室町時代を知るならこの本(*この書評では「当座会」については言及しないことにする。) -桜井英治『室町人の精神』を読む-

 桜井英治『室町人の精神』(オリジナル版)を読んだ(厳密には再読)。

室町人の精神 (日本の歴史)

室町人の精神 (日本の歴史)

 

 内容は、紹介文にある通り、

公武にわたる権力争いから、家同士の確執・不義密通・自殺未遂・祟りと癒しまで、一見愚行とみえる行いは、いかに歴史を書きかえたのか。財政・相続・贈与・儀礼のしくみを解明しつつ三代将軍足利義満の治世から応仁・文明の乱後までを描く

という内容。
 わりと厚めの歴史書だが、グイグイ読ませる良書。

 室町時代を知るなら、とりあえず、この本を読むべし。

 (まあ扱っている時代は、義満から義政あたりまでなのだけれど。)

 以下、特に面白かったところだけ。
 (とりあえず、多くの人が書評で注目していた「当座会」については、ここではあえて書かないことにする。)

公武統一政権のデメリット

 義満が公家社会にデビューし、公武権力の一体化を確立して以来、将軍はもはや武士の味方ではなくなった (158頁)

 将軍が公家社会にデビューするということは、公家の庇護をもせねばならないことを意味した。

 そして、寺社本所領保護政策は、その権力構造の上に立つ将軍権力が宿命的に背負い込んだ「宿命」であった。*1

 ゆえに、将軍はやがて守護勢力の支持を失うこととなる。

 公武権力の一体化は、かえって将軍の権力を弱体化することにもつながったのである。*2

村(惣中)の発展

 領主層と肩を並べたのは軍事力だけではなかった (186頁)

 既に惣中(の上層部)は、武将の書状かと見まがうばかりの文面をしたためることができた。
 いくさの作法や外交文書の書式まで体得していたのである。*3

神仏と連歌の深い関係

 こうした神々との交流という側面は連歌にも色濃く認められるところである。 (229頁)

 連歌は、法楽や供養、祈願などの神仏・冥界との交信手段として用いられることも多かった。*4

 また、15世紀前半には「神託連歌」が流行している。

 神が神託として下した発句・脇句を元にして催す連歌のことである。

蓮如の「失敗」

 だが、その責任の一端は蓮如自身にもあった。(365頁)

 蓮如は、不透明な秘密結社のごとき戦略をとることを忌避していた(「秘事法門」)。

 だが、一向宗門徒は、ついに宗教的自治を行うに至った。

 その原因は顕如自身にもあった。

 たとえば、門徒との対等関係をうたうものの、ではなぜ門主門徒を指導できるのか、なぜ蓮如の家系が門主の地位を独占できるのか、ほとんど何も説明していない。*5

 また、蓮如の平易で明快な教えが、かえって、門徒たちを不安にさせたのである。
 自分が信心決定を得ているのか確信が持てずに苦悩していた門徒が多かった。
 その結果、門徒たちは門主への盲目的な忠節に駆り立てられた面があるという。

 

(未完)

*1:著者(桜井)は、義満の皇位簒奪説には否定的であり、

「義満の上皇待遇」と「義嗣の即位」とは全く次元の違う事柄で、この学説への批判は、櫻井栄治氏の「そもそも皇統は天皇(の血)から発生するものであって上皇(の号)から発生するものではない。この最も基本的な理解を忘れた点に『義満の皇位簒奪計画』説の誤りがあったといえよう」(『室町人の精神』〕という言に尽きている。 

(引用は「楠正行通信 第88 号」より孫引きhttp://nawate-kyobun.jp/masatsura_tusin_88.pdf )。まあ著者の名前(「櫻井"栄"治」!)が間違っているのだが。。

*2: CloseToTheWall氏も本書書評(但し文庫版 https://closetothewall.hatenablog.com/entry/20120408/p1 )で引用された箇所が、実に重要である。

後花園天皇は明らかに幼少の将軍家家督にかわって幕府を指揮していた。足利義満が推し進めた公武の一体化は、かつて将軍家による朝廷支配を実現させたが、その同じ構造が当初は予想だにしなかったであろう天皇による幕府支配というまったく逆の事態を出現させたのである。公武の一体化という構造がもつこの可逆性を人びとはこのときはじめて眼前にしたのであった

*3:本書には、海津西浜惣中から菅浦惣中へ送った書状等が紹介されている。その菅浦惣中における惣の代表である「オトナ」について、竹内光久は、「署判からみるオトナの実態 : 近江国菅浦を事例として」https://ci.nii.ac.jp/naid/120005746494 で、以下のように書いている。

村落内において、経済的に上位であり、運営に必要な読み書きという実務能力を備えた者が村落の中核にあったという一般的な理解とはまるで違う構造の村落だった (引用者中略) そして、菅浦においては、識字力や経済力より優先されるものがあった。それが構成員としての年数であった。 (引用者中略) 惣構成員として惣に貢献すること、その年数が上がるにつれて、惣内でも序列が上がり、意思決定の場に参加する権利を得られる。 (引用者中略) サインは、字を書ける者であれば花押であり、字の書けない者であれば略押、といったようにそれぞれの識字力に応じたものになるが、花押を据えられる者も略押しか据えられない者も、つまり経済的な格差はあっても、意志決定の場においては同じ一票だったということである。

当時の惣中の実態を知るうえで興味深いものであるので、ここで紹介しておく。

*4:長谷川千尋によれば、

連歌は中世の詩ですから、当時の宗教的な観念や実利主義とも無縁ではありません。例えば、神仏に手向けて楽しませる法楽、さらには、安産・新宅造営・戦勝・旅中安全・病気平癒などの祈祷、故人の追善など生活の様々な場面で折に触れて張行され、人々はその効能を信じていたのです。

ということである(「連歌の世界へ」https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/148397/1/2000_tenjikai.pdf )。

*5:そして、真宗側の理路はおそらく以下のようなものに移行するであろう。

①中世末・近世初期以後の親鶯・本願寺法主=生き仏信仰の浸透と②法主門徒が家長と家族の関係をなす本願寺教団の擬制的家観念により、親鴛=大先祖(始祖)=弥陀仏、歴代法主=列祖=弥陀仏となり、門徒にとって弥陀仏を崇めることは同時に先祖を崇めることでもあったとされる。

(上野大輔「書評 児玉識著『近世真宗と地域社会』」https://ci.nii.ac.jp/naid/120006598332 )。すなわち、法主は生き仏であり、「先祖」でもある、という考え方である。

 天皇制、という言葉が頭をかすめるであろう。

 以上、2020/4/26に訂正を行った。

政治に失望する前に、立法府を活性化させるためにできること -大山礼子『日本の国会』を読む-

 大山礼子『日本の国会』を再読。

日本の国会――審議する立法府へ (岩波新書)

日本の国会――審議する立法府へ (岩波新書)

 

 「政党間の駆け引きに終始し、実質的な審議が行われない国会。審議空洞化の原因はどこにあり、どうすれば活性化できるのか。戦後初期からの歴史的経緯を検討した上で、イギリスやフランスとの国際比較を行い、課題を浮き彫りにする」という内容。
 本書は2011年と古い本となってしまったが、しかし、相も変わらず読まれるべき書物である。
 そのくらい、立法府の課題は放置されたままである。

 政治に失望する前に、立法府を活性化させるためにできることはあるのだ。(もちろん問題は、立法府だけにあるのではないのだが。)
 それにしても、「『ねじれ国会』が常態化した今、二院制の意義を再考、そして改革の具体案を提示する」とは、随分と昔のことに感じてしまう。

 以下、面白かったところだけ。*1

本当は強いはずの「国会」

 常任委員会の権限も、 (略) 議院内閣制を採用している諸外国の議会には類例がないほど強力 (41頁)

 米国連邦議会において、各議員から提出された法案を詳細に検討し、逐一修正していく形式の審議に適する制度として発展した・・・それが常任委員会制度である。
 本会議よりも委員会、委員会よりも小委員会が実権を握る権力分散型の制度である。
 それに対して、内閣提出法案の審議が中心となる議院内閣制の議会では、実質的審議の場として委員会を活用する場合もあるが、本会議が主導権を確保するのが通例となる。
 そして日本の国会の場合、戦後改革の影響により、常任委員会の権限は本来強いものとなっている。*2
 にもかかわらず、その力を発揮できていない。 

内閣の「弱さ」

 内閣が自ら提出した提出した法案を自由に修正できないというのは、議院内閣制としてはほかに例のない厳しさ (75頁)

 日本では内閣は、内閣提出法案の審議スケジュールについて、希望を表明さえ出来ない。
 また、内閣が自ら提出した法案なのに、内閣自身は自由に修正もできない *3
 だが、審議スケジュールについて、諸外国では委員会とは別に議事協議機関が設けられており、そこには政府の代表も加わっていることが多い。
 ドイツ連邦議会の場合、議事日程の作成は評議会の権限であり、その評議会の会議には連邦政府の代表として閣僚一人が加わっている。
 議事協議の時に政府の議事を優先するのは慣例という国もある。

 イギリスの場合、下院の議事運営は、与野党の院内幹事の協議で決められるが、与党の院内幹事は政府の役職であり、協議には政府の意向がそのまま反映されることとなる(77頁)。

欧州大陸諸国における立法府の独立性

 ヨーロッパ大陸諸国では、政府を信任している与党でもあっても、個別の法案の審議において、必ずしも政府の意向に従うとは限らない (117頁)

 欧州大陸の議会では、法案審議の中心は委員会となる。
 率直な意見交換をするため、委員会審査を非公開にしている議会も少なくない。
 政府は、その議会の審議の動向に応じ、自らの政府法案を修正することになる。
 実質的には多数を占める与党議員と政府の話し合いの結果による修正が多い*4

 議員は審議中、所属会派に関わらず、自由に意見を述べることができ、議決時になって初めて党議拘束がかかる仕組みである(116頁)。

 内閣と議会、というか、内閣と与党とが一定の緊張関係を議会内に保つのが、欧州大陸議会の特徴である。

 実際、ヨーロッパ大陸には閣僚と議員との兼職を禁じている国がある(112、113頁)。
 フランスの場合、閣僚に任命された議員は職を離れねばならない。*5 *6

 代わりに選挙で補充候補者として指名されていたもの(* 予め有権者に提示してある)が議員に就任する。
 その他オランダ、スウェーデンノルウェーなども然りである。
 ドイツの場合、閣僚の20パーセント程度が非議員という。

立法府の活性化のために

 内閣による法案修正も自由化すべきである (146頁)

 著者は、内閣提出法案の審議スケジュールについて、内閣の代表も参加する場で協議を行なう必要があるとする。
 そして、内閣が自らの責任で内閣法案を修正できるようにする必要がある、という。*7

 委員審査の段階では、各会派は、所属議員の自由な発言を許し、委員会審議が決着した時点で初めて党議拘束をかけるようにすればよい(148頁)。
 また、各委員会は委員会審査の結果を報告書にまとめ、提出すべきだとする*8
 そうした報告書がネットで手に入れられるようにしている国も、あるという。

事前審査制の起源

 背後には大蔵省(当時)の働きかけがあったといわれる (79頁)

 日本の事前審査の起源は、赤城宗徳が内閣に依頼したことに由来する。
 その赤城の依頼の背後には、当時の大蔵省の働きかけがあったといわれる。*9
 それ以前の国会では、比較的自由に与党議員による法案の修正が行なわれ、国会審議の段階で修正が施されると予算全体に影響を及ぼす可能性があった。
 そのため、大蔵省側が、事前に与党議員との協議の場を設けておいた方がいいと考えたのだろう、と著者はいう。
 この事前審査、最初は簡単なものだった。
 精緻な検査は1970年代の田中内閣の時期で始まり、皮肉なことに、新人議員時代には国会内で弁舌を振るった田中の下で、与党議員の自由な発言が封じられ、事前審査に活躍の場が移ったのであった。
 こうして国会審議の影響力は実質的に低下していったのだった。*10
 その結果生じたのが、審議の不透明さである。*11

会期不継続原則を廃止する必要

 諸外国の議会ではさらに改革が進み、ほとんどが会期不継続原則を廃止した (226頁)

 20世紀に入ってから、諸外国の議会ではほとんどが、会期不継続原則を廃止した。*12

 英国議会は、例外的に維持しているが、毎年1月はじめ頃に始まる会期が、次会期の直前まで1年間継続するので、細切れ会期の問題は出ない *13
 ドイツ、イタリア、オランダなどでは、会期自体を廃止し、通年会期制を採用している。
 日本の場合帝国議会以来、堅持している。*14
 この会期不継続原則は、当時の政府が議会の活動期間を極力限定しておこうと考えたためであろう、と著者は考察している(227頁)。

英国における立法府改革

 ウェストミンスター・モデルの基盤であった議会主権を抑制する効果をもつものだった (128頁)

 ブレアの改革についての話。
 イギリスの裁判所において、欧州人権規約が国内法と同様の効力を持つことを規定した1998年の人権法は、裁判官に議会制定法が欧州人権規約に抵触しないかを判断する権限を与えた。
 また、スコットランド議会、ウェールズ議会、及び大ロンドン議会は、いずれも、ドイツ連邦議会同様の小選挙区比例代表併用型を採用することとなった。*15
 こうしたブレアによる改革は、ウェストミンスター・モデルにおける「ブレーキ役」を作る結果となった。*16

国会議員の数は多くない

 国会の定数は諸外国にくらべてけっして多いとはいえない (210頁)

 じっさい、先進国7カ国のうち、人口に対する議員の数が日本より少ないのはアメリカだけである*17
 みんな知ってるだろうけど念のため。

 

(未完)

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*1:大山著に対する評価としては、たとえば、周宇嬌「書評論文 小泉内閣後の日本政治を考える--飯尾潤『日本の統治構造』中公新書(2007)を手がかりにして」https://ci.nii.ac.jp/naid/120005929691 等を参照。

*2:GHQによってなされた常任委員会制度の整備について、大曲薫は、次のような重要な指摘をしている(「国会法の制定と委員会制度の再編 GHQ の方針と関与について」 https://www.ndl.go.jp/jp/diet/publication/refer/pdf/071803.pdf )。 

戦後の国会における常任委員会制度の整備について、ウィリアムズは「封建的官僚機構」に対抗する議会の機構を構築するという言い方をよくしたが、他方で先進各国に共通する執政機能の肥大化と現代行政国家の台頭に対抗する各国議会の進化の方向と同一の軌跡を辿った結果でもあるという視点が次第に重要になってきているのではないかと思われる

今回の大山著を読むうえでも、重要な指摘である。

*3:

法案を修正したくても与党が譲歩しなければ修正できません。外国では殆どの場合与党が政府案を修正します。事前に精密な審議をしませんから、ある政府案に対して地方にはこんな意見もあるので修正した方が良いよ。等の意見で法案が修正されます。日本では国会が始まる前に終わってしまいます。 (引用者略) 与党議員は無傷で法案を通すことに専念しますし、野党議員は法案を修正することが出来ない訳です。残る方法は「日程闘争中心のかけ引き国会」しか無くなるのです

(大山礼子「国会改革の課題 代表制民主主義を見直す」http://www.sief.jp/21/2016/bundai201605.pdf ) 

*4:法案修正が活発に行なわれる諸外国の議会でも、実際は修正の多くは、与党議員の発議によるものである(5頁)。フランス下院の場合、野党議員からの修正案は提出件数は多いが採択率はきわめて低く、政府提出の修正案の採択率は9割を超え、委員会提出がこれに次ぐという(115頁)。

*5:

フランスやスウェーデンなどのように、閣僚と議員の兼職を禁止しているところも珍しくない。議場における閣僚席の配置も、政府と野党が対峙するイギリスとは異なっている。これらの国々では政府は議会外の存在であって、議会は独自の立場から政府が提出した法案を審議し、多数を占める与党が中心となって修正を加える。そこで、実質的な法案審査にふさわしい場として、専門性を有する分野別常任委員会制度が発達してきたと考えられる

(大山礼子「忘れられた改革 : 国会改革の現状と課題」https://ci.nii.ac.jp/naid/120006618708 ) 

*6:『公務員白書』(平成15年版)によると、フランスでは、

憲法上閣僚と議会の議員との兼職は禁止され、閣僚に選ばれた議員は議会の議席を失うこととされている(議員出身の閣僚は通例7~8割程度)。したがって、政府内の閣僚その他のポストで、議員が就くべきものとされているものはない。

 とのことである(https://www.jinji.go.jp/hakusho/h15/jine200402_2_013.html )。以上、この註は、2020/2/18に加筆したものである。

*7:武石礼司「国会活性化に向けた制度改革に関する考察」は、「国会の委員会および本会議での審議スケジュール作りに内閣を関与させる、内閣による法案の委員会提出後における修正の容認、与党閣外委員による質問の一部容認 (引用者中略) 国会法の会期不継続原則(国会法68条)の改正」等の改革を提言しているが、著者大山の『国会学入門(第二版)』が参照され、本文でも言及されている。
 以上、この註は、2020/2/18に加筆したものである。

*8:よく考えれば当たり前のことではある。

他の国では委員会で調査や審議をした場合、立派な報告書が作成されます。重要法案ですと数百ページにもなり、関係資料が載っていますから審議の過程がよく分かります。国民にとっても立法者がどんな意図でこの法案を作ったかが判るようになります。 

(大山礼子「国会改革の課題 代表制民主主義を見直す」http://www.sief.jp/21/2016/bundai201605.pdf )

*9:川人貞史は、「与党審査の制度化とその源流:奥健太郎・河野康子編『自民党政治の源流』と研究の進展に向けて」(https://ci.nii.ac.jp/naid/130007755020 )において、

奥は以前の論文(2014)において,事前審査は自由党時代から存在したが閣議決定の条件ではなく,自民党結党直後の1955年12月までに「政府与党執行部は政調会の事前了承を閣議決定の条件とすることで合意し」,それ以降事前審査手続きを実行し,1950年代後半には定着したことを,『政調週報』の実証分析によって明らかにした。そして,すでに定着していた政調会による事前審査制に対して,1962年の「赤城書簡とは,与党の事前審査の要件に総務会の了承が加わったことを意味する文書であり,事前審査制が今日のそれに近づいた瞬間であった」

と、2014年の奥健太郎の論文について説明している。
 川人は基本的にこの主張を肯定しつつ、

内閣において法案提出手続きの整備が進められたのとほぼ同時に,赤城総務会長の申入れ文書を根拠として法案の与党事前審査が公式のルールとして確立した

 と論じている。
 ともあれ、事前審査自体は、既に赤城の件以前から存在していた事は間違いなさそうである。
 以上、この註は、2020/2/18に加筆したものである。

*10:

実際の国会審議の影響力は、そのポテンシャルとは裏腹に、低いと判断せざるをえない。 (引用者中略) 原因は、1970 年代半ばまでに精緻なシステムとして整備された自民党による事前審査の慣行にあったと考えられる。

(上掲「忘れられた改革」 )

*11:

審議の場がずれていることも問題です。法案の重要な審議は本会議では行われず、更に各種委員会の審議の前に与党内部で調整されてしまいますから立法過程の透明性は失われ、私たち国民の前には公表されないままに国会の審議が終わるのです。利益団体の代表で情報を取れる方もいるでしょうが、我々国民は何も分からないブラックボックスのまま法案が通過してしまう事に成るのです。

(上掲「忘れられた改革」)

*12:駒崎義弘「国会運営における会期不継続の原則―成立の経緯と改革の方向―」(指導教員・御厨貴)には、 会期不継続原則撤廃(見直し)の必要性を主張する学者として、大石眞とともに、著者・大山の名前が出てくる(以下のURL参照http://www.ne.jp/asahi/komazaki/yoshihiro/gikaitetuduki.html )。以上、この註は、2020/2/18に加筆したものである。

*13:大山自身は「第7回「会期等のさらなる見直しに関する検証検討プロジェクト会議」事項書 」の場においても、英国のケースについて、

会期末において審議未了の法案は原則として閉会と同時に廃案となる。ただし、政府提出の公法案は、提出先の院の議決により 1 会期に限って継続することが可能であり(他院からの送付案は不可)、私法案(特定の個人、団体、地域等のみを対象とする法案)及び混合法案(公法案の規定と私法案の規定が混合している法案)は、院の議決により会期、議会期を越えて継続することが可能である

としている。http://www.pref.mie.lg.jp/common/content/000073584.pdf

*14:大日本帝国憲法第42条には、「帝国議会ハ三箇月ヲ以テ会期トス必要アル場合ニ於テハ勅命ヲ以テ之ヲ延長スルコトアルヘシ」とある。勅命でない限り延ばせなかったのである。以上、2020/2/19に追記した。

*15:

ニュー・レイバーの「憲法改革」の一環である、地域的分権の結果成立した、スコットランド議会 the Scottish Parliamentウェールズ議会 the National Assembly for Wales北アイルランド議会 theNorthern Ireland Assembly、ロンドン市長大ロンドン市議会 the GreaterLondon Assembly の選出には、それぞれ小選挙区制とは異なる選挙制度が導入された

(甲斐祥子「小選挙区制は改革されるか イギリス選挙制度改革の現在」https://ci.nii.ac.jp/naid/120005945129 )

*16:こうした点は、たとえば、高安健将『議院内閣制』が参考になると思われる。

*17: 「世界・人口100万人あたりの国会議員数ランキング」http://top10.sakura.ne.jp/IPU-All-SeatsPerp.html によると、日本は世界ランク168位である。ちなみに、英国の場合、総人口「64,097,085人」に対して、議員「1,441人」である。これは貴族院庶民院の合計である。「国会議員議席数:2015年 列国議会同盟(IPU) 人口:2013年 国際連合(UN)」ということで、国会議員の数と人口の統計の年がずれているのだが、まあ参考までに。

「ジャポニスム」と「日本『美術』」との間にあったギャップ -稲賀繁美『日本美術史の近代とその外部』を読む-

 稲賀繁美『日本美術史の近代とその外部』を読んだ。

 放送大学のテキストである。
 近代日本美術史を、西洋や東洋といったまなざしとしての「外部」、あるいは、絵画を中心軸に置きがちな美術史に対する彫刻や陶芸などの「外部」、そういった「外部」から見ていく内容、といえようか。
 稲賀著の中では、頁も少なく、比較的手に取りやすいかもしれない。
 稲賀繁美入門としても、読まれるべき良書である。*1

 以下、特に面白かったところだけ。*2

英米 対 仏 日本美術評価の対立と背景

 かれらの価値観は真っ向から対立していた (35頁)

 お雇い外国人の一人・英国人のウィリアム・アンダーソンは、欧州(大陸)の批評たちのように北斎をもっとも偉大な芸術家の代表格扱いすることは、日本の美術に対する冒とくだとした。
 浮世絵師などより、雪舟などのほうが上だとみなしたのである。
 1886年出版の『日本絵画芸術』でのことである。
 アングロ=サクソン系の日本美術研究者は、現地日本での狩野派などの目利きたちの観賞基準やルネサンスの美的基準を尊重する立場から、浮世絵、そして代表格としての北斎を見下した。*3
 対して、フランスの「自由主義的共和派」の美術評論家たち(たとえばテオドール・デュレなど)は、北斎の美学を梃に、従来の美術アカデミーで支配的だった審美判断を覆そうとしていた。
 後者こそ、マネや印象派の画家を積極的に擁護する陣営の中心人物だったのである。 *4

創造的な誤解

 西洋の文人たちは、ここで東洋の画家が、対象を実見しつつ写生するのではなく、腕に覚えさせた記憶によって素描をなすことを悟った。 (49頁)

 1878年、パリ万博に来た渡辺省亭が、エドモン・ド・ゴンクールらの前で揮毫を行った。
 その際、省亭は実物を見て描くことをせず、「腕に覚えさせた記憶」によって素描を行った。
 ゴンクールら日本びいきの連中は、そのとき初めて、日本の画家は、実際はそのように描くということを知ったのである。

 その方法は、ボードレールらが軽蔑した慣習的な筆さばきであった。


 また、ボードレールらは、技巧を凝らした仕上げより、素描のほうを称揚していた。

 そしてマネは、準備なしに画布に向かい、気に入らない素描を何度も消しては描いたという(これはマラルメの証言による)。

 しかし、北斎を含め日本の絵師は、即興ではなく、何度も修正原稿を貼り替えて製作をしていた。
 日本人は即興制作をするという先入観をマネに植え付けたのは、日本旅行者のデュレではなかったか、と著者は述べている。*5  *6

 「ジャポニスム」と「日本美術」との間にはギャップが存在していたのである。

左右非対称性という「日本らしさ」の発見

 日本側が、それを「売り」にするのは、なおしばらく時間がかかる。 (59頁)

 フランス側は日本美学の精髄を「不規則」という点に見出していた。*7
 しかし、明治最初の出品となった1973年ウィーン博覧会でも、76年のフィラデルフィア博覧会でも、日本側の展示は、青銅器や陶磁器をもっぱら対にし、商品も左右相称に配置しようと腐心している。

 日本美術の特性が左右非対称性とされるのは、むしろ外部からの指摘によってであったのである。*8
 また、貫入(陶器などの細かいひび)なども、ワグネルの指示もあってか、厳禁とされていた。*9
 輸出用磁器には整った形態で、釉薬もすべすべした製品を推奨していたのである。

 

(未完)

*1:今回はジャポニスム関連のところだけを書くが、後半の伊勢神宮八木一夫の章も面白いので是非。

*2:今回扱う内容は、稲賀の「北斎ジャポニズム」(1998)http://www.nichibun.ac.jp/~aurora/pdf/980419-22hokusai.pdf とけっこう重複する所がある。以下、この論文を引用する場合は、「(稲賀 1998)」 と表記するものとする。 

*3:アングロ・サクソン系の批評家、例えばフェノロサが、浮世絵を肯定的に再評価するのは後年になってからの出来事である。

フェノロサが同時に,浮世絵,特に北斎に関して,ボストン美術館時代に際立って肯定的な評価を行い始めていることは,注目に値する。彼の観察によれば,浮世絵とは徳川期「平民階級」の間に生じた,新たな知的活動の産物であった

(伊藤豊「預言者・改革者としてのアーネスト・F・フェノロサ--ボストン美術館在任時の活動を中心に」https://ci.nii.ac.jp/naid/110004719211 ) 

*4:

「保守的な」アングロ・サクソンの専門家達が北斎の「卑俗さ」を軽蔑じたのに対して、フランスの「前衛的」批評家達はむしろ北斎の「卑俗さ」をこそ賞賛したが、これはまさにヨーロッパの美術界で当時なお優勢であった保守的でアカデミックで貴族趣味的見解を攻撃するためであった。デュレ、ゴンス、ド・ゴンクールらにとって「卑俗派」とは軽蔑すべき概念であるどころか、むしろ積極的に反アカデミックで「前衛的」な画業の証として捉えられた。

(稲賀 1998)

*5:

似たような完成度の欠如は、しばしばマネの荒々しい筆さばきや一定しないドローイングのテクニックに頻繁に指摘されてきた。このようなマネの明らかな「欠点」もまた、またもやデュレの説にれば正当化され、さらにはマネの長所になってしまう。デュレ日く「もっぱら腕に支えられた筆のみを使う日本の画家には加筆修正等はありえず、最初の一筆で自らのヴイジョンを紙に定着させる。そこには、どれほど才能豊かなヨーロッパの画家も及ばぬ大胆さと優雅さと自信が備わっている。日本人が最初のそして最も完壁な『印象主義者』であると認識されたのは、このヨーロッパでは馴染みのなし、手法と、彼等の特異な趣味のためである

(稲賀 1998)以上、一部引用符等を変えて引用をおこなった。

*6:デュレについては、瓜生愛子「テオドール・デュレの日本・中国旅行と印象派への寄与」http://opac.daito.ac.jp/repo/repository/daito/982/ などを参照。現地(日本)に行った者の強みゆえに、浮世絵と印象派とを強引に接続させる無茶な理論も唱えることができたのである。

*7:

大島清次氏が示したように、オーギュスト・ルノワールの「不均衡」美学の宣言 (1884年)もこのデュレの概念から生まれたものだと理解しうる

(稲賀 1998)

*8: 当時のデザイン理論家のジョン・レイトンは、「日本人が非対称を好むという広く認められたことを論じる」一方で、日本人は対称を使って、他の方法では得られない荘厳さをかもし出している、とも述べている(「英国における日本美術の発見」(細谷千博、イアン・ニッシュ 監修『日英交流史 : 1600-2000 5』、東京大学出版会)347頁 )。当時すでに、日本美術の非対称性以外のデザインにも、英国人の目は行き届いていたのである。以上、この註については2020/2/13に追記した。

*9:ワグネルはどういう人物か。

1884年には東京職工学校(現東京工業大学)の外人教師となり、施設・設備も同校に移され、吾妻焼は、「旭焼」と名が改められた。旭焼はワグネルを中心として研究が進められ、日本画のもつ筆の運びと多彩な色彩における濃淡表現をそのまま損なうことなく、絵付された陶器である。 ワグネルは釉薬の下に絵付けを施す「融下彩技法」を用いて、素地と絵が一体となった貫入のない美しい肌を持つ陶器の製作法を開発した。

(「認定化学遺産 第038号 日本の近代的陶磁器産業の発展に貢献したG.ワグネル関係資料」『化学遺産認定 第7回』http://www.chemistry.or.jp/know/pamphlet_7.pdf ) このように、ワグネルの日本陶磁器産業に貢献した功績は大きい。

 ワグネル来日は1881年なので、早く見積もっても、影響するのは1881年以降と考える必要がある。 

「アメリカは、古都ゆえに空襲もしなかったのか? そんなことはない」 -中西宏次『戦争のなかの京都』を読む-

 中西宏次『戦争のなかの京都』を読んだ。

戦争のなかの京都 (岩波ジュニア新書)

戦争のなかの京都 (岩波ジュニア新書)

 

  内容は、紹介文の通り、「アメリカは、古都ゆえに空襲もしなかったのか? そんなことはない。数回にわたる米軍の空襲で、約100人の死者を出していた。西陣織などの地場産業は壊滅状態になったし、寺社も金属供出、宝物保護なでど大わらわだった。これまでほとんど語られてこなかった、戦争中の京都の姿を描く」というもの。
 京都は空襲を受けていない、と思っている人も少なくないだろうと思うので、その点本書は読む価値ありである。*1

京都の寺社の金属供出

 信仰の対象たる仏像もふくめ、梟の水(手水所)の竜の口(吐水口)、「音羽の滝」の滝口にいたる階段の金属製手すりにいたるまで供出した (128頁)

 戦時に清水寺が何を供出したか、という問題である。*2
 出典は、『清水寺史第二巻・通史下』となっている。
 伏見稲荷でも、銅製の神馬四体、境内の古鉄を供出した。
 また、京都市内のお寺には、いまも鐘楼のみが残って、梵鐘がないところもある。

西陣空襲

 一家全滅という悲劇に襲われた宅の隣人の証言 (146頁)

 西陣空襲に関する証言である*3
 隣人宅は、「一家はご主人を除いて四人が即死」、「ご主人も重傷を負われ、間もなく絶命」した。
 亡くなった一家の「娘さんの遺体は四散」し、「吹き飛ばされた肉隗の一部が百メートルも離れたところで発見された」。
 「肉片にからみついたままの着衣を手にした警官が町内をたずね歩い」たという。
 隣人はそれがいつも彼女が着ていた洋服の一部だと分かった。
 着衣についた血糊は「すでにどす黒く変色していた」。
 まぎれもなく、京都・西陣でも空襲はあったのである。*4

女性の人権に対する認識の欠如

 あえていえば「女は男のためにある」と無意識に意識されているのです。 (60頁)

 本書では、旧日本軍の慰安所についても言及されているが、その一文である。
 軍と慰安所経営業者の関係は、前者の存在がなければ、慰安所もあり得ないし、慰安所を経営するには前者の許可と監督を受けることが必須だった。
 まあ、これはこの分野に関する基礎知識である。
 慰安所の設置を「従業員の対策上必要な人道上の問題」という者もいるが、この場合、女性の人権は「人道上の問題」の外にあり全く考慮されていない、と著者は述べている。*5 *6
 公職にある者が慰安所設置を正当化(あるいは否認)しようとすることが後を絶たぬ地において、改めて強調すべき点である。

(未完)

*1:京都・千本の出身である山城新伍でさえ、「京都は爆撃されませんでしたから、B29は京都を越えていくんです」というふうに語っているほどである(「人間は生まれながらにして人間である ~映画「本日またまた休診なり」で感じてほしいこと~」https://www.tokyo-jinken.or.jp/publication/tj_12_feature1.html )。

*2:

たとえば清水寺の場合でいうと、昭和17(1942)年12月、阿弥陀堂奥の院裏山の釈迦如来坐像、鬼子母神堂前の観音立像、阿弥陀堂横の地蔵菩薩像、本堂の吊灯籠三十基すべて、金銅灯籠五本、水盤、梟の水竜の口三個、仁王門下狛犬一対などおよそ3000貫目(約12トン)が供出されました。また、音羽の滝の滝口に至る階段の金属製手すりも供出したということです。 (『清水寺史第二巻・通史下』による)

以上、おそらく著者・中西氏のものと思われるブログ『京都の坂から』の記事から引用した。https://ameblo.jp/mado-osaru/entry-12389432679.html 

*3:以下の引用部は孫引きとなるが、元の出典については、本書を当られたい。

*4:

京都府下の空襲は、判明しているものだけで41回にのぼり、死者302名、負傷者563名を数えている。空爆の目標は軍事施設が大半で、市内への空襲は比較的小規模であったが、全国的な都市空襲がはじまってすぐに行われた (引用者略) 吉田守男や田中はるみ、小山仁示らの研究では、他都市とは異なり米軍による戦略的爆撃ではなく、途中何らかの理由による付随的・投棄的爆撃のための臨機目標であったことが指摘されている

以上、井上力省「「西陣空襲」における記憶の継承 : 空襲体験者の語りを手がかりに」https://ci.nii.ac.jp/naid/120006594192 より引用した。そのような性格の空襲でもこうした犠牲が出た。

*5:著者が例示しているのは海南島の場合であるが、

海南島における慰安所の建設・経営には「軍→台湾総督府→台湾拓殖株式会社→福大公司→業者」といった組織の存在が明らかとなった。軍や政府の主体的関与が認められ、同時に半官半民の台湾拓殖株式会社の関与、さらにそれを隠蔽するため福大公司という子会社をトンネルとして融資をした事実も判明した。

(藤本この美,草野篤子「台湾における軍隊慰安婦 -女性の性的自己決定権の視点から-」https://www.jstage.jst.go.jp/article/kasei/55/0/55_0_108_2/_article/-char/ja/ )。

*6:何故本書において、海南島に言及されているのか。著者・中西氏の父上は戦争でボイラーを供出することとなったが、そのボイラーの行き先は中国の海南島であった。本書はその行方を追うべく、海南島で取材・調査を行ったのである。詳細は本書を参照。

この本を読めば禅が大体わかるという本。あと道元スゴい。 -小川隆『禅思想史講義』を読む-

 小川隆『禅思想史講義』を読んだ。 

禅思想史講義

禅思想史講義

 

  内容は紹介文にある通り、「禅者は、なにを、どう考えてきたか。禅の興起から二十世紀の鈴木大拙まで、新たな知見を踏まえて、“禅”を語る画期的論考」というもの。
 たしかに、禅の入門書として推薦できる内容。
 仏教1.0とか2.0とかは、むかしから禅において存在していたのだ、ということを再確認できる。

 特に面白かったところだけ。*1

看話禅のメリットとデメリット

 「看話」の完成によって、開悟の可能性が多くの人に開放されることとなりました。 (159頁)

 唐代と宋代とでは禅問答のやり方は大きく変わってしまった。
 一見ナンセンスに見えるが、実は有意味であったはずの唐代の禅問答*2
 それに対して、宋代の禅問答では、没意味的な「活句」として扱われるようになる。
 つまり、意味的にではなく、没意味的な問いに対して全身全霊で限界まで考え続け、最終的に、意識を大爆発させて超越的な悟りの体験に至る、という修行法である。
 宋代禅の代表的な公案集である『碧巌録』では、「活句」の参究することは「大悟」をもたらす重要な契機と位置づけられるようになった。
 その説がシステム化され、大慧宗杲の看話禅が生まれたのである。
 この「看話」完成以前は、優れた機根(仏教を理解する器量)と偶然の機縁によっていた参禅が、誰でも追体験可能な方式によって規格化された。
 しかしその反面、「悟り」は無機質で平均的な理念となり、禅の生命力は衰退していったのである。
 禅の「民主化」のメリットとデメリットである。*3 *4

白隠による看話禅体系化

 初めから「公案」として作られているところが独特です。 (190頁)

 公案の多くは、過去の禅僧の問答を「活句」に読み替えて、「公案」に転用している。
 それに対して、白隠の「隻手の音声」は、最初から公案としてつくられている。
 最初から「活句」としてつくられているもののほうが、「疑団」(悟りにつながるような疑いの気持ち)を起こす効率が格段に良かったのだろう。
 白隠によって、看話禅はさらに体系的に組織化された。
 階梯的・系統的に配列された多くの公案を、順次参究するカリキュラムが組まれたのである。*5

ずっと修行しつづけろ

 そこには、修行していない時「本証」がどこにあるかを説明できないという致命的な欠陥があるように思われます。 (176頁)

 道元について。
 宋代においては、「本来仏であるが、現実には迷っているので、修行をして悟りを開く」という矛盾があった。
 人は本来仏だからありのままでよいとすることと、人は本来仏だけど修行して悟りを開かねばならないとすることとで、対立が存在したのである。
 そこで道元は、不断の修業によって一瞬一瞬に止揚し続けようとした。
 本覚、始覚、本証妙修、という弁証法(正反合)である。
 この弁証法は実践を通してしか成立しない。
 もし、理論としての完成を考えるなら、引用部の通りとなる。
 ただし、もし道元に尋ねたら、修行していないときがなければ、そんなことは考えない、そんなことを疑問に思うのは修行していない証拠だと一蹴されるだろう、と著者はいう。
 つまり、一瞬のすきもなく修行をし続ける世界を構築し続けねばならなかった。
 永平寺開設以後は、道元の著作が、定例の上堂の継続や僧堂の運営に関する各種規則の成文化に集中しているのはそのためだろう、と著者はいう。*6
 寝ている間も修行ってことになるだろうか。*7

 

(未完)

*1:なお著者は、「中国語の教師なのに禅の語録の研究をしているとご紹介頂いたんですけど、実は逆で禅の語録を勉強するために中国語の勉強を始めて、そして職業は中国語教師になってしまったと、そういう順番でございました」ということらしい(「禅の語録を読む」http://h-kishi.sakura.ne.jp/kokoro-718.htm )。こういう人生もあるのである。

*2:ここら辺については本書か、もしくは註で引用したウェブページなどを参照願いたい。

*3:著者によると、「坐禅から問答になって、最終的に公案へ。でも、それによって悟りが均質的なものになってしまった」という考えは鈴木大拙が何度も述べていることであり、「宋代になると公案という教材を使って、一種のカリキュラムに沿ってやるようになる。技術者養成の専門学校みたいな感じですね。手順通りにやっていけばある程度の確率で悟れるようになり、修了した人はみんなある水準までは行ける。その代わり天才が出なくなってしまった」、と功罪について言及している(小川隆「禅は「自己」をどう見てきたか【前編】」https://www.toibito.com/interview/humanities/science-of-religion/1144/3 )。

*4:張超は次のように述べている(小川隆・訳「宋代禅門と士大夫の外護」https://ci.nii.ac.jp/naid/120006771452)。

唐代禅で考えられていた日常の営為が「運水与搬柴」 (引用者中略) といった、ふつうの庶民や僧侶の日々の素朴な暮らしを念頭に置くものであったのに対し、大慧のいう「日用」は、士大夫──公的には文人官僚、私的には儒教的家父長──としての営為を、きわめて現実的・具象的に想定したものであったことが注目される。

宋代における禅の「民主化」の主役は、士大夫であった。

宋代の禅宗は、参禅者・法嗣としては禅宗内部の人、官僚・文人としては有力な在俗の外護者という、この新たな形象と地位を提供し得たことによって、多くの士大夫たちを魅きつけていったのである。

以上、2020/10/9に追記を行った。

*5:小川自身は、次のように述べている。

これは端(はな)っから脱意味的、非論理的なものとしても、公案として、問答であったものを公案に読み換えるんではなくて、端(はな)から公案として作られているので、その公案の仕様にもの凄く適っているわけですね。そういう本来の趣旨に、公案としての使用法にとても適ったものなので、非常に広まったし、効果を上げたということだろうと思います。

これは、
岩井貴生も同様の意見である(「公案体系とその構造」https://ci.nii.ac.jp/naid/120006618433 )。

公案体系化によって悟境に到るまでの過程が一般化され、その過程をカリキュラム化できたこともメリットの一つと言えよう。過程が一般化されることで、誰もが平等に悟りの境地を深める機会を得ることが可能となり、個性の強い錚々たるカリスマ的禅僧による独り完結の悟りに法脈継承を委ねることを避けることができる。実際に、沢庵、盤珪、一休などの禅、そして日本臨済宗の開祖である栄西の禅ですらもはや現在継承されておらず、今は白隠禅の法脈のみが継承されている

*6:徳野崇行は、精進料理が「近代以降は「日本料理の源流」の一つとされることでナショナリズムの文脈を帯びてゆくこと」を論じており、

戦後の経済発展の代償とされる食生活の乱れや肉食偏向といった現代日本人の食をめぐる問題は「精進料理」を「菜食」という文脈によって新たに価値付けている。近年盛んに刊行される「本山監修」を謳った「精進料理」の名を冠する書籍が数多く出版されていることは、仏教側が「精進料理」の語を「自己表象」として活用しつつ、布教教化の中に取り込んでいこうとするしたたかさを象徴的に示しているのではないだろうか。 

と、曹洞宗側もその流れに乗っていることを指摘している(「曹洞宗における「食」と修行:??僧堂飯台、浄人、臘八小参、「精進料理」をめぐって?? 」https://ci.nii.ac.jp/naid/130006079230 )。曹洞宗に関する論文として興味深かったので、ここに紹介する次第である。 

*7: sokotsu氏は、本書に対する評において、「道元の論理は、なかなか奇妙です」と述べている(「シンプル?それとも難解?「禅」を「読む」ための5冊。」https://higan.net/sokotsu/2018/04/zen5/ )。そりゃそうだよね。

続・では、「党」なき政治は可能か、という問い -坂口安吾『堕落論・日本文化私観』を読む-

 坂口安吾堕落論・日本文化私観 他二十二篇 』 (岩波文庫)を再読。

堕落論・日本文化私観 他二十二篇 (岩波文庫)

堕落論・日本文化私観 他二十二篇 (岩波文庫)

 

 内容は「作家として生き抜く覚悟を決めた日から、安吾は内なる〈自己〉との壮絶な戦いに明け暮れた。他者などではない。この〈自己〉こそが一切の基準だ。安吾の視線は、物事の本質にグサリと突き刺さる」というもの。
 以前安吾について書いたが、まだ書き足りないので、書いてしまおう。*1

対話と団結なしに

 蓋し直接民衆の福利に即した政治家は地味であり、大風呂敷の咢堂はそういう辛抱もできないばかりか、その実際の才能もなかった。 (引用者略) 政治というものは社会主義とかニュー・ディールとか実際に即した福利民福の施策を称するものである。彼にはそういう施策はない。 (212頁)

 「咢堂小論」より。
 安吾の中では、衣食と礼節は連結しているようである。
 なるほど、では安吾自身は、どうやって実現させるつもりだったのだろう。
 政治を。
 尾崎行雄に党の感覚がなかったと指摘するのは正しいとして*2、では徒党を嫌った自分自身はどうだったのか。*3

 日本に必要なのは制度や政治の確立よりも先ず自我の確立だ。 (引用者略) 自分自身の偽らぬ本心を見つめ、魂の慟哭によく耳を傾けることが必要なだけだ。自我の確立のないところに、真実の道義や義務や責任の自覚は生れない。 (引用者略) 政治は人間生活の表皮的な面を改造し得るけれども、真実の生活は人間そのものに拠る以外に法はない。 (215頁)

 安吾には、政治(制度)が人を変えるという契機がほとんどない。
 安吾は「自我」から政治への方向はあっても、その逆は軽視されている。
 そもそも、どういう政治的経路で、「社会保障」を増強するつもりなのか。*4
 この件については、以前書いたことなのでこれ以上繰り返さない。

再び特攻隊について

 特攻隊の勇士はただ幻影であるにすぎず、人間の歴史は闇屋となるところから始るのではないのか。未亡人が使徒たることも幻影にすぎず、新たな面影を宿すところから人間の歴史が始まるのではないのか。そして或いは天皇もただ幻影であるにすぎず、ただの人間になるところから真実の天皇の歴史が始まるのかも知れない。 (227頁)

 1946年時点*5では「幻影」と呼称していたが、、1年後*6に見解が変わるらしい。
 安吾における特攻隊の問題点については、既に先に書いたことなので、やはり繰り返さない。

堕落が依存を断ち切る

 堕落自体は常につまらぬものであり、悪であるにすぎないけれども、堕落のもつ性格一の一つには孤独という偉大なる人間の実相が厳として存している。即ち堕落は常に孤独なのであり、他の人々に見すてられ、父母にまで見すてられ、ただ自らに頼る以外に術のない宿命を帯びている。 (239頁)

 堕落は孤独をもたらす。
 依存を断ち切るという点で、安吾はそれを肯定している。*7
 かれの、この出発点自体は、一切誤っていなかったはずだと思われる。

(未完)

*1:なお、安吾の「日本文化私観」にドライアイス工場が登場するが、これはおそらく日本ドライアイスの工場であり、その工場については、『昭和炭酸50年史』(1994年)や『炭酸の魅惑 昭和炭酸30年の歩み』(1974年)などで、その姿を見つけることができる。本書書評と関係ないが、あまり言及する機会がないので、ここに書いておく。

*2:ところで、尾崎行雄はかなりの尊王家でもあったのだ。例えば、栄沢幸二「ファシズム期における尾崎行雄ナショナリズムhttps://ci.nii.ac.jp/naid/120001870788等参照。とても尊王家とは言えなかった安吾と比較すると面白いかもしれない。 

*3:念のため述べておくが、尾崎行雄は単なる理想家ではなく、現実的に政策を進める人物でもあった点に注意が必要である。姜克實「尾崎行雄と軍備縮小同志会 : ワシントン会議前後の軍備制限論」(https://ci.nii.ac.jp/naid/120005526628 )には、次のようにある。「国内の與論大勢を配慮して、軍備そのものを否定せず、財政負担や、国際関係など国益中心の視野から同情を集める、現実主義的軍縮論といえる」。「一九二〇年代初頭の現実的かつ堅実な軍縮與論の先頭に位置し、実際に日本社会に及ぼした影響もかなり大きいと評価できよう」。

*4:安吾は「咢堂小論」で次のように述べている。

閥とか党派根性というものは日本人の弱点であって、それによって日本の生長発展が妨げられてきたことは痛感せられているに拘らず、敗戦後、政治に目覚めよといえば再び党閥に拡がる形勢を生じ、正しい批判と内容の目を見失おうとしている。

なるほど、安吾は根っからの党派嫌いである。ではいかにして、「議論」は生まれるのか。彼に欠けているのは、個人と議会以外の要素、例を挙げれば、個々人同士の対話であり、デモ活動であり、労働組合であり、政治哲学学的に言えば、広義の「公共圏」といった類の概念である。そういえば、安吾が「デモ」に真正面から言及したものは、おそらくないと思われる(小説などの類に、その名前だけは出たことはあるが)。彼には個人と政治や制度とをつなぐ回路(媒介)がほとんど不在なのである。

*5:堕落論

*6:「特攻隊に捧ぐ」

*7: 安吾は、「文学のふるさと」( https://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/44919_23669.html ) で、「モラルがないこと、突き放すこと、私はこれを文学の否定的な態度だとは思いません。むしろ、文学の建設的なもの、モラルとか社会性というようなものは、この『ふるさと』の上に立たなければならないものだと思うものです」と述べている。そして三つの物語を例に、それらが「私達に伝えてくれる宝石の冷めたさのようなものは、なにか、絶対の孤独――生存それ自体が孕はらんでいる絶対の孤独、そのようなものではないでしょうか」としている。孤独こそ、彼の文学等の原点だった。もちろん彼は、

アモラルな、この突き放した物語だけが文学だというのではありません。否、私はむしろ、このような物語を、それほど高く評価しません。なぜなら、ふるさとは我々のゆりかごではあるけれども、大人の仕事は、決してふるさとへ帰ることではないから

とも述べている。だが、彼は「大人の仕事」を十分にしたのであろうか。これが本稿の主旨である。

キリスト教の聖な おにいさん (聖人) となった釈尊 -石井公成『東アジア仏教史』を読む-

 石井公成『東アジア仏教史』を読んだ。

東アジア仏教史 (岩波新書)

東アジア仏教史 (岩波新書)

 

 内容は紹介文にある通り、「紀元前後、シルクロードをへて東アジアに伝えられた仏教は、西から東へ、また東から西へと相互交流・影響を重ねながら、各地で花ひらいた。国を越えて活躍する僧侶たちや、訳経のみならず漢字文化圏で独自に創りだされた経典、政治・社会・文化との関わりに着目し、二千年にわたる歩みをダイナミックにとらえる通史」というもの。
 広く、しかし浅くはない中身で、たいへん勉強になる。
 以下、興味深かったところだけ。

最初から超人

 こうした釈尊観はまったくの誤解とは言い切れない (57頁)

 『後漢紀』等の記述についての話である。*1
 その当時は、釈尊について、中国にはなかった輪廻と因果応報の教えを説き、黄帝老子のような超人、空を飛んだり姿を変化させたりできる異国の巨大な金色の神様、というふうに考えていた。
 だが、この釈尊観は全くの誤解、というわけでもなかった。
 というのも、インドの仏伝のなかには、釈尊が寿命を自在に伸ばすことができ、空も飛ぶ存在として出現するものがあるからである。
 仏伝が出た時点ですでに、釈尊は超人と化していたのである。 

「輪廻」の変化

 インドの初期仏教が説いた輪廻とは、業の存続であって、輪廻の主体となる何かが生まれかわっていくとする教えではなかった (73頁)

 しかし、のちには、「輪廻の主体となる何かが生まれかわっていくとする教え」に近い教義を説く部派も出てきた。
 また、中国において仏教を批判する者たちは、輪廻説を否定し、精神は肉体と一体であり、肉体が滅びれば精神も滅すると主張した。
 これに対して、仏僧たちは「神不滅(精神の不滅)」を主張するようになった。*2
 こうして輪廻の概念もまた、最終的に変容することとなった。

仏骨から「仏性」へ

 天から与えられたという意味合いが強い「性」の語に置き換えて、「仏性」と訳した (75頁)

 法顕が『大般泥【オン】経』*3を訳す際、すべての人は「ブッダ・ダートゥ」を持っているという箇所を、「一切衆生皆有仏性」と訳した。
 元は、仏の本質や原因を意味し、仏の骨のイメージも、重ねられていたものだった*4のを、「仏性」と訳した*5
 そちらの方が中国の知識人になじみやすかったためだと考えられる(孟子の「性」善説、など)。

仏教と牛糞

 南朝でも北朝でも、中国仏教はインド風な僧侶の生活様式を全面的に採用することはなかった。 (84頁)

 たとえば、インドでは、戒壇を清める際、牛糞を延ばしたものを使用していたが、中国では行われなかった。
 そして訳経の際には、「香泥」などと曖昧に訳されたのである。*6

仏教が恋愛文学を生む

 しかし、歌聖として尊崇される柿本人麻呂すら (182頁)

 『万葉集』は、日本人の純粋な心情をあらわしているとされるが、柿本人麻呂は、川の流れに数を書くような、すぐ消えてしまう命だからこそ、必ずあなたに会いたいと誓ったのだ、(巻11・2433) *7と歌っていたりする。
 『涅槃経』の比喩を用いて無常に触れつつ恋心を強調している。
 ただし、日本では、無常という仏教的概念は、季節の変移と重ねあわされ、情緒的にとらえられるようになったようだが。
 ともあれ、仏教が文学の恋愛的要素をはぐくんだのは間違いなさそうである。*8 *9

インドからも参拝者がきた。

 インドや西域も含む諸国から参拝者が多数訪れた (190頁)

 宋の時代には霊場への巡礼が盛んになった。
 なかでも五台山は、『華厳経』で文殊が住むと記されている清涼山のこととされ、インドや西域などからも参拝者が訪れた。*10
 あまりにも多くの人が参拝に来たので、皇帝の許可制にしなければならなかった。

キリスト教の聖人になった釈尊

 仏教という点がぼかされて、ある苦行者の話とされた (243頁)

 釈尊の伝記が、中央アジアマニ教徒によって、古代ペルシャ語に訳された。
 その後、それは中世ペルシャ語に改められた。
 その過程で、名前は菩薩から「ブーダーサフ」という俗語形で表記され、仏教という点はぼかされた。 そのアラビア語版は10世紀にはバクダットの本屋の目録に載る。
 そして、イスラム世界に広まった物語は、キリスト教グルジア人によってシリア語に訳されたときに、名前を「イォダサフ」と誤記された。
 内容も、インド王子がキリスト教を信仰して伝道し父をも改宗させる話に変わった。
 これが東方教会の神父によってギリシャ語に訳された。
 さらに、名を「ヨサファット(ジョザファット)」と表記されたラテン語訳も出され、キリスト教の聖人の話に変わった。
 果ては、ローマ教会によって聖人認定まで受けることとなった。
 のちに仏教説話だと判明して認定は取り消されたのだが。*11

*1:金順子によると、その内容は以下のとおりである。

明帝が夢で金人を見た。それは長大で、項に日月光があった。群臣にそれは何かと問うたところ、西方に神があり、その名は仏であると申した。そこで使者を天竺に遣わして、その道術を問い、その形像を描かせたと言う。

以上、訳を引用した。(「仏教造形の伝播と展開 ― 作例と文献を通して ―」https://assets.fujixerox.co.jp/files/2018-06/d5c2159ba1c779f83d5069eab6df7187/906.pdf
 )。

*2:三桐慈海「神不滅論と宗教性」https://ci.nii.ac.jp/naid/120005819209 によると、中国において神不滅が唱えられた理由の一つとして、修行本起経などの仏伝に見られる、ブッダの前世における菩薩として転生するという説話を挙げ、その説話と輪廻とを区別することなく受容してしまったことがある、という(論文71頁)。そうした菩薩の転生と衆生が輪廻することとは、教義上、別のことであるにもかかわらず、である。なお、「神不滅」の「神」を「冥冥のうちに維持していくはたらき」、「不滅の実体ではなくて作用性」という風に、「実体」ではないと解釈する慧遠の説ものちに出てくるという(論文72頁)。中国の仏教思想もけっこう奥深い。

*3: http://bauddha.dhii.jp/INBUDS/search.php?m=sch&uekey=%E5%A4%A7%E8%88%AC%E6%B3%A5%E6%B4%B9%E7%B5%8C&a= 参照。

*4:加納和雄は次のように書いている(「涅槃経における如来蔵の 複合語解釈にかんする試論」https://www.earticle.net/Article/A320968 。

(引用者注:ブッダ・ダートゥは、)格限定複合語から成る名詞であり、その意味は第一義には 「仏の遺骨」 である。これが仏の遺骨を意味する点は、同経の想定成立年代地理範囲を包含する広域において、碑文の用例などから確認できる

以上、2020/10/8にこの項目について、追記・加筆を行った。

*5:著者である石井はあるインタビューで次のようにまとめている( https://www.toibito.com/interview/humanities/science-of-religion/1813 )。

ダートゥというのは、要素、原因、鉱石などの意味を含むのですが、体の構成要素といったら骨でしょ?『ブッダのダートゥ』という言葉は、仏となる原因といった意味だけでなく、仏の骨という意味を含むんです。すると、あなたの体の中に仏舎利がある、あなたは仏塔、つまりは仏にほかならないということになるんですよ。 (引用者略) この「仏のダートゥ」という生々しい語が、中国風に「仏性(ぶっしょう)」と漢訳され、仏性説が東アジア諸国に広まっていきます。インドでは、すべての人は如来を内に蔵した存在だということで、「仏のダートゥ」よりも「如来蔵(タターガタ・ガルバ)」という表現の方が主流となりますが、この如来蔵思想も東アジアで広まっていく。

*6:『浄土宗大事典』http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E5%A3%87 では、「インドやチベットにおいては、もっぱら七日作壇法によって建てる土壇を用い、そこに香泥や牛糞を塗った」と説明されている。香泥と牛糞とは、別のものと考えられているケースもあるようだ。また、杉本卓洲「インドの宗教にみる像供養」(https://ci.nii.ac.jp/naid/110000976187 )には、仏教の儀式に使う香水を作る過程で、「陸鬱金香・竜脳香・雲陵麓香」を燻して「浄石の上で磨し」、「香泥」を作るとある。香泥は、そうしたものを指すケースもあるようである。なお、インドでは牛糞は燃料や宗教儀式など様々に使われる。乾燥すればほぼ臭いはしないとのことである(三尾稔「牛糞燃料」http://www.minpaku.ac.jp/museum/showcase/media/tabiiroiro/chikyujin185 参照 )。

*7: 「水の上に 数書くごとき わが命 妹に逢はむと うけひつるかも」 

*8:詳しいことは、作者(石井)が既に書いてくれている。以下参照 石井「アジア諸国の恋愛文学と仏教の関係」 https://www.toibito.com/wp-content/uploads/2017/08/1aef5ed3ddf85982e74f2e6913b13be8.pdf 

*9:鉄野昌弘は、「一九七〇年代までは、人麻呂関係歌に仏教思想の影を認めることは忌避されていたかに見える」と述べ、「泡沫のごとき微細な非生命現象に人の姿を認めることは、仏教のように、その比喩を探し求める中からしか起こらないのではあるまいか」としつつ、最終的に、「「泡」「沫」に関わる仏典の様々な比喩を咀嚼しつつ、具体的事物に即して、「世の人吾等」を見据える独自の表現を作りあげていた」と結論付けている(「『万葉集』「泡沫」考」https://cir.nii.ac.jp/crid/1050282812769059712 )。以上、2023/2/6にこの項目について、訂正・追記・加筆を行った。

*10:文殊菩薩の住地五台山の名は、中国だけでなく朝鮮、日本、中央アジアチベット、インドにまで伝わり、各地から巡礼者が訪れた」。以上、コトバンク( https://kotobank.jp/word/%E4%BA%94%E5%8F%B0%E5%B1%B1%28%E4%B8%AD%E5%9B%BD%29-1537259 )より、佐藤智水の手になる解説。

*11:ルゥイトガード・ソーニーによると、「およそ 1859 年になってようやく、シッダールタ王子が保護されて教育されたこと、そして彼が老、病、死、出家者と四度の決定的な邂逅をしたことが、ヨサファトの物語の中核部分となっていることが認知された」(「世界を旅し経巡る物語 変装したブッダと井戸の中にいる男の寓話」https://ci.nii.ac.jp/naid/120005695427 )。