拝観制限がされると人気が下がる、開放されると人気が出る、というシンプルなメカニズム -井上章一『つくられた桂離宮神話』を読む-

井上章一『つくられた桂離宮神話』 (講談社学術文庫) を読んだ。(というか再読)

つくられた桂離宮神話 (講談社学術文庫)

つくられた桂離宮神話 (講談社学術文庫)

 

 内容は、

著者は、タウトに始まる桂離宮の神格化が、戦時体制の進行にともなうナショナリズムの高揚と、建築界のモダニズム運動の勃興を背景に、周到に仕組まれた虚構であったことを豊富な資料によって実証する。社会史の手法で通説を覆した画期的日本文化論。

というもの。
 既に古典となった著作であるが、改めて読んでみた次第である。

 以下、特に面白かったところだけ。

モダニズムと一線を画すタウト

 コルピュジェ風の現代建築理解では、桂離宮のことはわからない。合理主義ではとらえきれないところに桂離宮の「精神的」な美があるという。モダニズム理念からの乖離はあきらかだろう。 (引用者略) 彼は、「実用性の立場」すなわち当時のモダニズムを「無趣味」だときめつけているのである。 (49頁)

 ブルーノ・タウトのスタンスは表現主義モダニズムに対して独特の立場を持つ。
 つまり、単なる合理主義ではとらえきれない点に美を見出したのである。
 じっさい彼は、桂離宮について「このやうな建築物は実に、究極の細緻な点が合理的には把握し得ないが故に古典的なのである。その美は全く精神的性質のもの」と書き残している。
 彼にとっては非モダニズム的な実用性、精神性が大事だったようなのである。*1

 タウトは「誤解され」るようになる。「機能」という言葉も、「功利的な有用性」をさすものとして「解せられた」。すなわち、モダニズムの理想を意味する言葉としてうけとめられたのである。 (65頁)

 「機能」という語についても、タウトの実際の意図は、モダニズム的解釈とは異なっていた。*2
「『すべてすぐれた機能をもつものは、同時にその外観もまたすぐれている』という私の命題は、しばしば誤解された。それというのもこの言葉が功利的な有用性や機能だけに局限されて解せられたからである」とタウトは文章の中で書いている。

モダニズムと戦争

 モダニズムの建築理念は、戦時体制のなかへとけこむようになる。 (引用者中略) 昭和初期には、モダニズムもまだまだそんなに強くはない。様式建築を奉じる旧派から、その台頭をおさえつけられている。しかし、戦時体制はこの状況を一変させた。様式建築の装飾過多が時代の流れにあわなくなってきたのである。モダニズムの前進をはばむものはこうして衰弱した。 (120頁)

 モダニズムは戦争(総力戦)に親和的だった。*3 *4
 こうした井上の見方は、のちの著作である『アート・キッチュ・ジャパネスク』等につながっていく。

人気の正体

 一九五〇年代の人気をもたらしたものの正体が読めてくるだろう。それは、けっして、モダニストやタウ卜による啓蒙のみに由来する人気ではなかった。基本的には、拝観制限の緩和にねざしていのである。 (245頁)

 インテリのほうならともかくも、一般人にとっては、拝観制限がされると人気が下がる、開放されると人気が出る、という単純なメカニズムで説明ができてしまうのである。*5  *6

 

(未完)

*1:田中潤は、

表現主義の文脈でタウトを研究した土肥美夫は、国際様式のモダニズム美学とタウトのそれとの間には、立場の相違がかなり明瞭に表れているとし、近代建築の主流からのタウトの逸脱を強調している

と述べている(「作り上げられた『ブルーノ・タウト』」https://ci.nii.ac.jp/naid/120006713451 )。

*2:田中潤は、

彼にとって「機能」が指し示すのは、「有用性」とともに生活環境に結びついた「生物」(ein Lebewesen)なのである。また「機能」という語に関して、シュパイデルはタウトが建築と庭園の間の関係を単なる有用性の原理を超えて、暮らしの様式と結びついた特有な一連の機能の表現として考えたことを指摘している

と述べる(田中前掲)。タウトは実際はかなりオーガニックな建築思想を持っていた。

 松友知香子も次のように述べている(「ブルーノ・タウトの建築と色彩 : ベルリン近郊のタウト自邸を中心に」https://ci.nii.ac.jp/naid/120005650721 )。

芸術的な美しさや特定の様式が優先されている住宅も大量生産するために規格化された住宅もタウトには批判すべきものであった。彼の理想の住まいとは,そこに住む人の生活に一致した環境であり,健全で根源的な思考 (Die gesundenurspringlichen Gedanken) によってはじめて創造されるものであるという。この自「あらゆる内的機能と外部への影響力を備えた全体として,つまり環境,庭,風景などを包み込んだもの」として示されるべきであった。これは具体的には,周辺の環境の諸要素が,住宅を構成するものとして強調されることを意味していた。この考えは、住宅の敷地への配置,住宅の外形および外壁の色彩,内部構造に至るまで反映されている

*3:例えば、タウト「批判」で名高い坂口安吾「日本文化私観」(初出1942年)というのは、完全にモダニズム的な思考であり、実はそうした点において、じつは戦争(総力戦)に親和的な議論ではあった、と言えるだろう。

 実際、著者・井上も『日本の醜さについて』(幻冬舎、2018年)において、安吾「日本文化私観」を批判し、その「戦時体制の旗振りめいた物言い」について言及している(194頁)。そして安吾が言及した「小菅刑務所」について、著者は、そこにドイツ建築の様式的な流れがあるとして、安吾の無知を批判している(201頁)。

*4:この箇所の表現について、表現の訂正と加筆とを行った。以上2022/7/31

*5:日中鎮朗は、井上の結論を次のように要約している(「ブルーノ・タウトの〈ニッポン〉 その受容と桂離宮理解」https://ci.nii.ac.jp/naid/120001645963 )。

離宮への編入、内国博覧会の開催、戦後における拝観制限の緩和である。これらは文化史的事件ではなく、官僚の手になる行政史上の出来事であるがゆえに「文化史として桂離宮を論じるさいには軽くあつかわれ」、当然、「ブルーノ・タウトの「発見」という文化史的なできごとのほうが大きくとりあげられる」のである

*6:ちなみに、タウトが批判的に評価した日光東照宮であるが、こちらの日本近代における評価の変遷については、内田祥士「昭和初期の建築史文献に於ける日光東照宮評価 : 近代に於ける日光東照宮評価」(https://ci.nii.ac.jp/naid/110004836696 )が詳しい。ここにも、インテリと一般人、という受容の違いの構図が存在している。

冷戦において利用されかねない内容だったパル判決について -中里成章『パル判事』を読む-

 中里成章『パル判事 インド・ナショナリズム東京裁判』を読んだ。 

パル判事――インド・ナショナリズムと東京裁判 (岩波新書)

パル判事――インド・ナショナリズムと東京裁判 (岩波新書)

 

  内容は紹介文のとおり、

パルの主張をどうみるか。その背景に何があるのか。インド近現代史を研究する著者が、インドの激動する政治や思想状況の変遷を読み解きながら「パル神話」に挑む

というもの。
 とりあえず、パル判事*1について知りたい人は、まずこれを読めばよい。*2

 以下、特に面白かったところだけ。*3

自身の研究との齟齬

 しかし国家主権を乗り越えて「真の国際平和のための機構」をどのようにして構築するのか、その道筋が全く示されておらず、理想を実現するのは難しいから、現実を受け入れるほかないという現状維持論に陥ってしまっていた。 (121頁)

 パルは保守的な法実証主義者とよくいわれる。
 それは、上記のような彼の「判決」を通しての印象であろう。
 しかし、パルの研究業績に照らしてみると、彼はヒンドゥー法史の研究では法社会学的あるいは社会進化論的な立場を採用しており、社会の変化とともに法も変わっていくとしていた。
 つまり、彼の研究成果と東京裁判での彼の判断との間で、齟齬が見られるのである。

 この引用したくだりでは、法の不遡及の原則が英米法では弾力的に解釈を行っているのが現実である旨も述べられている。
 それは次の話につながる。*4

事後法批判、とは何だったのか

 パルのいわゆる「無罪論」が「通例の戦争犯罪」といういちばん分かりやすい犯罪のところで破綻し、筋の通らない言い抜けになってしまっていることは、記憶されてよいであろう。 (130頁)

 ドゥーリトル空襲*5の後に、日本政府は空襲に関する軍律を定めた。
 その爆撃機が墜落して捕虜になった搭乗員を戦争犯罪で裁き、死刑や禁固刑に処することができるようにしたのである。
 結果、ドゥーリトル空襲に関しては、事後法による裁きとなったのである。*6
 日本側の捕虜に対する軍律会議は、死刑優先の厳罰主義が貫かれ、裁判手続きでは弁護に関する規定を欠いていた。
 運用の実態としては、残酷な取り調べや虐待が行われ、多くの場合軍法会議を開かずに即決処刑がなされたり、銃殺という規定になっているにもかかわらず、斬首による処刑がなされたりした。*7
 だが、パルは先の事後法批判を棚に上げて、その軍律は「悪意」に基づいて事後的に制定されていないから被告人に刑事責任を負わせることは出来ないとした。
 また、日本内地で起こった事件は「情勢が極度に混乱していた」1945年に起ったから問題ないとした。

 パル判決というのは、こういう点が、随分と杜撰なのである。

中国ナショナリズムへの冷淡さ

パルは、中国ナショナリズムに対する共感などまったくと言ってよいほど見られない法律論を、展開するのである (135頁)

 中国のボイコット運動開始の1905年には、ベンガル分割反対運動において、多様なボイコット戦術が展開されていた。*8
 にもかかわらず、パルは中国のボイコット運動には冷淡であった。*9
 著者によると、こうした中国(民族主義運動)に冷淡な傾向は、ベンガルの「郷紳」*10 *11の保守派によく見られるものだったという。*12 

冷戦に利用されそうな論理

 実は、こういう意見書の読み方は、ジャーナリストの間にもあった。アメリカのジャーナリストのコステロは、ウィロビーとは正反対の立場からであるが (161頁)

 GHQ参謀第2部部長のウィロビーは、パル意見書を支持した。
 彼は反共主義の立場から、戦犯容疑者の釈放を主張していたのである。
 対して、アメリカのジャーナリストだったウィリアム・コステロは正反対の立場から、パル意見書を読んでいた。*13

 パルが自衛権を絶対化し、当事国の判断だけで(主観的に脅威を感じているだけで)自衛戦争を起こせるとしたこと、そして、共産化の恐れのある国に干渉する権利があるとしたことにコステロは注目し、皮肉を込めて次のように指摘する。
 ならば米国は今日、ギリシャやトルコや中国、ドイツに日本に朝鮮に、干渉する権利を持っているのだ、と。
 戦争違法化の流れに逆行するパルの論理は、しかし、冷戦や膨張主義の論理に容易に転用できるものであった。*14

東京裁判研究会」の実態

 戦犯法的研究会とは別に東京裁判研究会というものがあることにして、『共同研究』を出版したのである (218頁)

 『共同研究 パル判決書』で知られる東京裁判研究会であるが、その実態は戦犯法的研究会という研究会という研究会であった。
 その戦犯法的研究会は、法務省大臣官房司法法政調査部が設けたものである。*15
 座長の一又正雄は、外務省嘱託として39-48年まで活動しており、八紘一宇を指導理念とする「日本的国際法観」を樹立せねばならないと説いたり、満洲国は「東亜新秩序建設の試金石」と説いたりしていた過去がある。*16
 『共同研究 パル判決書』は研究上参照される書物であるが、一応の注意点として、書いておく。*17

 

(未完)

*1:「パル」という呼称は、ベンガル語での発音や遺族の意向等に依るという。もちろん、本稿もこの著者の方針に従い、原則「パル」と表記する。。

*2:本書を読む際は、他に著者の書いたもの、例えば、「書評 中島岳志著『パール判事 -- 東京裁判批判と絶対平和主義』」や「 「パル判事」を上梓するまで (講演)」等も、ぜひどうぞ。https://ir.ide.go.jp/index.php?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_snippet&pn=1&count=20&order=16&lang=japanese&creator=%E4%B8%AD%E9%87%8C+%E6%88%90%E7%AB%A0&page_id=39&block_id=158 

*3:東京裁判については、最近出たデイヴィッド・コーエン/戸谷由麻『東京裁判「神話」の解体』もぜひ読んでおきたいところである。特に、これまで見過ごされてきたウェブ裁判長の判決書草稿を再評価し、その判決書が他の判事たちのものに比べてはるかに筋が通っている(法的な完成度が高い)点を指摘したのが、最大の読みどころである。その中で今回は、一点だけ触れておきたい。

しかし裁判所は、ヴァイツゼッカーの言葉は「信じる」としながらも、それは大虐殺に加担することを正当化する何らの弁明にならないとして、退けている (当該著254頁)

従来の東京裁判論では、広田と重光に対する有罪は不当だったという見方が一般化している。しかし、同時代のニュルンベルク裁判やニュルンベルク継続裁判と比較すると、元外相の有罪判決は決して異例ではなかった。「諸官庁裁判」では、重光より下位のエルンスト・フォン・ヴァイツゼッカー(元大統領ヴァイツゼッカーの父)も、有罪判決を受けている。彼は、日本でいうならば、外務官僚トップのキャリアの官職にいた。ヴァイツゼッカーは、ソ連ポーランドで行われた虐殺やその他残虐行為に対して責任があると判断された。犯罪が侵されていると知った後にもかかわらず、辞任しなかったからである。彼自身は、反ヒトラー運動に寄与するために政府に残ったのだ、としたが、裁判所はそれでもなお、最終的に退けたのである。ここで重要なのは、知った後どう行動するかが問われる点である。

 これは現在のわれわれにとってもなお、注目すべきことと思われるので、一応書いておく。

*4:小暮得雄「刑事判例の規範的効力 罪刑法定主義をめぐる一考」(https://ci.nii.ac.jp/naid/120000954201 )が述べるように、

コモン・ローを基調とする両国に、法典国の意味における罪刑法定主義、すなわち罪刑の前提として成文の刑罰法規が存しなければならない、との意味における罪刑法定主義を期待できないことは、あらかじめ自明といえよう。

もちろんこの事実は、小暮論文がさらに続けて述べているように、罪刑法定主義英米法に存在しない、というようなことを意味するものではない。ただ、島田征夫は

人間が,すさまじい力を持つ国家権力との闘争において最も力づけられた思想とも言えるであろう。その意味では,単に「犯罪なければ刑罰なし」の標語は,あまりに内容を単純化しすぎていると言わざるをえない。罪刑法定主義の思想、の根本には,正義の実現という法の目的が存在することを見逃してはならないのである

として、罪刑法定主義国際法に適用することの限界について述べている(「東京裁判罪刑法定主義https://ci.nii.ac.jp/naid/120003142851 )。

*5:いうまでもなく、この空襲は多くの民間人をも巻き込むものであった。

*6:

1942年4月18日、日本本土に初めての空襲があった。指揮官の名を取ってドゥーリトル空襲と呼ばれる空襲である。その爆撃機のうち一機が撃墜され、一機は日本陸軍の支配地*1に不時着し搭乗員八名が日本軍に捕獲された。/その八名の搭乗員の処遇をめぐって軍上層部*2で議論が生じた。

そして、「八名のドーリットル空襲隊員をふくめ、広く、今後予想される捕獲搭乗員を対象とした規則」はなく、「捕獲搭乗員を処罰しようとする場合、かれらに捕虜の身分を与えてはならないことになる。捕虜としないで処罰するには、根拠となる新たな規則が必要だった」ため、こうした規則を(事後的に)設けたのである。以上の内容は、「空襲軍律 その一」(『bat99のブログ』https://bat99.hatenablog.com/entry/20061109/1163086528 )からの引用・参照となる。

 また、次の「空襲軍律 その二」(https://bat99.hatenablog.com/entry/20061113/1163429340 )で、「復員庁第一復員局」は、極東国際軍事裁判の論理(「行為が不法ならのちに罰則を設けて処罰してもかまわない」)を逆手にとって、事後法の件を弁明した、という説を紹介している。もちろん、日本側の軍律会議は、のちの述べるように、「裁判手続きでは弁護に関する規定を欠いていた」などの点において、その法的プロセスは、極東軍事裁判と比較してもなお、かなり怪しいわけだが。

*7:立川京一「旧軍における捕虜の取扱い : 太平洋戦争の状況を中心に」(『防衛研究所紀要』. 10(1) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1282366)も、

終戦までに、捕獲された連合国軍航空機搭乗員約530人のうち、約100人が定められた手続きに従って軍律会議に付されている(92)。しかし、軍律会議を経ずに処断されているケースも少なくない。とくに、終戦が近づくにつれて、その傾向が増した。  (引用者中略) このように、数多くの捕獲連合国軍航空機搭乗員が軍律会議を経て、あるいは、そうした手続きを省略されて、多くの場合は斬首によって殺害されている。捕獲連合国軍航空機搭乗員の取扱いがとりわけ残酷であったのは、通常の捕虜に対する軽蔑の観念に、復讐心や怨嗟が重なったためであった。また、いずれ死ぬ運命にある者という共通認識もあった。

という点は認めている。

*8:ボイコット運動によりベンガル分割は阻止されることとなった。

*9:千田孝之氏は、本書書評において、パルの中国に対する見方を次のように要約している(https://sendatakayuki.web.fc2.com/etc5/syohyou294.html )。 

「中国が内乱によって絶望的に無政府状態に巻き込まれたとき、その国民は国際法の保護を得るのは極めて難しい」という。そして「1937年の国共合作が日本の対中国戦争を誘発した」と因果関係を全く逆転した見方をしている。そして極めつけは中国が日本への抵抗運動として日貨排斥運動をおこしたことを「このような国際的ボイコットはまさに国際的不法行為である」とまでいうのである。

*10:植民地インドで中間層で、特に英語教育を受け専門職・行政職につく階層を指す。パルは地方の農村中間層から出世して、郷紳となった。詳細は本書参照。

*11:なお、郷紳は、現地の言葉では「ボッドロロク」(「バドラローク」)と呼ばれる。安見明季香「近代インド美術における民族主義とアカデミズム」(https://ci.nii.ac.jp/naid/120005572376 )によると、

タゴール家は当時のインドで最も栄えた家柄の一つであり,カーストでは上位のバドラローク(bhadralok)にあたる。タゴール家はヒンドゥー教の一族で,一族の中でその宗派は二つに大きく分かれていた。ブラフモ(Brahmo)と呼ばれるヒンドゥー教改革派と,古くから続く伝統的なヒンドゥー教から派生した一派である。

とのことである。なお、ノーベル文学賞受賞者のラビンドラナート・タゴールは、家系的に前者に属する。

*12:かつて家永三郎は、パルの中国革命に対する反感に納得できる説明がないので、何らかの理由で、パルが反共思想を抱いていたのだ、と推定していた。本書『パル判事』によって、その背景が確かめられた、と言えよう。家永のパル評については、家永三郎十五年戦争とパール判決書」『評論1 十五年戦争』(家永三郎集第12巻)岩波書店、1998)を参照。

*13:W・コステロ「戦争は果して追放されたか」(『世界』、岩波書店、1949年6月号)。なお、『思想の内乱』という著作が同じく1949年に板垣書店から出版されている。この書物の内容については、目次(https://iss.ndl.go.jp/books/R100000039-I001867152-00)を
観ればおおよそ察しはつくだろう。一方、本書について、渡辺一夫は、コステロ氏の日本観はむしろ親切すぎると評している(「『思想の内乱』(コステロ氏著)を読む」『架空旅行記など』1949年、160頁)。

 コステロの当該論文は、過去に、家永三郎・マイニア論争の際に、家永が参照している(詳細、『家永三郎集 第12巻』を参照)。念のため。

*14:軍事的脅威のみならず、経済、政治、イデオロギー上の脅威が正当な自衛権発動の理由になりえるか、という論点については、東京裁判より以前に、既にニュルンベルク裁判で否定されていた(戸谷由麻『東京裁判みすず書房、2008年。以下、頁数は新装版(2018年)のものに従う。)。

 例として、アインザツグルッペン裁判を戸谷は挙げている(315頁)。

*15:千田孝之氏は、先に紹介した本書書評において、以下のように経緯をまとめている。

1966年東京裁判研究会編纂「共同研究 パル判決書ー太平洋戦争の考え方」は一又正雄、角田順、阪埜淳吉の解説が入っている。ところがこの東京裁判研究会には実体はなく、法務省大臣官房司法法政調査部が設けた戦犯法的研究会が「戦争犯罪およびその裁判の法的研究について」という研究を行なったものを、私的に不透明な形で刊行したようである。戦犯法的研究会の研究者とは一又正雄、角田順、阪埜淳吉、奥村敏雄の4名である。戦犯法的研究会の基本的な態度は、太平洋戦争を正当化する流れにあわせて出版する意図は明らかであった。この本の出版にあわせて1966年パルを招待する計画が持ち上がった。一又正雄が佐山高雄に相談し、岸信介が500万円を用意した。清瀬一郎が羽田に迎え、石井光次郎法務大臣の推薦で日本大学名誉博士号を授与された。岸信介清瀬一郎の申請でパルに勲一等瑞宝章が贈られた。

*16:佐藤太久磨は、一又について、「最終的に『大東亜国際法』理論の直接的な担い手として言葉を紡ぐに至った」と評している(佐藤太久磨「主権的秩序をめぐる二つの法理(2)」https://researchmap.jp/maro-1982/ )。もちろん、明石欽司が指摘するように、

日本における近代国際法受容という歴史的過程の中で、大東亜国際法理論の構築は、日本の国際法研究者が、近代国際法(学)の充分な理解の上に、理論的独自性を発揮しようとした試みであったと評価できることになる。我々は大東亜国際法理論を、単なる日本の膨張政策の正当化理論であり、日本の国際法(学)史における異常現象として、無視することは許されない

というのは事実である(「「大東亜国際法」理論 日本における近代国際法受容の帰結」https://ci.nii.ac.jp/naid/120005653124 )。もちろんこれを、「近代の超克」の栄光と悲惨、というふうに言い換えることもできるような気がするのだが。

*17:なお、既に戸谷由麻が指摘していることであるが、田岡良一は『共同研究 パル判決書』のなかで、パル意見書を称賛しつつも、パルの自衛権解釈については留保し、自衛権行使は完全に国家の自由に任されているのではない旨を述べている(戸谷『東京裁判』345頁)。該当な文は以下の通り(田岡良一「パル判決の意義」http://ktymtskz.my.coocan.jp/cabinet/tokyo.htm#43  )。

自衛権は、そのようなことをしている暇のない急迫した事態において、個人が行使することを許された権利だからである。/その意味で「自衛権をいつ行使するかは個人の判断によって決定してよい」といわれる。/しかしかくして行使された自衛権が、正当な限界を超えていなかったかどうかは、社会の判断に付せられねばならないことである。

 『共同研究 パル判決書』のような書物においてさえ、そういった点は指摘していた、というのが重要である。

 もちろん田岡は、先の一又正雄らとは、立場を異にする人物であることは言うまでもない。この田岡の姿勢自体は、良くも悪くも、戦前の論文・「疑ふべき不戦条約の実効」(1932年)から変わっていないように思われる。じっさい田岡は、先の「大東亜国際法」理論等については否定的な見方をしていたようである。詳細、田岡の論文「国際法否定論と将来の国際法学」1942年 を参照。

性教育は市民教育であり、その国の市民社会の成熟度を測る重要なバロメータ -橋本紀子 (監)『こんなに違う!世界の性教育』を読む-

 橋本紀子 (監)『こんなに違う!世界の性教育』を読んだ。 

こんなに違う!世界の性教育 (メディアファクトリー新書)

こんなに違う!世界の性教育 (メディアファクトリー新書)

 

 内容は、紹介文のとおり、

 日本では、男女別にひっそりと教えられ、その実態が明らかにされてこなかった「性教育」。人種や宗教、社会が抱える問題が異なる世界の国々では、どのような性教育が行われているのだろうか? 性教育の各国比較研究の第一人者である橋本紀子氏のもとに、各国の事情に詳しい研究者が集結。

という内容。
 比較性教育(政策・制度)の試みとして、大変興味深く読んだ。
 以下、特に興味深かったところだけ。*1

時間数が足りない

 中学校で性教育にあてられる授業の平均時間数をまとめたものです(2007年筆者ら調査)。これを見ると、中学の各学年での平均はそれぞれ3時間前後。3学年の通算で9時間弱です。 (237頁)

 日本の中学校での性教育の授業時間についての話である。
 著者によると、「フィンランドの中学校では年間17時間、韓国では年間10時」とのことで、日本での短さがうかがえる。*2

性教育は「市民教育」

 相手の行動や態度についてとやかく言う「YOUメッセージ」よりも、自分の考えを率直に言う「Iメッセージ」のほうが相手にとって受け入れやすいことを教えます。  (246頁)

 栃木県宇都宮のある公立学校において行われている「性教育」の一例である。
 性教育というものが、こういった人間関係のやり取りの仕方をも含むものであることがよくわかる例である。*3
 性教育は市民教育でもあるのだ、と改めて思う。

性教育はその国の市民社会の成熟度を測る

性教育を受けた脱北者女性320人を対象にした調査では、彼女らの平均年齢は34.9歳で、30代が43.1%と最も多かったとか。 (引用者中略) 学歴でいえば、対象者の99.4%が北朝鮮で教育を受けた経験があり、そのうち90.9%が高等中学校(日本の高等学校に相当)卒業以上 (引用者中略) 性教育を受けたことの有無でいうと、94%は性教育を受けたことがないと答えました。 (225頁)

 脱北後に女性たち性教育を受けることとなった。*4
 大半は性教育を受けておらず、特に約半数を占める未婚者は、妊娠や出産についての知識が乏しかったという。*5
 性教育は、その国の市民社会の成熟度を測る重要な要素でもある。

(未完)

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*1:余り他国の性教育事情について触れられなかったが、それらについては、各自、本書をご一読あれ。もっと専門的に知りたい人は、橋本紀子「ジェンダーセクシュアリティと教育 : 海外の性教育関連教科書から日本の性教育を見直す」https://ci.nii.ac.jp/naid/120005689873 等をどうぞ。

*2:橋本紀子ほか「日本の中学校における性教育の現状と課題」(https://ci.nii.ac.jp/naid/120005408557、2011年)は、「年間計画の有無にかかわらず、3学年で確保された時間数は平均 9.19 時間であり、2006 年時、フィンランドの基礎学校 7~9 学年における性教育の合計時間 17.3 時間の半分にしかあたらない」と指摘している。また、

性教育に含まれている内容を見ると年間計画の有無にかかわらず、「思春期の身体の変化」「妊娠・生命の誕生」「性感染症」は、80%以上を占めているが、「自慰」「避妊法」「性に関する相談先」は 40%以下、「さまざまな性」は 10%以下である。

と日本の性教育の問題点についても言及している。

*3:先の橋本(ほか)論文は、

年間計画有無別では、「性行動と自己決定権」「自分と相手を大事にする交際」「氾濫する性情報への対処」「男女の平等と性役割観」「いのちの尊さ」の項目で有意差(p<0.001)が見られ、年間計画を作成している学校の方が、高い割合を示している。

と述べている。この場合、「Iメッセージ」といったものは、広義の「自分と相手を大事にする交際」に当たるだろう。

 なお、Iメッセージという言葉は、それなりに歴史は深いようで、1960年代に、臨床心理学者のトマス・ゴードンの提唱した概念であるという。 以下、町田まゆ(ほか)「デートDV予防のための中学校家庭科における授業開発」(https://ci.nii.ac.jp/naid/120006398853 )から引用する。

I メッセージとは I を主語にし、自分の感情を素直に伝える開かれたメッセージである一方、YOU メッセージとは YOU を主語にし、相手を解釈、非難・判断・指示するなど、行動を規制しようとする意味合いの強いメッセージである。これらは、もともと臨床心理学者のトマス・ゴードンが親子関係のコミュニケーション改善に提唱した技法であったが、後に、親子関係だけではなく、人と人とのあらゆる関係に適応できると評された技法である

*4:ヒューマン・ライツ・ウォッチは2018年、北朝鮮における政府関係者による女性への性暴力の背景について、「こうした問題の原因には、社会に深く根づく深刻な性格差のパターンや性教育の不在、性暴力に対する認識の欠如などが一部にある」と指摘している(https://www.hrw.org/ja/news/2018/11/01/323801 )。

*5:もちろんこうした事態は対岸の火事というのではない。「1999 年の手引き以降、文部科学省性教育を体系的に示していないばかりか、学習指導要領においても性教育という言葉は一切使用していない」日本は、「韓国、台湾、中国という東アジアの国々からも大きく立ち後れている」という2014年時点での指摘は記憶されねばならない(以上、田代美江子「東アジアにおける性教育の制度的基盤 韓国・台湾・中国と日本」『現代性教育ジャーナル』No.36(2014年3月15日発行)https://www.jase.faje.or.jp/jigyo/kyoiku_journal2014.html )。

星岡茶寮においては、牛肉のすき焼きは提供されなかった、ということらしい。 -『魯山人と星岡茶寮の料理』を読む-

魯山人星岡茶寮の料理』(柴田書店)を読んだ。

魯山人と星岡茶寮の料理

魯山人と星岡茶寮の料理

 

 内容は、おおざっぱにいうと、解説文にある通り、

カラー頁では戦前の婦人雑誌のレシピで再現する星岡茶寮の料理、現代の料理人が魯山人作の器に盛るといった料理企画、星岡茶寮のパンフレットや販促材料などを紹介。モノクロ頁では資料編として、料理を中心として魯山人の半生を探るとともに、魯山人が料理について語った新資料やレシピを採録

といった内容。

 今回は、モノクロ頁の部分のみを取り上げることにする。

 以下、特に面白かったところだけ。

もっと材料の本来の味を活かせ by 魯山人

 これからはもっと材料の本質を生かして技巧も大切ではあるが、本来の味を失わぬよう調理すべきである (125頁)

 「日本料理の本質とその欠点」(北大路魯山人)より。
 日本では野菜を軽視しているが、野菜くらい貴いものはない。
 また、日本料理はあまりに材料より技巧に重きを置いているが、その結果今日の衰退を招いたのだ、と魯山人は書いている。
 魯山人に言わせれば、当時の日本料理は材料本来の味を生かしていなかったのである。*1
 現在の日本料理に対する語られ方とはずいぶんと違うものである。
 出典は大正14年(1925年)の「婦人画報」。

中華風の料理を出していた魯山人

 恐らくこの頃がターニングポイントだったのではないだろうか。 (102頁)

 かつて、魯山人は、中華風の料理を出し、中華風の装飾に凝っていた。*2
 だが、器は染付や色絵の磁器を手掛けていたのが、土物主体に傾斜していく。
 昭和5年には荒川豊蔵が美濃で織部や志野を焼いた窯を発見し、魯山人が発掘に乗り出す。
 この頃には、中国文化から脱却していたと本書は見ている。*3

牛肉のすき焼きは提供されなかった?

 星岡茶寮においては、牛肉のすき焼きは提供されなかったと想像される (113頁)

 魯山人といえばすき焼きであるが、星岡茶寮では提供されなかったのでは、と。
 新聞広告などに歌われてきた名物料理は、スッポンと狸汁である。
 また、『星岡』誌に不定期に載るその月の使用素材リストに、鴨肉と猪肉はあっても牛肉は一切登場しないという。*4

 

(未完)

 

  • SmaSurf クイック検

*1:木下謙次郎『美味求真』(1925年)は、日本の料理は材料の本来の味をロクに吟味せず、料理に補助味砂糖のようなものを乱用している、と批判している(256、257頁)。魯山人とおよそ同時期の似た意見である。

 一方、金原省吾『表現の日本的特性』(1936年)には、1935年12月号の『星岡』に掲載された大村正夫「日本料理の味」が引用されている(138、139頁)のだが、大村によると、日本料理は材料を活かすことに力を入れ、「支那料理」や「西洋料理」とはそこが違う旨が述べられている。この大村は俳優ではなくて、医学博士のほうであろう。日本料理も十年で随分と出世したものである。

 東四柳祥子は、1926年の波多野承五郎『古渓随筆』には、日本料理は材料にわずかに手を加えるだけで完成する「生地料理」だとする言説がみられることを、指摘している(「「日本料理」の誕生」(西澤治彦編『「国民料理」の形成』)、2019年、168頁)。日本料理のこの手の「再評価」は、このあたりからのようだ。

*2:もちろん、真鍋正宏が述べるように、ある時期まで魯山人が中華風料理に凝っていたことは(白崎秀雄が書いているように)周知の事柄ではある(「大正の美食/谷崎潤一郎『美食倶楽部』 食通小説の世界(4)」https://ci.nii.ac.jp/naid/120005630881、107頁 )。

*3:「料理と食器」(1931年)https://www.aozora.gr.jp/cards/001403/files/50008_37774.html で魯山人は、以下のように述べている。

わたしの見解をもってすれば、中国料理が真に世界一を誇り得たのは明代であって、今日でないというのは、これも中国の食器をみると分る。中国において食器が芸術的に最も発達したのは古染付にしても、赤絵にしても明代であって、清になると、すでに素質が低落している。現代に至っては論外である。むべなるかな、今日私たちが中国の料理を味わって感心するものはほとんどない。

興味深いのは、まず、当時の中華料理が否定的に言及されていることである。既にこの頃は彼の中でかなり「中華風」離れが進んでいたのだろう。さらに興味深いのは、明代褒め、清代批判を行っている点である。というのも、この手の趣味は、永井善久「志賀直哉『万暦赤絵』論 "古典的作家"の完成」(https://ci.nii.ac.jp/naid/120001441343 )が紹介するように、「昭和初年代は、万暦赤絵を中心とする赤絵が一大ブームとなっており、しかもそのブームは山中商会によって半ば演出されたもの」であり、

久志卓真は、「支那の陶磁の鑑賞(一九)」(『日本美術工芸』、昭二六・一二)という文章の中で、「我国には清朝宮窪の精品の真価を知る人が稀であつて、支那陶磁といふと嘉靖、万暦以外には雅味のあるものがないといふやうな偏見を持つ人が多いが、事実公平な意味で支那陶磁を鑑賞するならば陶磁工芸の頂点は康煕末、雍正であつて、そこに中心をおかなければ支那陶磁の正当な鑑賞は皿八って来ないといふことを知らねばならない」と、「私」や志賀の嗜好に典型的に窺える陶磁器鑑賞のあり方を厳しく批判している。

のである。久志のような研究者から見ると、そういった趣味は、悪し様に言えば素人めいたものだった。ただし、魯山人は、万暦赤絵より古赤絵のような、茶の趣味により近いもののほうをより好んだようであるが(魯山人「古器観道楽」https://www.aozora.gr.jp/cards/001403/files/55109_69324.html 参照)。

*4:もちろん、星岡茶寮を追放される前から、魯山人は、すき焼きの作り方について、言及している。1933年の「星岡」に載った「料理メモ」https://www.aozora.gr.jp/cards/001403/files/50011_37666.html には、牛肉屋のすきやきとして、

*東京の牛肉屋のタレは悪い。出来合いのタレの中に三割くらいの酒と、甘いから生きじょうゆ一割くらい加えること。/*ロースやヒレを食う時は肉の両面を焼くべからず。必ず片面を焼き、半熟の表面が桃色の肉の色をしているまま食べること。/*豆腐、ねぎ、こんにゃくなど、いっしょにゴッタ煮する書生食いの場合は別。/*ロース、ヒレはタレをよくつけて鍋で焼く。汁の中に肉を入れるのではない。

などとある。

まさしく、「渡辺裕の研究のおいしいところだけ載せた感じ」かな。 -渡辺裕『考える耳 記憶の場、批評の眼』を読む-

 渡辺裕『考える耳 記憶の場、批評の眼』を読んだ。 

考える耳 記憶の場、批評の眼

考える耳 記憶の場、批評の眼

 

  内容は、紹介文に、「超『音楽時評』。しなやかな研究の視座。音楽は歴史の中で生成・変容する…音楽文化時代を読む」とあるが、これではどんな本かわかりにくいと思う。
 新聞に連載された音楽の研究的エッセイで、某密林のレビューが述べるように、「渡辺裕の研究のおいしいところだけ載せた感じ」である。

 渡辺裕入門として、ぜひどうぞ。

 以下、特に面白かったところだけ。

「国民オペラ」の存在意義

「原語主義」は、ドイツの歌劇場でもアメリカ人や日本人の歌手が珍しくなくなった近年の状況と相関的に生まれた比較的新しい流れであり、「国民オペラ」の求心力の弱まった、いわば「オペラのグローバリゼーシヨン」の産物である。 (6頁)

 かつては、国民オペラを作るという「国民文化」構築が求められていたため、フランス語のワーグナーやロシア語のモーツァルトなどは普通だったのである。*1 *2
 それが演者の多国籍化などに伴い、徐々に「原語主義」が広まっていったのだ、と。*3

日常の延長上にある「戦争協力」

たぶん彼らにはことさら「戦時協力」をしているという意識はなかったのだろう。 (引用者略) 戦時体制が日常の延長の上にあり、本人が意識しないうちに訪れるものだという事実が心に重くのしかかるのだ。 (11頁)

 團伊玖磨芥川也寸志は戦前、積極的に軍楽隊に参加している。*4
 そんな彼らに対する評である。
 「戦争協力」といったものは、おおよそこのような「日常化」の延長にあり、よほど意識しない限り、取り込まれるのが普通、と思った方がよいのかもしれない。

ウィーンワルツと創られた伝統

「ウイーンっ子以外には真似できない」と言われる、独特のデフォルメを伴ったワルツの三拍子の刻み方だって、それ以前のウイーン・フィルの録音を聴いてみるとほとんどみられず、さらりと流れていってしまう (39頁)

 オーストリア併合をきっかけとする、ウィーンフィルニューイヤーコンサート誕生以前の話である。
 あのワルツの刻み方は、創られた伝統だった、ということになる。*5 *6
 もちろん著者は、創られた伝統であることに対して単純に否定的なわけではない。

戦前にあった辛口批評

 だが、大正期頃の批評記事をみてみると、それが日本人の「本来」の体質であるとはとても思えなくなる  (67頁)

 初期の宝塚、大正七年のある雑誌記事では宝塚の生徒数人が取り上げられ、人気ばかりが先行して中身が追いついていないと批判されている。
 しかもかなり口汚く批判されているのである。*7
 先人たちの批評は、今のように糖衣に包まれてはいなかったのである。

弦楽器を模倣するピアノ

 SP時代のピアノの録音を聴くと、楽譜には普通の和音しか書いていないところを崩してアルペッジョにする弾き方がよく出てくる。こういうものは十九世紀にありがちな演奏家の勝手な「弾き崩し」と思われてきたのだが、十八世紀の理論書などをみると、この慣習が、鍵盤楽器の奏法においてかつて支配的であった弦楽器奏法の模倣の名残であり、モーツァルトやべートーヴェンの時代には広く行われていたことがわかる。(88頁)

 「弾き崩し」は、18世紀には普通のことだったのである。*8

ヴィブラート奏法の歴史

 今日一般的なヴァイオリンのヴィブラート奏法は、レコード録音の出現とともに、その特性を生かす形で編み出された奏法だった (101頁)

 レコードだとその方が聞きやすかった、ということだろうか。*9

レコードが変えた感性

 二十世紀初頭の大家たちの残したSP録音には随所にミスタッチやテンポの乱れなどがあり、この時代の演奏家は皆へタクソだったのかと訝ってしまうほどだが、実のところ、レコードができて細部を繰り返し聞き返すことができるようになるまでは、弾く側にも聴く側にも、一つ一つの音にこれほど注意を払うような考え方はなかった。 (140頁)

 演奏のうまさの判断基準までもが、レコードやCDなどのメディアを通して聴く機会が増えて、変わってしまったのである。*10

 

(未完)

*1:その一例として、「山田耕筰は、啓蒙主義的な立場から国民音楽の創設を訴え、日本語によるオペラ《夜明け》(のちに《黒船》と改題、1940)をはじめとした国民オペラの作曲に執心した」のである(葛西周「地域横断的な「国民楽派」の議論に向けて─日本における関連用語の混乱を例に─」(http://www.cias.kyoto-u.ac.jp/files/pdf/publish/ciasdp49.pdf )。

*2:あまり関係のない話だが、半澤朝彦によると、

君が代は,明治期には現在よりかなり早いテンポで歌ったり演奏したりされていたが,1928年に著名な指揮者の近衛秀麿が新交響楽団(現在の NHK 交響楽団)と録音した際,きわめてゆっくりした荘重なテンポで演奏し,それがレコードやラジオで普及し,とりわけ 1940 年の皇紀 2600 年記念行事で使用されたことで演奏規範として定着した。ことさらに荘重なテンポと弾き方は,近衛が当時流行していたマーラー風の重厚な表現を目指したことから来ている

という(「グローバル・ヒストリーと新しい音楽学https://ci.nii.ac.jp/naid/120006367241 )。あれマーラーの影響か、と妙に納得したので、とりあえず引用した次第である。

*3: 

「浅草オペラ」にしても、原語上演・招聘スター歌手が基本の今日のオペラ界の常識からすれば、三流にもならない愚行ですが、同時代の世界に視野を広げると、一九世紀から各国で行われていた訳詞上演の「国民オペラ運動」の一環であったことが見えてくる。

以上、犬飼裕一「渡辺裕『歌う国民 唱歌、校歌、うたごえ』(中公新書2010年、840円)」https://blogs.yahoo.co.jp/inukaimail2003/38258125.html より引用した。本書ののちに出た渡辺著に対する書評である。著者(渡辺裕)の「国民オペラ」に対する視野の広さを示すものとして引用する次第である。

*4:芥川自身の回想によると、学校に行ったら、貼札があった。内容は、どうせ徴兵されるのだから(陸軍)戸山学校軍楽隊に志願してはどうか、というものだった。そこで芥川は志願を決めたのだという。そして当時、ピアノ等は世間では自粛の風潮があり満足に弾けなかったのに比べて、軍楽隊はその埒外であったため、音楽の勉強にはプラスだった、と芥川は回想する。以上、『芥川也寸志 その芸術と行動』(の44、45頁)に依った。そういった誘因(インセンティブ)によって彼は「戦争協力」を行ったことになる。

*5: 渡辺裕、増田聡クラシック音楽政治学』(青弓社、2005年)によると、「美しき青きドナウ」のウィーンフィル最古の録音であるヨーゼフ・クライン指揮の演奏(1924年)は普通の三拍子であり、今のウィーン・フィルっぽい演奏になるのは1942年の録音の時のものだという(42、43頁)。で、「ニューイヤーコンサート」が生まれたのは、1940年である。当該箇所の執筆は、渡辺によるものである。

*6:なお、「ウィンナーワルツの3拍子の音響的特徴 その2」というブログ記事(よこやままさお執筆・https://ameblo.jp/masaoprince/entry-12615071492.html  )によると、「ウィンナーワルツの2拍目は常に前のめりになるわけではないのです。/メロディや他の伴奏との関連があるとみられます。」とのことである。

*7:貫田優子によると、雑誌「歌劇」の投稿欄「高声低声」は小林一三創案であり、公演評や生徒評、劇団運営の仕方まで、辛口批評や毒舌を歓迎する場であり、小林一三をはじめとする劇団関係者が投稿者として名前を連ねる場であったという。そうしたファンと劇団との交流の場も、2007年頃には、あたり触りのない公演評ばかりになったという。以上、貫田「宝塚歌劇団ネット掲示板」(榊原和子(編著)『宝塚イズム1』(青弓社、2007年))に依った。

*8:三島郁は以下のように述べている(「 「ファンタジー」する演奏 : チェンバロ曲演奏考 」https://ci.nii.ac.jp/naid/110003714486 )。

十八世紀半ば以前の音楽は、通常、楽譜に記されている音符のみで演奏されることはない。奏者でもあったそのころの作曲家は、楽譜を「ラフ」にしか書かず、特定の状況における演奏行為のプロセスにおいてはじめて、音楽としてあるべき姿を作っていた

当時においては「『楽器を空虚にしないために』、和音をアルペッジョしたり、単音で記譜された音を何回も打ち直すことの必要性」があったのである。18世紀の音楽的嗜好はこのようなものだったのである。

*9:あるウェブページによると、「ノースカロライナ大学のMark Katzによれば、20世紀前半にレコード録音が始まったことも無視できないという。彼によれば、録音における臨場感の欠陥を補うために、ビブラート奏法がさらに使われるようになったという」(「オーケストラ演奏におけるビブラートの歴史 (1)」『Intermezzohttp://www.fugue.us/Vibrato_History_1.html )。出典は、 Capturing Sound: How Technology Has Changed Music” (2004), by Mark Katz となっている。この場合、臨場感の欠如を補うため、ということになる。また、聖光学院管弦楽団のコラム記事は、以下のように述べている(「ヴィブラートは装飾音だった (1) 」http://seiko-phil.org/2013/01/23/201735/ )。

中世初期から記述が残るヴィブラート。バロック時代には、ある種の情緒を表現するために使われました。「恐れ」「冷たさ」「死」「眠り」「悲しみ」、あるいは「優しさ」「愛らしさ」などです2。歌詞を持つ声楽曲のみならず器楽曲においても、このような情緒を強調するためにヴィブラートを使うことが許されました。つけても良いのは、アクセントがある長い音だけ。装飾音の一種と捉えられていたのです。音を豊かにするためという現在の目的とは、全く違いますね。

ヴィブラート奏法については、部分的な装飾の一種として用いられるケースと、曲において音を豊かにする目的で恒常的に用いられるケースとを、わけて論じる必要がある。歴史的にいえば、前者から後者へ時代的に移行していくのが、大まかな流れとみるべきだろう。あくまでも、大まかな流れ、であるが。

*10:こととね『グレン・グールドの音楽思想』は、グールドの音楽思想について次のように述べる(https://www.kototone.jp/ongaku/gg/gg2.html )。

聴衆はレコードがもたらした非一回性の恩恵によって何度でも同じ演奏を矯めつ眇めつ聴けるようになり、その聴取の際にはコンサート体験で起こり得るような、満足に音が聴き取れないという不都合さから解放される。 (引用者略) このことはグールドが音楽の細部まで聴き取る必要性を感じていたこと、またそれを聴衆にも求めていたということを示すだろう。

グールドは、レコードの可能性をこのように見出していた。すなわち繰り返し聞くことで、一つ一つの音に注意を払ってほしい、と。そして、著者・渡辺の意見に従えば、グールドが考える以前から、レコードは既に音楽に対する感性を変えていたのである。なお、同論文では

『聴衆の誕生』で渡辺裕が述べたように、カタログ的聴取、表層的聴取が横行し、良くも悪くも、それが現代の音楽状況を考える際には欠くべからざる要素となっている 

と、渡辺『聴衆の誕生』の内容に言及している。だが、テクノロジーの代表例であるレコードがもたらした聴取のあり方は、それだけではなかったのである。集中して聞くシリアスな方向性と、散漫に聞く反シリアスな方向性(ベンヤミン「複製技術時代の芸術」を想起せよ)の二つを生んだ、とみるべきであろう。

やはり、「戦争は飯をまずくする(物理)」というような話。 -斎藤美奈子『戦下のレシピ』を読む-

 斎藤美奈子戦下のレシピ 太平洋戦争下の食を知る』(のオリジナル版)を読んだ。
 (サムネイルは、現代文庫版だが。) *1

  内容は、解説文にある通り、

十五年戦争下の婦人雑誌の料理記事は、銃後の暮らしをリアルに伝える。配給食材の工夫レシピから、節米料理の数々、さまざまな代用食や防空壕での携帯食まで、人々が極限状況でも手放さなかった食生活の知恵から見えてくるものとは

 というもの。
 「戦時下」というのがどういうものか、食の視点から実によくわかる一冊である。

 以下、特に面白かったところだけ。

戦前における、料理に手間暇をかける余裕

 このイデオロギーは婦人雑誌などのメディアによって「つくられた」部分が大きいのだ。/家庭の食卓が飯と漬け物程度だった時代(地域)には、こんな考え方はどこにもなかった。裕福な家庭では炊卓は使用人の仕事だったから、主婦は自分で料理なんかしなかったし、忙しい農家や商家では、主婦も大事な労働力だから、炊事なんかに時間を割いてはいられない。料理に手間暇かけられるのは 夫は外で働き、妻は家事に専念する、新しい都市型の核家族にだけ可能なこと。 (32頁)

 核家族と専業主婦の誕生が、主婦の手料理云々という「イデオロギー」を生んだのである。
 これは、核家族化が進んで料理に手間暇をかけることがなくなっていった、という戦後の言説とは逆の現象である。*2 *3

場当たり的な政策・戦中版

 戦場の苦労をしのんで質素に暮らす日として最初は「日の丸弁当」が奨励されたが、これでは米の消費量が上がってしまう。そこで翌年、節米運動がはじまると「せめてこの日だけは米なしで暮らそう」に変更された。まったく場当たり的である。 (58頁)

 ほんとうに戦争する気はあったんだろうか、そう言いたくなるほどの場当たり的政策であった。*4

食感がない、味がない

 材料不足を補うために、なんでもかんでもすりつぶしたり粉にして増量材に使うことから来る。料理の多くはモサモサしているか、ドロドロしているかに偏る。かといって、その手間を省けば、今度は異常に固いものや筋ばったものを食べなければならなくなる。戦争は、カリッ、パリッ、サクッといった気持ちのいい食感を料理から失わせるのだ。 (引用者略) そして味がない。調味料をケチって使うから (引用者略) その上、燃料が制限されて火が自由に使えず (169頁)

 戦争は飯を不味くする(物理)。*5 *6

戦争は産業の敵

 戦争になると、なぜ食べ物がなくなるか。/ひとつめの理由は、すべての産業に軍需が優先するからだ。男たちは戦地に召集され、戦地に行かない男女は軍需産業に駆り出され、繊維工場や食品工場など、日用品を作る工場もことごとく軍需工場に転業させられた。農村の人手は手薄になり、それまで伸び続けていた米の生産量は、一九四〇(昭和一五)年をピークにとうとう減少に転じた。 (175頁)

 戦争は産業発展の敵なのであった(知ってた)。*7

 

(未完)

*1:そのため、以下の頁はすべて、オリジナル版の方に依っている。

*2:「『核家族社会』になり、失われたものは『手』です」といった言説がその一例である(「シュガーレディの食育かわら版 第十一号」)https://www.sugarlady-net.jp/official/shokuiku/images/kawaraban/11.pdf 

*3:古家晴美は、ある本の書評にて、次のように述べている((「矢野敬一 著「家庭の味」の戦後民俗誌 -主婦と団欒の時代-」https://www.tsukuba-g.ac.jp/library/kiyou/2017/12FURUIE.pdf )。

戦局の悪化による米不足で、白米の「代用食」として脚光を浴びた「郷土食」は、全国的規模の食糧調達システムの末端に位置づけられ、国家総動員体制が家内領域にまで及ぶ。しかし、このような外部からの「主婦役割」の要求は、過酷な肉体労働(農作業や様々な家事)に従事し経済的なゆとりも欠如していた戦前・戦中期の農村女性にとって、実現困難なものであった。 (引用者略) 普及員の指導により、生活改善実行グループが結成され、自給やその食品加工活動を通し、高度成長期の豊かな消費生活を享受する一歩が踏み出された。これらの活動を通し、「主婦」役割の規範が提示され、村内での家格を示す公的なシンボルであった味噌は、「家庭の味」としての家内領域の問題に取り込まれて行く。

 「主婦役割」の規範の広がり、そして、手間暇かけた食事というのは、このように農村においては戦後高度成長期の出来事であった。

*4:昭和館学芸部「「昭和の『食』の移り変わり ~食卓を中心として~」の概要」によると、日の丸弁当奨励が1939年、節米運動開始が1940年である(https://www.showakan.go.jp/publication/bulletin/ )。なお、「米穀搗精等制限令」(白米禁止令)は、1939年12月に施行されている。

 なお、以上の内容については、本書(斎藤著)でも言及済みである。

*5:もちろんそれは、戦争によって加工食品は進化・成長した、といった類のこととは別の話である。念のため書いておく。

*6:ちなみに、本書56頁では、「興亜パン」(小麦粉のほか、海草粉、魚粉等をベースに、人参や大根葉などを混ぜて蒸して作る蒸しパン)の話題も出てくる。「イーストではなく、ベーキングパウダーを使うので、出来上がりは現代のふっくらしたパンではなく、モサモサした食感の蒸しパンが想像される」(栗東歴史民俗博物館「平和のいしずえ2014」
http://www.city.ritto.lg.jp/hakubutsukan/sub369.html より)。酵母を使うケースもあるようだが、そっちはともかくも、ベーキングパウダーを使う場合はかなりきつそうである。

*7:米の生産量については、「右肩上がりで増加してきた水稲の収穫量は、1933(昭和8)年をピークに停滞するようになり、終戦の1945(昭和20)年には 582万トンにまで落ち込みます」というのがより正確ではないかと思われる( 中田哲也「【豆知識】米収穫量の長期推移」https://food-mileage.jp/2018/09/02/mame-150/  ) 

若干タイトル詐欺気味な感じだが、スタインウェイの良さはよくわかる -髙木裕『今のピアノでショパンは弾けない』を読む-

 髙木裕『今のピアノでショパンは弾けない』を読んだ。

 内容は紹介文の通り、「今のピアノを知らない大作曲家達、ロボットが優勝しかねない現代のコンクール、ピアニストの苦悩と憂鬱、巨匠の愛したピアノの物語―裏側まで知り尽くした筆者だから語れる、クラシック音楽が100倍楽しくなる知識」といったもの。
 とりあえず、ピアノを弾いたことのない方でも楽しめる内容かと。

 若干タイトル詐欺気味な感じだが、スタインウェイの良さはよくわかる。

 以下、特に面白かったところだけ。

 

「ノイズ」を愛したホロヴィッツ

 ノイズを愛したホロヴィッツ (46頁)

 1883年製のスタインウェイ社が開発したピアノ「New Scale D」は、特殊仕様のため、中音域が少し鼻詰まりのような音とジーンというノイズが出る。
 これは、ピアノの前身、ピアノフォルテとそっくりの音であり、まだピアノの中音域が人間の声の役割をしていた19世紀の音である。*1
 これがホロヴィッツが最も求めていた音なのだろう、と著者は述べている。*2

「オートマ」と「マニュアル」

 低中音域の粒立ちがはっきりしていなければ、和音は団子のように潰れて聴こえ、内声の変化を付けようとして、ある音だけ強調して弾いても、何の音色の変化もなくなります。表現力は乏しい。 (引用者中略) しかしある意味、和音を無造作に弾いてもどの音も均一に問こえるということは、下手な人にはアラが目立たないので、「弾きやすいね」と言うことでもあるのです (120頁) 

 演奏者の表現力を引き出せるピアノと、そうではないために下手な演奏者でもあらが目立ちにくいピアノという対比である。
 著者は、その違いを、自動車のマニュアルとオートマの違いに例えている。*3
 小さく叩けば小さく響き、大きく叩けば大きく響く、西郷隆盛のような話である。

ボディの軽さ

 ニューヨーク・スタインウェイのボディは驚くほど軽いのです。 (139頁)

 ニューヨーク・スタインウェイの場合、音量増大のすべてを響板の反発力に頼らず、駒の上に若干緩めの張力で張られた弦をそっと載せている。
 そして、伝わった振動をボディやフレームにも共鳴させているので、ピアノ全体で鳴っていることになる。*4 *5

 

(未完)

*1:江口玲のホームページの日記(2002/06/18付)から、引用する(http://www.akiraeguchi.com/scr1_diary/200206/18.html )。

本日初めて伝説的調律師、フランツ・モアさんにお目にかかり、使用するピアノに触りました。調整をしながらモアさんは、うんうん、これがホロヴィッツの好きな調整なんだ、と一人うなずいていらっしゃいました。 (引用者中略) まず、低音域は弦の音がビンっと響き、まさに底鳴りのする音、これは想像通り。高音部はまたクリスタルクアな、こんな美しく透き通るような高音部を持つ楽器は、見たことありません。意外だったのが中音域です。ちょっとつまったような、ぽこぽこした音で、どちらかというと木質な音なのです。強いていえば、昔のフォルテピアノ。これは大発見です。現在のピアノの原型はまさに、フォルテピアノ!!そうなんです、まさにホロヴィッツが愛したピアノはフォルテピアノの末裔の特徴をはっきり示していたのでした。

なお、フランツ・モアによると、ルビンシュタインは、ホロヴィッツが求めたものとは両極端な調律を求めたのだという(吉澤ヴィルヘルム『ピアニストガイド』(青弓社)178頁)。ブログ・『HirooMikes』の、フランツ・モア『ピアノの巨匠たちとともに あるピアノ調律師の回想』(音楽之友社、1994年)に対する書評によると、「敏捷に反応するアクションを好み、彼の好み通り機能するよう鍵盤の重さを軽くしてバランスさせている/ルービンシュタインは、指にもっと抵抗があるアクションを好む」と、鍵盤の重さのことのようだ。なお、鍵盤が軽いのもフォルテピアノの特徴である。

*2:ホロヴィッツといえば、最近読んだ、津島圭佑「《展覧会の絵》に施したウラディミール・ホロヴィッツの妙技 《展覧会の絵ホロヴィッツ版の考察 」(https://ci.nii.ac.jp/naid/120006627764 )も、なかなか興味深いので是非どうぞ。

ピアノという楽器は、一度打鍵した音は減衰をたどる一方である。ホロヴィッツは持続低音を積極的に維持し、打鍵の補充やトレモロ化を行った。また、長く伸ばされる音に対して、音の波動を察知し実体化させたかのような音を施した。この対処が示すのは、楽曲への深い解釈が裏付けする想像力の必要性である。

*3:この件について、ブログ・「ピアノのある生活、ピアノと歩む人生」は、本書書評において、次のように書いている(http://2013815piano.blog.fc2.com/blog-entry-464.html )。

愛好家の立場からの感想だと、ピアノの演奏会で、ピアノが鳴らないということは最近の傾向として感じてはいた。もちろん、プロの演奏家でも・・・

鳴らない、とは、単調な音しか出ない、といった意味であろう。やはり、ピアノの愛好者にも納得できることであるようだ。

*4:大木裕子・柴孝夫「スタインウェイの技術革新とマーケティングの変遷」(https://ci.nii.ac.jp/naid/120005346920 )によると、「ボディが響板に張り付けられる.リムと外枠がひとつにプレスされるというこの特殊な方法により,ピアノ全体を響板のように響かせる効果を生み出している」とのことである。実際、同じような記述が、足立博『まるごとピアノの本』(の123頁)にもみられる。そんな理由で、スタインウェイに使用されるフレームは軽量で済む。

 なお、当該論文には、「スタインウェイ・ジャパン株式会社鈴木達也相談」の名前も見える。

*5:村上和男、 永井洋平『楽器の研究よもやま話 温故知新のこころ』(ITSC静岡学術出版事業部、2010年)によると、1900年製のスタインウェイ(Oモデル)は、脚柱を叩くと響板が「コーン」と鳴るという(64、65頁)。