1910年日英博覧会の「展示」への「人間動物園」という表記の妥当性 番外編(1)(本田善彦『台湾総統列伝』)

 なにやら、「NHKスペシャル シリーズ 『JAPANデビュー』アジアの“一等国”」という2009年4月に放映された番組に対して、「抗議」云々があったそうで、wikipediaの項目を見てみました。その「批判」された点は大まかに三つ。
 ?1910年にロンドンで開かれた日英博覧会にて台湾の先住民族を「紹介」したことを、「人間動物園」と表記したことについて、「当時の日本政府が使った言葉と錯覚するように使った」という批判。
 ?「日台戦争」(乙未戦争または台湾征服戦争)との呼称を使ったことへの批判
 ?ある人物について、「中国福建省から移り住んできた漢民族」との表現を行ったことへの批判。
 今回は上の三つに対して、どのような反批判ができるのかを、すでにウェブ上で反批判を行った方の主張から「引用」しつつ、書いていこうと思います。無許可の「総括」といえましょうか。

 もちろん、総括云々などする資格はないし、要するに「論争」に乗り遅れたのに、さっきまで台湾について書いたので、じゃあ何か書こうということで、こんなものをものしているわけです。

■?にたいして■
 wikipediaには、すでに、

番組内で、1910年に開催された日英博覧会で台湾の先住民族パイワン族の生活を紹介した企画を「人間動物園」と表現したことについてNHKは、取材協力者のブランシャールの著書[59]を始めとして野生動物商人ハーゲンベックの回想録や吉見俊哉の著書[60]を参考にしたとしている[46]

と言及しています。
 まずこれは事実のようです。吉見俊哉『博覧会の政治学 まなざしの近代』(1992年)ではすでに、1889年のパリ万博の主催者たちが模倣することとなった、「一〇年ほど前からブローニュの動植物園、ジャルダン・ダクリマタシオンで行われていた展示方法」を、「人間動物園」と表記しています(「[文献紹介]『博覧会の政治学』(追記あり)」(『Apes! Not Monkeys! はてな別館』様)。むろん、これは、当時のパリ万博にも当てはまる言葉です。
 まず、ここで問題となるのは、放送の仕方の問題です。ナレーション自体は、「当時、イギリスやフランスは、博覧会などで植民地の人々を盛んに見せ物にしていました。人を展示する、人間動物園と呼ばれました。日本はそれを真似たのです。」というもので、日本は「人間動物園」を行った、という読み取りはできません。
 「歴史学者パスカル・ブランシャール氏」のコメントも、「当時、西洋列強には、文明化の使命という考え方がありました。植民地の人間は野蛮な劣った人間であり、ヨーロッパの人々は彼らを文明化させる良いことをしている、と信じていました。それを宣伝する場が、「人間動物園」だったと言う訳です。 」という風に、ここではあくまで「人間動物園」というのが西欧に対して使われていることは自明です。

 では、「人間動物園」という表現を、日英博覧会にて台湾の先住民族を「紹介」したことに対して使うことは可能かどうか、です。
 1903年の第五回内国勧業博は、「北海道のアイヌ五名、台湾生蕃四名、琉球二名、朝鮮二名、支那三名、印度三名、同キリン人種七名、ジャワ三名、バルガリー一名、トルコ一名、アフリカ一名、都合三十二名の男女が、各其国の住所に模したる一定の区域内に団欒しつつ、日常の起居動作を見する」という、「パリ万博やアメリカの博覧会における原住民集落と同様の差別主義的なまなざしの装置」と説明されます(上記「[文献紹介]『博覧会の政治学』(追記あり)より引用・孫引)。
 「各其国の住所に模したる一定の区域内に団欒しつつ、日常の起居動作を見する」という「生活」を展示しており、これは「差別主義的なまなざしの装置」だったわけです。だとすると、同じ条件(「日常の生活」を展示する差別)を満たす以上、1910年の日本が行った「展示」にも、十分「人間動物園」という表記が当てはまるでしょう。
 上記「[文献紹介]『博覧会の政治学』(追記あり)」のページにて、ni0615様もおっしゃっているように、「博覧会場に住居をつくってそこで生活させたのが1910年の日英博覧会」であり、「生身の人間の展示」であって「民俗芸能の出演」ではないわけです(問題は「生身の人間の展示」という点であることに、注意してください)。その点で、「もし、「人間動物園」なんかではありえないとすれば、なぜ、日本本土の純粋日本人の家族のありさまを、同様に「生活展示」しなかったのでしょうか?」という言葉は、大変説得的なのです(「人間動物園」、台湾先住民は出演者に過ぎないのか?」(『安禅不必須山水」様))。

 さらに、以下の点にも注意しましょう。
・この「台湾村」の展示について、朝日新聞記者として特派された長谷川如是閑は、「之を多くの西洋人が動物園か何かに行ったやうに小屋を覗いて居る所は聊か人道問題にして、西洋人はイザ知らず日本人には決して好んでかかる興行物を企てまじき事と存じ候。」と述べています。「人道問題」という認識を当時の日本の知識人たる長谷川は持っていたようです(同前)。
・日本政府は展示について、英国政府に立案を英人「シンジケート」に全面的に委託したが、その際、「方針としては「本邦の品位を損するものは一切之を許容せさること」とし、委託した博覧会事業者の希望を考慮した上で「台湾生蕃の生活状態」を含む8項目の「余興」を容認したと、後に書かれた『博覧会事務局報告』は記している。 」(wikipediaの「人間動物園」の項目より)。ゆえに、長谷川の上の発言「西洋人はイザ知らず日本人には決して好んでかかる興行物を企てまじき事と存じ候」というのは、半ば不正解なのです。

 以上より、「人間動物園」という表記が、1910年にロンドンで開かれた日英博覧会での台湾の先住民族の「展示」にも適用は十分妥当であるということは分るかと思います。となると問題は、

パイワン族は村長は、「我々の文化を海外で紹介されたことは、現在でも村の誇りとして語り継がれている」とし、そのような感情を番組で紹介されることはなく[58]

という、ずばり、wikipediaの「NHKスペシャル シリーズ 『JAPANデビュー』アジアの“一等国”」の項目(上記参照)のことです。
 参加者は確かに、「報酬とチップを合わせると帰国後一年間働かなくてもよい収入があった程羽振りがよかったようだと、近隣のものが述懐する程であった(注4)。」(上掲wikipediaの「人間動物園」の項目より引用)というのは事実のようです。ただし、
 ?「人間動物園」という表記が、西欧人の博覧会などで、「未開」の人々の「日常生活」を「見世物」とする際につけられたものであり、1910年の日英博覧会でも同じような「展示」がなされている点で、「人間動物園」という表記は妥当性を持ち、
 ?当時の日本人の中にさえも、このような「展示」方法を「人道問題」と考える人間は存在しており、日本人の家族の「日常生活」を同じようには「生活展示」しなかった点で、当時日本側にはすでにそれを差別ととららえるだけの「思考」が存在しており、さらに、
 ?インタビューに答えているパイワン族の「村長」も、少なくとも現代の世の中で同じことをされることを差別とは感じるであろうと推定される、

 以上三点において、「人間動物園」の表記は十分妥当と思われます。また、?について、もし仮に当時「展示」されていたパイワン族の人々が、自分たちに「差別」的まなざしを送られていたことを知らされていたら、蓋しおおよそ二種類の反応を返したろうと思われます。
 (1)差別されたと考えて怒りを感じる、(2)自分たちは差別と思っていないとして無視する、の二つです。「誇り」だったのですから、おそらく後者だったと思います。もし、(1)なら、この「展示」へ怒りを覚えて「誇り」などなかったでしょう。(2)でも、「誇り」だったのですから、「人間動物園」などという表記はさして気になさらなかったでしょう。その点も含め「妥当」と考えるわけです。はたして、「展示」されることの差別に憤慨することもないのに、「人間動物園」という表記にはきちんと憤激する【都合の好い】存在などいるのでしょうか。
 これが現段階での最大限の推論です。注意いただきたいのは、「人間動物園」という表記の学術的な妥当性の問題ということです。だから、当時この用語が使われていたかどうかなど問題ではないのです。この点は、勘違いしやすい点なので、念のため書いておきます。




(不要な追記)
 ついでに、「人間動物園」というキャプションを「集合写真」に付けた件については、こういう「編集」はワイドショーやら何やらで山ほどあるはずなので、そっちの方もきちんと指摘したほうがいいと思います。「誤解を招きかねない編集」が、テレビにも、もちろんネットにも溢れる世の中です。

(さらに追記)
 日本人も「展示」されていたから問題ないという反論も、意味を持ちません。確かに、「数十人の力士団もロンドンに渡って土俵を造って相撲を披露、日本人農民も農村風景を描いて米俵製作の実演日本の伝統的な農村風景を紹介」という風に、wikipediaの「日英博覧会 (1910年)」の項目には、書いてあります。
 重要なことは、これが「日常の生活の展示」ではない、ということです。本稿で問題にされているのは、「台湾蕃人ノ生活状態」の展示です。「蕃社ニ模シテ生蕃ノ住家ヲ造リ蕃社ノ情況ニ擬シ生蕃此ノ処ニ生活シ時ニ相集リテ舞踏シタリ」という生活の展示であるという問題です(宮武公夫『黄色い仮面のオイディプスアイヌ日英博覧会―』より孫引き、「「人間動物園」 コメントへの答え」(前掲『安禅不必須山水』様)より曾孫引き)。
 「此ノ処ニ生活シ」という「展示」の問題であって、居住ではないはずの書割の前での「米俵製作の実演」の問題ではないはずなのです。上のほうでも引用したように、「日本本土の純粋日本人の家族のありさまを、同様に「生活展示」」しなかったことの問題なのです。
 だから、「米俵製作の実演」を「人々の暮らしを展示していた」と表現するのは、この「生活」という点を考えれば厳密さを欠きます(「NHKスペシャル偏向番組「アジアの“一等国”」(続き)」『Japan Sea 日本海』様)。なお、この日本人自身の「展示」が「日本人の訪問者にとって不愉快で恥さらしなものと受け取られていた」のは、第一に、「農村風景を描いて」とか「桜の木の下」などのあからさまな紋切り型の日本像の描き方を、不快に感じたからではないでしょうか。

(もっと追記) 
 古森小森なんとかさんという方が、この件について「質問状」とやらを載せていて、その質問状の中に、「蕃人達」の「居住場所は、本人の希望で「附近ノ住家」か「余興場ノ建物内」を選択することも可能だった。」と説明しているくだり、があります。これを検討してみましょう。
 この場合問題は、「余興従業者ノ住家ハ其ノ便宜ヲ図リ博覧会会社ト交渉ノ上契約中ニ従業者ノ負担トナリ居ルニ拘ハラス会社の負担ヲ以テ会場付近ノ住家ヲ借入シメ之ニ居住セシメタルカ後各本人等ノ望ニ依リ余興場ノ建物内ニ便宜ノ施設ヲ為シテ居住セシムルコトトナレリ」という一文の「余興従業者」に、「生蕃」の人々が入るかどうか、が焦点となるはずです (「日英博覧会事務局事務報告 第17章 日本余興」『15年戦争資料 @wiki』様)。つまり、「生蕃」の人々もまた、自由意志によって、「余興場ノ建物内ニ便宜ノ施設ヲ為シテ居住」したのか、という点です。その是非は、この史料からは即断できません。
 ただし、彼らが24時間自由意志で居住していたにせよ、していないにせよ、「各其国の住所に模したる一定の区域内に団欒しつつ、日常の起居動作を見する」という点で、1903年の第五回内国勧業博と類似しており、このことが西欧における「人間動物園」の定義に当てはまる以上、本件日英博覧会にこの呼称を使うことは、妥当性を持つと考えます。 
 ただし、これについて興味深い資料があります。「台湾日日新報「日英博の生蕃館」」(『15年戦争資料 @wiki』様)です。これの「もう台湾に帰りたい」という記事を見てみましょう。
 曰く、「台湾を連れ出すとき遠い英国へ行くのであるとは明示したさうだが彼らも斯んなに遠いとは想わなかったであらう何しろ二月十八日基隆発二十一日門司著四月十五日倫敦著で都合ニ個月掛かったから彼らも大いに退屈したのである (略) 著英以来もう四個月、たヾ生蕃小屋の中に篭城して山野を跋渉する事が出来ないから彼等はもう飽きが来て台湾の山が断然より善い早く帰りたいと度々監督官に迫る (略) 昨今は大いに冷気になって来たから蕃公も之には閉口して居るそうである」とのこと。
 この文章を額面どおり受け取るなら、彼らは、「著英以来もう四個月、たヾ生蕃小屋の中に篭城して」いたのです。そして、「大いに冷気になって来たから蕃公も之には閉口して居る」ことが分かります。「住家ハ其ノ便宜ヲ図リ博覧会会社ト交渉ノ上契約中ニ従業者ノ負担トナリ居ルニ拘ハラス会社の負担ヲ以テ会場付近ノ住家ヲ借入シメ」という、大盤振る舞いを日本側はしたはずなのですから、「蕃公」の人々に対して、「会場付近ノ住家ヲ借入」してあげてもよかったはずです。そちらの方が暖かいでしょう。でも、このような便宜は無かったようなのです。
 考えられるのは、2つです。「蕃公」の人々が、それを望まなかったか、もしくは、主催者側が拒んだか、です。「蕃公」の人々が帰りたがっていることを考えると、後者です。さらに後者のうち、可能性が2つあります。?ひとつは、最初から日本側が彼らに住居の便宜を図らなかった可能性です。?もうひとつは、最初は便宜を図ろうとしたが、「蕃公」の人々が「建物内ニ便宜ノ施設ヲ為シテ居住」することを選んだため、それ以降は契約を理由に拒否したか、です。
 本稿は、一度日本側が大盤振る舞いに出たのに、あとから?のように契約を理由に拒否することが、財政的な可能性として考え難い事から、?だったのではないかと考えます。十全な論拠こそ示せませんが、以上の理由によって、本稿は、「蕃公」の人々は最初から、「生蕃小屋の中に篭城」させられていた可能性が高いと判断します。
2010/2/28 一部改訂済