詩作ならまず辞書引けとはいうけれど辞書ない時代はどう作ったのよ -なぜ短歌なのか、短歌の何がいいのか- 穂村弘『短歌という爆弾』・雑感

 穂村弘『短歌という爆弾』を読む。
 



 俵万智の歌。

 砂浜に二人で埋めた飛行機の折れた翼を忘れないでね

 この歌のポイントは、桜貝とかじゃなくて、「飛行機の折れた翼」を選択したことにある(117頁)。
 読者は、自分の体験とかけ離れた一撃を通過することによって、「より普遍的な共感の次元へ運ばれる」。
 (要は、異化されるのね。)

 もちろん、飛行機の折れた翼」っていうのは、本来高く飛行するものが砂に埋められる悲しさだったりする。
 また、二葉で一対だったものが欠けてしまうのだから、二人の関係性を暗示もしている。
 決して突拍子もない歌じゃないのね。

 なるほど、実にいい解説。



 石川啄木の歌。

 ふるさとの訛なつかし停車場の人ごみの中にそを聴きにゆく

 聴きに行っちゃうのかよ、と言うのがポイントですよね。
 これは、通常こう書かれてしまうはず(121頁)。

 停車場の人ごみの中にふと聴きしわがふるさとの訛なつかし

 うーん。普通。
 原作にある「切迫感」が確かに、弱くなってる。

 ほむほむ先生、さすがいいポイントを指摘されている。



 なぜ、ほむほむ先生は、短歌をやるようになったのか。
 曰く、自分の抱える「私」は、「強固な連続体としての他者との間に自然な自明性を共有できない」、と言う理由だったらしい(131頁)。
 そんな自分には、短歌のような自己肯定作用の助けを借りないと、言語による自己表現は不可能だっただろう。
 短歌のこの補強作用は、未来に圧倒され、世界の未知に引き裂かれて分裂する、そんな「私」の自己像を一つにまとめることを許してくれた。

 ばらばらだった「私」をかろうじて一つにまとめてくれたのが、短歌だったってワケだ。
 31音という量的な規定は、跳ね回る過剰な自意識にとって一種の安心感を与える、とも述べる。

 うーむ。短歌に限らず、詩などを書く人って、こういう理由が潜在的にあるのかも。
 


 
 岡村晃作の作。

 「ロッカーを蹴るなら人の顔蹴れ」と生徒に諭す「ロッカーは蹴るな」

 すごい歌だなw
 すごいポイントは、ロッカーは蹴るな、を二回も繰り返すこと。
 最後の「ロッカーは蹴るな」を、「ホームルームにて」とかでも、「教員われは」とかでもなく、「ロッカーは蹴るな」で押す(206頁)。
 確かに、この本気度、マジすげえw
 そんな素晴らしい秀歌。



 その他、本書の中から、いくつか秀歌を。

 プラトンはいかなる奴隷使いしやいかなる声で彼を呼びしや 大滝和子

 すげえ、幾多の平凡な歴史書や歴史小説に勝る歌だ。
 同じく、

 きょう我が口に出したる言葉よりはるかに多く鳩いる駅頭 同

 アタリマエではあるけれど、歌にされてハッとする。
 鳩、とひとくくりに出来てしまう言葉に対して、駅にいる鳩は、無数にいる。
 言葉の持つ(持ってしまう)省略作用、圧縮作用、そういったものに改めて気付かされる。
 おみそれしました。
 (個人的には、比喩を使わない時の大滝さんの歌が好み。なんでだろ。)



 ここで一つ、短歌めいた一文を作ってみましょうw

 詩作ならまず辞書引けとはいうけれど辞書ない時代はどう作ったのよ 

 辞書が詩人を誕生させたのか、いや、辞書誕生以前から、詩人はいたわけだし。
 じゃあ、いつから詩人は辞書を引き始めたのよ。
 まあ、短歌なのに「詩作」って書いちゃった件は、気にしないでください。
 (多分、辞書の誕生と使用は、それまであった詩作サークルの上下関係から、幾分か、詩人を解放したんじゃないかな、とミサカはミサカは想像してみたり)