【「安楽」への全体主義】のなかの苦痛 藤田省三『全体主義の時代経験 (著作集6)』(4)

■【「安楽」への全体主義】と労働■
 【「安楽」への全体主義】と労働の関係について、最後に書いておきたいと思います。
 藤田省三は、1982年の文章で、次のように書いています(『緩々亭の日記』様より孫引き)。

一人一人が皆んな働き過ぎる程働き、運動し過ぎる程運動しているのではあるけれども、そのカプセルに入っていることによってだけ小さな安定と小さな豊かさが保証されるようになっているために、勤労や苦労の有無にかかわらず精神の世界では社会機関の殆どが保育器と化している。現代の圧倒的な「中流意識」はこの保育器の内に居るということの恐らく別の表現なのである。

藤田は、あくせく働いていても、「小さな安定と小さな豊かさが保証される」なら、「中流意識」を持つ人は、その保障の中で従順に生きてしまうのだ、といいます。
 現在の状況は、「中流意識」はともかくとして、新富裕層から、比較的「中流」の人々、貧しいワーカーに至るまで、各々の階層の「小さな安定と小さな豊かさ」の保障のために、あくせく働く、といえるでしょうか。そして、一旦あくせく働くことをやめたとき、「小さな安定と小さな豊かさ」の保障された世界から排除される。(注1)
 【安楽への全体主義】というのは、「可能な限り苦痛・不快を一掃しようとする現代社会の傾向を批判しようとする」主義です。これに対する議論においては、人々の消費者の面ばかり言及されがちです。しかし、人々の労働者としての面はあまり言及されていません。
 この文章と組み合わせて考えると、これが明瞭になります。むろん、これと組み合わせることは、藤田の意図だったわけではありませんが、これをすると、【安楽への全体主義】論の中にあった、【快楽の享受による堕落】というような、快楽的イメージばかりに注目されることを、防ぐことができます。
 藤田省三は次のようにも述べています(『いわいわブレーク』様より孫引き)。

現代では誰でもニヒリストであり、その私の、内なるニヒリストとの戦いをしない奴は、外へ出れば必ず猛烈社員になるのだ

ここでは、重要な論点となるであろう、【ニヒリズム】の問題については論じません。あくまでも、【ニヒリズム】と【安楽への全体主義】とを置き換えて藤田の言葉を読むと、【「安楽への全体主義」との戦いをしないやつは、外へ出れば必ず猛烈社員になる】と言い換えうることを確認しておきたいと思います。上記の引用で見たように、【安楽への全体主義】と、【あくせく働くこと】ととは、相反しない、と言いうるのです。
 【安楽への全体主義】とは、その言葉からイメージされる、単なる【快楽の享受】という側面だけではなく、その「安楽」にとどまるために、その安定を振り返る遑もなく働き続けねばならない、という【追い込まれる】側面もある。このことを指摘して、本文を終えたいと思います。
 藤田の、「在日」という存在へのごまかしのない態度や、文部省批判(122頁)などに見られる彼の【過激】な性格の一面についても、書いていきたかったのですが、これは別の機会にしましょう。

(了)


(注1) 現今の貧困問題への研究で明らかなように、藤田が【「安楽」への全体主義】を構想した80年代は、一方で貧困が厳然と存在した時代でもあることを忘れてはいけません。