「職業教育」を日本の戦後労働史から考える(長い注付) 濱口桂一郎『新しい労働社会』(4)

■「公的給付」の中身、そして「宿題」■
 前稿で取り上げた公的給付の中身について、まず書きます。著者曰く、

 欧州諸国の福祉国家とは、年金や医療といった日本と共通する社会保障制度だけではなく、育児、教育、住宅といった分野においても社会政策的な再分配が大規模に行われる社会でもありました。 (123頁)

 日本は、「育児、教育、住宅といった分野」をも企業が負担してきたわけです。(もちろんこれは広義の「大企業」のみのお話ですが。)著者が公的給付というとき、述べているのはこうした分野に対する給付です。この点については既に拙稿(2)で書いてしまったことと同じですので、これ以上は述べません。
 蛇足ですが、「新しい労働社会」の創出のためには、当然、「育児、教育、住宅といった分野」を読者が視野に入れなければいけないことは言うまでもありません。これは、こうした分野に少なくとも関心を持ち、そこで起こっている問題を把握し、できれば提言について他者の意見を参照・批判しつつ考察すべし、という意味です。本書は、随分と宿題の多い本なのです。

■「再チャレンジ」としての生活保護制度の見直し■

 多くの長期失業者や若年失業者が、雇用保険制度と生活保護制度のはざまで無収入状態に陥っている (158頁)

 前稿で述べたように、日本においては、労働しないで生活保護を申請した方が、労働するよりもトクになってしまうという矛盾が生じるケースが少なからずあります。これは何故なのかを、著者は書いています。
 前者には給付日数に制限があります。その一方、後者は事実上無一文でないと受けられません。要するに二つの間に溝が存在しているのです。ワーキングプアに、社会的過重を負わせないためには、この二つの福祉的制度の、はざまの制度が必要になります。

 近年の欧州の傾向としては、(略) 就労可能な者に対しては金銭給付をしながら(再)就職を促進していくというのが大きな流れになりつつあります。 (158−9頁)

 著者は、次のように提案します。日本でも生活保護制度を見直して、就労可能な人の場合、ある程度資産を有していても受給を認める代わりに、求職活動を義務付けることがいいのではないか(167頁)、と。溝の架け橋として、「再チャレンジ制度」とでも言うべき制度を提言しているのです(「再チャレンジ」という名称は好きになれませんが)。(注1)
 なお、著者は高齢者への教育訓練にも、言及しています。「個々の職務のための教育訓練という明確な目的をもって考えれば、5年程度の収穫期間であっても十分教育訓練コストをかける値打ちはあると考えることもできる」(「これからの新たな雇用システムとは何か」『エルダー』2010年3月号)。
 費用対効果の点、そして高齢者にも労働を働きかけることになる点の二つにおいて、賛否分かれるところです。この二つの問題を結んでいるのは、著者にとっての「労働」の意義の問題です。これについては、次稿以降にて書くことになるでしょう。

■職業教育を、日本の労働史から考える■

 奇妙なのは、「能力・適正・進路による選別」を非難しながら、同時に「生徒を○×式テストの成績によって振り分ける進路指導」を批判していたことです。 (139頁)

 これは、日教組の「教育多様化」の考えに対する批判です。著者が指摘しているのは、職業教育の「能力・適正・進路による選別」を非難した以上、一元的なテストの成績による篩い分けは避けられないのではないか、ということです。どのみち、「選別」・「篩い分け」は避けられないのに、そこから目をつぶったわけです。
 また、著者は次のことも指摘しています。高校での職業教育の必要を否定する日教組の方針は、企業内人材養成と極めて親和的な発言ではないか、と。この方針によりなおざりにされたのは、職業教育、日本の高校教育における「職業的意義(レリバンス)」でした。
 戦後から高度成長期まで企業側は、「普通科ばっかりつくってんじゃねえよ、俺たちに役立つ職業高校を作ってくれ、下らん文科系大学ばっかりこさえてどうすんだ、職業専門大学作れよ、って感じ」で主張していたのですが、上記のような教育界の反応の鈍さもあって、結局自分たち企業で職業訓練を内部化した、というわけです(「職業能力ってなあに?」『EU 労働法政策雑記帳』様)。著者は、「企業内人材養成」が諸所の理由でなされなくなりつつある現在には、公的な教育機関も、職業教育を担わざるをえないことを述べているのです。(もちろん、高校のうちからの学内教育と実地の職業訓練の併用(デュアルシステム)をすれば、全てが解決するわけでないことは、著者も述べるとおりです。)
 本書において、若干物足りなく思うのは、やはりEU諸国との教育システム及び職業教育の中身の比較だったように思います。例えば、これらの国々での、文学部や経済学部などの職業的レバレンスは日本と違うのか、とか、各国の職業教育制度から日本が学べる最低限度の教訓は何か、などの事柄です。ただし後者に関しては、各国で制度が異なるため、単純な比較が難しいことが想像されます。(注2)


(注1) 大久保幸夫『日本の雇用』も、「第二雇用保険の提案」として、似たようなアイデアを持っているようです(「「雇用問題」への読者の間口が広くなる!」『ブログ・プチパラ』様)。
 なお、重要事項として、デンマークの場合、解雇予告期間は、「公務員とホワイトカラーは解雇予告期間が6か月」だそうで、日本とはひどい差があります。ここの部分を変えていく必要もあるようです。詳細、「デンマークの労組の解雇規制要求」(『EU 労働法政策雑記帳』様)参照。

(注2)その点で、「社会連帯型人材育成モデル」(『EU 労働法政策雑記帳』様)は参考になりました。
 なお、ドイツのデュアルシステムについては、「デュアルシステムでの教育内容が法律で細かく決められているので、急速な技術革新に法律の改正が追随できず、教育が産業界のニーズに対応できていない。特に、最近の知的産業に対応できていない。」という問題点も指摘されています(「デュアルシステムの問題点」『CNET Japan』様)。素早くかつきめ細かな対応を、行政に任せることの難しさが指摘されているようです。
 この点について重要な指摘を、『インタラクティヴ読書ノート別館の別館』様の「ワークフェアとベーシック・インカム」という記事が行っています。
 「外部効果の大きい基礎的な公民教育ならともかく、多少とも専門的な職業教育となると、まず公平の観点からすれば、それは基礎的な教育に比べて外部性が少なく、その費用については受益者負担を基本とすべきであろうから、民間に任せるのが望ましい。公的介入は民間の奨学金などの形で行えばよいだろう。(企業内訓練に奨学金を与えることは可能か? 結局それは企業への雇用奨励助成金ということになってしまうのか?)効率の観点からしても、民間業者の適応力の方に期待したいし、官の役割は監督程度にとどめた方がよいのではないか。
 専門的な職業教育の場合、やっても実際の仕事にどの程度効果があるかどうか分らないし、それなら公的介入として、「民間の奨学金」という形での補助にして、「民間業者の適応力の方に期待」したほうがいい、というご意見です。確かに、素早くかつきめ細かな対応という点では、民間をメインにする方に、軍配があがると思われます。(もちろん、民間の奨学金が結果的に、「教育訓練は、NOVAみたいな民間の学校がやってくれるから、そこにお金をじゃぶじゃぶ流せばいいよ、という社会」を生んでしまうことは、防がれるべきです。 詳細「能開大が「ムダ」であるという思考形式の立脚点」(『EU労働法政策雑記帳』様)参照 )
 問題は、「企業内訓練に奨学金を与えることは可能か? 結局それは企業への雇用奨励助成金ということになってしまうのか」という点です。この点を問うために、「日本型雇用システムの複層的「変容」と若者への自己矛盾するメッセージ」『EU 労働法政策雑記帳』を見てみましょう。
 1990年代以降の日本の雇用システムの変化として、「非正規労働力の拡大、正社員への過剰要求、専門職の未形成」が挙げられています。本件で重要なのは一番目の問題です。「雇用柔軟型と呼ばれる企業メンバーシップのない非熟練型労働力の拡大」です。彼らの場合、「手厚い企業内教育訓練を受ける見込み」はありません。少なくとも、彼らに対しては、官の監視を条件として、「企業内訓練に奨学金を与える」ことは正当化されると思われます(現に存在する?)。
 本書の経緯をたどると、教育界側が職業的レバレンスを放棄していたのを、やむなく企業側が負担していた。1990年代以降、企業側が非正規労働力者に対してはしなくなった。なのに、教育界側は、相変わらず負担する気が無い。となると、企業内教育訓練への奨学金に対しては、教育界側が負担すべきです。ただし、今回も奨学金は公的に負担せざるを得ないでしょう。さらにただし、教育界は、公的負担させた分の「お返し」を、社会に還元する必要があるはずです。

(追記) 本件、「 「メモ」「人間力」「職業能力」「学校教育」」(『インタラクティヴ読書ノート別館の別館』様)もご参照ください。
2010/3/14 一部追記済

(もっと追記) 職業教育の問題については、さらに「消費者代表の問題と、再度、職業教育について 濱口桂一郎『新しい労働社会』(8)」で、続きを書きました。ご参照ください。