけを合理的に追求するのであれば、そうした紛争の余地は最小化されることが想定されている。 (291頁)

 モーゲンソーの想定する国家はある意味大人げない。
 実は臆病なくせに、隙を見てはマウンティングとかしてくる、見栄っ張りだらけの世界。
 そんな大人げないのが、モーゲンソーの想定する国際政治である。*1

国益を「合理的」に追及する

 一九四九年以後のモーゲンソーにおいて、自身が信奉する道徳法則が普遍的に妥当することを主張しつつ、実際には権力を追求する非合理的な外交が現実であり、これに対して、モーゲンソーは、外交は国益=「権力として定義される利益」―― 国家が「利用可能な権力と釣り合った利益」―― を(合理的〉に追求しなければならないという規範を対置した。この規範をいわば合理化するために構築されたのが、政治的リアリズムであった。  (引用者中略) アジア諸国における革命が本物であり、アメリカはそれを後援することが最善の政策であることを熟知していたにもかかわらず、トルーマン・ドクトリンとの矛盾を共和党右派に攻撃されたことにより、失敗することが明らかな「反革命」の政策に、一九五〇年以降転じたトルーマンマン政権のリーダーシップの弱さを批判するとともに、当初の最善のアジア政策に復帰することを促すという狙いがあった。 (193頁)

 モーゲンソーは、「道徳」と「権力」とが不釣り合いな状況に対して、「国益」を「合理的」に追及すべき、という規範を置いた。
 モーゲンソーにとっての「国益」とは規範的なものである。
 そして、ある時期から現実の政治外交に対しても提言をおこない、その際、「不合理」な「国益」追及が行われることを批判した。*2

 モーゲンソーの目指した政治的リアリズム。実際は、このようなものである。

ソフト・パワー提唱の先駆者

 特に政治的諸価値に関して、ナイは、政府が国内外でその価値に恥じない行動を実際にとっているかどうかが問われると述べている (引用者中略) したがって、モーゲンソーがアメリカに関して提起した国家目的は、政治的諸価値に基づいたソフト・パワーの知的先駆であったと見ることができる (244頁)

 モーゲンソーは、アイディア的には、ソフト・パワーを提唱した先駆者の一人に位置付けることが可能である。
 それは、ほかの論者も同意する所である。*3

(未完)

*1:渡邉昭夫は以下のように述べている(「E・H・カーとハンス・モーゲンソーとの対話」https://ci.nii.ac.jp/naid/130005156820 )。

「外交業務においては、少なくとも国民全体にとって劇的なもの、魅惑的なもの、勇ましいものは、何もないのである」と述べて、「他国家の観点から政治舞台を熟視し、自国にとって死活的でない争点に関しては、すべて進んで妥協」せよと勧告するモーゲンソー、そして更に「国家は、それが、戦争防止のために、外交を駆使した場合には、しばしば成功した。近代におい外交が戦争防止に成功した顕著な例は一八七八年のベルリン会議である」(下、三五七ページ)と言うモーゲンソーは、果たしてカーとどれほどの違いがあるのだろうか。

大人げない諸国家・国際関係の中で、モーゲンソーが説くのは「調整」と「妥協」である。

*2:大賀哲は、

たとえばこの時期、モーゲンソーはトルーマン・ドクトリンに容赦のない批判を加えているが、その批判に拠れば、トルーマン・ドクトリンはアメリカの国益を全世界に妥当する道徳的な普遍原理へと昇華させようと試みるものである。このことは、「望ましいこと」と「可能なこと」を混同するという深刻な帰結を生む。

と述べている。(「黎明期国際政治学の構想力--ハンス・モーゲンソーの国際関係思想講義から」https://ci.nii.ac.jp/naid/120000982057 )これは、「道徳」(というか「正義感」(≠「正義」) )に引っ張られて、「不合理」に至ったことへの批判とみるべきであろう。

*3:たとえば、堀内めぐみは、

上記で取り上げた国力の要素は、主にモーゲンソーの言うところの「質」の要素である。最近の用語を用いるなら、ソフト・パワーやスマート・パワーである。モーゲンソーはこれら質の要素も含め、国力の評価については、各々の要素がそれぞれに影響し合っているため非常に困難なものであると考える。

としている(「リアリストの文化的観点からの国益論再考 : ハンス・J・モーゲンソーを例として」https://ci.nii.ac.jp/naid/110009634257 )
 また、堀内は、当該論文の註16において、

モーゲンソーの想定する「国益」が、その後の相互依存時代のインターナショナル、トランスナショナルな要因に対応できる柔軟なものであったが、相互依存の裏にある南北問題についてはその視点が欠落していたと指摘している

と初瀬龍平の意見を要約して紹介している。とりあえず、興味深いのでここに引用しておく。