宗教は【洗脳】でも【思想】でもなく、【生活】である。 中村圭志『一Q禅師のへそまがり“宗教”論』(2)

■内面的信仰よりまず、集団内での実践がある■
 【宗教といえば信仰】と、このようにつなげて考えてしまいがちです。しかし、たった一人内面的・精神的に敬虔であることが信仰、というのが、イコール「信仰」なのでしょうか。とりわけ「信仰」と聞くと、まず、ある超越者や教えへの精神的な敬虔さや従順さ、内面的な純粋さ等を考えがちです。しかし、【信じる】までに至るプロセスを、忘れていないでしょうか。
 例えばムスリムの場合、メッカへの礼拝をし、戒律を身に着け、振る舞いを正し、コーランのことばで会話したり人生を論じることができるようになって、初めて、アッラーが暮らしの中で働いてくるものとなります(93頁)。まず、精神や内面より先に、ある宗教的な集団の中での身体的実践が、求められるのです。そのような具体的・実践的振る舞いをすっ飛ばして、いきなりアッラーを論じることはできないのです。
 ある集団の中で、一人前として認められる振る舞いがあって、その上で信仰があるのです。愛や悟りだけが、宗教ではないのです。たいがいの宗教では、さまざまな具体的な戒律やタブーを一つひとつからだに覚えこませていく習慣的訓練という要素が重要(130頁)なのです。祈りという行為も、習慣的訓練の一つです。(注1)
 本書では、「習慣的訓練」の興味深い一例として、小説『星の王子様』のなかの、王子が薔薇に熱く演説するシーンが引用されます。そして曰く、「他人に説教するやつは、たいがい自分に言い聞かせている」のだ、と。その演説が熱狂的なのは、「ある信念体系を身につけるための学習プロセスの一段階というふうに理解できる」(106頁)わけです。
 確かに、「宗教を神の教えを信じ込む「信仰」」とみると、洗脳のように思えてしまいます。しかし、「ある集団的なゲームのスタイル、ライフスタイルの問題というふうに見てみる」と、【腑に落ちる】(102頁)のではないでしょうか。ある集団内での生きる上でのスタイルと考えれば、宗教/世俗を問いません。宗教とは、形而上学的・観念的に論じられるだけの「思想」だけではないのです。

■宗教とは身につけるもの、ゆえに急いで理解などできない。■
 さらに、ある集団の中で一人前として認められる振る舞いを取得するには、集団内での「訓練」・「教育」が重要です。「宗教」における共同体には、個人を育てる側面があります。神などの精神的存在や、共同体の「先輩」たちのいる空間で暮らすことで、それが物心両方のセイフティネットとなる側面があります(141、142頁)。
 例えば、神などの精神的存在が、その人の精神を助けたり律したりすることがあるでしょうし、その宗教のコミュニティの中で「先輩」にあたる人物たちが、その人を教え導きアドバイスをしたり、金銭的・生活的に助けてくれたりするでしょう (逆に【制裁】も含むはずです)。
 このような面を見てみると、宗教的な共同体と世俗的な共同体は、完全に隔絶している、というわけでもないのです。重要なのは、「しつけ」です。ある集団の中で「教育」・「訓練」・「薫陶」を受けて、一人前のメンバーとなることです。 
 信仰は、ある集団・共同体の中で、さまざまな人との関係、共同体の習慣、集団的儀礼などを通じて育まれていきます。そして、集団生活の暮らしの中で、信仰は【応用】できないといけません。
 本書は、別に内面的な信仰や、形而上学的な教理が無駄だといっているのではありません。大切なのは、「観念的で抽象的な教理と、具体的で実践的な戒律」、この両方を時間をかけて学習していくことです(131頁)。つまり、ある集団の中で時間をかけて、振る舞いを身につけていくことです。
 宗教は、先に述べたように、時間をかけることを必要とします。これを、早く分かろうとして結果分からないものだから、誤解したままになってしまうことが、現代社会にはよくあるのではないでしょうか(133頁)。宗教とは、ある集団の中での生活の中で、時間をかけて身につけていくものであって、手軽に理解しようとすれば、上辺しか分らないものです。ここが、これまでの宗教を理解しようとする際の落とし穴なのです。(注2)

(続く)


(注1) このような、宗教を「実践」・「訓練」の観点からみる見方については、修道院での「儀礼」をコミュニティ内で自己を形成するための【制度】とみるタラル・アサド『宗教の系譜』が参考になります(この本の翻訳を、本著者・中村圭志氏が行っています)。そして、この本の要約ともいうべきものとして、「報告 世俗化・宗教・国家 セッション 4」(『University of Tokyo Center for Philosophy』様)もあります。

(注2) 【時間をかけること】について触れたものとして、拙稿「 【「安楽」への全体主義】と【時間をかけること】 番外編3(藤田省三『全体主義の時代経験 (著作集6)』) 」を挙げさせていただきます。