「漢民族」とは何か?、ある「台湾人」をめぐって 番外編(3)(本田善彦『台湾総統列伝』)

■?に対して■
 次に移ります。NHKの例の番組で、台湾人のある人物について、「中国福建省から移り住んできた漢民族」との表現を行ったことに対して、批判が挙がりました。果たして、この人物に対して、「漢民族」と表記することは、妥当なのでしょうか。
 具体的にみてみましょう。放送での「一家は中国福建省から移り住んできた漢民族でした」というナレーションに対してです。そう名指された柯徳三氏は、自分は漢民族ではない、といいます。「台湾人の祖先は、宋代に南アジアの少数民族との混血が進んだ。その一部が約200年前に台湾に移り、南方系の先住民と結婚した。私でその移民から7代目。漢民族の血は1万分の1も入っていない」とのこと。しかし、この調子で行くと、純粋な漢民族はほとんどいなくなる(あるいは存在しない)はずなのですが。では、「漢民族」って何でしょう。

■「漢民族」とは何か■
 厳密に言うと、「漢民族」というのは、遺伝的血統によるものではありません。どんな血族でも、その文化や伝統を受け入れれば、その条件を満たします。その条件の中の最たるものが、漢語(漢字)文化の習得です。他に衣食や祭祀などの諸文化も、その条件に入るといえましょう。結構あやふやです。
 さらには、wikipediaの項目曰く、「現在の趨勢では、中国文化は漢字表記の漢語(中国語)を基本とする文化として収斂されつつあり、漢族の定義如何よりも漢族概念自体が漢族を形成しつつある[8]。」とのこと(また、注を見て分るように、民族の定義自体、基本このようなあやふやなものです)。要は、漢字を含む諸文化と、あとは自己のアイデンティティに依拠するわけです。
 だとすれば、移民した当時の彼らの祖先は「漢民族」に当てはまると思われます。混血しても諸文化の内容が漢民族なら、彼は漢民族といいうるからです(果たしてご先祖様たちは、少数民族の「諸文化」にどの程度依拠していたのでしょうか)。もし台湾に移民した「漢民族」たちが、「平地に住んで狩猟生活を営んでいた先住民族(平埔族)と婚姻し多くが混血となっているが、生活の基本は漢人文化である。」というのが正しいならば、柯徳三氏は、「漢民族」と呼称されても妥当でないとはいえないはずです(「不可解なNHKバッシング(3)漢民族」『安禅不必須山水』様)。
 さらに、日本統治下のころから、台湾人の大部分を漢民族であると、台湾総督府は定義していました。「 「本島人」とは通常台湾住民中の漢民族」と矢内原忠雄は1927年に述べていますし、「台湾全島の総入口は 5,194,980人、そのうち漢民族が総人口の 90.0%(4,676,259人)を占め、」と1934年の台湾総督府データには書かれています(前掲「不可解なNHKバッシング(3)漢民族」)。
 この日本植民地下において、上記の人々が「漢民族」と呼ばれることに反発した文章などは、あるのでしょうか。もしなければ、少なくとも、日本統治下の台湾における大陸からの移民の出自の人々は、「漢民族」と呼称されることを受け入れていた、といいうるでしょう。漢民族」であることを否定するようになるのは、少なくとも、日本統治を離れて以降のことといえるでしょう。そして、それを否定する根拠は、漢字を含む諸文化によるものというよりも、自己のアイデンティティ、それも「台独派」に見られる政治的アイデンティティと思われます。

■「大陸」の出自と、「台湾人」であること■
 「民族の呼び方は、その人たちのアイデンティティーを尊重するべき。(反発は)自然なことなのでは」という徳永勝士氏の言葉は確かに正しいかもしれません。しかし、少なくともこの番組のナレーションで使われた「漢民族」というのは、台湾における少数民俗との対比で使われている言葉のはずです。あくまで、少数民族との対比で使われた便宜上の言葉(日系とか中国系とかの「系」と理解されます)なのですから、この使用はある程度許容されるべきでしょう。
 もし、それでもなお認めがたいなら、例えば「漢民族系台湾人」という呼称もあるでしょうし、「閩南語系台湾人」でもいいでしょうし、もっと直裁に大陸と無関係といいたいのなら、「漢民族系台湾人(大陸とは無関係)」と表記すればいいのだと思います。どんなに日本が嫌いな日本人でも、自分自身が「日本人」、あるいは「日系人」と他者から名指されることからは、逃れられないように、柯徳三氏も、「漢民族」であること、「閩南語系」と他者から名指されることからは、逃れられません。
 たとえ「漢民族」だろうと、「閩南語系」だろうと、自らの「台湾人」というアイデンティティに本当に誇りを持てるのならば、上のような論法を使わずとも、現在の「大陸」政府とは異なるアイデンティティを持つことは、可能なはずです。「大陸」の主張を跳ね除けるのに必要なのは、上のような理屈めいた論法ではなく、自らの出自を乗り越えて生きていく「台湾人」としての誇りではないか、というのが僭越なる愚見です。

(了)